マイナーポエットの巨星

齋藤 愼爾(俳句作家・深夜叢書社代表)

「官僚にしてマイナーポエット」 −西村英俊氏(我尼吾)をそう形容すると、たいていの人は怪訝な顔つきをする。なるほど官僚とマイナーポエットという「配合」(俳句用語)ほどおよそ異質的なものもないかもしれない。陽の当たる王道を往く能吏と日陰に忘却された無名詩人。どうみても両者は対極にある存在というものであろう。ましてや官僚の不人気たるや沸点に達したかの感すらある昨今である。「官僚たちの冬の時代」などと牧歌的に呼ばれた時代が懐かしいくらいで、一般大衆にとっても官僚という言葉は(羨望・嫉妬の情が付着しているとはいえ)嫌悪・反感の炎に染め上げられた非人間的なるものの代名詞のようなものだろう。

かの『広辞苑』でも、「同じ官にある同僚・同役」と木で鼻をくくったように素っ気無く定義され、この語自体が村八分に直面しているといった感すらある。「官僚主義」「官僚政治」の記述となると、「官僚政治に伴う傾向・態度・気風で専制・秘密・煩瑣・形式・画一を特徴とする」だの「一群の特権的な官僚が権力を握って行う政治」など、もう目を覆うばかりだ。

まったくどんな考えがあって、自分の輝かしかるべき処女出版の作品集の書名にわざわざこの言葉を選択したのだろうと、他人ごとならず心配になる。だいたい西村氏が具眼の土から謳われているマイナーポエットにしても、或る種の人々からは憐憫か軽侮の眼差しで見られる存在である。自分からマイナーなイメージを二つも引き寄せることはないではないか・・・・・。

しかし繰り返すが、西村氏は幸か不幸か、官僚にしてマイナーポエットだ。およそ相容れざる概念を一個の主体のうちに弁証法的に統一してみせた見者を氏以外の誰に見い出しえよう。官僚という言葉の含意するものが『広辞苑』で粗述されたものであろうと、また私たちが日常的経験と知っている官僚の実態が鼻白むていのものであれ、私には官僚という言葉の語源には、清冽なる理想・倫理のイメージが内包されていただろうという確信がある。それはいみじくも有馬朗人氏が、官僚たることに誇りを持ち、優れた政治を行おうという志を高らかに謳った唐宋の詩人にして官僚であった杜甫や白楽天を引き、その末裔に西村氏を位置付けていることでも明らかである。

杜甫や白楽天が荷が重いというのなら、私は柳田国男を挙げてもいいと思う。周知の如く、柳田も官僚にしてマイナーポエットであった。彼は多感な青春時代に『文学界』に抒情詩を二十一篇も書き、大学で農政学を学んだあと、文学から、「歌のわかれ」をし、官僚となる。杜甫・白楽天・柳田に共通しているのは、文学と「経世済民」という志のロマンティックな合一であろう。

詩は志ということだ。述志の気概を持たぬ詩人を私は信用しない。真の官僚は詩と志の合一を夢想する者であろう。遠望するところの西村像はその与件を満たすひとりである。

文学の前衛は本質的にマイナーとしてしか存在しえないものである。いまだ出現せざる美や思想を時代に先駆けて表現することによって、彼は孤高、狷介、単独者とならざるをえない。同時代にあって難解・異端の謗りを受ける。しかしいまだ覚醒せざる人々の頭蓋の中に固定化した美の観念を根底から破砕する力となり、その魂の軌道に人々をとらえ、いつしか人々の本質そのものと化してしまう・・・・それがマイナーポエットである。

西村我尼吾という俳人はマイナーポエットであろう。俳句全集の類いに収録されず、俳句史にも名を刻まれていない。そのことは決して氏の俳句の文学的価値の貧しさを意味しない。単に孤立性、野心のなさ、俳壇政治に奔走したりしない潔癖性ゆえに、「壇」から黙殺されているというにすぎない。文学全集とか文学史というものは、歴史というものがそうであるように、勝者(支配者)の自己正当化のための不在証明である。ジャーナリズムの商売上の都合、編集者の独善、監修者の恣意で編纂されるということは知っていたほうがいい。文学史に登録される作家は関係者たちの身内意識で選ばれる―文学史は出版社と作家の力関係、駆け引きによる妥協の産物というのが実情なのだ。

むろんメジャーになるのはわるいことではない。だがメジャーになるということは、彼の抱懐する美、思想がその「通俗」ゆえに大多数の人々に異和もなく受容されたということだ。ベストセラー作家は大衆からどこかで馬鹿にされていることを自覚すべきであろう。官僚とマイナーポエットの懸隔じは、官僚を仮に「政治・存在・日常・昼・秩序・多数」とし、マイナーポエットを「文学・非在・非日常・夜・半秩序・少数」としてみれば実感されようか。詩人は夜と昼に引き裂かれざるをえない。自らの内なる官僚制を剔抉する永久革命家―西村我尼吾の俳句の「痙攣する美」はその緊張によって支えられたものといえる。

無花果をゆっくりと割る耳たぶよ

空蝉の容(かたち)に客死せる詩人

枯山河大海原のただ中に

号令の世界しずかに青薄

抱きあう仮面の白夜舞踏会

一句目はコクトーがりのエスプリが横溢。二句目は空蝉にマイナーポエットとしての自己を透視。はかないこの世の不在のものとしての空蝉と詩人。三句目の枯山河は世紀末日本の俯瞰図、否、大海原そのものが枯山河に映るというのだ。四句目は海外詠だが、別に限定することは無い。号令(威嚇)が罷り通る世界(戦場・職場・家庭)は地獄だ。号令があるところには常に疎外される小さき者の悲哀がある。五句目はムンクに同題のタブローあり。「ひとは他人の死の仮面を被っては踊り狂い、ただの一夜を延命するにすぎない」(橋本真理)

『官僚』一巻は、現代俳句史のエアポケットに亀裂を走らす一条の閃光といった相貌がある。思索の季節にふさわしい一書である。

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