藤原広嗣の戦い


 藤原広嗣(?〜740年)は、奈良時代前期の朝廷で政権を握った藤原四兄弟の三男・宇合(うまかい)の嫡男である。
 737年、父の宇合が天然痘で急死した直後、貴族に属する従五位下を授けられ、翌年4月大和守という名誉ある官に任命せられたものの、その歳末には急転直下、遠く九州は太宰府の次官に左遷されてしまった。
 彼は傲岸不遜な性格で思い込みが激しかったらしく、いったい誰のせいでこうなったのかと考えたであろう。そしてその時脳裏に浮かんだのは、唐に留学し帰国後、聖武天皇側近として重んじられた僧侶玄ぼうと地方豪族出身の吉備真備(きびのまきび)であった。
 かつて藤原兄弟が占めていた権力の座に、新帰朝の、如何に唐で名声を博していたとはいえ、氏素性の悪い二人が座ったのである。とても広嗣には我慢ならないことだっただろう。彼はついに挙兵を決断した。
 そこで、この節には、740年8月〜10月の九州における内乱について紹介する。

 740年(天平12年)秋8月29日、広嗣の上表文が朝廷に届いた。それは時の政治を批判し、玄ぼうと真備の罷免を要求していた。
 9月3日、広嗣が太宰府管下(即ち九州全島)の兵士を動員したという飛駅(騎馬の使者)が平城京に入った。聖武天皇は直ちに参議(閣僚)従四位下大野東人(あずまひと)を大将軍、以下副将軍1人、軍監・軍曹各4人を任じ、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の兵1万7千に動員令を下し、また大将軍東人を宮中に召して、出征中の全権を委任した。
 翌4日、朝廷に交代で参勤していた隼人(南九州の異民族)の中から24人を天皇の御在所に召集し、位階を授けて従軍を命じた。翌5日には、従五位上佐伯常人(つねひと)・従五位下阿倍虫麻呂の両人も勅使(天皇の使者)として軍に加えた。大将軍大野東人はもとより、佐伯・阿倍両氏もまた著名な武門である。
 さらに11日に伊勢神宮で、また15日にも諸国で、戦勝祈願を行わせた。
 大変な念の入れようであるが、約70年前の壬申の乱以来の大乱ともなれば、朝廷の人士に絶大な衝撃を与えたことは、容易に想像できよう。

 21日、既に関門海峡に臨み、続々と集結する諸道の兵を編成していた大野東人は、長門国(山口県西部)豊浦郡の郡司に精兵40人を率いて海峡を渡らせ、上陸地点を確保させた。
 翌22日、東人は勅使佐伯常人・阿倍虫麻呂を隼人24人、兵4千人の将として渡海させ、豊前国(福岡県東部・大分県北部)企救郡の板櫃の鎮(軍団の兵営)を襲わしめた。
 鎮の大長(指揮官)は逃亡したが、小長(次席指揮官)と京都郡の鎮長とは、遺棄死体の中に発見された。なおその際、登美(板櫃と京都の中間)・板櫃・京都三鎮の兵1767人と兵器多数を捕獲した。広嗣は関門海峡を制し得るこの要衝に、付近の鎮兵を集合させていたのだが、官軍の迅速な一撃は彼の予測を完全に粉砕してしまったのである。
 また24日、官軍間諜の報告では、広嗣は企救郡の西隣、筑前国(福岡県北部)遠賀郡に在って、その郡家を本営とし、ノロシを焚いて国内の兵を徴集しているという。
 25日、豊前国の各地の郡司が、70〜80人ずつ、時には500人もの兵を率いて官軍に帰順してきた。逃亡していた板櫃鎮の大長も豊前の百姓に殺されたと報告された。
 29日、次のような勅が、全九州の官人・百姓に宛てて発せられた。
「逆賊広嗣は若年の頃から凶悪であり、長じてますます邪(よこしま)を働くようになった。亡父(宇合)は、かねて廃嫡したいと言っていたが、朕が宥めて今日に至ったのである。
 しかし都にあって、頻りに親族を誹る為、遠方に移してその改心を期待していた。今聞けば、気違いじみた反抗を始め、人民を苦しめているという。(中略)
 忠臣・義士、速やかに出でよ。朕の派遣した大軍は、今や大挙九州に進入しようとしているのだ」
 この勅符は、以前国司や郡司の元に直接使者を送って配布しようとしたところ、広嗣側の妨害に遭って殆ど周知せられなかったという。そこで今回は、同文を数千枚写して、官人・百姓問わず無差別にばら撒いたのであった。
前述した郡司達の帰順も、この宣伝の影響かとも思われる。 

 10月9日、広嗣の軍1万余人は、東進して板櫃河に至った。広嗣は隼人の部隊を先鋒となし、筏を組んで渡河し始めた。佐伯・阿倍の両勅使率いる官軍は弓射してこれを防ぎ、広嗣軍1万と官軍6千とは、河を挟んで対陣した。
 佐伯常人らは、部下の隼人を呼んで、広嗣側の隼人に抵抗を止めさせるよう命じた。官軍の隼人が独自の言語で叫ぶと、広嗣方の隼人は弓射を止めた。常人らは常人らで、「広嗣出てこい」と十度叫ぶと、広嗣本人が馬に乗って悠然と現れ、こう言った。
「勅使到来と承る。勅使とは誰か」
 常人らは答えた。
「勅使は我々だ。衛門督佐伯大夫と式部少輔阿倍大夫だ。わかったか」
 広嗣は「わかった」と言って馬から降り、2度丁寧に頭を下げた。
「私は決して朝廷の命令に逆らっているのではない。ただ、政治を乱す者二人を引き渡してほしい、と申し上げているだけだ。この広嗣がもし朝廷に反抗しているのであれば、何も官軍の世話にならなくても、神々が罰してくれる」
 常人らは怒鳴った。
「朝命で太宰府の主典(さかん)以上を召喚しているのに、どうして軍兵など引き連れて押し寄せてきたのか」
 広嗣は沈黙し、馬に乗って引っ込んだ。すると広嗣側の隼人3人が河に飛び込み官軍の方に泳いできた。これを見た隼人20人、広嗣の部下10余人も官軍に帰順した。
 隼人の一人は、広嗣が全九州から動員した兵を3軍に分け、自分は鞍手(福岡県北東辺)方面、弟の綱手は豊後(大分県)方面、多胡古麻呂は田河(福岡県田川市)方面から、それぞれ兵5千人を率いて官軍を包囲する計画を立てており、豊後・田川の両方面軍はまだここに到着していないことを官軍に告げた。

 板櫃河の会戦について、史料で確認できるのはここまでとなっている。おそらく、勅使に広嗣が言い負かされたことで、将兵の間に、彼に対する疑念が広がって戦意喪失し、続いて官軍が実施したであろう渡河攻撃を防げず、潰走したのではないかと考えられる。
 その後は官軍による掃討戦が、北部九州の各地で展開した。そして10月23日、肥前国松浦郡値嘉嶋長野村(長崎県の五島列島)で、広嗣は官軍の阿倍黒麻呂なる一兵士に逮捕されたのである。反乱軍首魁の逮捕を大将軍東人が知ったのは、6日後の29日であった。
 即日発送された報告書は11月3日、当時伊勢国(三重県)にいた聖武天皇に届けられた。逮捕の報を得た天皇は、「逆賊広嗣の罪は明白で疑う余地もない。直ちに法により処決せよ」と勅した。
 しかし東人は、勅が届く前の11月1日、現地で広嗣・綱手兄弟を斬っていた。一日おいて3日には、彼らの部下20余人を本営に連れてきて尋問した。部下達は答えた。
「広嗣公は値嘉嶋から乗船し、東風に送られて航行しました。4日目に島影(韓国の済州島か)が見えました。ところが船が進まなくなり、一日一夜漂いました。それから風が西に変わって、船を吹き戻し始めたのです。
 公は船上に立ち、祈りました。『私は大忠臣だ。神霊がどうして私を棄てる筈があろうか。神よ、願わくは暫し風浪を静めたまえ』。しかし、風浪はますます烈しく、とうとう値嘉嶋にまた戻ってしまったのです」。

 翌741年1月23日、広嗣の反乱に参加した者に対する処分が決定した。死刑26人、没官(官有奴隷にする)5人、流刑(島流し)47人、徒刑(懲役)32人、杖刑(叩き)177人であった。
 流刑者の中には、縁坐(連帯責任)として、都にいた広嗣の弟たちも加えられていた。
 なお、後日談となるが、広嗣が排除しようとした内の一人、玄ぼうは4年後の745年、急に太宰府の観世音寺修造を命じられ、翌年夏、同地で死去した。人々は、広嗣の怨霊の所為だと噂したという。