下関虐殺の元ネタ?(3)

『国が燃える』捏造事件?(1)
女子供が見えますか?(2)
下関虐殺の元ネタ?(3)
下関埠頭で何があったのか?(4)
百人斬りってマジですか?(5)
『南京事件』偽史料列伝(6)
訂正はあるか?(7)
とりあえず「まとめ」(8)
国際問題へ発展(9)
第三部ついに完結!(10)
まだあった捏造資料!!(11)
ニセ証言をさらに改竄?(12)
前号(42号)の問題点(13)
南京爆撃の描写(14)
謝罪広告は11月11日(15)

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『国が燃える』
本宮ひろ志AND潟Tードライン著作
の検証(3)


 すでに前ページで検証したように、作品中で描かれた虐殺の光景は史実ではなく本宮氏による「捏造」であることは判明していますが、元ネタと(思われる回想記)との比較の為に該当部分を引用したいと思います。



南京市街図
『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明著作 文芸春秋
P223掲載の図を元に作成
 中央の紫の部分が安全区です。南京陥落時、住民のほとんど全部が安全区に収容されていました(安全区国際委員会公文書T−6)。赤い四角が邑江門(ゆうこう門)もしくは下関門です。下関区は概ねピンクの部分です。




下関埠頭に集結した民衆(見開きです)
集英社発行、週刊ヤングジャンプ 2004年 43特大号
P112−113 『国が燃える』より

集英社発行、週刊ヤングジャンプ 2004年 43特大号
P113 『国が燃える』より
 月が出ています。見開きに収まらないくらいの規模の民衆が下関埠頭に集められています。従軍記者の望月氏は寝巻きにサンダル姿で、連行されている集団を追いかけました。ちなみに12月中旬ですから望月記者の格好ではかなり寒いと思います。
 南京は城砦都市で、周囲は城壁で囲まれています。揚子江沿いの下関埠頭に出るには邑江門(下関門)を通らねばなりません。従軍記者に見られて困るような事をするなら歩哨を置いて門を封鎖すると思いますが、本宮氏はそこまで考えなかったようです。機関銃で射殺するわけですからかなり大きな音がします。不審に思った記者が集まってくるのは容易に予想できるでしょう。この辺りは漫画特有のご都合主義という奴ですね。実際にはありえないようなことが描かれているわけです。

 上の望月記者の質問に、将校は「残敵掃蕩であります」と答えています。以下のコマはその続きです。





集英社発行、週刊ヤングジャンプ 2004年 43特大号
P114 『国が燃える』より
 「まぁいいじゃないですか…」というのは、本宮氏の本音でしょう。史料の裏づけがない捏造したシーンですから整合性のある説明ができないわけです。作品中ではこの後、虐殺シーンが描かれます。





下関埠頭での虐殺シーン
 このシーンは、画面奥で機銃掃射を受けて
逃げてきた民衆を、もう一方の陣地から機銃
掃射しているところです。
 左右両方向からの射撃という点が、下で紹
介する今井回想記との共通点になります。
集英社発行、週刊ヤングジャンプ 2004年 43特大号
P117 『国が燃える』より

 明けて翌日の光景だと思います。上のコマ
は見開きで、左側にも死体が散乱している光
景が描かれています。
 ここで主人公は「これが…日本人の…正体
か!!」と激怒します。横にいる女性は死体
に覆いかぶさって絶叫するというシーンに続
きます。


 本宮氏が捏造した光景を
元に、日本人批判をされて
も困っちゃうのですが(笑
集英社発行、週刊ヤングジャンプ 2004年 43特大号
P120 『国が燃える』より






下関虐殺の元ネタ?
 以上は本宮氏の捏造したストーリーですが、このストーリー構成に近い、有名な回想記があります。朝日新聞の記者だった今井正剛氏による回想記『南京城内の大虐殺』(特集文芸春秋、昭和31年12月号)というのがそれです。この井回想記は一次史料との整合性がなく、今井氏だけが目撃したと主張している光景なので、現在では虐殺の証拠として引用されることもあまりなく、その史料価値は低いと考えられています。
 
 ちなみに、今井記者の回想記でも、連行されたのは「男性」であると書かれています。もちろん連行途中の老婦人と息子の殺害事件も出てきません。とりあえずストーリ構成を本宮氏の漫画と比較してみて下さい。

今井回想記
『特集文芸春秋』 私はそこにいた―目撃者の証言―
昭和31年12月号 より
『南京城内の大量殺人』今井正剛著

【略】
  電燈のない、陥落の首都に暗い夜がきた。かき集めてきたランプの灯影で、さすがに夕方のあの事件を、私たちはボソボソと語り合っていた。
  ふと気がつくと、戸外の、広いアスファルト通りから、ひたひたと、ひたひたと、ひそやかに踏みしめてゆく足音がきこえてくるのだ。しかもそれが、いつまでもいつまでも続いている。数百人、数千人の足おと。その間にまじって、時々、かつかつと軍靴の音がきこえている。
 外套をひつかぶって、霜凍る街路へ飛び出した。ながいながい列だ。どこから集めて来たのだろうか。果しない中国人の列である。屠所へひかれてゆく、葬送の列であることはひと眼でわかった。
 「どこだろうか」
 「下関(シャアカン)だよ。揚子江の碼頭だ」
 「行って見よう」
 とって返して外套の下にジャケツを着込むと、私たちは後を追った。
 まつくらな街路をひた走りに走った。江海関の建物が黒々として夜空を截つている。下関桟橋である。
 「たれかつ」
 くらやみの中か銃剣がすつとにぶい光を放つて出てきた。
 「朝日新聞」
 「どこへ行きますか」
 「河つぷちだ」
 「いけません。他の道を通つて下さい」
 「だつて他の道はないじゃないか」
 「明日の朝にしてください」
 「今ここを大勢の支那人が通つたろう」
 「―――」
 「どこへ行った」
 「自分は知らない」
【中略】
 人のよさそうなその兵が、差し出した煙草を受け取つてポケットへ入れようとしたとたんだつた。
 足元を、たたきつけるように、機関銃の連射音が起こつて来た。わーんという潮騒の音が続くと、またひとしきり逆のほうから機関銃の掃射だ。
 「―――」
 「やつてるな」
 「やつてる? あの支那人たちをか?」
 「はあ、そうだろうと思います。敗残兵ですから、一ぺんに始末しきれんですよ」
 「行くぞ」
 「いけません。記者さん。あぶない。跳弾が来ます」
 事実、花火のようにパッパッと建物の影が光り、時々ピーンと音がして。トタン板にはね返る銃弾の音が耳をはじいていた。
 何万人か知らない。おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であつたほかは、その大部分が南京市民であつただろうことは想像に難くなかった。
 揚子江の岸壁へ、市内の方々から集められた、少年から老年にいたる男たちが、小銃の射殺だけでは始末がつかなくて、東西両方からの機銃掃射の雨を浴びているのだ。
【中略】
 河岸へ出た。にぶい味噌汁いろの揚子江はまだべつたりと黒い帯のように流れ、水面を這うように乳色の朝霧がただようていた。もうすぐ朝が来る。
 とみれば、碼頭一面は真っ黒く折り重なった屍体の山だ。その間をうろうろとうごめく人影が、五十人、百人ばかり、ずるずるとその屍体をひきずっては河の中へ投げ込んでいる。うめき声、流れる血、けいれんする手足。しかも、パソトマイムのような静寂。
 対岸がかすかに見えてきた。月夜の泥濘のように埠頭一面がにぶく光っている。血だ。

 やがて、作業を終えた”苦力たち”が河岸へ一列にならばされた。
 だだだっと機関銃の音。のけぞり,ひつくり返り、踊るようにしてその集団は河の中へ落ちて行った。
 終りだ。
 下流寄りにゆらゆらと揺れていたポンポン船の上から、水面めがけて機銃弾が走つた。幾条かのしぶきの列があがつて、消えた。
「約二万名ぐらい」
 と、ある将校はいった。その多くはおそらく左右両方から集中する機銃弾の雨の中を、どよめきよろめいて、凍る霜夜の揚子江に落ちて行っただろう。その水面にまで機銃弾はふりそそいだが、さらに幾人かは何かにつかまり、這いあがって、あるいは助かったかもしれない。しかしこれは完全な殲滅掃蕩である。
 南京入城式は、こうして大掃除された舞台で展開された。
【後略】

(注)ちなみに、今井氏はこの光景を目撃した後(明けて16日)に、17日に行われる南京城入城式の「予定稿」を書いたと同手記で記録していますから、この目撃談は15日夜に限定されます。16日とかそれ以降ということはありえません。

 いかがでしょうか?
 夜に従軍記者が、連行される集団を下関埠頭まで追いかけて、虐殺シーンを目撃するというストーリ構成はほぼ同じです。従軍記者が下関で虐殺を目撃するという史料はこの回想記しかありませんから、本宮氏が元ネタにしたことは間違いないと思います。
 真偽はともかく史料は存在する。これは事実です。なのに本宮氏はなぜ「今井記者」を登場させずに架空の従軍記者を登場させたのでしょうか?  これは簡単ですね。今井回想記と本宮氏の漫画との相違点を比べれば容易に判明します。


 本宮氏は史料に存在しない「老婆と息子を殺害するシーンを挿入したかった」また、「婦女子が連行されているシーンを挿入したかった」、また「婦女子が虐殺されたシーンを挿入したかった」のでしょう。要するに史料に存在しないシーンを挿入する目的があったので、架空の従軍記者が必要だったわけです。



今井回想記の解説
 本宮氏の描いた光景も捏造ですが、 今井回想記についてもおかしな点がいくつかあります。

(1)まず、二万名が支局の前を歩いて通り過ぎるには一時間以上かかるでしょう。青梅マラソンは例年一万人ほどが参加していますが、先頭が走り始めてから最後尾がスタートするまでは十分ほどかかるそうです。
 月夜とは言え夜ですから行進の速度は遅いはずです。支局から下関までは四キロ以上ありますから、軽装の今井記者なら途中で列に追いつくはずです。しかし回想記では集団に追いつかず、下関門で歩哨に止められ、その後銃撃が始まったことになっています。

(2)同行したとされる中村カメラマンの証言がない。

(3)十五日に二万人に及ぶ大規模な便衣兵狩りを行ったという日本側の記録はありませんし、外国人の記録にも大規模な集団連行はありません。便衣兵の摘発が最大規模だった十六日でも六千人から七千人です。ちなみに十六日の摘発は外国人の記録にも日本側の記録にも残っています。

(4)ニ万人の死体というと、一人六十キロとしても百二十トンになります。百人やそこらで数時間で投棄処理するのは無理でしょう。

(5)揚子江の河岸は流れが緩く、河岸に投げ込んでも死体の大半は堆積します。実際に揚子江岸には死体が堆積しており(写真も残っていますが)、船舶の航行に差し支えがある為に日本軍は死体を流す処理をしています。
 梶谷日記では、12月26日−28日に河岸に堆積している死体を船で引っ掛けて、流れがある場所まで運搬して流すと言う処理を行っています。処理数は約1000体です。逆に言うと1000体程度の死体は下関埠頭の河辺に存在したということになります。

(6)立って半畳、寝て一畳などと言いますが、大人が横になるには約一平方メートルが必要です。二万体を並べると奥行きニメートル、幅千メートル(一キロ)くらいの面積が必要になります。百メートルというと公式サッカーコートの縦(ゴールからゴールまで)くらいです。一キロというと徒歩で十五分くらいですから、見渡す限り死体が転がっているという状態になります。
 さすがにこの規模の死体の壁の目撃情報はありませんし、揚子江に堆積した死体の写真も残っていますが、これほどの規模ではありません。

(7)今井氏の目撃は十五日夜から、十六日早朝にかけてです。十六日には外国船舶が埠頭に接岸し、外国人記者を収容して上海に向かっていますが、二万体に相当する一キロにわたる死体の壁の目撃情報はありません。



 以上のように、今井回想記も矛盾だらけですから歴史研究の史料としてつかえるレベルのものとは言えませんね。また、今井記者の人物像については以下のように語られています。

東京朝日新聞・今井正剛記者について
『「南京事件」日本人48人の証言』小学館文庫 阿羅健一著作
P28 東京朝日新聞足立和雄記者の証言

「今井君は同じ社会部で接触はありました。親しくはありませんでしたが。亡くなった人の事はいいたくない。」

―――お気持ちは分かりますが、今井記者のことで知っていることをお聞かせ下さい。

「今井君は自分で見て記事を書く人ではなかった。危険な前線には出ないで、いつも後方にいたと聞いている。南京もカメラマンなど何人か死んでますからね。今井君は人から聞いた話を脚色して書くのがうまかった。筆をはしらせるというのかな。しかし、文はうまいとされていた」

 今井氏が回想記を発表した昭和32年は、南京事件に関する資料はまとめられていませんでしたが、現在は日本側史料や第三国の史料(南京に残留した外国人の史料)がかなり発掘されています。史料の発掘により今井回想記の虚構性は証明されたと言ってよいと思います。





外国人が見た下関処刑

 もっとも下関で相当数の中国兵が処刑されたのは事実です。もちろん無実の女子供を連行して殺したものでもないことも判明しています。中国兵処刑は、日本人の新聞記者も目撃していますし、外国人記者も目撃しています。ここでは有名な外国人資料を一つあげておきます。

1937年12月17日 上海アメリカ船オアフ号発
ニューヨークタイムズ宛特電  F・ティルマン・ダーディン

 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されているのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵はぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひく動くものがあれば弾を打ち込んだ。
 この身の毛のよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見世物を大いに楽しんでいた。

『南京事件資料集』アメリカ関係資料編P417

 ダーデイン記者の記述には、下関門の死体を日本軍による虐殺と書くなど、脚色があるようですが、一応中立的外国人の一次資料ということで引用しました。ちなみに下関門の死体が日本軍による虐殺の結果でないことは、戦後1987年のインタビューで認めています。



1987年 8月 F・T・ダーディンからの聞き書き

 この下関地区では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。中国軍はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で戦闘はありませんでした。

『南京事件資料集』アメリカ関係資料編 P571 

 下関の処刑については、日本軍がピストルを持っていることや、二百人を十分で殺害したなど、規模的に不審な点もありますが、処刑の光景そのものは目撃したものと思われます。おそらく便衣兵として摘出した者の処刑でしょう。

 処刑を隠蔽しようとしたようすもなく、そもそも犯罪者の処刑ですから、日本軍としては外国人にみられても問題ないと考えていたことになります。当然ながら、老婦人や女性、子供が処刑されているという記述はありません。






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