「再婚したいの」
お母さんがいたずらっ子のように、はにかんだ笑顔で言った。
「へぇ。再婚ねー」
雑誌のページをぱらぱら数枚めくる。
そうなのか。
再婚したいのね、お母さん。
あ、このスカート可愛いなぁ。
……。
って、再婚?
再婚ですか?
あたしはさらりと言われた重大な事実にやっと気がついて、雑
誌をめくる手を止めた。
「……それは、また、突然な話ね」
「そうでしょう。ちづるちゃんを驚かせようと思って」
いや、あのね?
驚くなんて生易しいほどの衝撃じゃないのよ。
もう、めんたまが飛び出そうなくらいなんだから、ほんとうに。
そもそも、お母さん。
あなた、いつ男の人と付き合ってたのよ?
あたし全然知らなかったわよ。
なんだか、うまく頭の整理がつかなくて、一瞬だけ脳内がフリ
ーズしてしまった。
パソコンじゃ起動時間がかかるけど、あたしは人間だったから
けっこうすぐに元にもどってしまう。
あぁ、いっそのこと、パソコンだったらよかったのに。
そう思いながらも、話をとりあえず先に進めようと思った。お
母さんにまかせてたら、肝心なことはいつになっても話してくれ
ないような気がしたからだ。
「お相手は誰? あたしの知ってる人?」
「あら、驚かないのね。もっと驚いてくれてもいいのに」
お母さん、娘のどこ見てたんですか。
表情がきっちり三十秒間も固まってたでしょ。
つっこんでやりたかったけど、労力のむだなのでやめといた。
だって、これから頭が痛くなるような問題が次々と発生しよう
としてるときに、お母さんののんきな性格につきあうだけの気力
は一切なかった。
「で、誰なの?」
「そんなこわい顔しちゃいやよ」
キッと強気でにらむと、お母さんは少しうるっとした。
あたしはその表情に、少しだけひるんでしまう。
お母さんのこの顔に、あたしはとてつもなく弱かった。
女手ひとつで育ててくれた恩を毎回、いやというほど感じてし
まうからだ。こんな表情されると、申し訳ない気持ちになって、
どんなことでもなかったように水に流してしまう。
だけど、ここで引き下がるわけにはいかないのだ、今回だけは。
「で、誰だっつってんの」
お母さんはしばらく考え込むように、あたしから目をそらした。
お母さんのその行動に、あたしはますます疑問が募る。お母さ
んは一体、誰と再婚しようとしているのだろうか。ふつうに考え
たら、相手がただのサラリーマンには思えないような、何かがあ
りそうだった。
違和感を感じ取り、再婚に反対しかけたその時、お母さんはあ
きらめたように、はあ〜っと深いため息を吐いた。
「お母さん」
お母さんは目をあわせようとしない。言うことを拒絶している
ようだった。
あたしはむっとして、
「お母さん」
さらに強い口調でせまった。
お母さんが仕方なさそうに、やっと目を合わせて、
「……知ってるもなにも、お隣の藤堂さんよ」
と、言いにくそうに、小さな声でお母さんは言った。
「冗談、よね?」
あたしは聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、あ
ははと白々しい笑い声をたてる。
今度という今度は、失神をまぬがれただけでもえらかったわ、
あたし。
「違うわよ」
自画自賛してみたところで、現実にいやでも引き戻された。
くらっと大きく、めまいがし、なんとか体勢を立て直す。
「今日はエイプリルフールよね?」
「なに言ってるの? 今日は十一月二十六日よ。ちづるちゃん
の誕生日じゃない」
撃沈。
「もう、いやだなぁ。お母さんも娘をおどろかせようとわざわざ、
とびっきりの嘘をつくなんて。お母さんもいつまでも若いわね。
啓二と義兄弟なんて、きっつい冗談はいただけないわぁ」
「ちづるちゃん。私は本気よ? 冗談でごまかそうとしないで」
お母さんが真顔で言った。
ええ。いっそのこと、すべてが冗談だったですむのなら、あた
しは何だってするわよ。
家事一ヶ月、いいえ、一年まるごと請け負ったっていいくらい。
それくらい、いやだった。こっちも本気だ、大真面目に。
「本当に再婚するの?」
「そうよ」
「まちがいなく?」
「間違いなく」
「……啓二と本当に義兄弟なんかになっちゃうの?」
「そりゃ、なっちゃうわよ」
「…………」
「ちづるちゃん?」
今、たった今、あたしの中で何かがはじけた。
例えてみるなら、それはパンドラの箱とまではいかなくても、
地雷のようなもので、もののみごとにお母さんは踏んでくれたの
だ。
唇がわなわなと震える。
お母さんは急にだまった娘を不思議そうに見ていた。
「……ぜったいに」
「え?」
「ぜったいに認めてあげないんだから! 再婚? あたしはいや!
絶対にいや! いやったらいや! あいつと家族になれって言う
の? 冗談じゃない!」
「ちづるちゃん、落ち着いて」
「落ち着けるわけがないじゃない! もういい! この再婚、考
え直さない限り、絶対帰らないからね!」
近くにあった自分のかばんをひったくるようにつかんで、ドア
をおもいっきり閉めた。
逃げ出すように、ただがむしゃらに、目的地も決めずに走る。
お母さんがあわてて追いかけてきたけど、陸上部のあたしに追
いつくはずがなくて、家から二百メートルくらいのスーパーあた
りでうまく巻いた。
あたしはお母さんがいなくなっても、走る速度を緩めたりなん
かできない。
お母さんはすぐに家に引き返して、啓二のおじさんとあたしの
追跡をはじめるだろう。
あっちは大人二人組、しかも車。
こっちはただの十八歳で、この足だけでしか勝負できない。
だったら、一分一秒でも早く遠くへ行かなきゃいけなかった。
悪あがきなんてへたなことは今すぐにでもやめるべきなんだと、
頭ではわかっていても、こころがそれをわかってくれない。
どうやったら理解なんかできるというのだろうか。
親の都合で啓二と義兄弟になるなんていう、人生最凶のジョーク。
自虐的に薄く笑って、あたしは走り続けた。
まわりの風景が高スピードで流れていく。
脇見もふらず、ただ足を動かし続けた。
街灯があたししかいない道を照らし、ぽつぽつと闇に点在して
いた。
冬の夕飯時なんて、外には誰も出ていないようで、あたしには
好都合だった。人っ子一人いないから、お母さんたちは通行人か
ら娘の行方を知ることができない。
冷たい、氷のような空気があたしのほほを突き刺し、ぴりぴり
と痛んだ。耳も、そこだけが急な温度差ができたかのように、感
覚がマヒしていた。
近所の郵便局と小さな公園を目の端でとらえて、自分が今どの
方向に向かっているか、ここにきてようやく見当がつく。
どうやら、あたしは家からまっすぐ南に走っているらしい。
こっちの方角には繁華街があって、今の時間帯だと人通りも多
い。ということは、雑踏にまぎれて、完璧に行方をくらますチャ
ンスだった。
あたしは走るピッチを上げる。
繁華街まではあと五百メートルくらいだった。今追いつかれる
と非常に不利になってしまう。
お母さんにはわるいけど、捕まる気なんか毛頭なかった。
突然、お隣さんと再婚したいだなんて言いだすお母さんがいけ
ないんだ。
あたしは断じてわるくない。
だって、お母さんは知ってたはずなんだから。
お隣りさんの藤堂さんとこの息子こと、藤堂啓二とあたしが昔
に付き合ってたことぐらい。
あんな別れ方して、今となってはあいさつすら交わさない間柄
なのに。
それがある日、義兄弟になるからなんて言われても困る。
こっちとしては、お母さんがどんだけ啓二のおじさんを本気で
愛してようと、応援なんかしてあげる気なんかまったく無かった。
あいつと義兄弟になるなら、いっそ死んだほうがマシなのだ。
高校が別々になってからやっと、顔をあわせずにすんだってい
うのに。
なんで、こんなことになっちゃったんだろうか。
失恋の痛手から一年もかかって、やっと立ち直ったっていうのに。
最近なんか新しい彼氏もできて、すべてがうまくいってたかの
ように見えていたのに。
なんで?
なんでこんなことになっちゃうんだろ。
熱いものがこみあげてきて、嗚咽をもらす。
温かい液体がほほを次々とすべり、止められなかった。
もう、最悪だ。
視界は涙でにじんでぼやけるし、きっと今、あたしはすんごく
ぶさいくな顔してるだろうし。
どうして、こんなことになってしまったんだろうか。
いつもそうだ。いいことが重なると、次は必ずわるいことが降
りかかってくる。
啓二とのこともそうだった。最初はうまくいっていた。
だけど、だけど。
気持ちを紛らわすかのように、あたしは走り続けた。
夜の繁華街が見えてくる。
それは希望の光というより、まるで闇の中で唯一息がつける休
憩所みたいなもんだった。
人々はあの電子の光を求めて集まり、性欲や空腹や虚無感を抱
えてやってくる。
女を買いたい男、買われたい女。
おなかをぺこぺこに減らした会社帰りのサラリーマンやOL。
人肌が恋しいのを隠したいがために、人の多いところへと無自
覚に集う少年たち。
ここはたくさんの人間が集まる、ひとつの大きな都市だった。
あたしは例外で、その中に性欲や満腹感なんて求めてなんかい
ない。
でも、大勢の人の陰にまぎれたい今のあたしは、少年たちと同
じ、ある種の虚無感を抱いているのかもしれなかった。
息を切らしながらやっと着いた繁華街の入り口で、そう思った。
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