
『碁石を呑んだ八っちゃん』、『火事とポチ』、『小さき者へ』、『一房の葡萄』、『生まれいずる悩み』。400字詰原稿換算220枚,印刷A4用紙49枚。「青空文庫」より。 明治11年3月4日、大蔵省官吏有島武の長男として東京に生まれる。画家有島生馬、小説家里見とんの兄。両親の期待を負って、儒教的な教育と西洋風の教育のなかで育つ。学習院初・中等科に学び、農業革新の夢を抱いて、新渡戸稲造の縁故で札幌農学校(北海道大学の前身)に入学。友人森本厚吉の感化などからキリスト教に入信、内省的な傾向を深める。卒業後、1903年(明治36)に渡米、ハバフォード大学、ハーバード大学に留学。日露戦争に際会し、キリスト教信仰に疑いをもち、文学に自己表現の可能性をみいだすようになる。港湾労働者を描いた処女作『かんかん虫』(のちに改稿され、1910.10『白樺』に掲載)の初稿はこの時期に成立。またアメリカ滞在中の精神的彷徨に取材した作品に『迷路』(1918.6)がある。その後、弟生馬と欧州美術を歴訪し、イギリスに渡ってクロポトキンと会見したりして07年帰朝。母校(当時は東北帝国大学農科大学)で英語を教えるかたわら、北欧文学や社会主義の文献などを耽読した。 1910年(明治43)4月、武者小路実篤、志賀直哉らと『白樺』創刊に参加、年長同人として重んぜられる。霊肉二元対立とその止揚を目ざす思想を表明した『二つの道』(1910.5)や、『或(あ)る女のグリンプス』(1911.1〜13.3)、『宣言』(1915.7〜12)などを連載する。14年(大正3)妻安子の病気療養のため上京、翌年農科大学を辞職。その結果作家生活に入り、16年に妻、父を相次いで亡くしたことを転機に、主体的に創作に取り組むようになる。戯曲『死と其前後』(1917.5)に始まり、短編『平凡人の手紙』(1917.7)、『カインの末裔』(1917.7)、『実験室』(1917.9)、『クラゝの出家』(1917.9)などを矢つぎばやに商業誌に発表し、人道主義的な傾向にあった文壇の視聴を集め、一躍流行作家となる。さらにこの年(大正6)『有島武郎著作集』として、創作集を新潮社から刊行、のちに叢文閣に移って生前に15冊、死後1冊を数える。この前後数年が創作力のもっとも充実した時期で、『小さき者へ』(1918.1)、『生れ出づる悩み』(1918.3〜4)、『石にひしがれた雑草』(1918.4)など書かれ、さらに年来の課題であった代表作『或る女』前後編を完成する(1919)。そして、作品の思想的源泉でもある、独自な生命哲学をまとめた『惜みなく愛は奪ふ』(1920)を刊行。しかし、このころより創作力不振に陥り、明治30年代の青春を描き、創作方法上に新局面をみせた長編『星座』(1922)もついに未完に終わる。1922年、当時の社会主義的な風潮に対して、知識人のあり方を問う『宣言一つ』を発表、さらに資本家としての自己改造を目的に、北海道の有島農場を解放する。この時期、『一房の葡萄』(1922)などの童話や、『酒狂』(1923.1)、『断橋』(1923.3)、『親子』(1923.5)などの短編や一幕物を個人雑誌『泉』に発表したが、それでも創作力は回復せず、虚無的な自己認識を深めていった。 大正12年6月9日、軽井沢の別荘浄月庵で人妻波多野秋子と心中、その生涯を閉じる。 「折々の随想」読者サービス本。 |
『カインの末裔』、『クララの出家』。400字詰原稿換算121枚,印刷A4用紙28枚。「青空文庫」より。 「折々の随想」読者サービス本。 |
