
夏目漱石著。400字詰原稿換算110枚,印刷A4用紙25枚。 慶応3年1月5日(新暦2月9日)に江戸牛込馬場下横町(東京都新宿区牛込喜久井町)に生まれた。〔生い立ち〕父は同町一帯を支配する名主小兵衛直克、母千枝との五男三女の末子であった。父母晩年の子として疎まれ、生後まもなく里子に出され、続いて塩原昌之助の養子になった。 9歳のとき養父母が離婚したため夏目家に帰ったが、父母はかならずしも温かく迎えなかった。肉親の愛に恵まれなかった幼時の原体験は漱石を他人の愛情に敏感な内向型の人間に育て、また、肉親のなかにさえ他者をみる非情な人間観を培った。後年の漱石文学が愛とエゴイズムの種々相を描くことになる遠因の一つである。 初めは漢学好きの少年として二松学舎などに学んだが、成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)に進むころから英文学研究を生涯の仕事として選び、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(東大文学部)英文学科に入学した。予備門時代に正岡子規を知り、漢詩文を介して親交を結び、俳句の手ほどきを受けた。93年大学を卒業、一時大学院に籍を置いたが、東京高等師範学校講師、第五高等学校教授を経て、1900年(明治33)には文部省から英語研究のためイギリス留学を命じられるなど、英文学者としての道は順調に伸びていった。その間、1895年から翌年にかけて愛媛県の松山中学校の教師を勤めたが、その体験は『坊つちやん』(1906)に生かされている。 イギリス留学は足掛け3年に及んだ。帰国後、1903年(明治36)に第一高等学校教授に就任、兼ねて文科大学の講師として英文学を講じた。大学での講義をまとめた『文学論』(1907)と『文学評論』(1909)は、日本人の手になる最初の英文学研究として評価が高い。しかし、漱石自身は早くから東洋の伝統的な文学精神と英文学のパトス(情念)との矛盾に悩み、日本人として異国の文学を研究することの困難と不安を感じ続けていた。教師生活にも耐えがたい嫌悪を覚えるようになった。加えて、1896年に結婚した妻鏡子との不和、旧養父母との金銭上のトラブルなど家庭内の心労も重なり、学生時代からの神経衰弱が高じて、強度の発作に悩むことも多かった。当時の危機的な日々はのちに『道草』(1915)で描かれるが、そうした暗鬱な心情のカタルシスとして書かれたのが、処女作の『吾輩は猫である』(1905〜06)である。自他を含めて、現実の地平に集う衆愚の生活相が鋭く風刺され、辛辣に笑い飛ばされている。近代文学に類のないユニークな作風で、闊達自在な語り口と相まって多くの読者を集め、小説家としての地位を不動のものにした。併行して『倫敦塔』や『幻影(まぼろし)の盾』(ともに1905)などのロマンチックな短編も書き継がれ、『坊つちやん』では多感、直情のさわやかな青年像の創出に成功した。〔漱石文学の原点〕初期の文学観は『草枕』(1906)に具体化されている。「非人情」の美を求める画家の感想に託して、煩わしい日常生活を逃れ、趣味と唯美の世界に遊ぶ「てい徊趣味」をよしとしたのである。しかし、漱石はやがて小説家としての自覚を深めるとともに、出世間の芸術観を自ら否定し、現実と正面から対決する文学を目ざすに至った。同時に、創作に生涯を賭ける決意を固め、1907年に教職を辞して朝日新聞社に入社した。入社第一作の『虞美人草』(1907)は誇り高い自我の女を創造して利己と道義の対立を描いているが、この作あたりから漱石の作風は明瞭に変化し、日本の近代社会に潜む矛盾や葛藤を正面から描き出そうとする方向に向かった。『三四郎』(1908)では純朴な青年の愛の形とともに、「迷羊」に似た青春の危うさが描かれ、『夢十夜』(1908)も自分のみた夢に擬して、同時代文明の批判や人間性の謎を語っている。また、『三四郎』のヒロインを通じて問われた個の自立と我執の問題は、さらに『それから』(1909)と『門』(1910)の三部作に発展し、愛をめぐる人間心理の明暗を執拗に追求するテーマの端緒を開くことになった。『それから』は姦通という極限状況を設定して性愛の倫理的根拠を探り、『門』は背徳によって結ばれた夫婦の浄福と不安を描いて、癒やしがたい近代人の孤独を彷彿する。 漱石はやがて『現代日本の開化』(1911)について講演し、西欧列強の圧力によって開国した性急な近代化の外発性を厳しく批判することになるが、そうした同時代文明への懐疑と知識人の命運の洞察とに、漱石文学の原点があった。〔人間認識の深化〕1910年、漱石は胃潰瘍の療養に赴いた修善寺温泉で、大量の吐血のため人事不省に陥り、いわゆる「三十分の死」を経験した。その間の心情は『思ひ出す事など』(1910〜11)に回想されているが、「死すべき者」としての人間認識がさらに深まるとともに、我執への批判もいっそう徹底して、『彼岸過迄』(1912)以下『行人』(1912〜13)、『こゝろ』(1914)を経て『道草』(1915)、『明暗』(1916)に至る一連の知識人小説が書かれることになる。『彼岸過迄』は軽い筆致の作品だが、実生活で幼い娘を亡くした作者の感慨が基調に沈み、死者のあわれと対照して浮薄な生の諸相が強調される。『行人』は傲慢な自我に憑かれた知識人の孤独地獄を描いて、我執にとらわれた愛の不毛を告知する。他方、『彼岸過迄』と『行人』の間に明治帝の崩御と乃木希典の殉死があり、漱石はとくに乃木の殉死に大きな感動を受けた。『こゝろ』はその感動を契機として書かれた作品で、徹底した自己否定を貫き、他者と自己を同時に傷つけるエゴイズムの限界を見極めた主人公は、大正という新しい時代を迎えて「明治の精神」に殉死する。続く『道草』ではイギリス留学から帰国後の数年間に題材を求め、実生活の記憶を再構成しながら相対世界の暗鬱な精神的風景画が描かれている。いずれも、自己の思想の「時勢遅れ」(こゝろ)を自覚しながら、なお現在へかかわるための倫理的根拠を確認しようとする意図が読み取れる。「則天去私」の心境について語り始めたのも、同じころである。漱石はこうして、我執を超える絶対の倫理を憧憬しながら、人間存在の深奥に潜む暗い部分を直視する『明暗』を書き始めた。日常のさまざまな人間関係のはらむ利害と愛憎、打算と策略のおぞましい人間喜劇を執拗に追い続けた長編であるが、 起稿後まもなく宿痾の胃潰瘍が悪化し、ついに起てなかった。大正5年12月9日、大内出血を繰り返して没し、病臥の間に書き継がれた『明暗』は未完のままに中絶した。享年50歳であった。 「折々の随想」読者サービス本。 |
夏目漱石著。「文芸と道徳」、「文士の生活」、「文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎」、「予の描かんと欲する作品」「教育と文芸」、「東洋美術図譜」、「イズムの功過」。印刷A4用紙22枚、400字詰原稿換算98枚。「青空文庫」より。 「折々の随想」読者サービス本。 |
夏目漱石著。「コンラッドの描きたる自然について」、「田山花袋君に答う」、「文壇の趨勢」、「明治座の所感を虚子君に問れて」、「虚子君へ」。印刷A4用紙7枚、400字詰原稿換算31枚。「青空文庫」より。 「折々の随想」読者サービス本。 |
