藤原隆家の戦い


 正二位中納言藤原隆家(979年〜1044年)は、有名な藤原道長の甥にあたるが、平安貴族には珍しい豪傑肌の人であった。
 隆家は996年、兄の伊周に頼まれて、花山法皇に矢を射かける(脅すのが目的だったので、衣の袖を射抜いただけ)事件を起こして、その為流刑に処されたという経歴さえ持つ程であり、かの道長も彼には一目おいていたといわれる。
 後に罪を許されて帰京出仕してからは、流石に政界で活躍することはなかったが、1012年の冬あたりから眼を患うようになった。その頃、九州に宋の名医がいると聞いて、丁度役職に空席が出来た太宰府への赴任を希望して叶えられ、1015年4月、多くの餞別を受けて任地に旅立ったのである。
 今回は、隆家が太宰権帥として在任中の1019年3月、不意に対馬・壱岐から筑前(福岡県)・肥前(佐賀県・長崎県)にかけて襲来した刀伊(女真族のこと)との戦いについて扱う。

 刀伊の襲来は3月28日、対馬・壱岐の襲撃に始まった。対馬守遠晴は難を逃れたが壱岐守理忠は殺害され、壱岐島分寺の僧常覚は住民などを率いて、3度にわたって賊を撃退したが、ついに数百の敵に抗い得ず、単身太宰府に逃れていった。
 彼や対馬よりの使者が太宰府に到着して賊難を伝えたのは4月7日のことであるが、同日、賊船50隻余は筑前イト郡(福岡県糸島郡)に上陸し、志麻郡や早良郡などを掠め、暴れまわった。
 刀伊の船は長さ13〜19メートル程度で櫂を30〜40も並べ、50〜60人を乗せて非常に速く走ったという。上陸に際しては100人程で一隊を成し、皆楯を持ち、前陣の20〜30人は鉾や刀剣で武装しており、これに弓矢を持った70〜80人が従う。
 その類のものが十隊、二十隊とそこかしこを荒し回り、牛馬や犬を殺して食う。また、手当たり次第に人を捕らえては、老人・子供は斬殺し、壮年の男女は船に押し込み、穀物を奪って民家を焼き払うなどの、悪鬼の如く乱暴を働いた。
 例えば壱岐島では、400人の島民が捕らえられるか殺害されるかして、残る者わずか35人に過ぎなかったという。

 賊上陸の報告を受けた隆家は、直ちに兵士を派遣した。この兵たちと志麻郡の住人文室忠光(ふんやのただみつ)らが協力して防戦し、賊数十人を倒して撃退した。無論、文室氏は武士化した在地豪族である。
 翌8日、賊船は那珂郡能古島に現れ、隆家は前太宰少監大蔵種材(おおくらのたねき)や平為賢(たいらのためかた)などの武士や太宰府の官人たちを博多の警固所に急派して、防御に当たらせた。隆家が出した解文(朝廷への報告書)には、隆家自ら軍を率いて警固所に到り合戦すべしとあり、士気旺盛なところを見せている。
 9日にも賊は再び警固所に来襲したが、激しい戦いの末、賊は遂に進み得ず、船に退いた。この合戦の間、賊船に捕らわれていた壱岐・対馬の住人たちは「馬を馳せかけて射よ。臆病しにたり」と叫んだ。これを聞いた我が方の兵が進んで奮戦する中、多くの者が賊船より逃げて博多に上がったという。
 賊の矢は1尺(30cm)位の短いものだったが、非常に強力で、楯を貫いて人を殺傷した。しかし賊も、日本の鏑矢が発する音には恐れをなしたようで、一旦船に後退した彼らは海岸沿いに進んで、その日のうちにまたも上陸して放火しようとしたが、陸伝いに追ってきたこちらの兵に撃退され、能古島に引き上げた。

 翌10日から11日にかけて、海上は嵐となり戦闘も中断した。この間に太宰府では急いで兵船38隻(一隻あたり10人乗り程度か)を調達した。そして賊船は11日、志麻郡の船越津に現れ、12日午後に上陸してきたが、ここには既に兵士が派遣されて待ちかまえており、賊は水際で40人を討たれて退却した。
 これを博多より大蔵種材や太宰少弐平致行(むねゆき)らが船に乗って追いかけたが、翌13日、賊は肥前国松浦郡を掠め、前肥前介源知(みなもとのしる)の率いる兵と戦って数十人の損害を出し、そのまま北方へ逃げ去った。
 ここでも武士たちは船で賊を追っていったが、隆家はその追撃をあくまで日本領内に止めさせ、高麗(当時朝鮮半島にあった王朝)領に入らぬよう命じて、無用のトラブルを回避させた。そのあたりの判断は、現代においても高く評価されるべきだろう。
 かくして、4月7日に太宰府が賊襲来の報を受けてから1週間で、刀伊は日本近海より姿を消したのであった。

 刀伊の来襲によって生じた被害は、死者365人、捕らわれた者1289人、殺された牛馬は380頭に上り、対馬では白鳳以来の銀坑が焼かれ、民家45軒も灰塵に帰したという。北九州各地でも焼失家屋は多かったであろうが、未詳である。
 また、この戦いで捕虜にした3人は、何れも高麗人であって、彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、以前に新羅(高麗の前王朝)の海賊が九州を襲ったこともあってか、太宰府や朝廷は半信半疑であった。
 結局、賊が高麗人でないと判明したのは、7月7日、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近(ながみねのもろちか)が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、太宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという。
 また、賊襲来2ヶ月後の6月29日には、太宰府からの解文に基づいて、朝廷で論功行賞が公卿の会議にかけられたが、軍功第一とされた大蔵種材が壱岐守に任じられた以外は、全くわかっていない。総指揮をとった隆家も、特に何の賞も与えられなかったようである。
 隆家はこれまでも善政を施し、大いに人望を集めていたといい、この度の戦いにも彼の指揮は最後まで適切であったといえよう。