MorphyOneの軌跡

MorphyOneプロジェクトの歩んだ道を再確認するサイト。
技術的な検証は2chモバイル板nomore-あれへどうぞ。
より詳細を知りたい方はMorphyWikiへどうぞ。
2ちゃんねるMorphyOneスレッドダイジェストを作りました。

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● 序章 MorphyOne、その過去と今

「MorphyOne」という名をご存知だろうか。
1999年末、各種雑誌・メディアにて取り上げられた期待のPDA(情報携帯端末)、いわゆるモバイル機の名である。PDAの名機として未だ愛用者も多く、根強い人気を誇る「HP200LX」に代わるものとして注目されたのだ。しかしそれだけでマスコミに取り上げられたのでは無い。これはある一個人により事実上全ての開発が行われ、更にその設計は全てオープンにして自由な参加を促すという「オープンハード」の思想を持った画期的なものだったのである。

当初の計画では、2000年4月頃には組み立てを開始し、第1次ロットとして850台が配布されている予定であった。しかし2002年11月現在、配布はおろか試作基板も完成していない状況が続いている。

このプロジェクトに一体何があったのか、今どうなっているのか。このサイトは現在に至るまでのありとあらゆる紆余曲折、そして経緯をできるだけ事実のみ伝えることを目的として作成した。

筆者の拙い文章力でそれができるか疑問ではあるが、もし見苦しい点があればご容赦願いたい。尚、基本的な情報収集は2chモバイル板のMorphyOneスレッドで行っている。寄稿や誤字脱字の指摘はこちらにご連絡頂きたい。特に2年半もの出来事は筆者も把握できていないので、寄稿は歓迎させて頂く。このサイトは「オープン」なのだから。
93-229@mobile

● 1章 MorphyOne構想の源 〜HP200LXとは何か〜

1999年8月、米Hewlett-Packard社はPDA「HP200LX」の生産中止を発表した。これが全ての始まりであった。
では、そもそもHP200LXとは何だったのか。

元は1991年に遡る。米Hewlett-Packard社から「HP95LX」というハードウェアが発売された。当時の表計算ソフトの代表である「Lotus1-2-3」が標準で内蔵されている「電卓」としての発売だった。しかしこれは世界初の「手のひらに乗るPC-XT互換機」だったのである。つまり、この大きさでDOSソフトウェアが動作するという画期的なハードだった。やがて日本でも輸入販売され、脚光を浴びることとなる。

しかし輸入販売だった為か、マニュアルまでもが英語での販売だった。また、画面サイズが特殊であった(240×128ドット)為、そのままでは動かないソフトもあった。しかしこのサイズで当時隆盛を誇っていたDOSの資産を使える、という事実は魅力的すぎた。この魅力に惹かれた人間が知識と時間、技術を惜しみなく注ぎ込み、やがて英語しか使えないはずのHP95LXで日本語表示に成功した。パソコン通信(NIFTY-Serve(現@Nifty)、日経MIX等)で情報交換を行った末の結果だった。

この出来事はあまりに衝撃的であった。これ以降、ユーザーの手によって技術情報が提供され、ソースコードが公開され、ソフト的な要求を徐々に満たして行った。やがて日本語化キットが完成し、市販されたのは特に大きな出来事と言える。ハードウェア面では後継となるHP100LXが発売され、HP200LXへと時代は移り変わっていく。それでも基本的な部分は変わらず、高速化とメモリの増加が主な変更であった。ソフトの資産は益々積み重ねられ、更にハードウェアに手を加えて更なる快適環境が目指されて行く。クロックアップやバックライト搭載も試行錯誤しつつも技術的に確立され、実行されていった。

HP200LX(以下の文中ではHP95LXやHP100LXを区別せず、便宜上全てHP200LXと単独表記する)というハードウェアに特別な機能は少ない。しかしテンキーの内蔵、DOSソフトが動作可能、軽量、小型、乾電池駆動。これらの用件を全て満たしたハードウェアというのは無い。ユーザーの力で発展したハードウェアは他にもあるが、そういったハードには概ね共通していることがある。「代替になるものが見当たらない個性」それこそがユーザーをひきつけ、長年愛され続けた要因であろう。

そして1999年7月6日、米Hewlett-Packard社によりHP200LXの生産中止が告示される。ユーザーは猛反対したが、それもむなしく同11月1日に生産中止された。中止前後、予備機として「買い溜め」を行う者が後を絶たなかった。また再生産を要望する署名運動が開始され、異例な事に街頭でも署名活動が行われた。

ただ私見ではあるが、実際に再生産が行われると信じていたユーザーは少数派だったのではないだろうか。HP200LXというハードウェアへの思い入れが、何かをさせずにはいられなかったのではないかと思う。この活動はHP200LXというハードがどれだけ愛されてきたのかを如実に示す出来事と言えるだろう。しかし愛故の反動として、生産中止決定後しばらくは米Hewlett-Packard社への怨嗟の声が絶えない状況であった。しかしHP200LXの国内販売開始は1994年9月。コンピュータという陳腐化の早い商品を5年間も製造し続けた米Hewlett-Packard社の企業努力も賞賛されて然るべきだろう。

とにもかくにも、HP200LXという名機の歴史はここで一つの区切りを迎えたのである。ユーザー達は今後、何を使えばいいのか悩んでいた。HP200LXが持っていた個性を持ったPDAは見当たらなかったのだ。予備機があるうちはいい、しかしその後はどうする?

・・・そんな声の中、一人の男が名乗り出た。「とよぞう」その人である。
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参考資料:
HP 200LX日本語化キット開発秘話

● 2章 MorphyOneプロジェクトの誕生 〜とよぞう氏の登場〜

「とよぞう」これは勿論ハンドルネームであり、本名は「佐川豊秋」と言う。産業系SEを名乗る彼は、1999年8月にNifty-ServeのFHPPCにて、Elan SC400というチップを用いた自作PDAの構想を発表したのだった。

このスペックは、多くのHP200LXユーザーの渇望してやまないものだった。簡単に言えば「高速なHP200LX」であるが、ユーザー達はそれ以上を望んでいなかった。DOSが動く、乾電池が使える、CFが使える、10キーがある、小さく軽い。概ねこれだけでよかったのである。豪華な機能など必要が無いのは、手元のHP200LXが証明してくれていたのだから。

勿論この構想は大反響を呼んだ。少量生産ながらも、ユーザーに配布できる形を目指していたことも要因であろう。また、スペックが目の前にあるHP200LXの高速版であるが故、非常に現実に近い夢であると多くのユーザーは感じ取ったのであった。折しもHP200LXは生産中止が決定され、代替機を模索しているユーザーは多かった。そこへ公開されたのがまさにHP200LXの代替としては理想のスペック・・・。この構想はHP200LXユーザーに賞賛され、瞬く間に圧倒的な支持を得た。当時とよぞう氏はこう語っている。「回路図が愕然とするほど簡単だったんです。」「これならいけますよ!!」

そしていわゆる同人ハードとして製作されることになったMorphyOneであるが、これまでの同人ハードには無かった特殊な形で製作することが決定された。「法人化」である。

この頃までにも同人ハードは多く存在した。特に有名なのはSHARPのPC、X68000シリーズ用のハードウェアである。趣味の範囲でCPUアクセラレータボードまで製作されたのは国内ではおそらくこれだけであろう。X68000に限らず、同人ハードも実に幅広い開発が行われていたが、その殆どが「製作者負担で設計・開発および部品購入」という形態であった。趣味のものだから、自分で負担して製作し、購入してくれた人に喜んでもらう。あわよくば黒字になるかも知れない・・・それが普通だったのである。

話を戻そう。筆者の知る限りでは一つの同人ハード製作の為に法人化した例は現在・過去のどちらにも無い。だがこのプロジェクトは設計データを全て無償で公開する「オープンハード」を作ろうという理念を掲げ、その実行の為の「手段として」法人化が選択された。

法人化と言っても、メーカーのように販売とサポートを積極的に業務として行う予定は無かった。あくまで「多人数で小額ずつ出資する」という目的を最もスマートに達成できるのが法人化であり、合資会社設立であるという判断が当時されたのだ。そしてその法人は営利を目的とするのではなく、MorphyOneを製作することを目的として作られた。完成・配布後は解散する組織なのである。

また法人には有限会社・株式会社等の様々な形態があるが、合資会社を選択することになった。開発を全て一人で行うことになるとよぞう氏に絶対的な権限を与え、効率化と著作権の問題をクリアするのが目的だった。勿論、無限責任社員(出資金に関わらない、無限の責任を負う社員)となるとよぞう氏にはリスクも大きいと考えられていたが、無限責任社員のデメリットよりもメリットを優先させる結果となった。

何はともあれ1999年12月21日「合資会社モルフィー企画」が設立された。FHPPCのユーザー達、そしてその他からも多大なカンパや出資を受け、2000年2月10日にはとよぞう氏の本業である会社にも秋葉原にも近い、湯島に事務所を開設。とよぞう氏は本業の合間をぬって開発に励むこととなったのであった。
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参考資料:
オープンハードウェア・パームトップコンピューティング協議会(通称OHPA)
合資会社 モルフィー企画
2chの過去ログ

● 3章 開発作業の始まり、FHPPCとの終わり 〜生まれる確執〜

ここで時間は多少戻る。

「理想のハードを自分達の手で」。この夢が現実味を帯びてきた1999年8月以降、FHPPCは活気に満ちていた。KTR(恵庭有)氏を始め、HP200LXの発展に多大な功績を残したメンバー達が全面協力体制に入り、発言者各々が自分の夢をMorphyOneにぶつけていったのである。特にキーボードに関する話題が盛り上がったのはHP200LXユーザーならではと言える。

そして1999年11月、開発と同時に進められてきたプレスリリースがHP200LXの生産終了に合わせてとよぞう氏のサイトで正式公開された。既に回路図のα版が同年9月、CGイメージが同年10月に発表されており、順風満帆な出だしであった。

活力に満ちていた当時のMorphyOneを取り巻く環境であったが、全く平穏無事だったと言う訳ではない。FHPPCの発言の転載に関わる、論争が巻き起こる。

NIFTY-Serve(現@Nifty)内にあるフォーラム。ここでの発言を転載することは基本的に禁止されている。今でこそプロバイダの会員サービスとして行われているフォーラム運営だが、当時のNIFTY-Serveは現在のYahoo!掲示板又は2ちゃんねるにあたる。ある意味日本で最も速く、地域を問わずに最新の情報が手に入る魅力的な場所だった。しかし有料サービスである以上、その発言の持ち出しはタブーとされていた。少なくとも投稿のヘッダ部分はNIFTY-Serveに著作権があるので、転載に際しては最低限ヘッダ除去の必要とされた。但し、フォーラム管理者が許可すればNIFTY-Serveも認めていたようである。

しかしとよぞう氏とプロジェクトメンバーは、管理・運営側にメールでの断りを入れず、フォーラム上で発言者の許可は得たものの、管理・運営側の許可を待たずにWeb上にMorphyOneに関するFHPPCのログを転載し始めた。ヘッダ除去は当初考慮していたが、結局そのままの形で転載したようである。そこへ、MorphyOneへの協力者でもあるFHPPCフォーラムの管理者NORI氏、YAFO氏がクレームを付けたのである。

内容は傍目にはあまり気持ちの良いやりとりでは無く、結局とよぞう氏はこの事件を契機にFHPPCから離れていき、メーリングリストとWebが主導になってMorphyOne完成を目指すことになったのである。尚、この事件でとよぞう氏の使った「拙速主義」という言葉は、後にとよぞう氏本人を揶揄する言葉として多く用いられることになる。

前述の事件は1999年11月末に起こったものであるが、MorphyOneプロジェクトを揺るがす程の事件とは言えなかった。その証拠にとよぞう氏は各種メディアの取材をこなしつつ、同年12月に東京・名古屋・大阪にて登記準備を兼ねたオフ会を開催。成功をおさめて合資会社モルフィー企画の登記を終了させた。

会社設立に際しては、設立及び開発に必要な資金集めが行われた。「出資者」の募集である。

出資者は、1口50,000円を合資会社モルフィー企画に出資する。これはあくまでも出資金なので購入費ではなく、返還される保障も無い。出資者は合資会社モルフィー企画の有限責任社員とされ、最終的なMorphyOneの価格や生産中止・遅延へのリスクを許容することとされている。しかしそのリスクを許容する分、優先的にMorphyOneを購入でき、価格も割引される。注意しなければならないのは、これはあくまで出資金でありMorphyOneの購入費用では無いことである。とはいえ注目のハードウェア・MorphyOneがいち早く入手できるということも手伝ってか、およそ130人が出資。一部にはプロジェクトの趣旨に賛同してか、予約はせずに出資のみを行った人も居たようだ。こうして650万円もの資金が集まった。 そして明けて2000年2月、この資金を利用して湯島事務所が設立された。

湯島事務所は東京都文京区湯島に設立され、その地名から湯島事務所と呼ばれている。本来サラリーマンであるとよぞう氏の勤務先に近く、同じく秋葉原も近い。通勤時間を短縮して開発時間を確保し、必要に応じて部品調達を容易にするのが目的である。合資会社モルフィー企画名義で賃貸されたこのマンションが、今後の開発の中心舞台となった。同時に、後に大激論の中心舞台となった場所。その歴史的な第一歩であった。
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参考資料:
も・う・だ・め・ぽ

● 4章 湯島事務所の稼動 〜部品手配と試作の日々〜

湯島事務所の設立前後は、何かと忙しい時期であった。

3章で既に語ったように法人としての登記が済み、基本的に無償で顧問弁護士・日置雅晴氏を確保し、法務担当として法曹界よりOzaKit氏も加入し定款の雛型などを作っている。予約はこの時点では金銭を伴わない、いわば購入希望者調査を兼ねた仮予約といった形だったが、それでも希望が殺到。ペーパークラフトを作る人まで現れるなど、MorphyOneに対する期待は盛り上がる一方であった。しかしこの時期の開発はあくまで机上のものであり、あまり進んでいなかったと考えられる。法人としての事務処理に追われており、何より部品調達がネックになっていたのである。

特に部品調達は深刻であった。電子機械の場合、多種少量の部品を用意する必要がある。MorphyOneの場合、当初計画では1次ロット1000台(配布850台、残りは保守用)だが、これは内容を考えると同人ハードとしては大規模だが、工業製品としては実に小規模である。多すぎず、少なすぎるわけでもないこの量では店頭購入するわけにもいかず、最小発注単位を考えると商社にも発注しづらい。また、手配に時間を掛けすぎるとディスコン(生産終了による供給停止)となりかねず、全体の構想に影響を与えるばかりか調達済みの部品まで使えなくなる可能性もある。

そこへ助け舟を出した人物が居た。原科氏である。この人物は電子部品の供給から基板製作、実装(部品を基板載せる作業)までを行える会社に勤務しており、とよぞう氏にとっては最も欲しい協力者であったのではないだろうか。

これ以後、とよぞう氏は原科氏に部品の入手性・価格・最低発注単位等で数々のアドバイスを受けていく。そしてサンプル部品の供給も受けられるようになり、2000年1月25日、試作部品を原科氏に発注する。MorphyOneプロジェクトはハードルを一つ越えたのであった。

尚、この時の総額及び部品単価は明らかにされていない。とよぞう氏は多少ぼかした形での公開を考えていたが、OzaKit氏の反対原科氏の要望もあり、公開されなかった。

そんな中、2000年1月23日OHPA-MLに回路図2.2がまとめて掲載される。ここまで検討してきた回路図をまとめたものである。そして2000年1月30日、特に回路図に関する話題が無い内に回路図のフリーズが宣言される。2000年2月6日の定期報告で回路図について触れられているが、これは事実上これ以上の変更は考えていないという意思表示であった。

そして2月に入り、湯島事務所の設立と移転が終了してから、とよぞう氏以下の開発メンバーは試作部品を使った本格的な開発に取り組み始める。とはいえ、実際に回路を組んだような報告は特に見当たらず、この時期に至っても机上検討と部品調達が主であったと想像される。その状況は3月に入っても続いている。2000年3月3日にはOzaKit氏が本業を理由にOHPA-MLから離脱。しかしMorphyOneプロジェクトからの離脱というわけでもなく、定款など必要な書類作成などは概ね終了している状態。特に問題視はされなかった。

3月はフリーCPU計画ロジックアナライザ購入と、景気の良い話題が続く(フリーCPU計画は2000年4月28日に改めて提案されている)。そしていよいよ1次ロットWeb予約が開始される。2000年3月23日に開始されたこの予約で募集されたのは280台分。出資者ではない一般向けの予約であったが、2000年3月28日、つまり2日間で予定台数に到達、一旦終了となり、2次ロット予約へと移ったのである。

一般予約が良い結果に終わり生産台数が見えてきた2000年4月11日、原科氏より評価基板MOEV01が発送、同年4月13日湯島事務所へ到着した。このときの原科氏の発言は若干の不安感を匂わせるものの、問題視はされなかった。また、BIOS(ハードウェアとOSの仲立ちをするもの)の契約もこの時期に行われている。

そして2000年5月2日、吉報が入る。液晶に文字が表示されたという報告である。続いて6月12日にはCFからのブート(中身は読めず)と、開発は順調に進んでいったのであった。

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参考資料:
Morphy One はどうなった?

● 5章 予約金入金開始 〜量産化への移行〜

2000年6月12日にCFからのブートに成功したMorphyOne試作基板であったが、この時点で既に当初の予定(2000年4月に量産)から大幅に遅れていた。しかもここからはDOSのブートとCFの読み書き、そして量産化という決して低いとは言えないハードルが待ち受けていた。しかしモルフィー企画はそれを待つことはせず、予約金の入金開始に踏み切る。

2000年6月初頭から予約者に対するシリアル番号の発行が行われた。シリアル番号の確定は即ち購入の意思があるということで、入金を促している。この時入金されたのは1台あたり84,000円。若干問題はありながらも、結局2000年8月27日までに626台分(52,584,000円)が確定している。寧ろ入金された後の処理に追われていた様子が伺える。1次ロット850台に対してやや少ない数であるが、一部キャンセルや出資金の返金処理があったようだ。それでも2次ロットにも相当数の予約者が居る為、大勢に影響は無かった。

シリアル番号確定作業に追われていた2000年7月11日、遂にCFからDOSがブートしたという報告が行われる(筆者注:ML等での報告は見つかっていない。情報求む)。このDOSブートに多大な貢献をしたのが「くろさわ」氏である。

くろさわ氏は湯島事務所開設以来、主にソフトウェア面でとよぞう氏を支援してきた人物である。MorphyOneのBIOSカスタマイズなどを手がけており、プロジェクトの根幹を担う人物であったことは間違い無い。キー配置などで激論を交わし、強硬手段を取ろうとする素振りまで見せるなど、技術者として頑固な一面も持つ。

くろさわ氏の貢献度はスタッフ日記を見れば概ね見当が付く。何しろ液晶に文字が表示され、CFが読み出された6〜7月は殆どの日記に「くろさわ」の文字が躍る。7月に至ってはMorphyOneの技術的な報告は殆どくろさわ氏の記述によるもので、その存在の大きさが見て取れる。

一方のとよぞう氏は、7月にMorphyMini構想の発表、USBWriterの製作を行っているが、MorphyOneに関する報告は少ない。8月に入ってもUSBWriterの話題は出しているが、MorphyOneの話題は少なく、やはりくろさわ氏による記述が目立っている。

・・・そして2000年8月14日、くろさわ氏は体調を壊して湯島事務所を去る。OHPA-MLには2000年10月初頭までの投稿はあるが、それ以降は完全に表舞台から姿を消している。MorphyOneプロジェクトは大黒柱を失ったのであった。

そして残ったとよぞう氏は開発を続行する。この頃、試作機の現状を問う投稿があったが、とよぞう氏は輸送は無理という返事を返している。また、暗に湯島への現状視察を申し入れている投稿もあるが、これは黙殺された。

ひとまずDOSブートにまで辿り着いたMorphyOneであるが、ここからは量産化へ向けての改良・改善が目的となる。この時点からの量産化には、試作基板の安定化、基板の小型化(設計の簡略化)、部品の入手性の再確認などが必要となってくる。しかし、この時期から開発の報告は急激に進行を遅くしていったのである。

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● 6章 立ちこめる暗雲、生まれる火種 〜MLから2ちゃんねるへ、そして「何か」〜

2000年9月より、開発の報告(と言うよりも進捗だが)が遅れるのに伴い、メーリングリストも次第にその流量を減らしていく。開発の進捗が遅く、目新しい情報も無く、特に話題が無い状況では当然と言えば当然である。とよぞう氏自身はと言うと、取材はこなしていたが、開発状況は芳しくなかったようである。

その理由の一つとして、当時の世界的な部品不足挙げられている(このリンク内容に関しては後述)。量産基板に必要な部品の発注は終了していても、物が届かないとどうしようも無い、という事だ。そこでこの持て余した時間を利用して、MorphyOneへ関係有る無しに関わらない小物を作るようになった。サブプロダクツの起こりである。

始まりはUSBWriterだった。2000年7月に作成すると発表はされていたが、これが2000年11月、汎用USB-IOとして突然販売されるようになった。これがMorphyOneを作る為だけに設立された合資会社モルフィー企画、そのはじめての成果物であった。以降、サブプロダクツは順調に商品を追加、こまめな在庫情報の更新がされてこのように今現在も商品として販売されている。

その頃肝心のMorphyOneの状況はと言うと、設計データが多少更新された程度で、目立った進歩は無かった。メーリングリストも相変わらず閑散としており、とよぞう氏の発言はMorphyOneとは直接関係無いものだったり、将来の展望だったりと「今」については殆ど語られていない。

そして2001年1月。21世紀になった矢先、2ちゃんねるに一つのスレッドが立ち上がる。記念すべき、と言っても差し支え無いだろう、「Morphy Oneはどうなった? 」スレッドである。この頃は公式サイトも更新が途絶えがちになっており、メーリングリストも内容・量共に寂しい限りとなっている。既に触れてはならない禁忌となりつつあったMorphyOneプロジェクト。それを真っ向から語れる初めての場所だったのではないだろうか。後年、2年近くの長きに渡り100近いスレッドを重ね、2ちゃんねるモバイル板の名物ともなるスレッドの発祥であった。

スレッドが立ち上がった当初はまだ反応が薄かったが、それでもとよぞう氏の「裏」のサイト(現在は消失。内容はhttp://web.archive.org/に残っているのでこちらを参照して頂きたい。日付をクリック)のアドレスが報告されるなどしている。2ちゃんねるはその性質上、嘘も多いが真実も含まれている。そして何より肩の力を抜いて気軽に話せる場でもある。技術の話や法律の話、そしてとよぞう氏本人への批判など、メーリングリストではできない話がされていった。この最初のスレッドでは1000件の書き込みに3ヶ月を費やしているが、やがて2日とかからず1000件に達する程に膨大な発言が繰り返されるようになるのは、また後の話である。

さて、ここで一つ触れておかなければいけない事件がある。それはここでは「偽春菜事件」と呼称させて頂く。詳しくは「偽春菜問題、概要」を見て欲しい。但し、この事件は2者間のメールでのやりとりが中心な為に、外部からでは不明な点も多い。前述のリンクにしても、筆者が意図するしないに関わらず、バイアスがかかっている可能性があるので、両者の名誉の為にも参考資料として考えて欲しい。2001年3月頃の事件である。

簡単に言うと、魅力的だが荒削りな既存ソフトウェア(シェアウェア)の進化が殆ど無いことに業を煮やした個人が、そのソフトの上を行くソフトを作ってしまった。そして作者同士(先発は法人)のせめぎ合いにより、結局後発の作者は公開を中止してしまった事件である。この当時、後発側のソフトは「あれ以外の何かwith任意」という名称だったが、「何か」あるいは「任意」という呼称が一般的であり、ここでは「何か」と呼称する。

この「何か」の公開中止は多くのユーザーの落胆を呼んだ。ソフト自体はアクセサリ的なものだったが、従来のソフトには無いAI的な挙動と、他ソフトやネットとの連携による実用性も持っていた。技術さえあれば絵も挙動も変えられる(ゴーストと呼ばれる)こともあり、その当時ですら複数の作者によるゴーストが公開され、非常に盛り上がっていた矢先の出来事だった。そこへ立ち上がった人物が居た。その人物は「沢渡みかげ」(佐野拓)氏と言い、この魅力的なソフトの再配布を行うべく、「さくら基金」を創設した。

この基金はつまりカンパである。「何か」の公開に必要な費用や、将来訴訟などが行われる際の危機回避に使う為の費用を集めることを目的として創設された(初期リリースはこちら)。 そしてここに意外な人物の名が挙がる。「とよぞう」氏である。

基金設立にあたり3人の名が明記され、それぞれの役割が記されている。まずソフト開発者として「閑馬永空」氏。その配布に関わる費用を収集・負担するのが「沢渡みかげ」氏。そしてソフトを配布し、法的な責任を負うのが「とよぞう」氏とされたのである。

この発表は「何か」のファンは勿論、MorphyOneを待っている予約者達にも寝耳に水であった。特に「何か」のファンは突然挙がってきたこの名前を調べてMorphyOneプロジェクトに行き着き、その現在までの状況を調べるにつけ不安を感じたようである。また、そもそもとよぞう氏のさくら基金における存在意義も疑問視された。基金自体も当初公開するとされた口座残高を「戦略的理由により」非公開とされるなど不明な点が多く、公開するとされている支出も創設以来一度も支出されていないと発表されている。これらの理由からさくら基金の不透明さに疑問の声は今現在まで残っているものの、基金は強制ではなくあくまで任意。ユーザーが被害を被る性質のものでは無い為、現在はあまり問題にされていない。ソフトも順調に開発が進み、「伺か」と名称変更され、今もって人気を博している。

この当時、開発の遅延が続くMorphyOneがあるにも関わらず、とよぞう氏が「何か」に関わったことは問題視されながらも重大視はされなかった。とはいえ後年、とよぞう氏批判の材料となったのは言うまでも無い。

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● 7章 進まない開発、高まる非難 〜急変する事態〜

さて、何故か「何か」にまで関わったMorphyOneプロジェクトであったが、2001年初頭からはゆっくりとした歩みであるが、主な出来事は以下の通りである。

2001年2月1日 量産試作基板のチェック者募集(立候補者は3人)
2001年4月30日 試作基板の写真公開
2001年6月14日 湯島の状況報告(古参メンバーのFLASH HACKER氏による)
2001年6月20日 「もうじきDOSがブートしそうな感じです」と、とよぞう氏談
2001年10月20日 外装の削りだし状況の発表
2001年11月11日 外装部品の各試作バージョン公開
2002年1月21日 外装最終版公開
2002年2月21日 新基板到着報告

それぞれの出来事の間が非常に空いているのは省略しているわけでは無い。この間は発表が無かったか、大して大きな出来事でも無いか、MorphyOneに関係無い発表だったか、のどれかなのだ。

2001年2月1日の量産試作基板のチェックは比較的大きな動きで、久方ぶりに湯島事務所に人材を求めている。しかし既に閑散としていたメーリングリストは数人の反応しか返ってこず、既に固定化された数人のメンバーでの話題のみと言って良い状況になっており、改めて報告を入れるも無反応であった。すっかり熱が冷め切ってしまった感は否めない。

2001年6月20日のDOSがブート直前であるという報告もかなりの進歩のはずだが、これも非常に反応が薄い。そしてここからは殆どモルフィー企画のサイト更新の連絡のみとなる。その内容もMorphyOne関連は殆ど無く、サブプロダクツ絡みが多いという、何とも寂しい状況であった。作る側はMorphyOneが動かない状況に、待つ側はMorphyプロジェクトが動かない状況に飽きていたのだろう。そんな中でもサブプロダクツは着々と充実していき・・・、

以降、殆どメーリングリストに投稿は無くなっていく。

逆に活気があったのは2ちゃんねるである。MorphyOneスレッドは比較的おとなしいモバイル板にしては、かなりの書き込み頻度があるスレッドであった。そこに出資者が、予約者が、そして傍観者が毒を吐いて行く。MorphyOneプロジェクトの状況は極めて悪いとしか言い様が無く、その非難の矛先は当然とよぞう氏に向いた。そして少ない情報の中、批判する側と擁護する側とで不毛な争いが続けられた。

批判の内容はさまざまである。とよぞう氏の技術的な問題は勿論、人格的な問題も問われた。DOSの起動画面はコラージュと噂され、とよぞう氏個人の裏のページからペドフィリア(幼児性愛者)扱いまでされている。他にも何故かモルフィー企画の電話が不通になっているという謎も報告され、金銭管理や出資者・予約者への対応、逆に出資者・予約者の責任まで問う声もある。2002年1月21日に公開された外装最終版など「おろし金」と揶揄されている。このあたりのやりとりは是非OHPA-MLの過去ログ(主にこのページの4300番以降)又は2ちゃんねるの当時のスレッド(14番目以降)を見て確認して欲しい。当時、如何に情報が少なかったかも同時に読み取れるはずである。

特に、金銭に関することは最大の謎であった。この時点で推定される予約者はおよそ1000人。予約金でおよそ8400万円が存在すると推定されるが、支出について初期段階では多少報告があったものの、それ以後は完全に途絶えている。前述の外装を削りだしたのもMODELAという高価(新品で30〜40万円)な3次元プロッタを用いている。また湯島事務所の費用も出資金・予約金から捻出されていると考えられるし、一連のサブプロダクツも費用はどこから捻出されているのかはっきりした報告は無かった。肝心な資金の残金についてはあいまいな表現に留まっている。、その会計処理の不透明さには批判が集中した。「オープン」な企画は、奇しくも出資者にすら貸借対照表・損益計算書が報告されないという「クローズド」な会計処理に終始していたのであった。

そして2002年6月を境に、メーリングリストは一気に加熱していく。それに伴い2ちゃんねるも加熱。多くの謎があり公開を望む声の中、それを拒んでいるとしか思えないとよぞう氏の発言。様々な憶測を呼ぶ中で、2002年6月14日、ついに重い口を開いた。

口座の現金についてお答えしますと、350万円ほどになります。

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● 8章 紛糾の情報開示 〜湯島への前夜祭〜

残金350万円。3500万円では無い、あくまで350万円である。8000万円と推定された予算は、2年の月日を経てここまで目減りしていた。この頃、メーリングリストと2ちゃんねるは話題がリンクしており、メーリングリストの投稿を肴に2ちゃんねるの話題が進む形式が確立している。この報告は勿論2ちゃんねるでかなりの反響を呼び、出資者と予約者と、そして大多数を占める傍観者に絶望を突きつけた。いや、絶望はまだ無かったかもしれない。何しろ、信じることができない金額だったのだから。

まだ量産試作基板すらまともに動作する報告が無い段階である。少なくとも量産基板作成・部品の実装・外装の作成・組立て・梱包・出荷・サポートと、しなければならない事は山とある。しかも部品が購入済みなのかどうかすらも分からない。たった350万円の予算でそれらが可能なのか?大多数の意見は「不可能」であった。しかしとよぞう氏はこのメールの中で、「何とか可能である」と金額を出して主張を行っている(但し実装や梱包・出荷は含まれていない)。

いずれにしてもこの残金の発表は大きく、2ちゃんねるでもかなりの混乱を招いた。使途が全く不明であったからだ。いずれにしても、尋常な使い方ではここまで資金が目減りすることは無いはずで、部品を購入したにしても金額が大きすぎると考えられていた。84,000円の予定価格に比して、全てが部品代につぎ込まれたとしても原価(正確には材料費)が90%を超える計算になってしまうからだ。常識的に、そのような数値では元を取るどころか、赤字になりかねない。

そして前述のメールから4時間後、支出についての大まかな内訳が公開された。これは今まで不透明なままであった会計情報の初めての公開だった。そして同時に、やはり大半の部品が既に購入済みだったことが判明した。それによると、部品は原科氏(4章参照)の会社で一括購入され、そのまま氏の会社の倉庫で保管中だったのである。

この情報は「残金350万円」よりもある意味反響が大きかった。何を買ったのか。高価すぎるのではないか。そもそも何故既に部品を購入しているのか、基板完成後に実装屋に部品調達を含めて依頼すればいいだけではないのか。慌ててそんなに購入する必要など無い。

・・・これらが主な意見である。しかしとよぞう氏はこれらの意見に対応できる発言を行っておらず、どうして動作していない基板の部品を発注・購入したのかは不明のままである。また、とよぞう氏自身も600万円程の出資(形式上は融資)していることが判明している。

ところで、とよぞう氏自身は、ここまでほぼ一貫して自信ある態度で報告を行うなりインタビューを受けるなりしてきた。しかしこの時期のメーリングリストへの投稿は殆どが非難ばかりで、擁護派も居るもののあまりに少数派で無力な存在。状況が状況だけに言い返すこともできず完全に弱気一辺倒となり、事実上の敗北宣言まで出ている。何しろ、ここまでオープンにされなかった情報は殆ど全てとよぞう氏に都合が悪いものばかりだった。そのツケが回ってきたと言って良いだろう。

しかしそれでも技術的な話題に対してはまだ若干強気な姿勢であった。しかし技術関係の話題に「ごけんつ」氏が登場。的確な指摘と状況分析力を発揮し、徐々にとよぞう氏のしてきた事が明らかとなっていく。

ここで分かったことは、とよぞう氏はここまでに2種類の量産試作基板を用意しており、最初のものがMO19、後のものがMO25と名づけられている事。そして前者はDOSの動作実績があるが、後者にはそれが無い事。この状況では普通、一先ず動作実績のあるMO19に注力するものだが、何故かとよぞう氏はMO25に固執。当然疑問の声が挙がるが、とよぞう氏はMO19には量産上の問題がある為としてこれを固辞している。

しかしごけんつ氏は強かった。MO19に動作実績があり、その基板が現存していることを背景に、DOS起動オフの開催を強力に推して行く。そして決定される。湯島事務所の関係者しかDOSの起動を目撃していないMorphyOneが、遂に事実上の一般公開を迎えることとなったのである。これと同時に、とよぞう氏には「MO19のDOS起動を見せる」という宿題が生まれた。しかしこれは当日早朝に努力はしたができないとの報告が投稿されるも、ごけんつ氏は一蹴。そのまま朝を迎えることとなった。

運命の日は2002年6月16日。日本中がサッカーワールドカップと言う祭に熱中する中、もう一つの祭が東京・湯島にて開かれようとしていた。
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● 9章 湯島監査開始 〜2002年6月16日という日〜

2002/06/16 11:59
オフ会現場からの第一報が入る。「現在8人が集合。とよぞう氏も合流」。この段階でのとよぞう氏の合流は予定になかった。既に実況体制を取っていた2ちゃんねるモバイル板MorphyOneスレッドの傍観者達は狼狽。

2002/06/16 12:27
一行がファミリーレストラン・ジョナサンに到着。2グループ(とよぞう氏、龍氏、ごけんつ氏、オフ屋氏と、ML派氏を含むその他)に分かれて着席。とよぞう氏は無精髭を生やしていた。

2002/06/16 12:40
食事をとりつつ、登記簿謄本を回覧。100万円を払った出資者まで居ることが判明する。とよぞう氏はこの時「目が死んでいる」状態。とよぞう氏が居ないグループではモバイル機を並べて歓談、とよぞう氏が居るグループは話し掛けることもできない程の重い雰囲気に包まれる。

2002/06/16 13:06
とよぞう氏のグループが「笑いながら歓談中」との報告が入るが、目は笑っていない模様。相変わらず最悪の雰囲気の中で歓談と実況が続けられる。

2002/06/06 13:22
ここまではメーリングリストに流れている以上の情報は無く、現在までの経緯を確認しながらの会話を行う。とよぞう氏は力なく話をする。尚、この時点でのオフ会参加者には出資者・予約者は居なかった。

2002/06/16 14:16
湯島事務所への移動(徒歩)が開始される。ここまで馴れ合いの様相は全く無く、距離を置いて会話が出来た。

2002/06/16 14:38
湯島事務所に到着。メーリングリストの当事者が先に入り、それ以外は交代で入ることになった。湯島事務所には「御神体」は見当たらず、開発作業は行われているように見える。オフ会に向けて特別片付けたような気配は感じられない。しかし何故か本棚にはさくらが。

2002/06/16 14:57
入出金の帳簿(Excel)が公開されるも、「とよぞうのこづかい帳」との声が参加者より出る。また、出納関連の書類は税理士に預けられていることも判明。結局、湯島事務所には金銭の流れの証拠となる物が殆ど無く、2年前(の一部?)分だけが置かれていることがわかる。

2002/06/16 15:13
湯島事務所にある請求書・領収書から、大半の部品をある一社を経由して購入していることが判明する。その額は2000年で19,875,372円。そして湯島事務所の家賃が1ヶ月で約14万円であることも判明。税理士の氏名・電話番号も確認がとれた。

2002/06/16 15:36
湯島事務所を出て、「炭火喫茶 古炉奈会議室」にMorphyOneの基板と共に移動を開始。量産試作基板であり、DOSの動作実績があると言うMO19は、湯島事務所ではブートできず、ブートした頃のロムは無いらしいとの報告。

2002/06/16 15:54
古炉奈会議室に到着。オフ屋氏により、速報画像が公開される。プレイステーション2などが写っており、傍観者の憤慨を誘う。

2002/06/16 16:07
ML派氏により、大まかな金銭の流れが報告される。2000年に部品代の半額、2000万円を前払いしている。しかし翌年にもう2000万円払っているとすると、部品代総額5700万円の説明がつかず、ごけんつ氏も1700万円分も購入すべき部品はおもいつかないとの事。

2002/06/16 16:10
とよぞう氏「ちょっとまだぁブートしないんですけど」。これを受けて2ちゃんねるでは一斉に罵声が飛び交う。現場ではテスターを買いに行き、その場でMO19の修理を開始。

2002/06/16 16:17
MO19の修理がひとまず完了し、起動に成功する。しかしブートには失敗。液晶に「Non System Disk or Disk Error」の表示。コンパクトフラッシュが読めず、DOSが起動できない模様。とよぞう氏曰く、「試作基板ではPC-DOS2000とDOS7が起動。MO19ではDOS7が起動し、ソフトも動いた」との事。

2002/06/16 16:33
「残金350万で(完成)できますか?」との参加者の問いに、とよぞう氏「350万ではできない、あと400万必要」(概略)との答え。これにも2ちゃんねるで一斉に罵声が飛ぶ中、とよぞう氏は銀行からの借り入れを考えていると語る。また、以前公開されたMorphyOneの筐体作成に50万円かかっていると証言。

2002/06/16 17:05
ML派氏の「今回を機に解約が増えたらどうしますか?」の問いに、「そこはしばらくお待ちいただくしかない」と、とよぞう氏談。ここまであまりに大きな怒りと絶望ばかり突きつけられてきた為、2ちゃんねるでの反応は多少ある程度に終わる。また、とよぞう氏はごけんつ氏の「完成して出荷したら税金が発生しますよね」との問いに沈黙を持って答える。

2002/06/16 17:10
古炉奈会議室から退去。ごけんつ氏と龍氏はとよぞう氏と共に再び湯島事務所へ向かい、その他のメンバーはチムニー(居酒屋)で反省会を開く。最終的には予約者・出資者も数人参加していた模様。また、龍氏は一言も口を聞くことがなかった。

2002/06/16 17:58
メーリングリストにオフ会終了の報告として、この日判明した事の概略が投稿される。

2002/06/17 02:36
とよぞう氏より、今までの経緯も記した大反省文とも言える投稿がメーリングリストに流れる。「〜べきだった」という表現が非常に多く、16日のオフ会がとよぞう氏に対して非常に大きな影響を与えたと考えられる。

結局この夜、とよぞう氏はメーリングリストに20通近い投稿を行った。内容は殆ど平身低頭、謝り続けている。とよぞう氏とMorphyOneに関わった人間、全てにとって一番長い日は終わったのであった。
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● 10章 祭りのあと 〜感想戦〜

ワールドカップで日本チームが熱戦を繰り広げている最中で行われた湯島オフ。その成果は無意味では無かったが、決して多くも無かった。

そもそもとよぞう氏がMorphyOneに関する一切の情報の公開をほぼ1年に渡りストップしていたに過ぎず、その情報が一気に流入しただけと言える。しかしその情報も断片的なものばかりであった為、2ちゃんねるモバイル板はこの後情報の整理・検討とメーリングリストを肴に議論を交わしていく。

この時点で間違い無い情報は、大反省文により、2001年6月24日の「もうすぐDOSが起動しそうです」という発表の段階まで「復元しておりました」という事実のみ。つまり丸1年をほとんど無駄にしていた事だけははっきりした。

開発という作業を考えると試行錯誤は決して無駄とは言えないが、既に辿り着いていたはずの地点に戻っただけでは無駄と言われても仕方が無いだろう。とよぞう氏の技術力への不信感は湯島オフ前から語られ尽くされたことではある。しかし結局オフ終了後にメーリングリスト流されたとよぞう氏の投稿には「自分の技術力の不足」を反省する弁は一切無い。忘れていたのか、自信があるのか、それは本人にしか分からない。ごけんつ氏が現状を非常に端的にまとめているが、この現状を正しく認識しているかも本人にしか分からない。

会計については前章でも触れたように、この時モルフィー企画の出納関連の資料は殆どが税理士の所にあるとされ、自身への信用が無いことを自覚してか税理士の判断を仰いだ上での公開と語った。しかし何が公開されようと、メーリングリストでの費用見積によると、残金350万程度では既に資金不足なのは明らかであり、変わらない。

そして会計と関連する問題であるが、部品についてである。量産に必要な量の殆どを開発機が未完成の現状で既に購入済み、しかもそれは2年前の話であると言う。あまりに唐突で、不可解な事であった。何故そんなに高額の資金を投入したのか。何故こんな2年も前の大きな出来事をこれまで発表せずにいたのか。長期保管だが部品の品質は維持できているのか。

そもそも、本当に購入したのか。

この時点で信用が完全に失墜しているとよぞう氏の言葉は既に誰も信用しなくなっていた。領収書などの証拠があってもそれすら信用されなくなり、「こちら側の人間」が確認しない限り、多数の信用は得られない状況にとよぞう氏は追い込まれていたのである。尚、開発状況と部品に関しての感想をごけんつ氏がまとめている。

この時、と言うよりこの1年近い期間の合資会社モルフィー企画には、協力者はおらず、技術力は問題視され、資金も無く、部品の存在まではっきりしない。企業運営には必須とよく言われる「ヒト・モノ・カネ」の全てが無いという八方塞の状態であった事が判明した訳で、開発云々以前の状態であったことが十分に露呈した。

考えてみれば情報がもう少し公開されていればこの現状は予約者達には簡単に伝わったはずで、とよぞう氏は公開による解決より隠匿による回避を選択したのである。だがこのプロジェクトは多数の出資者、そして予約者の資金によって運営されている。少なくとも原価に関しては当初から「ガラス張り」とFHPPCでも製作発表会でも唄っていただけに、とよぞう氏への非難は当然と言わざるを得ない。

湯島オフは「期待通りの期待外れ」であったが、このお陰でようやくMorphyOneプロジェクトは再びスタートラインを踏むことができた。多くの観客は当初と違うゴールラインを覚悟しているが、湯島オフをきっかけとしてゴールの見えない無限回廊は抜け出すことができたのである。また、湯島オフのおかげでメーリングリストは活性化し、2ちゃんねるではモバイル板の常識を超える速度で議論が交わされるようになった。情報量は小さかったが、周囲への影響は非常に大きかったのが湯島オフであったと言えるだろう。

そしてそろそろ議論にも落ち着きが出てくるかと思われた2002年6月18日、意外な人からの投稿がメーリングリストに転送された。
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● 11章 湯島退去、OHPA-ML撤退 〜より「クローズド」に〜

弁護士の尾崎です。ご無沙汰しております。モルフィー関係のプロジェクトに関 わるのは、約2年ぶりになります。

そう、MorphyOneプロジェクト初期のメインメンバー、OzaKitこと尾崎孝良氏その人であった。尾崎氏はMorphyOneプロジェクト発足当時は司法修習生(司法試験に合格後、弁護士等になる為の研修を受けている人。公務員扱い)で、やがて本業を理由に一時離脱を表明。その後は一度もOHPA-MLに登場していなかった。その尾崎氏の投稿が転送とは言え2年3ヶ月ぶりにOHPA-MLに流れたのである。

尾崎氏は、MorphyOneプロジェクト初期に法務担当として活躍していた人物である。プロジェクト内に法律面に明るい人材が居なかった事もあり、この方面はほぼ全面的に任されていた。元々は恵庭有氏から紹介されて参加したようである。尾崎氏自身は、立場が公務員同様ということもあって、出資等はしていない(予約は当時受け付けていない)。己の正義には忠実という雰囲気で、それに対する相手にはかなり挑発的な文章も書いている。

氏は、会社組織としてのモルフィー企画、つまりその責任を一身に背負うとよぞう氏の責任を可能な限り回避する事に尽力したと言って良いだろう。MorphyOneプロジェクトはかつて無いオープンハードウェアプロジェクト、しかも法人化という特殊事情もあり、法律面での問題解決は必須であったし、法律に明るい人材は絶対に必要であった。氏は当時まだ卵とは言え、法律の専門家としての知識を活かして短期間ながらアクティブに活動した。氏の功績により、モルフィー企画の法的不備はかなり解消され、当時議論された法的不備は殆ど解決したと言って良いだろう。失敗だったのはとよぞう氏の技術力と善性を信じすぎたことであるが、この時点でそれを求めるのは酷というものだろう。

それから2年以上経過し、本人もこのようなメールを送る事になるとは予想していなかった事だろう。これは事実上の最後通牒、法人としてのモルフィー企画がほぼ「終わった」状態であると伝えているに等しい。

また前日の17日にはOHPAという組織自体が架空の物であるという発言がOHPA中枢メンバーから投稿され(OHPA-ML:4623)、混乱に拍車がかかった。

擁護する人間が事実上一人だけという状況で、とよぞう氏は湯島事務所の退去を決定。その日の夜に予約者専用メールマガジン(注:以降、hpyoyakuと表記する)でお詫び文を発表した。そしてこの文にある「情報発信は必要であるが、不正確な情報により混乱を招くことの無いよう慎重に行うこと」という顧問弁護士の助言を忠実に守っているのか、それとも単に逃げたのか、OHPA-MLで一切の発言を行うことが無くなった。これにより予約者も部外者も、とよぞう氏と公開の場で討論する場所が失われた。やり取りは全て直接メールでやりとりするだけのクローズドなものか、とよぞう氏から3日に一度発行されるメールマガジンの一方的な連絡のみとなった。

思えばOHPA-MLはとよぞう氏と議論が可能な唯一の場所、そして最後の「オープン」な場だったのかも知れない。「最もクローズドなオープンプロジェクト」の再出発である。

ここからのとよぞう氏のクローズドぶりは徹底している。OHPA-MLには一切の投稿を行っておらず、技術的な話もhpyoyakuで一方的に連絡するのみである。OHPA-ML参加者はとよぞう氏と直接メールでやりとりをした内容を転送したり、hpyoyakuの内容を転送・引用した上で、MLととよぞう氏本人に同時に送付しているが、その一切に対して送信者への返信のみで返事をしている。

それでもそのメールマガジンに多少なりとも建設的な事が書かれていれば良いが、予約者・出資者・部外者が最も知りたい技術や予算の情報は全く触れられないか、非常に簡素にしか触れられないか、的を外したものばかり。その割には全くどうでもいい内容非常に詳細に纏められており、益々予約者・出資者・部外者は苛立っていく。

それでも、どれだけ非難されてもとよぞう氏は頑なにこのスタイルを崩さない。予約者・出資者・部外者にとって、あまりに不毛なやりとりの開始。後日「蒟蒻(こんにゃく)問答」と呼ばれたスタイルの確立である。

ここからは実質的に他人の声を無視する体制に入ったとよぞう氏であるが、OHPA-MLでの反応が消えて久しい2002年6月28日、ASCII24のインタビューに答えている。hpyoyakuでの情報が殆ど無意味なものだっただけに、約1週間ぶりとなる追加情報だった。しかし内容は自信とやる気に溢れており、2ちゃんねるでは「徹底抗戦の宣言」と言われた(OHPA-MLはあまり反応は無かったが、この時点で議論のメインは殆ど2ちゃんねるだった)。しかしとよぞう氏もOHPA-MLでは無反応を貫いているのにインタビューには応えたことに、若干後ろ暗いところがあったらしく、hpyoyakuで釈明している。

ところでこのインタビュー内では「私は技術的な不安は感じていません。大丈夫だと思っています。」という台詞がある。しかしこれは本当に技術的に問題が無ければ、使う必要すら無い言葉である。このプロジェクト、ひいてはとよぞう氏を象徴する言葉と言って良いかもしれない。

金銭に関しては、インタビュー内では国民金融公庫からの融資について触れられているが、これは以後殆ど触れられておらず、「無かった事」にされている。ただ、2002年6月21日のhpyoyakuにて、比較的詳しい会計状態がモルフィー企画税理士の飯田氏からのコメントとして投稿されている。これで概ねは把握できるが、それでも予約金の総額や部品の明細等の不明点は数多く残っており、金銭面での不透明さは相変わらずであった。

それでも追加出資をした人が居るが、これは例外といって良いだろう。
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参考資料:
MorphyWiki