句集「官僚」について

     ―得も言えぬ興趣―

 

          金子兜太【現代俳句協会名誉会長】

 

「官僚」という題を掲げて、「官僚」西村我尼吾は何を書き出そうとしているのか。その興味に取り付かれて呼んだ。いや、読まされてしまった。

読み了って、<得も言えぬ興趣>を味わっていた。一冊の句集から、こんなに濃厚な興趣を、しかも、<得も言えぬ>存在感を含有した興趣を味読したことは久しぶりの感じだった。そのため、あれこれ考えさせられもした。

<得も言えぬ興趣>であって、はっきり説明しきれそうもない。しかし手応えはある。有馬朗人の親身の序、宗左近の躍動する詩魂丸出しの?、齋藤愼爾の一生懸命な栞の文。それらを読み、自分の享受したもののまとめをしようとしてみたが、どれも旨くいかない。

そんな状態のなかで、まず思い出していたのが、富安風生だった。昭和十一年(1936)一月、逓信次官になった官僚であり、高浜虚子を師として俳句をつくりつづけ、遺句集を含めて十六冊の句集を出している。昭和三年(1928)六月、主宰誌「若葉」誕生。キャリア官僚して俳人であることが、西村我尼吾と重なる。

ただ違うのは、風生の官僚期間は今次太平洋戦争の前までのことで、昭和十二年(1937)五月、五十三歳で逓信次官を最後に退官した。第三句集「松籟」を三年後に出し、「あとがき」に、「昭和十二年といふ年は、(中略)生涯において記念さるべき年であつた」と書き、自分の俳句も「ちやうどその自分から少し変つて来てゐるやうに」人からも言われ、自分もそれを認めつつある、とも書いていた。それから九十五歳まで生き、十三冊の句集を出したのだから、戦前の官僚とばかりはいいきれないのだが、西村我尼吾はチャキチャキの戦後官僚。時代環境が大いに違う。風生と直接法で照応させることはできないわけだが、それでもわたしは風生のことを思い出していた。

何故、思い出したのかというと、俳句への向かい方の<顕著な違い>に興味があったからである。一言でいえば、風生は官僚である自分と、自分の俳句を完全分離しようとしていたと思えるのだが、我尼吾は、完全密着とはいえないまでも、躊躇うことなく同時存在させている、ということである。

主宰誌「若葉」の出発が、逓信省貯金局の俳句仲間の選をすることから始まってはいるが、風生自身の句作は、徹底して虚子選に随い、退官時を含む三冊の句集の収載句は、すべて虚子選だった。官僚との縁を切っていた(切ろうとしていた)といえる。第一句集「草の花」に寄せた虚子の序には、「殆ど此集の全部とも見るべきものが中正、温雅の句」『穏健、妥当な叙法』云云と書かれている。そして、集中の秀逸と見られている句も、たとえば次のようなものなのである。「大風の中の鶯聞こゑをり」「夏山の立ちはだかれる軒端かな」「みちのくの伊達の郡の春田かな」

第二、三句集では、たとえば、「退屈なガソリンガール柳の芽」「泡一つ抱いてはなさぬ水中花」「まさをなる空よりしだれ櫻かな」「これを見に来しぞ雪嶺大いなる」「峡はるか干菜宿あり猫も居る」などなどで,虚子の書くとおりであり到底ここから官僚風生の姿を描き出すことはできない。

西村我尼吾の句集から、この句集のなかでは、「中正、温雅」「穏健、妥当」に属するかに見える句のいくつかを拾ってみる。

 

なにごとか忘れをり白つつじ白し

めざめたる児に春の闇ほの明かし

秋あかね羽黒の風のあそびをり

ランドセル真赤や冬の日本海

花に寝る髪も腕も多感なり

能登の風越中に来て雪となる

紀伊の空高野へ続く旱かな

赤ん坊まで銀の帽子よ涼しけれ

 

これらから官僚西村の姿はみえてこないし、その内奥の陰影を指摘できるものもない。そのこと、風生俳句の俳句位相と違うことはないのだが、風生と較べて、個性的に振舞おうとし、自己提示を憚らない印象のあるところが違う。「ランドセル真赤」などという感覚は抑制している心情からは出てくるまい。「花に寝る」の句の「多感なり」も同様。陶芸に精しい我尼吾は、こんな好句をつくってもいた。

 

はじけ散る蒼き鹿の斑漢の陶

昆明の霜の色して元の壺

早春の宋の青磁の殻拾ふ

酒で磨く康煕の壺に初景色

 

官僚として中国を訪れた時の作と思うが、ここには官僚西村の片らもない。しかし句の掌握の個性的なことは際だっている。遊び気分の気軽さで、自分の美意識のままにつくっていて、この人は快活な御仁なりとも承知できる。<官僚という社会的存在>を、富安風生のように(時代の違いは十分にあるが)意識しないで済む人であり、それどころか、この句集のように、さらに積極的に振舞うことのできる人でもあると思いもする。

ここで、前提として言い添えておきたいことに、現在では、官僚といわず、世の生活者の大方が、俳句という短小詩形を一個の表現形式として、率直に用いるようになっているということがある。齋藤愼爾は、「マイナーポエット」、「日陰に忘却された無名詩人」を俳句に結び付けていたが、この結び付け方がいささか大時代めいてウエットで気の毒な感じになるほどに、現在では、俳句形式とそれを用いる人との関係が変わっているのである。はるかにドライ、といってもよい。

官僚西村は日常的な表現手段として俳句形式を活用しているわけで、自らを、マイナーポエット等と思っている様子は全くない。そんな湿った文学青年だったら、句集の題を『官僚』と名づけて、こんなに開けっぴろげに自句を開陳することはなかっただろう。

次に有馬朗人が、「(前略)唐宋の詩人たち、杜甫、白楽天、蘇東坡等の心意気に思いを馳せた」と序に書いていることに、賛否両論だったことを記しておきたい。

唐詩人に思いを馳せる理由は分かる。それは、我尼吾俳句の句柄が、短定型韻律の野生味の濃い完結感を体し、内容に熱っぽく構築的な思想性を含有していることによって、唐詩に通うものありと思うからである。(このこと宋詩は内容の面でとくに違いがあると思う)

句集中から私の好む句を抄記

 

真夜中に吊られて長きマフラーなり

極北は梟までも白き鳥

雪降るを諸国の位牌群れたまふ

外套の僧一群バスを待つ

冬耕や蔵に七千五百巻

空蝉の容に客死せる詩人

枯山河大海原のただ中に

臨月の積乱雲のまっただ中

灼熱の女陰に入りしごとき闇

万緑の巨木を倒すインディアン

 

言うまでもなく、唐詩は、短詩形(律詩、絶句)の韻律の感高き完成の時期として知られ、内容は情熱に富み、肯定的で前向きの思想を軸にしていたから、有馬朗人が当時の官僚詩人を思い浮かべたとしても不思議はない。それにしても、官僚の語感がいかにも東洋的であることを面白く思う。官吏といっても同じことなのに、こちらには欧米の感触がある。私は現代の資本主義は<官僚資本主義>と諒解しているのだが、この言い方が欧米については言いにくく、東洋の該当国にはぴったりの気持ちがある。我尼吾俳句の感触も官僚の語がふさわしいほど東洋的で、官吏ではあっさりしすぎる。我尼吾御本人の外見は結構欧米風なのだが、実体は東洋なのだろう。たとえば、合理に就きつつも非合理の実体を労ろうとしているらしい。

しかし、唐は唐でも、法務大臣だった白楽天はよしとして、杜甫と我尼吾の照応はふさわしくないと思う。杜甫はたしかに志は高かったが、官僚としては挫折の繰り返しだからである。むしろ、人事院長官だった韓愈も白楽天も成功した秀才であり、ことに韓愈の詩には涙の字がほとんど見受けられない由である。我尼吾俳句にも涙らしい涙はない。

宋詩の蘇東坡を照応させることには賛成しない。キャリア官僚であることは類似しているとしても、詩の内容は宋詩の一般がそうであるように、冷静で客観的、我尼吾とはいささが違う。

と思っているうちに、李白が出現したのにはわれながら驚いている。我尼吾俳句の奥のほうから滲む、なんとない根源感のぶよつきが、杜甫もそこに惹かれていたといわれる「仙道者」李白を呼び出してきたのかもしれない。そういえば、我尼吾俳句の基本姿勢には、李白に通底するような自由さがあるようにも思う。

 

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