(11)虚構の上に論を重ねた虐殺説


『神は沈黙せず』批判 総合メニュー
『神は沈黙せず』批判(まえがき)
(1)南京論争登場
(2)否定論を理解しているか?
(3)本当に処刑されたのか?
(4)捕虜ハセヌ方針(東中野説)
(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)
(6)トンデモ国際法
(7)便衣兵摘発の状況
(8)形勢不利なのはどっち?
(9)石射史料に虐殺の記述なし
(10)なぜ数が問題になるのか
(11)虚構の上に論を重ねた虐殺説
「あとがき」のようなもの

 『神は沈黙せず』山本弘著 角川書店
 P58−P64(順次抜粋)


 中国側は30万人という犠牲者を主張し、左翼文化人はそれを鵜呑みにしているようです。私はその数は誇大だと思っていますが、正確に何人だったかはおそらく永遠に分からないでしょうし、そもそも人数は議論の本質ではありません。

 日本の悪事ばかり不当にクローズアップされているという点では、私も天地人さんに同意見です。ナチスによるホロコースト(これも正確な犠牲者数は不明です)は有名ですが、連合軍もドレスデン爆撃や東京大空襲などの大量殺戮を行ないました。あの
戦争の期間中、連合軍の爆撃によって死亡した民間人の数は、日本では30万人、ドイツでは50万人以上とされています(この数字には、原爆の後遺症で戦後亡くなった方は含めていません)。
 しかし、どの国の犠牲者が最も多いかを比較しても意味はありません。殺した数が少ないから正しいとは言えないし、犠牲者数が多ければ被害者面できるというものでもないでしょう。正義や悪は犠牲者数で計れるものではなく、相対的なものにすぎないのですから。
 自分が生まれる半世紀も前の事件に関して、中国人に謝らねばならないとも思っていません。1937年に南京で起きたことは、私にとっては遠い過去の一部、人類の歴史上何度も繰り返されてきた愚行のひとつにすぎず、それ以上の意味はないのです。

 天地人さん、私があなたを非難するのは、政治的信念とは何の関係もありません。あなたの歴史知識が誤っている、ただそれだけの理由です。
 私が言いたいのは、「○○史観」とか「××論」を主張するのは結構だが、まず事実を正しく見つめていただきたい、ということです。虚構の上に「論」を展開したり、自分好みの「史観」に合わせて史実をねじ曲げるなどという行為は、本末転倒もいいところです。歴史とはそんな都合のいいものじゃないでしょう?

 これにはついに真田も切れた。そして、「偏見に凝り固まった人間には何を言っても無駄なようですね」と、まさに自分に投げかけるにふさわしい捨て台詞を残し、掲示板から撤退したのである。ここに長かったバトルは終結した。
 権威が失墜するのを見るのは楽しいものである。六〇歳の直木賞作家がこてんぱんに叩きのめされたのを見て、観戦していたネットウォッチヤーたちは大いに喜び、「あくはと」に賞賛のメッセージを送った。




 SF作家としてどんなトンデモ歴史観を持っていてもそれは個人の自由というものです。作家
としての力量と、作家自身の歴史観は直接の関係はありません。仮にですが南京虐殺100
万人説を信じていても、○○星人の存在を信じていても、多くの人が楽しめる作品を書けれ
ば作家としてはそれでいいのです。


 しかし山本さんの場合は「と学会」会長を名乗り他人の歴史観にトンデ
モのレッテルを貼って商売をされています。


 また、否定説は歴史知識が間違っているといったトンデモな批判活動をしています。否
定説がスマイス資料など同時代史料に準拠しているのに対し、虐殺あった説は裏づけが乏し
い証言やら戦後の東京裁判資料などを継ぎ接ぎしているのが実情です。30万説は論外とし
ても、日本を代表する笠原教授の市民5−6万殺害説(軍民十数万説)ですら虚構の上に論
を重ねている状態なのです。南京関係の本を30冊以上読んだと自称されている山本さんな
ら当然ご存知かと思いますが・・・。


 作品中にまともな否定論すら登場させずに、山本さんが独自に設定し
たトンデモ否定論を論破したように見せかけて、「歴史とはそんな都合の
いいものじゃないでしょう?」とまとめていますが、そういう行為こそご都
合主義と表現されるのではないのでしょうか。






  虐殺説のご都合主義
(1)近郊県を含むというウソ




虐殺派の主張
『南京大虐殺否定論13のウソ』P92 南京事件調査研究会(編)
柏書房 
(笠原十九司教授論文)
 南京大虐殺事件、略称としての南京事件は、日本軍が南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対して行った、戦時国際法と国際人道法に反した不法行為の総体のことを言う。事件の発生区域は、南京城区(市部・戦前人口約100万)とその近郊の六県を含めた(県部・戦前の人口約130万人)を合わせた行政区としての南京特別市であり、それは南京戦の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
笠原教授は南京大虐殺事件の範囲として近郊6県を含むとしています。


中国側の主張
南京大虐殺60年国際シンポジュウムにおける質疑応答から
出典『南京事件をどう見るか』P146  藤原彰編 青木書店

藤原 「〜笠原先生は近郊農村を含めた範囲についての報告だったが、孫先生の「南京大虐殺の規模について」という報告の中で、範囲はどのようにとっておられるのか伺いたい。これがはっきりすると日本側との間で整合性ができると思うので。」

孫 「私は南京の周りの県を含めるという笠原先生の意見に賛同する。しかし犠牲者数については問題がある。私たちが言っている三〇万というのは、まわりの六県その他の地域を入れていない。これは新たな課題として考えていきたい」 
中国側が主張している「南京大虐殺30万」に、近郊県は含まれていません。



 中央の赤い部分が南京城で
す。近郊県を含むと範囲は数十
倍になります。
 日本の虐殺説は一番の基本
となる事件の範囲から虚構
積み重ねているのです。
 

 



ご都合主義の虐殺説
(2)史料を捻じ曲げて解釈



 
虐殺派の主張
『南京大虐殺否定論13のウソ』P88 南京事件調査研究会(編)
柏書房 
(笠原十九司教授論文)
 ラーベ日記(2)の部分について、富澤氏は「八〇万が逃亡」という部分だけを引用して日中戦争前の南京の人口一〇〇万から(後述するようにラーベは一三五万と捉えていたのに)差し引いて「実質二〇万ということ」の証明に利用している。ラーベは富裕な八〇万人を差し引いた貧しい残留した市民を「数十万」と書いているのを、氏はご都合主義に無視している。ラーベは残留市民が二〇万とは記していないのである。

 虐殺派の笠原教授は、ラーベは南京の人口を135万としており80万人が脱出したので、ラーベは「135万-80万脱出=数十万残留」と書いているとしています。そしてラーベは「残留市民が二〇万とは記していない」と主張しています。本当でしょうか?。論より証拠と言いますから安全区国際委員会、委員長、ラーベの記述を見てみましょう。


ラーベ史料(1)
『日中戦争史資料集』9 英文資料編P125 河出書房

第6号文書(Z 9) 
南京安全区国際委員会
寧海路5号 1937年12月17日 (抜粋)

 言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。〜中略〜もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。 
 市の一般市民の保護にかんして当委員会はなんなりとも貴下に喜んで協力することを確約します。   敬具 
委員長 ジョン・ラーベ


(1)安全区内に一般市民のほとんどを集めていた。(2)収容した市民について20万としていることがわかります。つまりラーベは残留市民を20万と記しています
 




ラーベ史料(2)
『南京の真実』P337-344 講談社
1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」

 私が七月に発ったときには、南京の人口はおよそ百三十五万人でした。その後八月なかばの爆撃の後に何十万もの市民が避難しました。
(略)
 私たちは全ての通りに難民誘導係員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと二十五万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定していた数より、更に五万人も多かったのです。
(略)
 こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人がニ、三人いるだけになりました。中国側によれば、まだ中国人が大勢安全区の外に隠れていると言う話でしたが、これは確かめることができませんでした。


 上申書では7月の人口を135万と記していますが、安全区に収容した人数は25万人としており、その他の城内に住んでいる中国人は確認していないとしています。つまり南京城内の人口を25万と考えていたことになります。
 上記、六号文書が書かれた12月17日の段階で外国人は安全区人口を約20万と考えていましたが、翌年1月の日本軍による住民登録の結果から、南京城内の人口を5万人と修正したのです。
 ちなみに南京陥落後三ヶ月が経過した後に行われたスマイス博士の戦争被害調査においても、陥落時の人口を20万から25万としています。これらは基礎資料でもともとは大虐殺派の洞富雄氏が編纂した史料集です。史料を重視する否定論では当たり前に引用されるものです。笠原教授がこれらの基礎史料を知らないとは考えられません。自説に都合の悪い史料を無視するようでは本末転倒というものでしょう。これが虐殺説のレベルなのです。



その他史料(1)
日中戦争史資料集9 南京事件U 英文関係資料編P219
南京地区における戦争被害
1937年12月―1938年3月
都市および農村調査

1市部調査
T 人口
 南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、 後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。 市の陥落当時(12月12日〜13日)の人口は20万から25万であった。

 陥落翌年3月に行われた戦争被害調査の結果、陥落時の人口は20万から25万と結論されています。ラーベの記述と整合性があると言えます。



その他史料(2)
『南京事件資料集』アメリカ関係資料編P184 
 南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにも関わらず、25万が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まって さらに悲惨なめにあうことになった。(中略)いくつかのセンター記録を参照にしてM・S・ベイツとW・P・ミルズが準備した。

1938年2月18日

 陥落翌年2月中旬の記述です。安全区収容が約25万人、安全区以外の場所には数千人という記述です。足すと城内人口26万人ということになるのかも知れませんが、上記スマイス史料から考えると約25万人と考えてよいと思われます。安全区外にいた住民が全員殺害されたというニュアンスではありませんから、区外の住民も後に安全区に避難してきた可能性があります。当然ながらラーベの記述と整合することになります。


 外国人史料によれば、陥落時の人口は20万−25万であり陥落以降も大規模な人口減少は記録されていません。つまり外国人史料によれば大規模な市民虐殺はなかったという結論になるわけです。




ご都合主義の虐殺説
(3)市民殺害説の虚構



笠原教授による市民虐殺
『南京事件』P133 笠原十九司著作 岩波新書
 「日本の大軍が城内に侵入、南から攻めてくる」という恐怖の情報が、まだ居
住区に残留していた市民を震撼させた。当時、十数万の市民がまだ自宅にい
たといわれる。市民のまえを前線の中国軍がパニックをおこして逃げていく。中
国軍がいなくなり、自分たちが日本軍の襲撃に直接さらされることになった市民
にパニックが走った。(中略)

 日暮れとともに、膨大な数の退却・壊走兵と、軍隊といっしょに南京を脱出
ようとする避難民の群れが、ゆう江門に向かって洪水のように殺到した。
(中略)

 これにたいして第三十六師の城門守備兵が発砲して阻止しようとしたため、戦
車隊はこれを強行突破した。戦車につづいて、それまで武力で通過を阻止され
ていた兵士と避難民の大群が、水門を開かれた奔流のようにどっとゆう江門
ら脱出した。

(注 ゆう江門は原著では漢字で表記されている。「ゆう」は手ヘンに邑)

『南京事件』P144 笠原十九司著作 岩波新書
(南京陥落時)
 その城内には難民区をのぞいて、まだ五万人以上の市民が住宅地域に残っていたといわれる。

『南京事件』P157 笠原十九司著作 岩波新書
 日本軍の追撃を逃れて、南京城北壁を越えあるいはゆう江門脱出して、長江南岸を埋め尽くすように集まった何万と言う群衆は、今度は城壁と長江に両側を挟まれた状態で、長江の上流と下流の両方向から日本軍が殲滅戦を展開してくるという絶望的な状況に追いこめられた。

 そして避難民は揚子江沿い、もしくは揚子江を渡河中に日本軍に掃蕩された、というのが虐殺派の創作した物語です。



市民虐殺を生み出す手口
 安全区からパニックになった数万市民が揚子江に向かったという事件はありません。ですから揚子江に向かった何万人という市民がいたとしたならば、それは安全区以外の場所にいたことになります。つまり、安全区以外の場所に(殺害された)数万規模の市民が存在していたというのが虐殺派の主張となります。
 しかしながら史料によれば、ほとんどの市民は安全区におり、安全区以外の場所にはさほど多くの住民が存在していなかったことが示されています。これでは市民大虐殺があったことにできません。そこで虐殺あった派は都合の悪い史料は見なかった事にして、準拠史料を提示せずに「○○と言われる」という手法でごまかしをはかっているのです。


 

史料提示の問題点
 一般的に広く知られている説を提示する場合や、情報源の提示が必要とされないほど広く知れ渡っている時には、情報源を提示を省略して「○○と言われる」という使い方をする場合もあります。この場合「○○と言っているのは誰か(情報源はどこか?)」というと、「一般的に知られている情報では」ということになります。つまり、一般的な見解を提示する場合には「○○と言われる」を使用しても構わないのですが、特殊な見解を提示する場合にその手法は許されないのです。
 例えば「織田信長は女だったと言われる」として、準拠史料の提示なしに信長女性説を既定のものとして論じた論文があるとしましょう。ではこの論文をもって「信長女性説」が証明されたと考えていいのでしょうか?。この論法が通用するならば、雪男もネッシーもゴジラでもウルトラマンでもおおよそどんなものでも「実在するといわれる」として存在が認められることになってしまいますし、どんな事件でも捏造可能になってしまいますね。
 既存史料に反する特殊な見解を提示するときに「○○と言われる」という使い方は学術的には認められないのです。これは歴史検証の基本的なルールです。

 南京陥落時の人口を例に考えてみましょう。一般的な史料によれば「南京陥落時の人口は20万から25万と言われており、ほとんどが安全区に収容されていたと言われ」という使い方はアリです。複数の史料があるからです。言い換えると「安全区以外の場所(市街地)にはさほど多くの住民はいなかった」という状況が一般的な史料から導き出されるわけです。
 ですから虐殺説が「安全区以外の市街地に5万人(あるいはそれ以上)住民がいた」と主張するのであれば、これは既存史料と矛盾する特殊な見解ですから準拠史料を提示しなければお話になりません。準拠史料・資料が提示できない場合、その言説はなんら根拠がないものとして学術的な価値は認められないのです。
 こういった基本的な史料提示のルールも守れない虐殺説は、言い換えると最も基本的な史料提示の方法を無視しなければ成り立たない説ということになり、学術的には問題にならないレベルと言うことができるのです。



敗走する軍隊と共に市民が避難するという虚構
 仮定の話になりますが、安全区以外の場所に多くの住民が存在していたとしても、これらの住民が陥落目前に敗走する軍隊とともに南京から脱出を図る可能性はかなり低いと言えます。
 南京市民の脱出は爆撃が始まった8月から始まっています。11月20日に蒋介石は南京が防衛できないと考え遷都の発表をしています。この時点で南京市長の書簡によれば調査の結果として南京市の人口は約50万と記されています。
 蒋介石の布告により南京陥落は避けられないことを市民は知っていましたし、安全区の設定も南京陥落を前提としたものでした。南京城の攻防戦は12月10日頃から始まっています。これらの事から12月12日深夜、あるいは13日早朝になって、突然市民がパニックに陥って揚子江に殺到することは非常に考え難いといえます。敗走している軍隊と共に揚子江を目指しても保護を受けられないばかりでなく戦闘に巻き込まれる可能性が高くなり危険だからです。
 そもそも城門が開いているかどうかも分からず、戦闘中ですから揚子江に民間船があるわけがありません。下関に出ても市民は揚子江を渡れない可能性が高いことになります。揚子江を渡れなければ避難する意味がありませんから、市民が下関門や揚子江に殺到する理由はないのです。
 市民が戦火を避ける場所としては安全区がありますから、むしろ安全区に殺到する可能性のほうが高いと言えるでしょう。実際に数千人規模の中国兵が安全区に潜伏しています。しかしながら、陥落直前になって何万もの市民がパニック状態で安全区に殺到したという記録はないので、そもそも安全区以外の市街地にはそんなに住民がいなかったと考えるのが妥当ということになります。




ご都合主義の虐殺説
(4)下関門(ゆう江門)が開いていたという虚構



 そもそも日本側の記録によれば、陥落時下関門(ゆう江門)は土嚢で封鎖されていました。外側から土嚢で封鎖された門を戦車が突破するのは無理ですから、虐殺派が主張するように中国軍の戦車隊が門を突破して『兵士と避難民の大群が、水門を開かれた奔流のようにどっとゆう江門から脱出した。』ということはまず考えられません。 

『南京戦史』P160 (歩兵三十三連隊通信班長 平山秋雄証言)
 十四日朝、獅子山砲台付近(城外)の宿営地出発、ゆう江門に到着。ゆう江門は外側に土嚢を積み上げ閉鎖され入城できない。約二時間の作業で漸く通過できるようになった。城門の右側には数本のロープが吊り下がっている。

(注 ゆう江門のゆうは手ヘンに邑)

『証言による南京戦史(9)』 (歩兵三十三連隊 羽田武夫証言)
 14日は連隊命令により、城内西北一帯の掃蕩を命ぜられ、ゆう江門および西北隅の獅子山砲台を掃蕩しました。
 城内侵入はゆう江門の脇の門から入ったと思いますが。ゆう江門は土嚢でギッシリと固められており、城内の道路両側には点々と死体があったと記憶しています。城壁にはたしか十五、六本の色々の布切れの吊が垂れ下がっておりました。



『南京戦史』P165より、12月14日(陥落翌日)の
下関門(ゆう江門)の写真

 ちょっと判別し難いのですが、三個の門のうち中央部と向かって左側の門には土嚢が積み上げられているのが見えると思います。向かって右側の門の白く見える部分は向こう側の景色です。この写真は平山、羽田証言裏付けるものと言えるでしょう。




ラーベ日記より
 また、ラーベ宅に潜伏していた将校も、城門ではなく城壁を越えていますから、やはり城門は封鎖されていたと考えられます。
『南京の真実』P297 講談社(ラーベ日記)
 二月二十二日
 羅福祥は空軍将校だ。本名を汪漢萬といい、軍官道徳修養協会の汪上校とは兄弟だ。汪氏は韓の力ぞえで上海行きの旅券を手に入れることができたので、私の使用人だといってビー号に乗せるつもりだ。南京陥落以来、わが家に隠れていたが、これでやっと安泰だ。日本機を何機も撃ち落としたが、南京が占領されたときは具合を悪くしていた。もはや揚子江を渡ることができず、逃げられなかった。支流を泳いでいくとき、友人をひとり失い、やっとのことで城壁をよじのぼって安全区に入ることができたのだ。

 以上のように揚子江を渡りきれずに、下関から城壁を越えて城内に戻ってきています。城門が開いていればわざわざ城壁を越える必要はありませんので、ラーベの記述からも城門が封鎖されていたことが伺えます。
 
 


外国人記者の回想
『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P571 青木書店
南京事件調査研究会・編訳 
F・T・ダーディンからの聞き書き(2)

 この下関区域では、それこそ大勢の兵隊がゆう江門から脱出しようとして、お互いに衝突したり踏みつけあったりしたのです。前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らなければなりませんでした。この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁に攀じのぼり脱出を試みました。これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で戦闘はありませんでした。

(※1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子)

『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P583 青木書店
南京事件調査研究会・編訳 
A・T・スティールからの聞き書き

<写真10>城壁からロープがさがっているでしょう、これは壁を乗り越えて逃げようとした命知らずの人たちの思案の跡です。彼らが脱出に成功したのかどうかは分かりません。彼らは絶望的でした。だれひとりとして助かる見込みはありませんでした。日本軍がゆっくりと、しかし確実に侵攻してきているこの無情な状況で、逃げ道が限られていたのです。雪崩のように人々が門に押し寄せてくる。そうなるとおのずから圧死以外にないのです

(※1987年9月4日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子)

 以上のインタビューは笠原教授がおこなったものです。どこにも門が開いていたことを匂わす記述はありません。




 以上、簡単ですが虐殺説の虚構について解説しました。
 虚構の上に論を積み重ねるという表現は虐殺説にこそ相応しい表現ということがお分かりいただけたと思います。ちなみに、ここで私が説明した程度のことは非常に初歩的な争点です。




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