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2.『こがね丸』とその周辺
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 ●小波の生立
 ●『鬼車』のこと
 ●『こがね丸』とその時代
 ●『こがね丸』とその反響
 ●『こがね丸』とその読者層
 
●小波の生立
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 巌谷小波は本名を季雄という。一八七○年(明治三年)六月六日、東京麹町谷町武家地ー三軒家坂上(現在の千代田区永田町一丁目及び平河町二丁目。三宅坂から赤坂見附へ通じる坂の上のところ)で生まれた。父は巌谷修。もと近江水口藩医で、明治維新とともに新政府に招かれて、太政官の内吏をしていた。のちに貴族院議員になっている。明治新政府の高官である。生母、八重子は十月に肺炎で急死し、その後は継母、茂登子にそだてられることになる。十五、六才になるまで継母とは気づかぬほどに愛されたという。三男三女の六番目の子である。
 小波は七才のときからドイツ語を習いはじめている。長男の立太郎が採鉱冶金学の研究、次男の弁次郎が他家の養子になったために、三男の季雄が家業の医者の道を継ぐようにと育てられたためである。その後、十二才のときに医学予備校に入学、十五才のときに独逸学協会学校、川田甕江塾に学んでいる。
 しかし、季雄は十四才ごろから医学の道にすすむのを嫌い、文学に興味をもちはじめる。父や、それ以上に長兄立太郎は、これに強く反対し、ようやく家族から文学の道にすすむことが許されたのは十九才のときであるという。
 小波の父の修は一六居士と号し、明治三筆の一人といわれたほどの書家であった。父やそのまわりの人々の影響などもあって、小波は文学的な教養をはやくから身につけていたわけである。小波自身のことばでもって、その辺の事情を語ってもらおう。「お伽身上話」(「世界お伽噺」第八十七編『樽の太郎』付録、博文館、一九〇六年)の中で、小波は自分が少年文学を好くに至ったか理由について、次のように語っている。
 
 実際僕の子供の時分は、乳母、日傘と云ふ程でも無いが、兎に角のんきに育てられたものだ。
 で、両親の寵を一身に負ふた上に、更に祖母さんと云う、大層僕を可愛がつてくれた人があつた。この人わ、元と御所に御奉公をして居た丈に、頗る文学趣味に富んで居たが、そのまた召使の老女に、これも何所かの御殿に居たと云うので、大分博識の女が居た。そこでこの二人が、交る交る僕を捕えて、いろいろなお伽噺を話して聞かせた。僕わまたこのお伽を、一生懸命に利いたのである。
 
 一方で八才からドイツ語を習うなど西欧的な教養を身につけ、またもう一方では祖母や父から短歌俳諧、漢文学の素養も受け継いできた小波が、文学少年へと傾斜していったのは当然のなりゆきであったのかもしれない。ともかくも、小波の和漢洋におよぶ素養が、のちに『日本昔噺』『日本お伽噺』『世界お伽噺』といった広大なメルヘンの世界をつくりだすことになるのである。
 一八八七年(明治二〇年)、一八才のとき、小波は硯友社同人となっている。硯友社というのは、一八八五年(明治十八年)二月に尾崎紅葉や山田美妙らを中心として結成された日本最初の文学結社である。『我楽多文庫』を機関誌として、雅俗折衷体や言文一致体という、当時としては最先端の「新しい文体」の創造をめざしていた集団であったといってもいいだろう。
 その『我楽多文庫』を発表の場として、小波は、次々に作品を書いていった。一八八七年六月に初めての小説「真如の月」を連載、翌一八八八年五月には「五月鯉」、十二月からは「鬼車」を連載するといった具合である。そして、一八八九年(明治二二年)には、『初紅葉』(「五月鯉」を改題、春陽堂、四月)、『鬼車』(春陽堂、五月)、『妹背貝』(吉岡書店、八月)と、たてつづけに三冊の本を出版している。
 明治二十年代という、時代も人も若かったときにあっても、小波の、この文壇への登場の仕方は華々しかったにちがいない。人々は、小波の作品がどれも子どもを描いていたところから、半ばは認め、半ばは冷やかしで、小波のことを「文壇の少年家」と呼んだという。が、これなども、小波が生まれながらにして子どもの本の作家であったということの証明のようなものだろう。
 ちょっと余談にはしるが、『初紅葉』は初めて顔に紅葉する、つまり赤らめるというほどの意味である。川田甕江塾に学んでいたとき、小波は甕江の三女綾子に恋をした。もとより受け入れられるものではなかったが、この初恋物語を土台にして書かれたのが「五月鯉」改め『初紅葉』である。後に、小波は綾子に求婚し、断られている。また、そのことに憤慨した尾崎紅葉がこのエピソードをもとにして、後日『金色夜叉』をかいたという。 この辺に眼を据えた伝記としては、巌谷大四の『波の跫音ーー物語・巌谷小波略伝ーー』(新潮社、一九七四年)が詳しい。
 その中に、小波がその頃はやっていた新体詩の真似をして書いた「新月」という詩が載っている。
 
 三日の眺めぞ一入と 思ふ今宵の月魄は
 ああ美しああ美し 天津乙女の眉かもそ
 
 池の鏡にその姿 写して笑うさざ波の
 ああ面白ああ面白 さながら織れる綾錦
 
 笑うさざ波織る綾も 絶えてしばしはかか る雲
 ああ恨めしああ恨めし げにや浮世の是非 も無き
 
「ここに初めて「さざ波」が出てくる」と、巌谷大四はこの詩のあとの言葉をむすんでいる。
 
●『鬼車』のこと
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 一八八九年(明治二二年)にたてつづけに出版された『初紅葉』『鬼車』『妹背貝』の三冊の本は、どれも子ども向けのものではなかった。しかし、その中で、『鬼車』はオットーの童話集の中の一篇を翻訳したもので、のちに『こがね丸』へとつながる要素をはらむ過渡的作品として目をひくものがあった。『鬼車』は、一八八八年(明治二一年)十二月から翌年の三月にかけて『我落多文庫』に四回にわたって連載されたもので、小波としては、まだ子どもを対象として書いたものではなかった。とはいえ、これは、結果として小波が世に出した最初のお伽話の本ということになる。その点でも、注目すべき作品であった。文体も、他の二篇が言文一致で書かれているのに対して、奇しくも『こがね丸』と同じ雅俗折衷体で書かれていた。これなども、妙に『こがね丸』と符号していて、興味をひくところである。
 また、『鬼車』の底本となったオットーの童話集は、小波十才のときに、長兄立太郎から贈られたものである。立太郎は、小波を医学の道にすすめようとして、そのためのドイツ語練習用にと、かって自らのドイツ留学中に、小波のもとへこの本を送ってきたという。小波が文学の道に進むことに最も強く反対していた長兄の贈った童話の本が、かえって小波をして文学の道に進むきっかけをあたえてしまったということになる。皮肉なことである。小波自身も「お伽身上話」(前出)の中で、そのことにふれて次のようにいっている。
 
 兎に角このオツトウが、確に薪の油と成 つて、僕の少年文学熱わ、大分度を高めつつあつた所え、一方で独乙語を学ぶ様に成ると、初めわ見て許り居たオツトウを、勢い進んで読む事に成る。読めば一層興味を感じて、果わ矢も楯もたまらず、廻わらぬ筆で真似をしたくなる。実に僕の処女作、即ち十五の年に作つた一編わ、全くお伽噺だつたのである。
 
 ここで小波が処女作といっているお伽噺は『鬼車』のことではない。「一珍可笑夢」「かちかち山後日譚」の二篇のことである。「一珍可笑夢」は、蛇、蛙、なめくじの三すくみのような純日本風な教訓譚で、小波の生前には発表されなかった。「かちかち山後日譚」は、その後手を入れて、「新五大噺」の一つとして発表された。いずれにせよ、小波が初めて書いた作品が、すでにお伽噺であったという事実もおもしろいことである。ともかくも、小波の最初のお伽噺の本という栄誉を担うことになったのは、『鬼車』であった。そして、オットーの童話集の翻案とはいえ、その語り口はすでに完全に小波のものになりきっていた。文語調の、その冒頭をちょっとみてみよう。
 
 我国なれば黄門様の這入りし八幡の薮、唐土なれば李生の迷ひ込んだる甲陽洞、それによく似た魔界話、時代は確かにわからねど、いづれ昔し昔しのことなるべし、英国のある処にいと大いなる林ありけり、昔よりの云い伝へに、此の林へ一度足を踏み込んだ者は忽ち行衛を失ふて再び帰り来る者 あらずとて、土地の者は之を〓森地獄〓と呼び、誰一人り分け入るものもあらざりし、
 
 オットーの童話集の翻訳とはいっても、最初の「我国なれば黄門様の這入りし八幡の薮云々」というくだりをみてもわかるように、これは完全に小波の文体である。文語調といっても、決して渋々していて読みにくいという代物ではない。むしろ、その語り口は調子がいい。当時としては読みやすい部類にはいるものだったにちがいない。
 『我落多文庫』に載った『鬼車』の「連載予告」もどこかとぼけていておもしろいので、みてみよう。
 
 鳥渡ここで愚息のお引き合せをいたします。
 かねて独逸文学研究のため、同国サイヤン州ワイマル府に留学致させおきました愚息(せがれ)カクレン坊事、この度帰朝いたし梁山泊へ仲間入りいたしました故、校名状として次号より、何か独逸土産の面白い話を訳さして御覧に入れます。尤も坊やのことですから、乳臭いところは幾重にも御勘弁被下、どうか御贔負を願います。
        カクレン坊オヤ漣山人拝
 
 『鬼車』はカクレン坊という署名で書かれたものだが、このとぼけた「予告」をみて、その小波がのちに『世界お伽噺』を書いて世界の文学の再話の基礎をつくったことや、実際にドイツのベルリン大学付属の東洋語学校に講師として招聘されたことなどを考え合わせると、えにしの不思議さを思わずにはいられない。
 『鬼車』の物語は「地獄森」にすむ一つ目の妖怪が王にとらわれるところから始まる。その妖怪を助けた王子が城を追われることになる。しかし、王子は妖怪の助けで成長し、ついには美しい姫を手に入れる。一国一城の王になる、という話だ。『鬼車』の語り口は、それから二年後に発表され、日本の児童文学の出発点ともなった『こがね丸』の語りを彷彿させるものがある。
 その内容も、『こがね丸』の主人公のこがね丸が、自ら危難をきりぬけるというよりは、ほとんど牝牛の牡丹に養われ、助けられていたのと同じように、城を追われた王子は、すぐに一つ目の妖怪の助けをあおいでいる。主人公の冒険、成長、立身の物語でありながら、つねに力強い保護者的存在がいる。このあたり『鬼車』も『こがね丸』も、全く同じである。王子が妖怪の助けを呼ぶくだりを、ちょっとみてみよう。
 王子は城を追われ、冬の「地獄森」に捨て去られる。夜になる。王子は、郷愁と寒さと恐ろしさとに打ち震える。その場面だ。
 
されども今更せん方なし、吾家へは元より帰れず。助くる人を呼ばんにも、答ふるものは木枯か、時告る鐘か、塒の、鳥か、恐ろしき獣か、先刻来りし狼か、まだ奥に棲む獅子か、虎か、……まだ恐ろしき此の森の主、彼の一眼の妖怪か。……〓オ、一眼の妖怪。吾には恐ろしき妖怪ならず。彼には吾も恩人なり。ーーそれよ彼の時もらひし笛(呼子の笛。吹けば彼来ると云ひしが。……よしよしいで試みに……〓
 
 王子は試みに笛を吹く。妖怪は音もなく忽然とあらわれる。妖怪は王子を肩車に乗せ、とある穴に飛び入ると、思う間もなく、そこは見事な城の入り口だった。ストーリーはとんとんと調子よくすすんでいく。現在の視点でみると、王子がいとも簡単に「笛」を吹いてしまうあたりは容易にすぎてひっかかるところである。この「笛」は、かの妖怪が王子に助けられたときに、「もし此後必死の場合に望み給ふ時あらば、此の笛を吹き給へ、さすれば我直ちに出でゝ和子が危急を救ふべし」といって、手わたしたものである。リアルな作品を読み慣れているいまの眼でみると、森に入ったばかりの王子が「必死の場合」に直面しているとは、なかなか思えないところである。しかし、小波は、王子に簡単に「笛」を吹かせている。
 しかし、そのような細かいことにとらわれることもないのであろう。もしかしたら、王子にとって、城を出ること、自らの家を失うこと自体がすでに危機だったのであろう。そのような危機を一人の大きな〈保護者〉の力でもって切り抜け、ついには成功するという典型的な物語のパターンを、安心して楽しむことこそが、小波の目的だったにちがいない。そして、物語のこの基本的な構図はそっくりそのまま『こがね丸』へと受け継がれていくことになるのである。小波十九才のときである。
 
●『こがね丸』とその時代
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 『こがね丸』は、叢書「少年文学」の第一編として博文館から出版された。一八九一年(明治二十四年)一月のことである。
 蘆谷蘆村は、「小波先生のプロフイル」(『童話研究』一九三○年十月)というエセー風の小文の中で小波の〈幸運なること〉として「少年文学に於ける進出の時期」と「境遇的に甚だ恵まれたる人」という二つをあげているが、確かに、『こがね丸』とそれが世に出た明治二十年代という時期とは切り離せないものがある。そう、確かに小波は明治二十年代の精神の申し子であったといえる。
 明治二十年代という時代は、一言でいうと〈日本への回帰〉の時代であった。逆説的にいうならば、明治という時代は、その初頭から十年代までは、日本的なるものを忘れ去っていた時代だった。政治的には自由民権運動が政府に国会開設を約束させるほどの力をもち、一時的にしろ、ときの政治権力者たちを震憾せしめている。また、文化的には鹿鳴館に象徴されるような西欧一辺倒の文化が吹き荒れた。〈西欧への傾斜〉が明治初頭から十年代にかけての時代を支配していたとするならば、二十年代は、その反動期である。
 明治という時代は、十年代と二十年代との間に、はっきりとした〈精神の断層〉をもっている。自由民権運動は圧殺され、鹿鳴館のデカダンスをみてしまった世代は、西欧への傾斜のなかで自らの精神的な成長をとげながら、もはや欧化主義への信奉などはみじんももちあわせてはいない。そのような〈精神の断層〉の中で、小波という作家は、果たしてどのような位置を生きたのだろうか。また、なぜ自らの道として、〈子ども〉あるいは〈子どもを対象とした文学〉を選んだのであろうか。小波にとって〈子ども〉とはいったい何だったのであろうか。
 『鬼車』の中では未だもうろうとして意識の上にすらのぼってこなかった〈子ども〉という存在が、『こがね丸』以後、小波の意識の中で急速な成長をとげたことは確かである。小波は、明治二十年代という時代を、明確な〈子ども観〉をもって生き抜いている。「無意味非寓意主義」あるいは「わんぱく主義」と呼ばれているものの存在がそのことを示している。そして、これはひとり小波のなせるわざというよりは、ひとつの明瞭な時代の産物といってもいい。小波の思想は江戸期をプリズムにしているといわれながらもその内実は、明治初年から十年代にかけての西欧主義を経過して、初めて唱えられる合理的精神に満ちている。その意識された〈子ども〉を土台にしてかかれた〈児童文学〉が、小波お伽噺だったのである。
 これは第一章でもすでに指摘したことだが、今までの巌谷小波に対する捉え方には《小波は明治の体制と一致していた。だから、封建的である》という安易な基本テーゼがあるように思える。しかし、この捉え方でいくと、小波は明らかに〈近代〉の埒外に置かれることになる。よしんば、小波の足跡をうまく辿ってみたところで、せいぜいが、小波の「わ仮名」や「わんぱく主義」はいいけれども、最終的に明治の体制と一致した「桃太郎主義」はいけないという分裂した小波像にしかたどりつけないことになる。これは、小波にとっても、また小波お伽噺を出発点としてもった日本の児童文学全体にとっても不幸なことにちがいない。
 小波の生きてきた道、書いてきたものを、A(わ仮名、腕白主義)と反A(桃太郎主義)とに完全に二分してしまい、とどのつまり小波を封建主義の内側におしこめてしまう捉え方が、巌谷小波という作家とその作品を正当に評価し得ないことは確かである。小波という一人の作家の中に、その評価が正反対にならざるを得ないような断絶、あるいは分裂があったとするのならばともかく、幸か不幸か、小波にはそのような意味での断絶はなかったといっていい。明治十年代から二十年代にかけての〈精神の断層〉をあり意味で無疵で乗り越えてきた小波にとって、「わ仮名」も「わんぱく主義」も、また「桃太郎主義」もひとつながりのものだったのである。そこには、明治も二十年代にして初めて生まれ得る明瞭な子ども観と、それに裏打ちされた〈子どもの本〉に対する一つの思想があったといえる。小波の中の〈子ども〉をこそ、ぼくらは見据えていかなければなるまい。
 考えてみると、明治二十年代という時代は不思議な時代である。おもて向きは明治十年代に対する反動期という体をとりながら、内実はそれほど単純に動いてはいない。確かに自由民権運動の圧殺によって、政治的なものに対する関心は極度に衰退している。しかも、文明開化の中で育ち、その合理的精神は受け継ぎながらも、西欧文明に対する信奉はもちあわせていない時代である。自分自身で、まさに〈新しい価値〉を見つけていくよりほかになかったときなのである。
 明治維新が上からの変革であった以上、制度としてとりいれられてきた西欧的なものや、風俗として世の中に流布していった西欧の文明・文化の、もう一つ下層を旧時代の生活様式や思想が破壊されることもなく温存され流れてきたとしても不思議はない。明治という時代を、そのような重層構造としてみるときに、初めて、明治二十年代の世代が拠点とした〈日本的なるもの〉の姿がみえてくるのである。ときに、平民主義を標榜して登場した徳富蘇峰の『国民の友』創刊は一八八七年(明治二十年)、三宅雪嶺がそれに対抗するかように専ら日本主義を掲げて新雑誌『日本人』を創刊したのは一八八八年(明治二十一年)四月のことであった。
 ふりかえってみると、児童文学の動きもそのような時代の動きと無縁ではない。鳥越信編『日本児童文学年表1』(明治書院、一九七五年)の明治の記述をみても、明治元年から二十一年まではひとまとめで、目につくものといったら、みなヴェルヌを中心とした翻訳ものばかりである。鳥越年表が一年ごとに区切られ名実ともに年表としての体裁がとられるようになったのはようやく明治二十二年に入ってからのことである。そして、その頃あい前後して、子ども向け総合雑誌が創刊されている。
 小波が『我落多文庫』に隔恋坊の名で「鬼車」の連載をはじめたのとちょうど同じ一八八八年(明治二十一年)十一月には『少年園』(少年園発行)が創刊されている。また翌一八八九年(明治二十二年)には、二月に『日本之少年』(博文館発行)、三月に『こども』(東京教育社発行、のち少年園)、七月に『小国民』(学齢館発行)とたてつづけに三誌が創刊され、一八九〇年(明治二十三年)一月には『少年文武』が創刊され、その後も数誌の創刊がみられる。
 木村小舟は『少年文学史・明治篇』上巻(童話春秋社、一九四二年)の中で、『少年園』の創刊にスポットをあてて次のようにいっている。
 
蓋し「少年園」は、明治少年文学の揺籃時代に当りて、新鮮溌剌たる気分を横溢せしめ、恰もこれと相前後して出でたる徳富蘇峰の「国民の友」が、遽然として政治言論界に雄飛し、断固として一世を風靡するにいたりしと、好一対の新現象と見るべきであろう。
 
 木村小舟が、『少年園』を蘇峰の『国民の友』に擬したように、この時期に創刊された子ども向け雑誌は、それぞれが独自の見識と熱意とをもっていたといっていい。『少年園』の高橋太華、『小国民』の石井研堂、『少年文武』の中川霞城といった編集主幹をとりあげて、木村小舟は『少年文学史・明治篇』(前出)の中で「当代三指に屈すべき人」と評している。
 この時期の雑誌に共通していえることは、素材としては西洋的文化・文明の新奇さをとりあげながらも、その基調とするところは日本的な道徳〓教訓話にあったということである。自然科学的な知識、雑学のページを多くとり、また『少年園』はその巻頭に「論説」の欄を設けるなど、その形式は進取の気風をとりながらも、内容とそれを支える基本的な精神の面では勧善懲悪的な教訓美談の方へ傾いていったといっていい。これはまた、これらの雑誌の購読者であった当時の〈子ども〉たちの意識の反映でもあったのである。風俗として流布していった文明開花とその下層に温存されてきた旧時代の精神の新しいあらわれという重層構造の中に、明治の子ども雑誌は息づいていたのである。
 小波の『こがね丸』もまた、そのような重層の中にいる。小波の童話思想は、直接に江戸時代の戯作や昔話の封建主義と繋がっていたわけではない。明治という時代の二十年間の重みを背負って、彼は『こがね丸』をかいている。「お伽噺」という古い形式のものに着目しながら、それを文語体やあるときには言文一致体であらわし、ついには「わ仮名」という自らの文体をも造りだしてしまった作家の意図は、ただ〈日本的なるもの〉に対する距離の遠近のみで、単純に「封建的」か否かを断じ、そこに善悪の基準を見い出そうとする捉え方からは、到底さぐりだすことはできないだろう。小波にとっての文体の変遷は、それが彼にとって最も現在的なことばであったということにこそ気づくべきである。小波のその〈現在〉をこそ、ぼくらは問うべきなのである。
 とにもかくにも、博文館から叢書「少年文学」の第一編を書くようにいわれたとき、すでに小波の頭の中には明確な読者像が浮かんでいたにちがいない。小波は、たったの四日間で『こがね丸』をかきあげている。そして『こがね丸』は大評判となる。小波の思わくは当たった。彼の想定した読者は現実にいたのである。というよりも、より正確には、小波が〈仮定としての読者〉を想定し、書くことによって、はじめて〈現実の読者〉の方が立ちあらわれてきたといった方がいいのかもしれない。つまり、小波が、日本における児童文学の〈読者〉というものを初めてつくりだしたのである。
 
●『こがね丸』とその反響
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 木村小舟は、『少年文学史』(前出)の中で『こがね丸』の刊行にふれて次にようにいっている。小舟の言い方はいささかオーバーかもしれないが、確かに『こがね丸』の出現と叢書「少年文学」の刊行はエポック・メーキングなことだったにちがいない。
 
新興の博文館は、明治廿四年一月、「幼年雑誌」の発刊を企て、これと同時に「少年文学」と題する一大叢書を創め、其の第一編として、先ず巌谷漣山人の新作「こがね丸」を世に送つた。こゝに於てか我国の少年文学界には、遽然一大衝動を起し、正に黎明の光さし初めて残星立どころに其の光芒を収むるに似たる観があった。即ち、「少年文学」の出現は、其の名稱に負かず、真に少年文学革新の第一歩を印したものである。
 
 『こがね丸』の筋は、一言でいうと、こがね丸という名の犬が親の仇の大虎をやっつけるという仇討ち話である。話はまず、ある山奥に一匹の大虎が住んでいたというところから始まる。虎の名前は金眸という。大威張りで山中の大王になっている。悪虎である。それに聴水という名のずるがしこい古狐がくっついている。ある日、二匹は、山のふもとの庄屋の家にいって、月丸という忠犬をくいころしてしまう。夫をころされて気落ちした牝犬の花瀬は、一匹の子犬を産み落としてから、息絶える。その子犬がこがね丸である。こがね丸は、牝牛の牡丹と雄牛の文角にそだてられることになる。月日がたち成長し、親の仇の金眸を討つ力をつけるために武者修業の旅へ出ることになる。その旅先で、鷲郎という犬と出会って義兄弟の約束をしたり、人間に殺されそうになったり、阿駒という牝鼠を助けたり、朱目の爺さんという名の兎にかたわになりそうな傷をなおしてもらったりという冒険をする。そして、ついには、鷲郎と文角の助けを借りて、無事に仇の聴水と金眸をやっつけるという話である。
 長々と『こがね丸』の話の中身をあげつらねてきてしまったが、見ての通りそのプロットは単純な仇討ち話である。『こがね丸』は刊行されるとすぐに、多くの新聞や雑誌の批評を得、評判になった。その多くは『こがね丸』のストーリーのおもしろさを讃え、また一方で、仇討ちという趣向の古さを批判するものであった。ちょっと長くなるが、その中から、『国民の友』の高橋五郎の批評(一八九一年、明治二十四年一月)と『日本評論』のM.U名の批評を、参考までにあげてみよう。前者が『国民の友』、後者が『日本評論』のものである。
 
 此敬信すべき目的をもて著したる此可憐なる冊子は千百の瑕瑾を有するも悉く一切を看過し火を挙げ鼓を鳴らし、先ず著述者の世に深切なる着目を賀して可なり。(中略)
 然れども余は考う。漣山はグリム、アンデルセン等のメルシェンを参酌せずして却て穉物語に遠き此黄表紙中より「こがね丸」の案を起せしなりと。全交?春町?否、否其案よりもなお一層穉物語に遠き南仙笑楚満人の黄表紙より産み出せしなりと考う。若し此推想誤らずんば穉物語の姿あって其実なき者なり。「猿蟹合戦」も復讐なり。「かちかち山」も復讐なり。されば「こがねまる」は復讐談なるが故に穉物語にあらずと云わず唯前の二話の如く単純に真率に無心にあらざるを惜む。(高橋五郎)
 
西人日本を称して童子の楽園なりと云ふ、然れども文学の點より云へば、年少き人々のために、彼の楽園の花果としても見るべきもの絶て無きこそ遺憾なれ。昔日はカチカチ山の譚、桃太郎の物語等ありしも、今は已に事旧りたり。此の明治の時代、新文学の興隆のときにあたり、純な小児幼童のためにものせられたる著述あるを見ず、今や漣山人衆に率先して、こがね丸の著あり、われ年少き人々のために之れを歓ぶ。一読の際われも穉かりし往昔に立帰れる心地ぞする。こがね丸の文章稍古色なり。其の軽妙なる所愛すべき者に近し。カチカチ山や桃太郎の著者、幼稚の心持になりて其の書を著はせり。故に其の書首尾ともにあどけなく、童子世界と隔離せし事なし。其の妙なる所実に此に在りとす。漣山人のこがね丸を見るに、著者は子供らの地位に身を転じ、之と感想を同ふせること未だ至らざるものに似たり。其の趣向の封建時代なる大人丈夫の仇討を其の侭に、猿猫の談に翻案したるものとす。猛虎金眸が照射といえる牝鹿をもって妾となせる件などは幼童のためにものせる書にあるまじきことと思わる。また作者千慮の一失か。
 
 この二つの批評は、どちらも、子どもを対象とした文学の出現をよろこびながらも、その内容は、封建時代の仇討ち話にすぎないという批判している。『こがね丸』の中の仇討ち的性格に対する批判は、当時からすでにあったわけである。いくら〈日本的なもの〉への価値観の移行といっても、時代はすでに、ストレートな封建思想への回帰を認めないときに入っていたのである。そのことを示す書評でもある。
 
●『こがね丸』とその読者層
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 しかし、それでもなお、時代と読者は、小波のその黄表紙風に単純な仇討ち話を、よろこんで迎えたのである。それは何故か。ぼくは、その理由として、第一にストーリー展開の単純さをあげたいと思う。仇討ち話という特性のせいでもあろうが、主人公のこがね丸は、読者の期待どおりに動き、それなりの冒険もして、最後に仇を討つ。新鮮味がないといえばそれまでだが、逆にいえば、読者は、ある安心感をもって、自分の期待どおりに物語を読めるということにもなる。読者はその道徳ではなくストーリーを読んでいったのではなかろうか。
 明治の初めから整えられてきた近代的な学制の確立は、小波の物語を読む層を確実に培っていったといってよい。その文体はリズミカルで耳になじみがよかった。またその話の中身も読む前から筋の予測ができるようなものであった。小波の脳裏にうつった子ども読者層は、確かに存在したのである。
 時代は、一見〈江戸〉へと逆行しているようにみえながら、実は確実に新しい〈国民〉という層の創出へと向かって動いていたのである。明治初年から十年代にかけて、時代の底に沈潜していた〈日本的なもの〉がそのとき、ようやく新しい〈国民〉という名の存在として、意識され、組織化され、それこそ音をたてて動きはじめていたのである。小波が予感し、そのの脳裏にうつっていた読者とは、おそらくこのようなものであったにちがいない。
 『三十年目書き直しこがね丸』の巻末に「当時の感想」とがいくつか載っている。それをみると、当時の子どもが、どんなふうにこの作品を読んだか、その一端をしのぶことができる。
 
  面白くて面白くて     高野つるゑ
 教科書以外では、こがね丸を最初に読みました。一部の本を読通したのもあれがはじめです。面白くて面白くて百回も読んだというより外には申すこともありません。少年文学十二冊はみんな読みましたが、あれが第一に面白うございました。
 
  文句まで暗誦     楠山正雄
 「こがね丸」は私のはじめて読んだ子供のための本でした。あれは九歳の冬か十歳の春でしたらうか。母親にかくれて八犬伝や春陽堂の探偵小説本などをぬすみ読みしてゐた時代に、初めておほつぴらに買つて貰つてよんだ本ではあり、あの木版だか石版だかの美しい色絵入りの大和綴の可愛らしい装幀と共に、忘れがたい香味をのこしてゐます。つゞいてまた紅葉山人の二人むく助、江見さんの今弁慶、川上さんの宝の山、幸堂さんの陸奥長者ーー「少年文学」の列冊は、あの時代の私の心を育てゝくれたものです。「こがね丸」の中の鼠のお駒(?)の「岩見銀山桝落し地獄落し……」云々の浄るりもどきのくどき文句まで、今思ふと少し滑稽ですが、三十年の間忘れずに暗誦してゐるのですからふしぎです。ついつまらぬことを申して恐縮です。早々。
 
 この二つの感想をみても、『こがね丸』とそれに続く叢書「少年文学」のシリーズが当時の子どもたちに大きな影響をあたえたことがよくわかる。子どもたちは、まず、装丁の美しさ、目新しさに惹きつけられ、次にその読みやすさに我を忘れて、夢中でページをめくっていったにちがいない。なによりも大切なことは、子ども自身が手にとって読むことのできる〈子どものための本〉が、初めておおっぴらに世の中に登場したということである。高野つるゑは、『こがね丸』を、教科書以外で初めて読んだ本だといい、楠山正雄もまた、「初めておほつぴらに買つて貰つてよんだ本」だといっている。これは日本の児童文学の歴史の上で、やはりひとつのエポックメイキングなことだったのである。小波が仮想した読者を『こがね丸』が現実のものとしたのである。
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