
横光利一著。『頭ならびに腹』、『比叡』、『罌粟の中』、『御身』、『春は馬車に乗って』、『火』、『時間』、『機械』。印刷A4用紙59枚、400字詰原稿換算265枚。 明治31年3月17日福島県東山温泉に生まれる。ただし、本籍は大分県。土木請負業の父とともに各地を転々とし、母の郷里三重県伊賀で中学を終え、1916年(大正5)早稲田大学高等予科に入学。早大時代は、中山義秀、佐藤一英、吉田一穂らと交友したが、学業に専念せず中退。21年、富ノ沢麟太郎、藤森淳三らと同人誌『街』、22年、中山義秀、小島勗(つとむ)らと『塔』を創刊、作家を志す。23年、菊池寛創刊の『文芸春秋』に参加、この年『日輪』『蠅』などの作品により文壇登竜を果たす。24年、川端康成、片岡鉄兵、今東光らと『文芸時代』を創刊、同誌掲載の短編小説『頭ならびに腹』により「新感覚派」と呼称されるようになる。『文芸時代』は、昭和初年代に至る、日本の「表現主義」の牙城として注目された。25年、評論『感覚活動』を書いて、プロレタリア文学を仮想敵とした、いわゆる「形式主義文学」論の先鞭をつける。このころ、すでにソシュール、シクロフスキーなどの言語論に注目していた。28年(昭和3)から31年まで初の長編『上海』を書き、西洋の侵略(白禍)を都市上海に局限して、アジアの連帯をにおわせた。その間、30年には『機械』を書いて、心理のメカニズムを極限まで描こうとする。昭和初年代の文学理論を支配した『文学』『詩と詩論』『作品』などに積極的に参加し、河上徹太郎、小林秀雄らを通じて、ジッド、バレリーの影響を方法化しようとする。評論・随筆集『書方草紙(かきかたぞうし)』(1931)がそれを物語る。33年『文学界』同人となる。プロレタリア文学壊滅後、『紋章』(1934)、『家族会議』(1935)などを書く。35年『純粋小説論』に集約される「純文学にして通俗小説」という「純粋小説」理論を打ち出し、長編小説の効用を説く。36年、二・二六事件の直前、日本をたち欧州に向かう。約半年のヨーロッパ滞在により、いわゆる「西洋と東洋」の本質的な異和の観念を呼び覚まし、『欧洲紀行』(1937)をまとめ、未完の大作『旅愁』にとりかかった。昭和10年代から戦後にまで及んで執筆された『旅愁』は、日本の「戦争と平和」の時代を描出しようとする野心に燃えた作品であった。戦中・戦後の心境を伝える『夜の靴』(1947)がある。昭和22年12月30日没。 「折々の随想」読者サービス本。 |
