(10)なぜ数が問題になるのか


『神は沈黙せず』批判 総合メニュー
『神は沈黙せず』批判(まえがき)
(1)南京論争登場
(2)否定論を理解しているか?
(3)本当に処刑されたのか?
(4)捕虜ハセヌ方針(東中野説)
(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)
(6)トンデモ国際法
(7)便衣兵摘発の状況
(8)形勢不利なのはどっち?
(9)石射史料に虐殺の記述なし
(10)なぜ数が問題になるのか
(11)虚構の上に論を重ねた虐殺説
「あとがき」のようなもの


 『神は沈黙せず』山本弘著 角川書店
 P58−P64(順次抜粋)

 
 それに対し、「あくはと」は最後まで冷静だった。

 私は右翼でも左翼でもありません。そんな風にすべての人間を極端に二分化しないと気が済まない、古臭い○×式思考にも興味はありません。
 あの戦争では日本は間違っていて連合国は正しかったとか、日本は正しくて連合国は間違っていたとか、そんな風に割り切れる人は、はっきり言って幼稚です。
 中国側は30万人という犠牲者を主張し、左翼文化人はそれを鵜呑みにしているようです。私はその数は誇大だと思っていますが、正確に何人だったかはおそらく永遠に分からないでしょうし、そもそも人数は議論の本質ではありません。

 

山本さんの体を張ったギャグもそろそろ終盤です。




南京大虐殺事件(1)
なぜ「数」が問題となっているのか?

○数が問題になる理由
 数が問題になる一番の理由は、問題を提起している中国共産党が30万以上という数を強硬に主張しているからです。相手の主張に反論する以上は、30万という数が争点にならざる得ないというが一つ。二つ目には、虐殺数・規模の問題が、大規模な市民殺害事件の有無に関わってくるという理由があります。言い換えると、規模の問題が被害者の内訳に関わってくるので数が重要な争点となるわけです。



○規模の議論と市民殺害の関係
 南京防衛にあたった中国軍の人数は、中国側史料によると約8万-約10万人です(虐殺派笠原教授に代表される15万説は推計)。
 南京からの撤退に成功し、蒋介石のもとに再集結した者が記録に残っているだけで約3万人。戦死者は約2万人と推定されています。蒋介石の元に帰らなかった逃亡兵については集計の方法がありませんが、虐殺あった派の笠原教授は大体1万人くらいと推定しています。以上を考慮して大雑把に推計すると、日本軍の捕虜(あるいは潜伏中の便衣兵)として殺害された可能性のある中国軍兵士は2万-4万人前後となります。戦死体が2万とすると遺体総数は4万から6万という規模になります。



 つまり埋葬数から推定される南京事件の規模が4万−6万前後であれば、南京に存在した死体のほとんどが中国兵ということになり、物理的に「市民の大量殺害は発生しなかった」ということになります。これが「数の議論の本質」です。

 数万〜数十万規模の市民大虐殺があったと主張する為には、当時の南京に十万体以上の死体が存在したという「数の証明」が必要なのです。
 




南京大虐殺事件(2)
数の問題ではないというすり替え
 
○市民虐殺説の崩壊
 冷静に歴史を研究する場合、南京に残留した外国人の記録や、陥落三ヶ月後に行われたスマイス博士による戦争被害調査に大規模な市民虐殺が記されていない以上、そういった市民大虐殺は発生しなかったという結論になります。中間説〜まぼろし説はこの立場をとっています。否定説は一次史料に基づく極当たり前の解釈を行っているのです。
 対する虐殺あった派は、数の議論、即ち規模の検証を行うと大規模な市民殺害説が崩壊してしまうので「数の問題ではない」と言うしかないのです。


 ○自虐史観の押し付けが目的
 「数の問題ではない」とするのは、「数の問題には反論できない」という意思の表れという事になります。つまり大規模な市民虐殺は証明できないという虐殺派の敗北宣言とも言えるわけです。
 学術的にはすでに決着がついている問題なのですが、虐殺あった派の目的は客観的な歴史研究ではなく、日本人に贖罪の意識を植え付けるものなので、このようなレトリックを使います。(1)「数の問題ではない」として、(2)数の問題は関係ないから残虐行為をした「日本人は反省するべきだ」という論法です。歴史的事実関係の研究で敗北したので、論点を「過去の反省・歴史の解釈問題」にすり替えたい意図があるのでしょう。この実証的ではない歴史解釈が自虐史観と呼ばれるものです。

  
○自虐史観と虐殺説
 自虐史観では「数の問題ではない」として、「規模の検証を避ける」ことによって、数は不明ながら数万規模の市民殺害があったように装いたい。ようするに誤魔化したいわけです。
 というのは中間説〜まぼろし説でも、中国兵の処刑があったことは異論なく認知されていますから、本当に数が問題ではないならば史料の整合性が高い中間説でもなんら問題はないはずなのです。しかしながら、自虐史観・虐殺あった派は中間説を支持することもなく、大規模な市民虐殺はあったはずだと主張します。つまり中間説4万−6万よりも数は多いはずだと主張しているわけです。
 (1)「数の問題ではない」と言いながら、(2)「実は数を問題にしている」のが虐殺説であり、(3)しかし数の議論はしない、というのが虐殺あった派の態度と言えます。



○贖罪意識と市民虐殺
 なぜ、虐殺あった派が市民大虐殺説にこだわるのかというと、日本人に贖罪意識を植えつけるには、中国兵に対する処刑だけでは不十分であるという思いがあるからだと思われます。
 言うまでもなく中国側も日本軍捕虜を殺害していますし、第二次大戦における捕虜虐待は多くの国で問題になっています。「数の問題」ではないとすれば日本人だけが凶悪だったということにはならず、贖罪意識を植え付けるには不十分と言えるでしょう。  一方で、軍事的に意味のない市民虐殺はそれが5万でも10万でも30万でも本質的な意味は変わりませんから、日本人に贖罪の意識を植えつけるのが目的の自虐史観においては市民虐殺説を譲ることはできないのでしょう。
 客観的な歴史研究というものは、歴史的事実関係の研究です。○○だから反省するべきというような「史観」を押し付けるのは思想教育であって歴史研究ではありません。数々の史料と矛盾しながらも「虐殺があったとする研究」は思想教育であって、まっとうな歴史研究とは言えないのです。







数の問題、基本的な考え方

○数が問題にならないドレスデンの場合
 第二次世界大戦では、ドイツの都市ドレスデンも連合国による空襲を受け、数万人規模の市民が焼かれました。ドレスデンでは地方からの避難民が流入していた為、現在でもその犠牲者数は不明です。歴史的事件として語る場合は、空襲の犠牲者数は確定していませんが、一夜にして(1)一般市民が(2)数万規模で犠牲になったことは間違いないと言えます。事件を評価する場合はこれで十分と言えるでしょう。爆撃行為が戦時国際法における軍事目標主義によって正当化されうるかどうかを検証する場合、死亡者数が5万でも10万でもあまり変わらないということです。言うなれば数万人規模は確定しているので、詳細な犠牲者数は重要な問題とはならないという事です。



○数が問題になる南京事件の場合
 南京事件の場合はドレスデンとは事情が違います。中国側主張の南京大虐殺では(1)中国兵を処刑した、(2)意味もなく市民を虐殺した。という二つの要素が主張されています。
 
(1)中国兵の処刑については歴史的事実として争いなく認定されていますので、あまり重要な争点とはなりません。中国兵の処刑に関する本質的な問題とは、いわば戦時国際法の解釈の問題であって、処刑が軍事目標主義により正当化されるか否かというものです。処刑した数が2万でも4万でも本質的な問題とはあまり関係ありません。数万規模ということで確定すれば、詳細な数は重要な問題とはならないのです。

(2)軍事行動とは無関係に、数万規模の市民を殺害したとすれば”(仮定ですよ)、大問題となります。数万規模となると兵士個人の殺人事件ではなく、日本軍による集団殺戮ということになるからです。市民殺害が5万人でも30万人でも軍事目標主義によって正当化するのは困難ですから、市民が数万人規で無意味に殺害されたとすれば詳細な数は問題となりません。

(3)しかし、当時南京に残留していた外国人の記録やスマイス博士の戦争被害調査などには、南京において数万規模の市民が殺害されたという事実は記載されておりません。市民が数万人あるいは数十万人規模で殺害されたという説は確定しているとは言えないので、「数万〜数十万市民が殺害されたと主張するならば、規模の議論(数の問題)が重要である」ということになります。




○結論
 犠牲者のカテゴリーが「兵士」とか「市民」と明確に分かる場合においては、大体の規模が判明していれば細かい数はさほど重要ではありません。南京事件については、軍民の区別が不明確なので、数万人あるいは数十万市民が虐殺されたという証明をする為に「数の論証」(規模の論証)が必要となるのです。

 そもそも「数の問題ではない」とすれば、まぼろし説を批判する意味はないのです。






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