跋    化石の象が進化する―官僚論

                           宗 左近

西村我尼吾句集「官僚」へ

官僚。この言葉が短詩形文学作品の題名になったことは、おそらくない。前代にも後代にも、たぶん、ない。ケッタイである。だが、作品の内容は、もっと奇態である。これまでの俳句が曝き出さなかった世界である。

まず、冒頭の五句を列挙する。

 

真夜中に吊られて長きマフラーなり

無花果をゆっくりと割る耳たぶよ

詩人死せば春の鬼ゆくところなし

貘枕遠きかもめは白く揺れ

極北は梟までも白き鳥

いずれも、カメラは映るのでないものを映そうとしている。

「長きマフラー」。この言葉によって、「短きマフラー」を出現させようとする。

それは「吊られ」るから、いわば絞首刑にされるから、「長き」になるのである。だが処刑者は何か?ほかならぬ「真夜中」なのである。

「ゆっくりと割る」。これは。むごたらしい。色情も匂いたつ。だが、何を「割る」のか。その時間の「ゆっくり」のなかで、たちまち対象がすりかわる。「耳たぶよ」。この「よ」は詠嘆の助詞であるとともに、指摘の助詞であるとも思えてくる。だが、それを「割る」のは何者か。人間?たぶんそう。だが、「割る」とき、もはや人間を超えた存在になっているのではなかろうか。

「詩人死せば」、詩がなくなるのか。詩がなくなるから、「詩人死」ぬのか、いずれにしろ、「春」とは詩のことだから、「春の鬼」はゆきどころがない。しかし、この一句はそんなことを告げようとしているのではない。「春の鬼」が、詩人にかわって、この世にやってくるぞ、と告げているのである。末世か。むろん、角をはやして牙をむく「春の鬼」のほうが、春の人であるにすぎぬ詩人よりも、はるかに怖ろしいのである。

「貘枕」は、たぶん造語。貘は、奇蹄目の動物。そしてまた。中国の想像上の動物であって、人の悪夢を食うと伝え、その皮を敷いて寝ると邪気を避けうるという(以上、広辞苑の要約)。この作品世界にあっては、近い?は黒くむれて空をまがまがしく蔽っているのではなかろう。食べられた悪夢の外に出ている「遠きかもめ」だから、晴ればれと「白く揺れ」ているのである。だがそんな不思議な力をもつ「貘枕」などというものは、いったいどこにあるどういうものなのであろうか。

「極北」と北極は、似ていて違うのではなかろうか。北極は、緯度何度かの地球の北限の現実。だが「極北」は、観念、もしくは理念であって、超現実。したがって、北極には梟はいない。けれど、「極北」に梟はいる。そして、それは、「白き鳥」でなければならぬ。「極北」がそれを強制するのである。

以上五句を見て,、どうも不思議な強大な力が、いずれの作品世界をも支配していることを感じとらないわけにはいかない。それ以下の十数句ほどのなかより、さらに八句をあげることにする。

 

月光にラムネのあわを積み上げよ

砂時計横にたおして春の雷

雪降るを諸国の位牌群れたまふ

さっそうと摩天楼より神の旅

なにごとか忘れをり白つつじ白し

あきびん急に鳴り出す梟ねむる国

真っ黒な雪傘ころびキリシタン

暖房の部屋にて指紋消えがたし

 

これもまた、奇態な世界である。

「ラムネのあわ」、それを「積み上げ」るなんてことは、できるのであろうか。できる。月光の管がラムネを吸い上げているのであるならば。

「砂時計横にたお」せば、砂は上から下へ落ちてこないから、もはや時計の役目は果たせない。だが横にたおれてにわかに色っぽくなった砂時計だからこそ、「春の雷」を招きよせてくるのではなかろうか。

「雪降る」。よくあることである。だが「諸国の位牌」は、どこに「群れたまふ」のであろうか。「雪降る」その底に、であろうか。それとも、私の家の昔から伝えられてきた仏壇のなかに、であろうか。いずれにしろ、「雪降る」と「位牌群れたまふ」の二つの動作を結びつける大きな力が、見えないままに呈示される。

「なにごとか忘れ」ているという人間の状態(または現象)のそばにあるから、「白つつじ白」いのである。そうであるのなら、「なにごとか思い出しをり赤つつじ赤し」なるのであろうか。それにしても、つつじを白くしたり赤くしたりする凄まじい力があるのである。

「梟ねむる国」とは、目をさまさずに梟が眠りつづけている国のことなのであろうか。そういう国も、どこかにあってくれなければいけない。だが、そういう国では、ぜひ「あきびん」を「急に鳴り出」させる力がなければならないのである。

「ころびキリシタン」がいる。そうであるのならば、どこかに「真黒な雪」を受けるための傘または真黒に塗った雪のための傘、それがなくてはならない。つまりは、「雪傘」と「ころびキリシタン」とを両存させる力があらねばならなくなる。

「暖房の部屋」では、「指紋消え」にくい、というのは、果たして推理ものの小説やドラマにも通用する真実なのか、どうか。よくはわからない。それでも、そんなような気もしないではない。高度成長文明の「暖房の部屋」には、超えた力が支配していそうな気がする。

そして、わざと語る順序を遅らしてここにした「摩天楼」の作品。ここから「「さっそうと」旅にでる神がいるとは、驚いてしまう。まさかこんなところから、神が。その神のもつのは、いったいどんな力。ジェット機の、それとも宇宙ロケットの、ああいう力?それは、十九世紀末までの西欧とも日本ともまるで無縁の神のものなのであろうか。

「月光に」の句より「暖房の部屋にて」の句までの八句の中心を支配していた力、それらはいずれもこれまでの俳句作品にほとんど出現することのなかった異様で不思議な脱日常のエネルギーである。それらは、いったい何なのか。そろそろ、それに名前を与えなければならない頃である。

だが、いったん、幾分かの遠回りをしてから、話の順序を追うことにしたい。

日常の神さまについての臆断を書くことにする。

 

山川も依りて仕ふる神ながら   

    たぎつ河内に舟出せるかも

この柿本人麻呂の作品は、現代語訳すればほぼ次の通り。「山の神も川の神も心服してお仕えする神である天皇(持統天皇)は、いま渦巻く谷川に舟をお出しになられる、ああ」。

このとき、創造神(山の神と川の神)の上位にあるのが人格神(天皇)である。

 

荒神や佐渡によこたふ天河

 

この松尾芭蕉の作品の中心は、創造神である。人格神、そこに不在である。

この二例だけでは説得力の乏しい意見を次に書く。和歌の神は、人格神である。人格神を賛美する手段が、和歌である。それに対して、俳句の神は、創造神である。創造神を賛美する手段が、俳句である。

ただし、明治以降の日本人は、それまでの日本の自然神にも人格神にも鈍感となってしまっている。そのために、和歌も俳句もおのれのそれぞれの神を混在させるのがおおむねである。

それでは、句集『官僚』を支配する神は、どんな神か。

それが、極めて独自である。日本古来の創造神と人格神と、それに明治以来の科学神とでも名付けたくなる文明神の、その三者を合成したクローン神なのである。

写生しない。描写しない。次元を無視する。内部と外部を対応させぬ。因果論を超える。寂、侘、撓り、挨拶、滑稽など様相に無関心。民族の時空を無視する。まことに、あっけらかあんと爽快なのである。

このクローン神を信心する氏子の別名が、西村氏の見事な発明になる名命言、官僚なのである。おことわりするまでもなく、官僚とは、近代化の、つまり文明化の前衛である。

むろん、役人であらねばならぬ官僚には、きびしい批評も集中するであろう。だが、昂然と、いわばクローン俳句に集中する。

この句集の後半の舞台は、ミャンマー、タイ、マレーシア、中国、シンガポール、インドネシアその他の東南アジアの亜熱帯である。そこでの始原エネルギーとクローン神との闘いはまことに類を絶した原色光を放射して爽快である。作品を列挙する。

一木の兵士の積乱雲の墓碑

涼風に押されて祈る楽しさよ

泉湧く群青の砂ふるわせて

全天の雲降り来て夕立かな

森を出てわが心臓は紅葉す

いわし雲大月書店資本論

ラオス暮れタイ夕焼くるメコンかな

積乱雲雷をいまみごもりぬ

赤とんぼ大海原に来て止まる

灼熱の女陰に入りしごとき闇

四方より水平線来て島霞む

 

『官僚』のなかの海外句のこれらの代表作、いずれも壮大、いや爽宕である。湿潤、屈曲、閉塞、欝憂などの対極にある。これまでの現代俳句の登場人物(?)と舞台が近海ものであるのに比べて、これらの登場人物(?)と舞台は、ぐいっと遠海ものである。江の島から富士山、などではない。赤とんぼは大海原の中心にとまるのである。「四方より水平線」のくる、そのただなかの島。昨日生誕した始原がそのまま歌っている宇宙。でっかい生れたて。

これらの作品群のなかにいると、あのランボーの二行もなお、まだひ弱いと思えてくる。

『おお季節たち  おお城たち

    どんな魂が   無傷だろう』

なお、この「無傷」という言葉が響き出せるドラマを、一つだけ書いておかねばならない。

 

いわし雲大月書店資本論

 

『資本論』は大月書店版が、おそらく日本での初めての翻訳。十五年戦争のさなか、発禁、そして国禁、所持しているだけで警察の特高課にひっぱられた。敗戦とともに復活。変革派のバイブル。そこから人生を始めた若者達も多かったことであろう。やがて、六十年安保、七十年全共闘、八十年ノンポリ。『官僚』の作者西村氏は、世間でいう団魂の世代である。マルクスを涼しく卒業したのか、しなかったのか、それは、知らない。ただ、袂別したおのれの青春の空を見上げるとき、そこには、くっきりすぎるほどの、いわし雲。透明な傷みの光。

戦争中に詠まれた鈴木六林男の忘れる事のできない一句がある。

 

遺品あり岩波文庫「阿部一族」

 

ともに並んで、二十世紀日本の青春の記念碑である。遺品=いわし雲、である。だが、作品は、透明な傷みの光をむこうにおいたまま『官僚』となったのであろうか。いいや、まったく違うのである。そこが、たいへん嬉しいところである。

そういう喜びを与えてくれる六句をあげる。

 

法皇を天より打てりロシアの雪

号令の世界しずかに青薄

終戦忌めがねをにぎりしめている

きりきりと絞れる塔や秋日中

風鈴やみ能面視線を持ちはじむ

息白く化石の象の進化の前

「法皇を天より打」つのは、「ロシアの雪」であって、クローン神。ただし、キリスト教以前のクローン神かもしれない。

「号令の世界」は、何が号令かけたのか。クローン神である。そして、さらには、その代行者である。代行者とは?すなわち、官僚。

「終戦忌」これは、あるのか、ないのか。国家の行事をしても、社会の催しとしても、俳人の思いつきとしても、ありはしない。作者の造語、いや造式(?)である。つまり参列者はたった一人。それが涙をふきとって「めがねをにぎりしめている」。そういう人物の別名こそ、官僚。

「きりきりと」、何が雑巾のように塔を真直ぐ立てて絞って、また絞っているのか。

クローン神である。絞られて、光の涙が塔からほとばしり出る。そういう秘蹟が起こってはじめて、クローン神は官僚の信仰の対象となるのである。

「能面」は、表情が拡散している。捉まえどころがない。だが、その目が視線を投げかけ始めることがある。巨きな存在とむかいあうときである。「能面」そのものが生き物となる。

その巨きな存在は?むろんクローン神である。だが、そのとき「能面」をつけているシテとは、まぎれもなく「官僚」のことなのではなかろうか。

「化石の象」が進化する。秘蹟である。それを行わせるのは、むろんクローン神である。ただし、この作品は、その進化の行われる、おそらく直前の「化石の象」を見つめていて、「息白く」と認定(?)する。そこがまことに天晴れな官僚。「技、神に入る」と声をあげたくなる。

これだけ申し上げれば、もはやおわかりになっていただけるであろう。官僚とは、手塚治虫の『鉄腕アトム』の一卵性双生児にほかならない。したがって、それを主人公とするこの句集『官僚』は、はるかに俳壇のそとを天駈けらないわけにいかないのである。

終わりにもはや巷で聞けなくなった『鉄腕アトム』の主題歌を改めて記して、西村我尼吾さんへの祝辞にかえたい。願わくば、読者のみなさんの御合唱を。

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