『官僚』序

 

有馬 朗人    

『官僚』は西村我尼吾さんの第一句集である。「官僚」とは詩とおよそ掛け離れた句集名であるが、国の行政を胸を張って正しく進めて行く、という誇りを感じさせる。私は官僚たることに誇を抱き優れた政治を行おうとして志を高らかに詠った唐宋の詩人たち、杜甫、白楽天、蘇東坡等の心意気に思いを馳せた。我尼吾さんはまさしく官僚として通産省で活躍し、常に日本という国の二十一世紀におけるあり方に心を砕いている。特にバンコックに三年間程滞在し、東南アジアとの経済協力に身心を粉にして努力をしてきた。このような爽やかな進取の気性に恵まれた官僚がいる間、日本は安心できる。

さて我尼吾さんは、大学紛争が世を騒がした直後、東京大学理学部物理学科の私の研究室近くの部屋でやっていた句会で活躍し始めた。この句会では大屋達治、十時海彦、少々後に岸本尚毅、日原伝、佐怒賀正美など多くの作家が力を競った。その一員であった小林恭二さんは、この句会に「奥の院句会」という愛称をつけてくれた。後に我尼吾さんの夫人になる対馬康子さんも熱心な会員で、常に新鮮な作品で我々を驚かしたものである。我尼吾さんは天為の創刊に際しては発起人の一人として大活躍をしてくれた。この機会に深謝したい。

我尼吾さんの作品二千句ぐらいから三百句ばかりを選び出す作業をしながら、その新鮮さに感心した。ごくごく若い頃、即ち「奥の院句会」の頃の作品に

真夜中に吊られて長きマフラーなり

雪降るを諸国の位牌群れたまふ

がある。私は諸国の位牌の句をほめたものである。旅行好きな我尼吾さんが、北陸へ行き、永平寺を訪ねたときのの作ではなかったか。

この二句に示されているような新鮮さを湛えた句を「官僚」章から拾うと

獏枕遠きかもめは白く揺れ

極北は梟までも白き鳥

罌栗の花海までもって来て流す

さっそうと摩天楼より神の旅

ひそひそと魔術師達が春の闇

などがある。

我尼吾さんは常に通商産業的な戦略を頭の中に画いている。一方で情報産業をどう育て進めるかに心を砕き、他方でタイ国へ行くと日本の絹織物の伝統をその国へ移植することに努力をする。そのような考えから俳句に対しても、一方で伝統を重要視しながらも、他方その制約にしばられない自由な精神を持っている。例えば、

端居せる牛飼い少年たりし父

サルビアの散る暗殺者は何処

絵の中の扉開けば夏の海

軽業師ペンキもて月を塗る

などでは、童話的、物語的な世界を展開しているのである。

我尼吾さんの俳句の基礎には写生があり、叙情がある。しかしその叙情は乾いた現代性を持ったものである。その力がバンコックじだいに、東南アジアの国々で結晶して佳句を生んでいる。

俗名も知らざる墓の暑さかな

家鴨抱き子供が急ぐ市夕立

炎天や魚も米も座して売る

大いなる寝釈迦のうしろ姿かな

仏の掌まずありありと盛夏かな

とミヤンマーやタイを詠う。その地の風土をよく見て、自分自身そこで生活する一人として作っている。従って単なる旅人としての目ではない深いものがある。ここまで東南アジアを詠い込んだ俳句は少ない。我尼吾さんは東南アジア滞在吟の先駆者といえる。

潮切る舳先に蘭の花飾る

龍眠るごとき島影鳥渡る

繭一貫朱袋に入れ涼しけれ

白骨のごとき牛ゆく旱かな

ハンモック吊り男部屋女部屋

にも又、タイ国の生活が活写されている。

更にマレーシア、中国、ブルネイでの作品より

石の床なめるがごとく昼寝せり

湧水に老婆洗へり無き足を

バリ王朝亡びて屋台華やげり

ジャングルの奥まで草を刈り進む

で、なめるがごとくという描写、無き足を洗うという姿への思い入れ等々見事である。

我尼吾さんの性格はきわめて豪快である。と同時に実に緻密である。一つの計画を進める際に、この二面が調和して働く。例えば「官僚」という句集名の選び方、これは豪放とも言うべき心の働きであるが、冒頭に述べた如く自らの志を述べようとする細い心くばりがある。この一巻の句集に我尼吾さんの繊細な詩精神を剛毅な志を読みとっていただければ、永年俳句生活をともにして来た人間として有難いことである。我尼吾さんの一層の健吟を祈っている。

最後に集中の佳句を更に示しておきたい。

抱きあう仮面の白夜舞踏会

海図冷ゆる大英帝国博物館

伊太利亜の松かさ梟かと思う

能登の風越中に来て雪となる

万緑に屋根たてかけて紀三井寺

早春の宋の青磁の殻拾ふ

            一九九八年八月二十二日  紙魚亭書屋にて

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