
徳田秋声著。印刷A4用紙76枚、400字詰原稿換算342枚。 明治4年12月23日(西暦1872年2月1日)石川県金沢市に生まれる。父、雲平は加賀藩家老横山家の家臣、母タケはその四番目の妻で、秋声には異母兄姉が4人、同腹の姉が1人あった。幼時から病弱で小学校入学も1年遅れた。1886年(明治19)石川県専門学校に入学、88年、学制改革により同校が第四高等中学となり、秋声はその補充科に合格したが、同時に受験した泉鏡花は不合格だった。父の病没により91年退学。小学時代の同級生桐生悠々らとの交友深まり、文学への関心高まり、92年悠々とともに上京。尾崎紅葉に会いに行ったが、玄関番をしていた鏡花に断られて会えず、坪内逍遙には会えたが意を達せず、大阪の兄を頼って下阪、『大阪新報』『葦分船(あしわけぶね)』などに作品を発表した。翌年帰郷、このころより「秋声」の筆名を用いた。94年新潟県長岡の『平等新聞』記者として赴任、翌年上京して博文館に入社。鏡花の誘いで紅葉門下となった。96年『文芸倶楽部』に『薮かうじ』を発表、文壇的処女作となった。その年、博文館退社、以後99年から1901年(明治34)まで読売新聞社に勤めたほかは、生涯文筆だけで生計を支えた。したがって通俗物をも量産する必要に迫られ、生涯にわたってその種の作品が多産されている。そのため、初期に『惰(なま)けもの』(1899)、『雲のゆくへ』(1900)などの佳作で文壇の注目を集めながら決定的な力作が出なかった。 1902年、小沢はま同居、妻となる。翌年師紅葉の没後、しだいに自然主義的傾向が文壇に強まるにつれて秋声の作風が認められるようになり、08年、短編集『秋声集』と中編『新世帯(あらじよたい)』(『国民新聞』連載)とが同時に好評を得て、秋声の自然主義作家としての地位はほぼ定まった。『足迹(あしあと)』(1910)は新聞連載中は評価を得られなかったが、翌年『黴(かび)』の成功によって再評価され、田山花袋は平面描写の極致を示すものとして激賞した。この二作は自然主義にとっても秋声にとっても決定的な作となった。生田長江(いくたちようこう)は秋声を「生れたる自然派」と評した。そのような作風の秋声は、自然主義の退潮とともに行き詰まることになり、『爛(ただれ)』(1913)、『あらくれ』(1915)あたりを峠として、大正後半期には第一線を退いた形となり、20年(大正9)の花袋秋声生誕50年祝賀会は、自然主義の両雄の文壇退場を告げるかのごとき観を呈した。しかし、26年妻はまの急死に前後して秋声の身辺に登場した作家志望の山田順子との交渉は、秋声の創作意欲を再燃させ、『元の枝へ』(1926)などの短編から『仮装人物』(1935〜38)に集大成する道を開き、また31年(昭和6)に知り合った芸者小林政子との交渉から『縮図』(1941)を生み、晩年の二傑作となった。37年芸術院会員。昭和18年11月18日肋膜癌のため没。 「折々の随想」読者サービス本。 |
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