人と星の間   エッセイトップへ
 

     人間原理宇宙論1 (2000/11/28&2000/12/11校了)      

 宇宙の状態を示す数値は多種多様な数値がある。しかし、その中には、ある不思議な関係を持った幾つかの数値がある。その関係をディラックという学者は20世紀前半に「大数仮説」と名付けた。しかし、この仮説は実証性もなければ、科学的な意義も乏しかったため、歴史から姿を消した。だが、それを蘇らせた人物がいた。ディッケという人物である。
 彼は「なぜ宇宙の年齢は160億年なのか」という疑問から、1957年、「それを導き出せる知性体が生まれるのに、それだけの時間が必要だった」という結論を導き出した。宇宙に不思議な数値の関係があるのは、そうでなければ人間には不都合だからである。人間がいて、初めて宇宙がある、ということになる。
 1974年、カーターはこのような考え方を「人間原理」と名付けた。人間が宇宙を観測しない限り、宇宙の構造やその歴史は無意味になる。人間が観測することによって、初めて宇宙や地球の歴史は存在するのである。だからこそ、宇宙の原理は人間に全て都合がいいのである。

 人間原理には二つある。「強い人間原理」と「弱い人間原理」である。前者は、宇宙の発展段階のどこかで宇宙を観測する者が登場するというものである。後者は、観測内にあるものは観測者が存在することの必要条件を満たさなければならないというものである。
  後者をさらに詳しく言えば、まず、宇宙の膨張のスピードが現在のそれよりも速くても、遅くても、人間が登場できる条件を満たせない。また、宇宙の年齢も今ぐらいの年齢で なければ、必要なエネルギーや物質の面で問題が出てくるのである。
  「1」でも書いたが、人間は観測することによって、宇宙の歴史を規定している。ジョン・ホイーラーという科学者は、ある実験装置を用いて、観測が過去を変える可能性を示した。
  観測により、人間は無意識のうちに、人間に都合のよい数値や条件を決定してきているのである。宇宙を現在の姿にしたのは、他ならぬ人間なのである。こうなると、「人間はある種の神(神的存在)である」と言えることとなる。


  主要参考文献:「宇宙論が楽しくなる本(別冊宝島116)JICC出版局 1990年
  参考映像資料:「アインシュタイン 人間原理宇宙論」フジテレビ 1991年
              「アインシュタイン 科学と神」フジテレビ 1991年





  思いは銀河を越えるか(2001/1/17校了)

 「ベルの定理」というものがある。これは、ごく簡単に言うと、因果律は宇宙全体に広がっているというものである。つまり、目の前で起こっていることは、目の前の時空間だけに限定されて、起こっているのではなく、宇宙の彼方、例えば、アンドロメダの中のある星の影響も受けている、というものである。観測することによっても、何らかの因果律が発生するわけだから、観測そのものが宇宙のあらゆるところに影響を与える行為となる。地球規模でも、似たような話があり、南米のジャングルの中での蝶の羽ばたきがカリブ海に嵐を呼ぶ、という話もある。これは、「風が吹けば、桶屋が儲かる」形式の因果律のたとえ話ではあるが。
 「ベルの定理」もあまりに突拍子もないことではあるが、因果律が宇宙の時空間全体の内部で働いているとすれば、ありえない話ではない。因果律がこのようなものだとしてしまうと、人間の思考も因果律によって生じているわけだから(つまり、原因と結果のない思考はないということ)思考が宇宙の因果律に影響するかもしれない。マイケル・クライトン「スフィア」では、想像したことが現実に起こるという設定がある。フィリップ・K・ディックの「虚空の眼」は世界そのものが想像どおりになる。果たして、思いは銀河を越えるのだろうか?





  世界はどこにあるのか(2001/2/6&2001/3/4校了)

 人間原理では人間がいるから世界(宇宙)があるということになる。この世界の大本となっている原子レベルの世界もそうなのであろうか。極端に短縮して言ってしまえば、やはり人間の観測が重要なファクターとなる。原子レベルでの物の位置(例えば、電子の位置)は確率的にしか言えない。人間が観測することによって、ある位置が決定される。もう少し正確に言うならば、確率的な状態が収束し、ある位置が決定される、ということになる。このような確率的な状況がありながら、どうして物は安定できるのか。
  それはサイコロを振るのと似たような原理が働いているからである。6面体のサイコロを振った時、各面の出る確率は1/6である。しかし、それは何万、何百万という試行を経た後に出てくる数値である。原子レベルでの確率もこれと似ていて、何億と集まっているのだから、最も安定できるところで、確定的な状況となるのである。
  だが、観測によって世界が変わるのならば、世界の時系列そのものが、確率的に変化するかもしれない。つまり、例えば、電子がどの位置で観測されたか、という確率を含んだ観測の結果、違う歴史が存在することになるかもしれない。サイコロの目が1の場合と6の場合程度の差であれば、いいのだが、そうはいかないだろう。いわば、スゴロクで出た目によって、道が変わるほどの差があるだろう。そして、この場合、二つの状況が平行して存在しうるのである。SFでいうところのパラレルワールドが存在するのである。だが、この二つの世界は干渉しあわない。
  一体、何故、こういうことが起きるのだろうか

 世界は確率論的な基礎の上に立っているかもしれない。宇宙は誕生のその瞬間から無数の分岐の可能性を秘めている。今なお、その分岐は確率という事態によって増えつづけているかもしれない。「今、ここ」という場が無数にあるのである。「今、自宅のパソコンの画面を見ている貴方がいる」一方で、「今、どこかのレストランで食事している貴方がいる」かもしれない。世界の見方が変わるのではなく、世界そのものが変わるのである。
  では、私たちの今、目の前にある「事実」は「現実」なのだろうか。デカルトの有名な言葉、「我思う、故に我在り」ではないが、夢と感じられない以上、現在の技術レベルでは、目の前のことは現実と言わざるを得ない(ヴァーチャル空間は別の話)。
  量子力学には「事象は観測されることによって初めて存在する」という考え方がある。何事も観測されなければ、存在しないのである。だから、アインシュタインは量子力学者たちに向かって「君たちは、誰も月を見ていないときには月はないというのか」というような発言をした(うろおぼえなので例えが違うかもしれない。はっきりし次第訂正する)。これに対して、イギリス経験論の一人であるバークリーの考え方を持ち出せば、「神が見ているから存在する」という反論もできるが、科学的ではない。だが、アインシュタインは量子力学の確率解釈を批判した時に「神はサイコロを振りたまわず」と言った。
 世界はビッグ・バンによって始まったのか、神の御業によって誕生したのか、そういうことを考えることも、世界がどこにあるのかを考える手助けとなるであろう。

  参考文献:和田純夫「量子力学が語る世界像」(ブルーバックス1012)講談社 1994年





   人間原理宇宙論2 (2001/5/2校了)

 NHKスペシャル「宇宙」が始まった。彗星(あるいは隕石)が地球の生物の元となり、進化を促したという内容だった。全面的に否定するつもりはない。科学的証拠もそろっている。しかし、人間原理宇宙論から、この話を考えてみる。
 人間原理宇宙論は、端的に言って、「人間がいるから宇宙を観測できる」というものである。
 つまりである、人間(知的生命体)がこの場にいて、宇宙を見なければ、地球がどうなったか、地球外生命体しか知りえなかったかもしれない。
 3億年前の生命の大絶滅、6500万年前の恐竜の大絶滅、そして、その後の幾度もの氷河期。
 この「偶然」を越えて、人間は今、存在するのである。それを「必然」とするか、どうかである。
 地球に降り注いだ彗星(隕石:彗星は1万年に1度くらいのようだが」)が、地上の生命体を絶滅させかけたことは確かであろう。それを乗り越えて人間が誕生したのは、運命か、それとも結果論か? 人間原理宇宙論は結果論に近い。
 メキシコ湾に落ちたと思われる大隕石(あるいは彗星)が恐竜を絶滅させたという。私はこれには納得していない。恐竜はは虫類で、気温の急激な変化と主原因として、活動が低下し、動けなくなり、絶滅したというのである。でも、今でもは虫類は生き残っている。ライオンとかシマウマサイズのあるいは、もっと小さな恐竜もいた。それが、現在のは虫類の祖先と考えるならば、絶滅とは言いがたい(何も、アカンバロの恐竜土偶を肯定するわけではないが)。
 話がそれた。人間原理で考えれば、単純なことである。「結果、そうなったに過ぎず、人間が過去の原因を特定したにすぎない」ということである。彗星が地球に降り注ごうが、今、人間が地上にいて、宇宙を観測している以上、「そういう過去もあった」と「結果」そうなるのである。
  「結果を原因の説明に使う」とも言われる、人間原理だが、どう思われるだろうか?





   人間原理宇宙論の弱点 (2001/6/2校了)

  人間原理宇宙論を突き詰めると、人間が宇宙の歴史を作り出し、そして、これからも人間に都合のよい宇宙状態というものが現れるであろう、ということを言うことが可能となる。
  人間は宇宙(世界)でそれだけの特権階級にあるのだろうか? 宗教論や道徳論などを持ち出すつもりは一切無い。しかし、人間がこれだけ宇宙に関与している理由を考えることは重要であろう。
  人間が宇宙を認識しているからだろうか? しかし、これは人間以外に宇宙を認識できる生命体がいないことが大前提となっている。異星人も高度なAIをもったロボットなどを否定することになる。例えば、もし、バーナード星(生命が存在しうると考えられる惑星を持つとみられる星)に、人間と同等以上の生命体がいたとして、その生命体にとっても宇宙は都合がいいはずである。そうなると、この2つの生命体にとって、宇宙は都合がよい状態にあると言えることになるし、その生命体が宇宙の歴史を作ったのかもしれない。これは無限に増えていくこととなり、人間原理宇宙論は「知的生命体原理宇宙論」となるかもしれない。
  こうなると、人間原理宇宙論は破綻しかねない。つまり、宇宙の歴史の規定者が複数いることになり、その全てに都合のよい歴史でなければならない。それは不可能に近いであろう。
  人間原理宇宙論はどこへいくのであろうか?






   人と星 (2001/7/13校了)

  今回は「人間原理」から少し離れて、人と星との関係について、少し書きたいと思う。
  星にまつわる話を持たない文化や民俗があるのだろうか、と思う。夜になると現れる無数の星々を見なかったはずはない。そして、物語を与えていった。
  その一つがオリエントで始まった「星座」の物語であろう。これは中国でも行われ、観測できる星のほとんどに意味付けがなされていった。
  面白いのは、オリエントの星座が神話に結び付けられていったのに対し、中国では天は神がいるところであると考えられていた。だから、「厠(トイレ)」(現在のうさぎ座付近)など、生活に関わるものや、「天廟」(現在のらしんばん座付近)など天帝にまつわるものもある。有名な「狼星」(シリウス)の側には、柵で囲まれた「野鶏」が居たりもする。
  日本では、あまり星座の話は発達しなかった。『枕草子』の「星は」で始まる段では、恒星では昴と彦星だけが挙げられている。シリウスや、こと座のヴェガ、おとめ座のスピカ、しし座のレグルス、おうし座のアルデバランなど明るい星については触れられていない。「星は」で始まるこの段では、他に宵の明星と彗星があげられているのみである。彗星を「夜這い星」と呼んでいるところが面白い。
  これが清少納言だけの呼び方かは、わからないが。
  ところで、夜飛ぶ渡り鳥の中には星の位置から方角を知るものもあるそうである。人間も星図を使って昔から航海をしていた。太平洋のある島に住む人たちは、木の枝やつるなどを使った主要な星を示す地図を持って、カヌーなどで海に出ていた。
  星にそれ以上の意味を与えたのは人間だけである。星の物語は人間の空想力を満たし、また、星を知るための学問を作り出すことにもなった(占星術に関しては後日書く予定)人が星に物語を、意味を与える。人間が宇宙の中心だった時代の出来事である。
  「人間原理」もこれに似たところがある。「人間原理」が壮大な物語かは、わからない。だが、興味深い物語である。しかし、私は「人間原理」を単なる「物語」とは思わない。
  それは人間が星を見つづける限り、必然的に出てくるものだと思う。つまり、「人間原理」は現代の科学が作り出した、新しい「星の物語」なのである。





   フレッド・ホイル卿を悼んで (2001/8/23校了)

 天文学者フレッド・ホイル卿が20日、86歳で逝去された。
  ホイル卿といえば、ビッグ・バンの命名者であり、頑固なまでの定常宇宙論(後述)を主張し、『暗黒星雲』『10月1日では遅すぎる』などのSF小説を書いたことで知られる。
  定常宇宙論というのは、宇宙には始まりも終りもなく、今、観測している状態で、ずっと在り続けるという理論である。「ビッグ・バン理論」はジョージ・ガモフなどによって、提唱されていたものの、 ビッグ・バン理論の欠陥や宇宙の始まりという問題などをはらんでいたために、定常宇宙論に十分に勝てるものではなかった。もちろん、定常宇宙論にも弱点がなかったのではない。
  ハッブルなどの観測によって、宇宙が膨張していることは事実だった。膨張する前の状態へ時間を遡れば、一点に集中するはずである。ビッグ・バン理論の発想元の一つである。定常宇宙論も宇宙の膨張は認める。しかし、宇宙が同じであるならば、宇宙の密度は膨張するにつれ、薄くなる。
  それではまずいので、「C場」(CはCreationのC)というものを作り、無からエネルギーが生じ、そのエネルギーが宇宙の密度を一定に保っているとしたのである。無からのエネルギー創造、エネルギー保存則に反するが、発生するペースが真空1リットルあたり、5千億年に陽子(原子を構成する物質の一つ)が1個現れればいいという、あるいは、同じ量のうちで10億年に水素原子が1個現れればいいという実験のしようがないものだった。ホイル卿は「彗星生命起源説」(彗星が生命の元を運んで来たという説)を唱えた人物であるから、飛躍的な発想が好きなようである。
  ともあれ、ビッグ・バンのライバルであった定常宇宙論は、3K背景輻射(宇宙誕生期に宇宙を満たしていた熱の名残り)の発見によって、ビッグ・バンの実証的な証拠が発見されたため、一気に衰退していった。ホイル卿はその後も、定常宇宙論にこだわった。1990年には、共同執筆の「定常宇宙論」を主張する論文が『ネイチャー』に掲載された。
  ホイル卿は「人間原理宇宙論」で重要な重元素の生成の際の共鳴状態を予測した。ホイル卿のように考えれば、人間が見ているように宇宙がある。そして、宇宙はそのままである、といえるかも知れない(かなり強引だが)。逆に、人間原理の祖ディラックが唱えた大数仮説(いくつかの宇宙の基本的な数値に10の39乗という数字が関わっているという説)に対する批判、無からの創造が起こる、という批判にホイル卿が影響を受けていた可能性もある。
  ホイル卿の定常宇宙論への愛着(あるいは執念)の源がどこにあったのかは、知る由もないが、その反骨精神には、見習うべき点もあるかもれない。

    参考文献:『別冊宝島116 宇宙論が楽しくなる本』JICC出版局:1990年
           『別冊宝島138 宇宙論が怪しくなる本』JICC出版局:1991年

    補:『別冊宝島138 宇宙論が怪しくなる本』の「定常宇宙論は死なず」はスリリングで面白い。





   星に願いを (2001/9/23校了)

  人は星に影響されていると考えられてきた。西洋黄道12星座占星術(いわゆる星占い)がその典型であろう。人は星に何を願い、思いを込めるのか?
  ふと、星空を見上げると、そこには確かに人智を超えた何かがあるように思える。カントは『実践理性批判』の結語において、「わが上なる星しげき空とわが内なる道徳法則」が「つねに新たにいやます感嘆と畏敬とをもって心を充たすもの」と述べている(言葉の意味の考察は割愛)。アリストテレスは、知ることは驚きからはじまる、というようなことを述べた。
  1年経てば、同じところに戻ってくる星々。人はそれを経験から知り、そして、観測し始めた。
  天文学は長い歴史を持つ学問である。
  そして、星に物語を与え、意味を付与し、星と人を結び付けていった。人が亡くなって星になる、これも無関係ではあるまい。
  満天の星空は、恐怖すら憶えることがある。広い宇宙にただ一人、ということを感じるだけでなく、星が迫ってくるように思える。人は星の下にあるのだと、自然と思えるようになる。
  星に思いを、願いを乗せる。星に祈り、世界を見る。
  人の望みを乗せて、星は巡り、あるいは流れていく。
  小さな煌きに、大きな夢を見る。
  人は連綿と、それを続けてきた。人が願いを持つ限り、それは続いていくであろう。

    引用文献:『カント全集 第7巻』岩波書店:2000年 





 世界はどこに在るのか(3) (2002/3/3校了)

  アイルランドの哲学者G.バークリ(1685‐1753)はイギリス経験論の一人として知られている。彼は主著『人知原理論』において、「存在するとは知覚されること」と書いている。つまり、目の前にある机や椅子などは、私がそれを知覚する(見たり、触れたりする)ことによって存在するのだと主張するのである。知覚されないものが存在することを認めなかったのである。
  以前、挙げたアインシュタインの話、「月は誰も見ていないときにはないのか?」という議論を思い出す。バークリはこれに対して、こう答えるであろう。「神が知覚している」と。しかし、現代科学では、一応、神という超越的な存在抜きで考えるので、以下の話も神抜きで進める。
  「存在するとは知覚されること」というのは、人間原理宇宙論に近いものがある。人間原理宇宙論に拠れば、人間が宇宙の姿や歴史を決定してきたのである。そして、突き詰めれば、人間がいるから、宇宙がある、ということになる。こういう考え方を「主観的観念論」という。この考え方の代表者がバークリであり、ドイツ観念論のフィヒテである(単純に括るには問題があるが)。単純に言えば、「私がいるから、世界があるんだ」ということである。エゴイスティックな論かもしれない。しかし、視点を変えれば、「何か物があって、それを我々が感じ取っているのか」、「我々が感じているから、物があるのか」という物の見方のいずれかを選択するか、ということである(認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う、という転換をしたのがカントで、これを「コペルニクス的転回」と呼ぶ)。
 人間原理宇宙論は「我々が感じているから、物がある」、つまり、「我々が観測しているから、宇宙がある」ということにつながるものである。量子力学での観測問題あるいはコペンハーゲン解釈などとも関連するであろうが、これについては日を改めて述べる。
 簡単に言うとこういうことになる。ある人が目をつむって、とある部屋の中に立っている。目をつむったまま、その人は手探りで動き始める。そして、ふと、手が何ものかに触れた。この時に、その人にとって、初めて「もの」が存在することに気付いたのである。さて、「触れたから、ものがあったのか」、「ものがあったから、触れたのか」? 「存在するとは知覚されること」から考えると、「触れたから、ものがあった」ということになる。
  もし、世界がこのように成り立っているとしたら、どうして、違う知覚を持っているはずの複数の人が「同じ物」を見ることができるのか、という問題が生じてくる。人間原理宇宙論もこの問題をはらんでいる。「人間」といったところで、数十億いる「人間」が同じ観測をしているとは限らないのである。このような問題を考える哲学分野もある(後日にまわす)。
  上記のような問題を含んでいるとはいえ、「存在するとは知覚されること」という考えは、世界を知っていく上では重要である。赤ん坊や幼児が、ものを口にいれたり、いろいろ触りたがるのは、そのものを知るためであるという。そうやって、赤ん坊や幼児の世界は広がっていくのである。そこに「世界」があるのである。





 小まとめ (2002/7/7校了)

 ここらで、一度、話の全体をまとめてみる。
 人間原理宇宙論は考え方によって二つに分けられる。「強い人間原理」と「弱い人間原理」である。前者は、宇宙の発展段階のどこかで宇宙を観測する者が登場するというものである。後者は、観測内にあるものは観測者が存在することの必要条件を満たさなければならないというものである。後者をさらに詳しく言えば、まず、宇宙の膨張のスピードが現在のそれよりも速くても、遅くても、人間が登場できる条件を満たせない。また、宇宙の年齢も今ぐらいの年齢でなければ、必要なエネルギーや物質の面で問題が出てくるのである。
 宇宙の歴史や姿というのは、それを観測している人間によって条件付けられているのである。なぜならば、宇宙が観測する人間に都合のよい状況でなければ、宇宙は観測されず、宇宙の歴史も姿も知られないからである。人間がいない、観測者がいない宇宙を想定することは可能である。しかし、ここではその想定は必要ない。「弱い人間原理」に従うと、観測者は必然的に存在するからである。
 人間は宇宙を見ることによって、宇宙の諸法則を定めてきた。しかし、例えば、ビッグ・バン起こった瞬間0秒の状態は未だに分かってないし、宇宙の年齢すら定まっていない。とはいえ、人間が宇宙の中にいることについては、さほど意味がないことであろう。今、ここに人間がいるのは、宇宙が人間に都合がよいからではなく、人間が宇宙を観測できるからである。起源や終末に関しては、人間はおそらく関われないであろう。「世界は人間なしで始まり、人間なしに終わる」と著名な人間が言った(レヴィ=ストロースだったか?)。人間原理でもこの点は認めるだろう。しかし、宇宙の歴史を定めたのは、観測する人間なのである。その始まりと終わりに人間がいないだけである。
 とはいえ、人間が宇宙の中心であり、世界を定める、ということを曲解し、横暴になってはならない。むしろ、世界を定めていくという重荷を、重責を感じて、世界に対して謙虚であらねばならないであろう。因果応報の世界では、良いことも悪いことも全て、行ったものに帰ってくる。
 世界が人間の観測によって不確かなものであろうと、確率論的なものであろうと、今、私がここにいる、という事実は変えることはできない。
 人間原理宇宙論のテーゼを直接的に理解すれば、宇宙の中に観測する生命体が必ず存在する、ということであって、人間がいるから世界がある、ということには必ずしもならない。しかし、観測者が宇宙を観測することによって、宇宙の姿は明瞭になる。私が今ここにいることは、偶然ではなく、宇宙の中での観測者として必然的に存在していることでもあるかもしれない。「事象は観測されることによって、はじめて存在する」という量子力学的な考え方を持ち出せば、宇宙が存在しているのは、私が宇宙を感じ取っているからかもしれない。私が死んで、宇宙を感じ取れなくなれば、宇宙は存在しない(私にとっては)。
 世界は目の前にある。主観的にか、客観的にか、宗教的にか、科学的にか、は問わない。ここにあるという事実だけがあるのである。





 見ているものと見られるもの (2002/12/9校了)

  著名な哲学者の著作とは何の関係もありません。
  
  「人間原理宇宙論」では、「観察する」ということが重要な位置を占める。
  見なければ、見られる対象はない。つまり、観察者と観察されるもの、見るものと見られるものが重要なのである。
  「世界はどこに在るのか(3)」で書いた、バークリのように、やはり見なければ物はないのか?
  人が世界を感じなくても、見なくても、物は在る。こういう考え方を(ちょっと強引だが)唯物論という。物があってはじめて、それを感じ取れる、という立場である。日常的な立場と言えるであろう。
  感じることが先で、感じるから物があるというのが、大雑把に言えば、観念論ということになる。
  さて、「人間原理宇宙論」は、どちらかといえば、観念論的である。
  そして、、「観測されることによって、事象は初めて存在する」という量子力学の考え方の一つも観念論的である。
  だが、これは、単に哲学的な意味での観念論というわけではないであろう。
  現代科学では、実験的に確認できないことは事実として認定しない、という態度を取っているために、「観測という実験によって確認できないことは、事実として存在しない」ということに、基づいていると考えられる。
  この態度は非常に重要であろう。
  例えば、「幽霊を見た」ということがあったとしよう。しかし、幽霊は科学的に未だに立証されていないので、科学的には「事実ではない」のである。ここでは、「幽霊を見たから、幽霊は居る」という考え方が重要である。
  つまり、「見たから、在る」という考え方である。
  唯物論的な考え方をすると、「幽霊が居るから、幽霊を見た」ということになるであろうか。唯物論での「幽霊」や「超能力」の論議を十分に読んだことがないので、これ以上、私は語れない。
  一応、「見たから、在る」という話を進める。
  この態度を推し進めると、幻覚の対象さえ、存在しかねない。夢の中の対象も。
  しかし、それを考えると混乱がひどくなるので、ここでは、ひとまず、素面の時に、安静な状態の時に、見たものが存在するとしよう。
  つまり、日曜の午後、小春日和の縁側で、お茶をすすりながらくつろいでいるときに、科学的に立証できないものを見たとしよう。
  それは、存在するのか?
  私は、存在すると思う。
  見られたものは、見たものにとっては存在するのである。
  かなり逃げている言い方だが、「見られることによって、存在する」ということから考えれば、少なくとも、「見た」主体に対しては、存在しているのである。
  ここで、以前書いた弱点が現れる。
  別々の人間が、何故、同じものを見ていると考えることができるのか?
  現象学の間主観性という、複数の主観の間で一つの主観があるような働きを想定しなければならないのか?
  これは科学では立証できないであろう。
  「人間原理宇宙論」は、科学とは言えないであろう。むしろ、思想に近いであろう。
  だが、科学の中で、この考え方は重大な位置を占める。
  それは、何故、この宇宙に、人間が存在するか、という人間最大の科学的証明に対して。