
第1節 吉屋信子
吉屋信子(1896〜1973)は大正から昭和にかけて、活躍した作家である。代表作は「屋根裏の
二処女(おとめ)」「花物語」「徳川の夫人たち」「女人平家」などである。
吉屋信子は、非常に頑固な家父長主義・男尊女卑をとる父親と、良妻賢母を絶対的とする母親の
元で育てられた。そのためか、栃木高等女学校に入学した際、新渡戸稲造の女性解放的な演説
(女性は1人の人間であるというような主旨の演説。イプセン『人形の家』を想起せよ)を聞いて、
非常に感銘を受けたとされる。
そのことは作家となって以降も作品に反映されていくこととなる。また、大正末期の「少女」観に
ついて、手紙でこう述べている。「それにしても此頃の少女雑誌のひどさときたら、読むたびに吐気を
覚へます。(略)猥褻ささへ感じさせるほど男への媚を当然みたいに少女たちに強制してゐる。あすこに
書いてゐる絵書きと小説家はあれでも人間かしら」(『女人 吉屋信子』p.32f)と。
信子は女性の自立、人間としての尊厳など、女性解放的な運動を、文筆をもって行った。
彼女は確かに『花物語』などによって、少女の姿を多く描いているが、しかし、そこに見られる少女の
姿というものは、非常に生き生きとしており、自己をもった信念ある姿が描かれている。
吉屋信子は同性愛者であった。これは否定する必要のない事実である。彼女が肉体的よりも精神的な
愛を求めているという叙述も彼女の弁護というものではない。彼女は虐げられた女性を愛したと思う。
その想いがあまりに強かったために、同性愛者であることを半ば公然のこととして、行ったのである。
信子と同世代の女性の中で、平塚らうてうや田村俊子、宮本百合子などが同性愛者であった(但し、
らいてうは不確定な部分が多い)。
有島武夫が心中を遂げたことを聞いて、信子は手紙にこう綴っている。「二人の思ひをつら抜くには
心中以外の道は考へられなかつたのか。それならば同性愛は? 世に秘めて生きるならよし、
さもなくば、やはり死あるのみか。愛のかたちは様々―幾多の人々の苦しみ、嘆きを思つて泪ぐむ」
(同上p.145)と。彼女にとって、同性愛は一つの強い信念であり、生き方そのものだった。
その彼女が少女達を描く。確かに、細やかな心の通い合わせあいは同性愛的でもある。しかし、
この章の続く節で述べるように、それは「同性愛」というよりも「シスターフッド」の形式であったと
考える方がよいであろう。
信子がこのような少女達を描いたのは、彼女の生い立ちに原因があると思われる。、つまり、
厳格な旧制度のもとで育てられたことが、一種の独立した女性像を描かせたのかもしれない。
男性のいない世界を描くために、女学校などの寄宿舎を舞台にしたのかもしれない。彼女は
少女達を描いたために「少女小説家」と見られていたが、彼女の作品は、彼女が嫌悪した、
世間一般の「少女像」を否定するものでもあった。だが、結論的には、「女性は家庭に入るのが
一番」というようなことを書いた。この点が当時から批判される部分でもあった。そして、徐々に
彼女の小説から同性愛的傾向は減っていった。その心境の変化はわからない。
信子の恋人にこう綴った。「あなたが男の方だつたらすぐにでも一緒になれるのに男と女ならいい
しかし女と女はいけないなんて どうして愛のかたちを 質ではなく形式できめてしまふのかしら」と。
信子はこれに応えて、彼女を養女とすることにし、「結婚披露と同じやうに養女披露をするつもり」と
返信した(同上p.198f)。そして、この約束は守られたのである。
このことは、今でもあまり変わりないであろう。同性婚が認められている地域・国は未だに少ない。
吉屋信子は日本での、事実上の同性婚の先駆けとなった1人であった。
第2節 同性心中
女性同性の心中というのは、世界史的に見ても、散見される程度である。まとまった資料がほとんど
ないからである。そのような状況の中で、『同性愛と同性心中の研究』は貴重な資料である。
この本によれば、昭和初期〜昭和10年頃に流行的現象があったという。同性心中といっても、
同性愛だけによるものではなくて、友人への同情などから心中するケースが一番多かったようで
ある。同性愛はその次くらいに位置し、同情との比率は、同情:同性愛=3:2くらいである。
明治期から大正期の原因表を見ると、全121人中、同性愛が原因とされるのが、28名で、一番
多い(『同性愛と同性心中の研究』p.253)。だが、原因が細かく分かれているので、例えば、
「失恋」「男に捨てられ」「継母の為め」「母の病気」「小供の病気」(原文ママ)というのも、同情に
なるであろう。単純に「同情」というのは1人しかいない。
実際に同性愛によるものなのか、同情によるものなのかは判別が難しく、次節で取り上げるように、
友愛の強い形式であった可能性もある。それが傍から見れば、同性愛のように見えただけかもしれない。
真に同性愛、という理由から心中したケースがどれほどあるのか、難しいものがある。
第3節 「少女」という存在〜学校の少女たち
「少女」という概念は、少女雑誌の登場や大正浪漫の中で、明治後半から大正期にかけて確立
していったものと思われる。この時期、少女(ないしは女児)への関心は高くなっていた。いわゆる
「少女小説」や「宝塚少女歌劇団」(1914年創立)などの登場もこの時期である。西洋絵画でも
「少女」概念が登場してくるのは19世紀末頃からであり、カサットなどがその代表格になるであろうか。
その少女の登場する最大の場面が、学校である。特に少女達だけで繰りひろげられる女学校、
ないしはミッション系の学校が、考察の上で非常に重要である。少女達だけの世界ということで、
一種の妄想が働き、あるいは、純潔思想の具現化の場所としても見られる。少女小説の世界が
このような女学校であることが多いのは、それがまさに「少女」の世界の小説だったからと思われる。
大正中期頃から「S」という言葉が女学校で使われるようになる。この「S」は「シスター」の略とも
「シスターフッド」の略とも言われる。つまり、女学校の生徒達が、自分達の仲の良さを示すために
生み出した言葉であるという。しかし、この言葉は後に、卑俗化され、歪曲され、女性同性愛者を
指す言葉となっていく。
女学校においては、生徒達のつながりは強かったらしく、「S」という言葉以外にも「姉」「妹」
という言葉も使われた。「あんた女学生間のことちょっとも知らんねんなあ。誰でもみんな仲の
ええもん同士やったら、「姉ちゃん」や「妹」や云うのん珍しいことやあらへんわ」(谷崎潤一郎『卍』
p.50)と谷崎は書いた。「誰でもみんな」というのは大げさだろうが、しかし、実際に使われていた
ことは間違いないであろう。しかし、これもまた卑俗化され、このような呼び方をする者は同性愛
的であるとみなされるようになる。すぐに性的な意味合いにされてしまう傾向があるように思われる。
谷崎が『卍』を発表したのは、昭和初期のことであった。彼はこの作品で、「中性美」の追求
(『国文学 解釈と鑑賞』1992・2 p.78参照)を行ったとされる。同性愛は中性ではないが、一般に
考えられている異性愛の形を否定しようとしたところに「中性」を見いだそうとしたとも考えられる。
このような少女同士の結びつきを、当時の教育機関が良しとするわけはなく、その対処法が
考えられていた。まず、その前にどういう状況が同性愛的と考えられていたのか、以下『女児の性教育』
(大正14(1925)年)に拠って見ることとする。羞恥心が極度に強くなり、異性に近づけなくなった
ものなどがなりやすいとしている。また、毎日会っているのも関わらず、手紙のやり取りをする者、
遠回りなど不便なことをしても一緒に登下校する者、トイレに待ち合わせて一緒に行く者、これらの
者の行為は「普通の友情としては、寧ろ極端に走つて居るものと言はなければなりません」(p.34)
と指摘されるものであった。今、学校で手紙を回したり、トイレに一緒に行ったりするのを見かけるが、
この基準で考えれば、同性愛者が多数いることになる。
また、全寮制の場合、ホームシックなどの「心的空疎」を「純粋な友情」によって、互いに慰めあう
のは良いが、「度を越えて其の弊に陥る」と「時に往々同性愛に陥る事がある」ので、「寄宿舎経営の
困難の一は実はかかる点にある」とされる(p.290〜291:旧字は修正した)。心配しすぎだ、と見る
むきもあろうが、しかし、これが同性愛への恐怖心の表れなのである。
世界各地・各時代で同性愛であるだけで罰せられ、時には死刑に処せられることもある。昔は
病気である、とも考えられていた。上で引用した文章もそのような観点で書かれたものである。
この本には同性愛だけでなく、マスターベーションについてもそれを厳重に注意すべきということも
書かれている(やはり病気であると、あるいは心身を激しく損なうと考えられていた)。
当時の女子教育が良妻賢母を基本とするものであった以上、少女は純潔でなければならないと
考えられていた。それ故に同性愛を排除することは十分に考えられることではあるが、しかし、
逆に、少女たちに同性愛的表現を与えるということも行われた。このねじれはいかなることか、
今後の研究課題である。
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