音楽について〜思い出、そして難病ALS、身体障害者に

小学校時代

   低学年の音楽の時間は自分の教室で教師が足踏みオルガンを弾いて歌を唄った。高学年になり音楽室を使うようになった。そこには昔の作曲家の肖像画が薄暗い教室の壁に飾ってあった。記憶にはバッハ、シューベルト、ベートーヴェン、ハイドン等が印象に残っていた。勿論その頃にはクラシック音楽等それが何であるか、トンと知る由もなかった。
   音楽教室には黒塗りの縦型ピアノが一台有った。(当時はグランドピアノが有る事すら知らなかった)そのピアノは地元の篤志家が寄付したらしく金文字で名前が刻まれていた。担任が音楽の男性教師でピアノを弾きながら唱歌を習った。初めて見るピアノを弾く教師の姿はカッコ良く、鍵盤を叩くだけで教室一杯に拡がる大きな音に感動し鳥肌が立った様なそんな気がする。
   当時はピアノ等習っている子は田舎ではいなかった・・・が、同級生に一人いた。ピアニスト仲道郁代のおばにあたる子でとても羨ましく思った。
   小学校4年生でハーモニカに興味を持ち、当時は未だ高価だったと思うが、親に無理を言って副音ハーモニカを買って貰い一生懸命吹いた。音楽というものに何の苦痛も感じなかった。

中学校時代

   中学校に入り音楽の授業の変わり方に先ず面食らった。いきなり“音符を読む”のである。小学校時代そんな教育を受けていない私には一気に音楽の時間が苦痛を感じる様になった。
   担当教師は学校でも怖い教師で有名であり、スリッパで叩かれたという人もいた。この教師には3年間教わった。音楽の時間に音階で唄わせることが多く、間違うと「運動場一周、駆け足!」の声が飛ぶ。もちろん私もこの組であり、三年間の間には運動場を何周回った事か分からない。
   しかし、この怖い教師にも粋な計らいがあった。それは卒業を前にしたある音楽の時間に「君達の好きな歌謡曲を唄おう!」と言われたのにはみんな「エ、エッ」と驚いた。その時には我を忘れて好きな曲の名前を叫んだ。唄った曲で一番記憶にあるのは、春日八郎の「別れの一本杉」である。これが中学校時代の最初で最後の“楽しい音楽授業”であった。
   しかし、別な教師に音楽を教わっていたら私の音楽に対する芽を育ててくれたかもしれない。人生は出会いが肝心? 忘れないよ、澤根先生。

高校時代

   中学校時代に音楽嫌いになり“音符コンプレックス”に陥ってしまった。もちろん音楽授業は選択科目であったので敬遠した。高校にはブラスバンドがあり「やりたいなア」という気持はあったもののコンプレックスが入部を拒んだ。そして高校三年間は音楽と縁が切れてしまった。

社会人になって

   何の因果かK楽器に就職してしまった。定年まで42年間勤め上げてしまった。私を音楽好きにしてくれたのは、初めて転勤で行った昭和36年〜38年青森県弘前市でのことである。ヴァイオリンをやっていた営業マン緑川氏と同じ下宿生活をすることになった。
   当時は音楽純喫茶店が所々にあり、クラシック専門喫茶も数あった。よく行ったのが『喫茶ひまわり』である。その店に毎晩の様に通い一杯のコーヒーで粘り、色々な曲を聴く様になり、緑川氏からの教授もありクラシックの良さが解かり始めた。下宿にもステレオを買い、少ない給与から無理をしてLP等も買った。一番初めに買ったLPは何故か「ペールギュント組曲」である。あの哀愁を帯びた帰郷のメロディーは遠く故郷を離れて生活している自分の胸を打った。
   それからは時々コンサート会場にも足を運ぶ様になった。本社に戻り、音楽教室の本部勤務を命ぜられ、とは言っても管理事務であるが、音楽とは縁のある仕事についたものだと自分でも感心した。

   そうこうしている内に、音楽教室の講師を養成している学園の教務課に異動となり7年間勤めた。その学園の教師はピアノからポピュラー、ジャズ、幼児教育と様々なジャンルの人達が出入りするので多くの教師達とも出会い色々と知らぬ世間の話が出来て、とても刺激のある充実した7年間であったといえる。学園主事の小木曽先生はジャズに造詣が深くよくジャズの話を聴きCD等も紹介してもらい、楽器同志の掛け合いなどの楽しさも知り興味を持つ様になった。
   また学生達とピアノ、アンサンブル、ジャズ等年間数回のコンサートも聴き、私の音楽に対する考え方を変えてくれた。時々CDを買い込み今では300枚程のライブラリーとなった。

楽器をやってみたくなる、そして難病

  55歳の時、役職定年を迎え、ひとつの区切りとして「何か楽器をやりたい」と思い思案の末、憧れでも有った“フルート”に決めた。子供の頃から祭りの横笛を吹いていたので音出しは最初から苦労はしなかった。
   思い切って我が社の音楽教室に通う事にした。“音符コンプレックス”解消のためハ調の曲かハ調に移調した曲から練習した。始めてから半年が過ぎた頃、成人コースの発表会に出るハメになった。ピアノの人が多くフルートは二人だけでありヤケに目立ってしまった。「オーバーザレインボー」と「ムーンリバー」の二曲を担当の先生の伴奏に助けられ冷や汗をかきながら、何をどう吹いたか分からぬうちに演奏を終えたが、今思うとこの発表会に出て良かったとつくづく思うのである。
   それから約一年後フルートのやり過ぎか、パソコンのやり過ぎで腱鞘炎になってしまったと思った。ところが、それは恐ろしい難病の兆候であるとは「神のみぞ知る」ところであった。

   平成13年6月、身体の疲れと腱鞘炎と思っていた症状が治まらず、益々悪化していくので総合病院にて診察、二週間の入院検査の結果「筋萎縮性側索硬化症」という今まで聞いたことのない病の告知を受けることになる。忘れもしない七夕の前日、7月6日の午後の事である。
   医師の詳細説明を受けた時には「まさか、何で俺が・・・」と神を恨んだ、私は失意のどん底に突き落とされた。医師の告知内容が便箋三四枚に書かれていた。検査入院の時、結果は全て知りたいと誓約書を提出していたので文句は言えないが、便箋に目を通していく内に「予後は悪く三四年で死に至る」「自分で死ぬことも出来なくなる」の文字が目に入り、堪え切れずその部屋を飛び出し廊下で泣いた。涙が止めどなく流れ出た。家族、兄弟姉妹に支えられ何とか立ち直れたが、フルートは二度と吹けない身体となり悔しい思いは今でもある。

 平成13年10月末、明日は亡き母の三回忌という時、「急性心筋梗塞」を発症し、それから三週間の入院生活を送ってしまった。病院の救急に行き、簡単な検査で即カテーテル室にストレッチヤーと云うのに乗せられて入る。その設備の頑固さに怖くなりずっと目を閉じていた。「死ぬかもしれない...」と思ったが恐怖感は無かった。ずっとお念仏を心の中で唱えていた。医師に「明日はどうしても家に帰らせてくれ」と言ったら怒られた。施主として年忌に出られなかった無念さと親不孝の自分を悔いた。止め処なく流れる悔し涙が枕を濡らした。年忌は家族や弟達のお陰で無事済んで安堵した。

 入院中に体力は落ちた。一週間の自宅静養にて会社に復帰したものの身体がシンドイ。12月末から会社規定の休暇を頂き、何とか三月末の定年退職まで繋ぎゴールを迎えた。

 定年後はあれもしたい、これもしたいと云う数々の夢は儚く散ってしまって悔しい限りだ。

 現在(2004.8)の状況は、右手全廃、左手95%麻痺、言語障害、歩行困難(家の中は移動及び外出は介助用車椅子)、胃瘻造設、呼吸器機能低下、介護保険四級、障害者年金一級、障害者手帳一級、デイケアー週3日通所。

 今は身の回りの事に家族の手を借りなくてはならなくなっているが、パソコンを恋人に毎日を大切に生きている。

★★現実〜素晴らしい出会い★★

  難病告知でひどく落ち込んでいた頃である。何気なくパソコンに向かい、音楽系のホームページを訪ねていた時、心に響くピアノ曲に出会ったのである。その曲はしばし自分の身体が今どういう状態に置かれているかを忘れさせてくれた。

 それからというものは、すっかりはまり新曲のupを今か今かと首を長くして待ち望むようになりホームページを毎日の様に訪ねたりしている。新曲がそう簡単には出きるわけがない事は十分に知っているのに。

 その人はyukaさんという。yukaさんのピアノとの出会いは私にとって救いであったことはいうまでもないことだ。yukaさんに曲の感想などをメールすると必ずメールが返ってくる。嬉しいことです。これからもピアノが私の心を癒してくれることでしょう。

 もう一つ、趣味として短歌を詠んでいる。インターネットで仲間が投稿しているあるHPを見付け仲間に入れていただいた。私には文学的な素養もないし、短歌の難しい言葉も知らない。ただ五七五七七のリズムが好きで口語体でひらたく言葉を並べるだけで芸術的な歌はない。いわば自己満足の世界である。「ふーしゃんの〜」は酷評はなく、それぞれの投稿歌について感想や思いを書き込んでいる。それが私の性分に合っている。

 その中で“秀子サン”なる方の歌に共感するところ大であり、メールを差し上げたのがきっかけで、ネット上のお付き合いをさせていただいている。何処にお住まいか、どんな境遇なのか、どういう暮らしをされているか、お幾つなのかは歌を通して知るのみであるがそれで十分である。

 今、私にパソコンがなかったら・・・と考えると“ゾッ”とする。生き甲斐となったパソコンで今はHPを毎日更新という目標を掲げて日々努力している。
「佳きかなインターネット」である。

 今の世に難病で苦しんでいる人達が幾万といる。自分も難病患者の一人となり難病の数の多いのにも驚いた。ネット上でそういう方との触れ合いも多く、励ましたり励まされたり、勇気をもらったりしている。

 何と神は不公平な試練を与えられるのだろう。私はまだ良い方だ、定年まで何とか無事勤め上げれたのだから・・・。生まれながらにして、又若くして病に罹ってしまうとは・・・これを人は運命と云うかもしれない。余りにも過酷である。神は運命を与えるのみで善人も救ってはくれないのか? 神様、どうかこの世から過酷な病を一掃して下さい!


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