『樋口一葉著作集』 V ol.1(PDF 219KB)『小説』
『大つごもり』、『わかれ道』、『うつせみ』、『十三夜』、『にごりえ』、『たけくらべ』。400字詰原稿換算227枚、印刷A4用紙46枚。「青空文庫」より。
 明治5年3月25日(新暦5月2日)東京・内幸町の東京府庁構内の官舎で生まれる。本名なつ。夏子とも書いている。父則義、母たきはともに甲斐国(山梨県)出身の農民であったが、幕末に江戸へ出、士分となって同心となったものの、明治維新に際会、則義は東京府庁に勤める役人となっていた。同時に金融、不動産業にも従事、一葉の幼年時代には経済的にも余裕があった。一葉は学歴としては青海学校小学高等科4級(現在では小学校5年にあたる)修了にとどまっているが、これは、女に学校教育は不要という母の意見による。〔萩の舎時代〕その後、彼女は旧派の歌人和田重雄に和歌の指導を受け、さらに進んで1886年(明治19)中島歌子の萩の舎(や)に入門した。歌子も旧派の歌人で、その指導も旧派の伝統を受け継いでいた。したがって一葉の作歌もほとんど題詠による古今調の作品といってよいが、彼女は90年一時萩の舎の内弟子となったこともあり、その和歌での学習はのちの小説創作にも影響がみられる。歌作数も4000首を超える。田辺龍子(たつこ)(三宅花圃(かほ))は同門。87年に長兄泉太郎、89年には父則義が死亡し、一時母子は次兄虎之助のところに身を寄せたりしたが、結局90年から、たき、一葉、くに(妹)の女3人で世帯をもつこととなり、本郷(現文京区)菊坂に移った。〔桃水の女弟子〕1891年4月、東京朝日新聞の小説記者半井桃水(なからいとうすい)に入門、小説家として立とうと志した。翌92年『武蔵野』に発表した『闇桜』は、桃水の指導を受けた文壇的処女作である。その後、桃水との仲が萩の舎で話題となり、中島歌子から叱責されて絶交せざるをえなかった。しかし、一葉には桃水の親切さが忘れられず、またその後もときどき生活の援助を受けたりしていて、彼女は終生桃水に慕情を寄せていた。〔龍泉寺町時代〕1893年から『文学界』同人たち、ことに平田禿木(とくぼく)、馬場孤蝶、戸川秋骨、上田敏らとの親交が開けた。彼ら同人はいずれも西欧文学に明るく、ロマン的で若々しい情熱をもち、一葉に新文学の刺激を与えた。一方、93年7月から翌年4月まで下谷龍泉寺町(現台東区竜泉)で荒物・駄菓子屋を開業、日々の商業に生活を賭ける苦しさを体験し、町の子供たちの動きなどもつぶさに眺め、わがものとした。ここでの体験が、のち、名作『たけくらべ』を生んだ。〔奇蹟の1年〕1894年5月、本郷丸山福山町(現文京区西片)に転居。同年12月『大つごもり』を『文学界』に、翌95年1月から『たけくらべ』を同誌に連載し始めて、小説家一葉の開花時代を迎えた。この時分から没年の96年1月までは「奇蹟(きせき)の1年」などといわれる。この間に『たけくらべ』を完成し(1896.1)、去るものは日に疎いといわれる人情の不如意を描いた『ゆく雲』(1895.5)、淪落の女の激しい生きざまが読者の胸を打つ『にごりえ』(1895.9)や、当時の家庭における男尊女卑の慣習に抗議する『十三夜』(1895.12)、女が1人生き抜くために閉ざされた人生の打開を求めようとする『わかれ道』(1896.1)などを発表しているからで、これらはいずれも、この時代に生きる女性の悲しみを切実に訴え、いまなお読者の胸を打つ名作である。しかし、96年に入ってから彼女の健康は急速に衰え、『うらむらさき』(1896.2、未完)、『われから』(1896.5)などの作があるが、粟粒結核のため11月23日に没した。
「折々の随想」読者サービス本。
『著作集(二)』V ol.1(PDF 80KB)『小説・随筆』
『軒もる月』、『あきあはせ』、『雨の夜』、『ゆく雲』。400字詰原稿換算枚、印刷A4用紙枚。「青空文庫」より。