馬占山の戦い


 馬占山(1883〜?)は、1931年に勃発した満州事変において満州(現中国東北地方)は黒竜江省軍の将軍として活躍し、抗日の英雄と称えられた人物である。
 彼は18才で馬賊に身を投じ、そこから身につけた実力を元にして次第に地位を築き、1930年(昭和5年)には、満州全土を支配する、張学良の指揮下にある東北辺防軍・第3旅長にまでのし上がった。
 1931年9月18日、日本関東軍の一部の将校が謀略によって満州事変を起こすと、張学良は馬占山を黒竜江省政府主席代理に任命し、省軍の総指揮を命じた。
 今回は、彼が関東軍の為一敗地に塗れ、後に満州国へ帰順する要因の一つともなった、チチハル付近の戦闘を扱う。

 馬占山が、関東軍の前に姿を現したのは、1931年11月4〜6日の大興付近の戦闘に於いてである。
 彼は、ネン川に架かる鉄道橋を破壊して、関東軍に同調した張海鵬軍の北上を阻み、歩騎兵約1300名をもって大興付近に陣地を構築し、鉄道修理の援護隊として派遣された関東軍の歩砲兵各1個大隊(約800名)の前進を阻止せんと試みた。
 劣勢の日本軍は忽ち苦戦に陥り、馬占山は勢いに乗って騎兵団に攻撃を命じたが、突撃するには至らなかった(原因不明)。
 彼は更に騎兵1000名を増加して抵抗を図ったが、日本側の増援部隊(歩兵2個大隊約750名)が到着して、6日には左翼から包囲されそうになって、戦局は急転してしまった。しかし、日本軍が東京の指示で追撃してこなかったので、退却中の部隊をチチハル南方約40Kmの昂昂渓付近に停止させた。この戦闘での馬占山軍死傷者は約700名に達した。日本軍の損害は約200名であった。
 しかるに馬占山が大興付近で善戦し、予想された日本軍の一挙チチハル進攻を防止(実際は日本側で厳重に統制したものである)したことは、意外な反響を呼んだ。
 即ち、馬占山は忽ちのうちに抗日の英雄となり、日本軍恐れるに足らずとして、関東軍を侮蔑する空気が北満にみなぎってきたのである。

 中国側では、北満のみならず錦州(満州南西部)方面の軍もこの空気に後押しされて東進の兆候が出てきた。また、既に関東軍によって制圧された地域の情勢も、険悪の度合いを強めてきた。
 関東軍は最早実力をもって解決するしかないと考え、馬占山軍をチチハル周辺から撤退させようと交渉しつつも、東京に対してチチハル攻撃の許可を求め(13日、条件付で認可)、大興付近に軍主力を集中させる様命令を下し、11月14日には日本軍第2騎兵連隊(協力部隊を含めて約600名)と黒竜江省軍騎兵第1旅と第8旅(約2000名)が遭遇戦を展開して、中国側の部隊を三間房(昂昂渓南方約10Km)方面へ追い払った。
 日本軍はこの様にして戦闘準備を進めていたのだが、馬占山もまた、11日には省主席の万福麟に対日総反攻を意見具申し(不許可)、省軍の集結をほぼ完了させた。その兵力は約12000名(歩兵約9000名、騎兵約3000名、野山砲14門)にも達した。

 それに対して大興付近に集結した日本軍の兵力は、第2師団に朝鮮軍よりの増援を加えた歩兵11個大隊、騎兵2個中隊、野砲兵3個大隊、野戦重砲兵1個大隊、工兵1個中隊を基幹とする総員約6000名(各種火砲32門)であった。
 馬占山は、日本軍は迂回・包囲戦術を多用する傾向があるので、恐らくは陣地右翼の湿地帯を避けて、左翼から包囲的に攻撃して来るだろうと判断して騎兵の主力を左方面に配置したが、日本軍第2師団長の多門二郎中将は一枚上手で、彼は迂回行動が困難になったと知ると、直ぐ様作戦を中央突破に切り替えたのである。
 そして11月18日午前6時、日本軍飛行機の爆撃と砲兵隊の攻撃準備射撃で北満、否、全満州の命運を賭けた決戦の火蓋が切られたのであった。

 馬占山はこの当時昂昂渓にあって精鋭の3000を握っており、日本軍の攻撃前日に当たる17日に、三間房の戦闘指揮所を訪れて前線指揮官に兵力を増してやると言ったが、彼は、大丈夫だからと増加を断った。その日は、馬占山は飛行機の爆撃に遭って昂昂渓に引き返したが、それでも心配だったと見えて18日早朝、電話で第一線の状況を聞いたところ、心配はいらないと報告された。
 その後、昂昂渓にまで激しく砲声が聞こえてきたので、また電話をかけてみると、持ち堪えられるか怪しいと言われ、これはいかんと思った馬占山は、直ぐ自動車で三間房へと向かった。しかし、その時は最早、日本軍歩兵の突撃によって前線は崩壊し、部隊も潰走を始めていたので、抵抗を断念して昂昂渓に帰った。
 後に彼は、「私がもう20分も早く到着していたら、あんな負け方をするのではなかった。全くあんなに早く日本軍に突破されようとは思っていなかった」と回想している。
 馬占山は、昂昂渓に引き返してからも、徹底抗戦するつもりであったが、部下たちからチチハルまで退却して後図を策するようにしてはと勧められ、彼は不本意ながら、午後5時頃自動車で昂昂渓を出発して、護衛兵僅か6人でチチハルに向かった。途中、大民屯(チチハル南方約10Km)付近で日本軍の30騎ばかりの騎兵に遭遇し、自動車の中から全員で射撃して漸くその場を逃れるというハプニングもあったそうであるが、結局はチチハルを通過して更に北へと後退していった。
 尤も、彼もかなり余裕を見せていて、途中で、捕虜となっていた日本軍のある兵士に毛皮を買ってやり、多門中将に届けさせたという。
 日本軍は陣地突破後、夜間も追撃を続行して、19日午後2時頃から歩武堂々とチチハル城に入城した。

 この作戦における日本軍の損害であるが、戦死が将校5名、下士官兵53名、戦傷が将校7名、下士官兵120名。その他零下24度もの寒気に晒されて、凍傷患者を将校以下996名も出した。従って、損害の合計は1181名に上り、戦闘参加人員に対する損害の比率は約20%に達した。
馬占山軍の損害は、戦死者約600人、負傷者約500人、行方不明者多数であったということである。

関東軍がチチハルを占領したことの意義は大きく、全満州を制する突破口を意味するものとして日本側の自信を深め、事変処理の態度は、これからのち急速に積極性を帯びることになった。
 しかし、これが果たして国家戦略的に妥当な道であったかどうかは別問題である。特にこの頃が分かれ目になって、日本は次第に国際的に孤立化の方向を辿り、ひいてはその後のさらに大きな戦争へと進むことになったからである。