
田山花袋著。『一兵卒』、『蒲団』。印刷A4用紙36枚、400字詰原稿172枚。「青空文庫」より。 田山花袋(たやまかたい)(1871―1930)小説家。明治4年12月13日、群馬県館林(たてばやし)に生まれる。本名は録弥(ろくや)。旧館林藩士の父しょう十郎は1874年(明治7)警視庁巡査となり上京、花袋は76年母に連れられ父の許にきたが、翌年、父は西南戦争に従軍して戦死、花袋と母たちは館林に帰る。81年家計を助けるために、小学校の学業なかばで東京・京橋南伝馬町の有隣堂書店の丁稚(でつち)となったが、翌年不都合なことをおこして、館林に帰り復学、かたわら吉田陋軒(ろうけん)の休々草堂で漢詩文を学び、『穎才新誌(えいさいしんし)』に、和歌や漢詩を投稿した。86年、兄実弥登(みやと)が修史局に勤めたので一家をあげて東京・牛込富久(とみひさ)町に住む。大学予備門(東京大学の前身)に通う同藩の野島金八郎に英語を学び、西洋文学に触れる。89年ごろより松浦萩坪(しゆうへい)(辰男)の「紅葉会」に入り、和歌を正式に学び松岡(柳田(やなぎた))国男を知る。このころから、軍人や政治家志望をやめ、文学に進むことを決意する。 1891年尾崎紅葉(こうよう)を訪問、直接には江見水蔭(えみすいいん)の指導を受け『千紫万紅』に『瓜畑(うりばたけ)』などを発表、94年『文学界』に近づき、島崎藤村と交わる。96年国木田独歩を知り、翌97年民友社より独歩らとの共著で詩集『抒情(じよじよう)詩』を出版する。貧窮のため心の慰藉(いしや)を旅に求めて書いた紀行文集『南船北馬』(1899)が博文館の大橋乙羽(おとわ)に認められ、99年博文館に入社、詩友太田玉茗(ぎよくめい)の妹リサと結婚。1900年(明治33)より週刊『太平洋』の編集に加わり、ゾラ、フロベールらの外国文学を研究して紹介、02年『重右衛門の最後』、04年『露骨なる描写』を発表、日露戦争従軍と相まって傍観者態度による「平面描写」を確立した。06年『文章世界』の主筆となり、07年『蒲団(ふとん)』を書き、自然主義文学の地位を築いた。『生』(1908)、『妻』(1908〜09)、『縁』(1910)の長編を次々と創作、09年に書き下ろしで刊行した『田舎(いなか)教師』は名作として人々の心をとらえた。12年博文館を退社、『人生の一宿駅』を書き、翌年藤村の渡仏を見送ったころから大きな転機を迎え、日光などにこもり、フランスの作家ユイスマンスから仏教へと心を移し、『時は過ぎゆく』(1916)、『一兵卒の銃殺』(1917)など意欲的な仕事をしながら『残雪』(1918)などに諦念(ていねん)の世界を描いた。20年(大正9)花袋・秋声生誕50年の会が催され、『文章世界』終刊のころから、『源義朝(よしとも)』(1924)などの歴史小説に自己を投影し、愛妓(あいぎ)を中心にして男女の愛欲を問題にした『髪』(1912)から長編『百夜(ももよ)』(1927)を書き、30年(昭和5)5月13日喉頭癌(こうとうがん)で没した。 「折々の随想」読者サービス本。 |
