about Tibet
チベット旅行記「TIBET2000」を読んでくれた友人から「中国共産党批判色が強すぎる。チベット問題を知らない人が読んだら、カルト系サイトじゃないかと思われるかもしれない」と指摘を受けました。これは僕も以前から気にしていたことで、「ある程度詳しい解説を入れた方がいいかな」と思ってたんですけど、一方で「個人的な旅行記なんだから、主観のみでいい」という声もあり、迷ってました。でもやっぱり、ある程度の解説は必要だと思うので、チベット問題についてちょっと軽く触れておきます。なぜ管理人が中国共産党批判をやっているのか、ここを読んでいただければ、ある程度は分かってもらえるかもしれないと期待しながら。
チベットの歴史
あまり昔のことを細かく書いたところで意味はないように思うが、重要なことなので、簡単に。

吐蕃王国時代・・・
西暦620年代、ソンツェン・ガムポ王がチベット初の統一王朝、吐蕃国を建国。強大になった吐蕃国に隣国・中国とネパールから王家の娘を妃として迎え入れる。その2人は仏教の浸透に多大な役割を果たしたと言われている。ジョカンを建立したのもこの2人だ。
8世紀になると吐蕃国はついに長安まで占領する。同時期、インドからパドマサンパヴァが招かれ、インド仏教が国教となる。
9世紀、中国と吐蕃国の間で戦争が起こり、吐蕃は中国を破り、和平条約を結ぶ。その時に中国とチベットの国境線が確定されるが、その後、吐蕃国は内紛状態に陥る。

モンゴルによる支配時代・・・
13世紀、モンゴル族の指導者、チンギス・ハーンが中国北部にモンゴル帝国を建国。中国を支配下に置く。その脅威はチベットにも及び、チベットはモンゴルの支配を受け入れることになる。モンゴル(元朝)の支配者たちはチベット仏教に感銘を受け、チベット仏教はモンゴルにも広がってゆく。

ダライラマ政権・・・
16世紀、チベット仏教のゲルク派指導者ソナム・ギャンツォがモンゴルのアルタン・ハーンから「ダライ・ラマ」の称号を贈られる。後に、彼の前に転生者が2人いるとして、彼は「ダライ・ラマ3世」とされる。ここに政教一致のチベット政権が誕生する。
隣国の王朝は満州族の清へと変わり、ラサに清の大使が置かれることになるが、清朝皇帝は熱心なチベット仏教信者であったため、大きな変化はなく、チベットは非武装化されてゆく。

ダライラマ13世の時代・・・
13世は鎖国政策をとるが、インドを植民地支配したイギリスがチベットに侵攻、1903年、ギャンツェにおいて、チベット軍はイギリス軍に敗北、ダライラマ13世はモンゴルへ亡命する。チベット政府はイギリス政府とポタラ宮でラサ条約を結び、チベットに対するイギリスの保護権が確立された。その条約には清の権益は記されていなかったため、1906年、清はイギリスと英清西蔵条約を締結、宗主権の回復をはかる。
1910年、清朝は市場警備の名目でチベットに軍隊を派遣するが、翌年、辛亥革命により清朝崩壊。駐蔵大使らをチベットから追放し、独立宣言を行うが、どこの国にも承認されず、新興の中華民国が領有権を主張、チベットと中国との間で激しい戦いが繰り広げられる。
中華人民共和国によるチベット侵略
現在、「チベット問題」と言われているのは中華人民共和国によるチベット侵略と、それに伴う大虐殺である。

第二次大戦後、中国大陸に中華人民共和国が成立、チベットを固有の領土であると主張し、1950年、アムド地方に人民解放軍を送り込む。近代的な装備を持たぬチベット軍はなすすべもなく、わずか数日で東チベットが中国の手に落ちる。ダライラマ14世(現在のダライラマ)はいったんインドとの国境にある亜東へ亡命、国連に提訴するが、議題として取り上げられることはなかった。
翌年、北京に呼ばれたチベット代表団は「調印しなければ戦争だ」と脅迫され、「平和解放条約」に調印させられる。そこには自治権やダライラマの地位保証、信仰の自由などが記されていたが、調印後すぐにそれらの「約束」は破られた。ダライラマはラサへ戻るが、チベット人の激しい抵抗が始まった。何十万ものチベット人が殺され、中国共産党軍の大量駐屯により食料が大幅に不足、多くの餓死者が出る。

1959年3月、民衆の怒りが爆発した。
中国軍の将校がダライラマを観劇に招待する。「法王が誘拐される」と案じたチベット民衆はダライラマの離宮、ノルブリンカの周囲を取り囲み、ダライラマを守ろうとするが、中国軍は民衆に砲撃を加え、約3000名の死者を出す。これ以上の悲劇を避けるため、ダライラマは冬のヒマラヤを越え、インドに亡命。時の首相ネルーに軽率な行動だと批判されるが、その直後、中国軍は中印国境協定を一方的に破棄し、インドに侵攻、ネルーは中国共産党の暴虐さを知り、インドにチベット亡命政権を樹立することを容認し、ダライラマはインド北西部のチベットに似た環境の地、ダラムサラに亡命政権を樹立する。

一方、チベットでは1965年、西蔵自治区が成立。これにより、チベットは完全に中国の支配下に入ることになる。中国は600万人のチベット人を「少数民族」と位置付けた。そのうち数十万人がインド、ネパールへと亡命する。

1966年、チベットに「文化大革命」の大波が押し寄せる。人民解放軍の侵略により、すでに9割がた破壊されていた僧院などは、さらなる破壊・略奪に見舞われ、チベット文明は消滅の危機に立たされる。
文革の後、しばらくは平穏な時期が続いたものの、経済や文化面で漢人化を押し付けられることになる。また、チベットへの漢人の入植が奨励され、チベット本土において、もはやチベット人は少数派となっている。

独立運動は激しさを増し、ラサでは暴動や爆弾テロが絶えなかった。インドに亡命したダライラマは独立要求を実質的に放棄してまで中国政府に話し合いを訴えるが、中国側はこれを無視する。1989年、ダライラマはノーベル平和賞を受賞、中国はますます態度を硬化させダライラマを「反乱危険分子」とし、現在ではダライラマの写真を飾ることすら許していない。
120万人大虐殺
1959年の「ラサ決起」の後、中国側は叛徒の徹底的な弾圧に乗り出した。この前後に行われた虐殺行為については国際法律家委員会のメンバーが現地人の証言をまとめ、「チベットと中華人民共和国」というレポートを出している。
中国がまず標的にしたのは「富裕階級」「地主」「村などのリーダー」だった。それらの人々は公衆の面前で銃殺されたり、焼き殺されたりしたという。「財産を公開しない」という理由である者は溺死させられ、ある者は生き埋めにされた。
密告制度が導入され、人民裁判、つまり、公衆の面前で個人を卑しめたり、その罪状を糾弾させる行為が行われた。これにより、子供は親の罪状を、親は子供の罪状をあげつらわなければならなくなった。子供に自分の親を射殺させるなどの行為も行われた。

中国は、3階級の処刑が終わると、今度は僧侶の処刑と寺院の破壊に着手した。抵抗した僧侶らのうち、ある者は縄で絞め殺された。その際に、縄で首をしめる道具として仏像が使われたという。
腹を切り裂く、撲殺する、糞尿を食わせる、生きたまま焼き殺したり生体解剖を行ったりと、残虐を極めた行為で次々と僧侶たちを処刑していく。経典はマットレスやトイレットペーパーに使われた。

中国が殺したのは富裕階級と僧侶だけではない。
新婚の女性は産婦人科で知らぬうちに不妊手術を受けさせられた。「検査」と称し強制的に連行された男性は、生殖器に何らかの手術を施され、それ以降、性的欲求をまったく感じなくなったという。
子供たちは「中国本土で教育を受けさせる」という名目で連れ去られたまま、二度と戻ってくることはなかった。

チベット亡命政府の発表によると、「解放」の美名のもとに中国によって殺されたチベット人は1950年から84年までの間で120万人以上。チベット人口600万人のうち、実に5分の1以上になる。内訳は以下の通り。
・戦いや蜂起によるもの・・・・・・・・43万2705人
・餓死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34万2970人
・獄死、強制労働収容所での死・・17万3221人
・処刑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15万6758人
・拷問による死・・・・・・・・・・・・・・・・9万2731人
・自殺・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9002人
合計・・・120万7387人
中国側は決してこの数字を認めようとしないが、虐殺は現在も続いている。

【参考文献】「チベット入門」(ペマ・ギャルポ著)、「チベット、わが祖国」(ダライラマ著)、「ダライラマ自伝」(ダライラマ著)、「地球の歩き方」(ダイアモンド社)、「旅行人ノート・チベット」(旅行人)ほか

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