◆◇ グレイッシュ・グレイ −grayish gray ◇◆



 空は、絵の具の青を薄めたような清んだ色をしていた。

 しんとしてそこに在り、心に突き刺すような彩。

 眼前には蒼い海。

 流れた空気が、遠く水平線で溶け合う。

 潮の香りとちらほらと植えられた緑の匂い。それらが、するりと肺に染み込んでくる。

 都会とも郊外とも言えない港街。雑誌では何度か見たものの、初めて訪れたこの公園は、想像通り心地良く整えられ、整えられているがゆえの違和感を醸し出していた。

『ああ、あそこ! 今はいいよねぇ。丁度いい気候だし過ごし易いから、カップルなんかも多いけどさ』

 入り組んだ交通網に途方に暮れ掴まえたタクシーの運転手は、そんなことを言っていた。そのときとっさに、想子がどんな顔をしたのかはわからない。でも人の良さそうな四十路の運転手は、慌てて言葉を次いだ。

『まあ、一人でぼうっとするのもいいと思うよ。人間ときにはそんな時間を持たなきゃね』

 励ますような言葉が、なんだか可笑しくて笑った。

 抜けるような空の下、ぎらつく太陽に晒されているのは、秋とは言え暑い。汗ばむ額を押さえ辺りを見渡すと、カップルで埋まったベンチを遮るかたちで植えられた桜の樹があった。想子はその根元に、腰を落ち付けた。

 肩に掛けていたバックを下ろし、自動販売機で買ったペットボトルに口を付ける。ひどく、喉が渇いていた。ついたため息さえ、乾き切っていた。

 渇きは、体だけのものではなかった。

 想子は持ち歩くには大きすぎるバックを開け、三つの物を取り出した。

 古びた、赤いチェックの表紙のアルバム。途中、小さな煙草屋で買った、ちゃちなライター。そして子供の頃、想子の父親がお土産に買って来てくれたボヘミアングラスの器。白く浮き上がった模様と青い縁取りが気に入っていたが、捨て去る想い出への手向けにはこれくらいしてもいい。そう思った。

 想子は極めて無感情にアルバムのページを開き、一枚一枚写真を剥がしていく。ぺりぺりぺり、とひび割れた音は爪を剥ぐ音に似て、痛かった。

 四角く切り取られた空間に映るのは、子供の頃の想子と姉、そして両親。段々と成長していく写真に、ライターで火を点けた。ちろちろと、小さな火を上げて燃えていく写真をグラスに落としていく。仄白い灰が、積もる。

 そうして端から写真を剥がし、燃やすうちに家族の写真は尽きて、今度は大学生らしき青年の写真が数枚現れた。冷静に見てみれば、穏やかと言えば聞こえはいいが、ただ凡庸な顔立ちの青年が弱々しく笑っている。

「死んじゃえば、良いのに」

 呟きは、かさかさとした手触り。

 想子は、青年の写真を二つに引き裂いた。



『なんで、あんたはそうなの?』

 母親の台詞は、これだけしか思い出せない。

 ため息と共に吐き出される他愛もない、だからこそ重い言葉。額を手のひらで抑えながら、母親は救いようがないと言わんばかりの仕種をする。性格も勉強も想子よりも良く出来た姉・愁子と見比べて、見下して、じわじわとその言葉と空気に存在が削られていくような気がした。

 いつしか想子は心のなかで『あんたの育て方が悪かったのよ』と反論するようになり、母親を嫌うようになった。

 その分、餓えてしまったのかもしれない。

 頼られること、認められることに。



『想子に話を聞いてもらうと、ほっとするよ』

 祐司は幾度となく言った。想子の家庭教師、愁子の同級生で恋人の祐司。愁子との愚痴を聞いているうちに、必要以上に近付いていた。『愁子とは別れる』それが口癖だった。

 ずるくて、弱いところが好きだった。

「どうしたの? びくびくしちゃって」

 昼下がり、祐司の通う大学に程近い洋食屋。

小さな入口から地下に入る小奇麗な店内はテーブルの半分が学生やOLで埋められ、心地良いざわめきで満たされていた。

 くすくすと笑いながら、想子は小首を傾げる。窓の外を窺いながらフォークにスパゲティを絡ませていた祐司は、想子へ向き直った。

「別に。久しぶりに想子と飯を食ってるから」

 祐司はいつもゆっくりと喋る。動きもそれに合わせてゆるやかだ。祐司の周りだけ時間が穏やかに流れているみたいと想子は思う。

 パンを千切りながら、想子は訊ねる。

「なにか、あったの?」

 会う度に囁く言葉。想子が言う台詞のなかで、唯一意味を持っているのは、これだけのような気さえする。祐司の心の痛みを抱きしめて、癒すための言葉だと想子は自負していた。きっと、愁子にだってできない。

 だから祐司は想子と会うのだ。想子を選ぶのだ。そう信じ切っていた。

「想子にしか、こんなことは喋れないよ……。想子がいてくれて、良かった」

 そう少し弱々しく笑う。それだけで、心に灯がともる。

 愁子と祐司が別れようが別れまいが、本当はどうでも良かった。祐司は愁子と付き合っていても変わらず想子を抱く。そんな関係は愁子を踏みつけにしているようで、楽しくてたまらなかった。『想子がいて良かった』そう囁かれることが、心地良かった。少なくとも、祐司だけは想子を必要としてくれる。

 でもそんな甘い幻想は、簡単に砕かれた。

 ぶらりと、歩いた街角。車道を挟んでいても、はっきりとわかった。

 祐司が、愁子ではない女の肩を抱いて笑っていた。想子に見せる頼りなさも穏やかさも見せず、女を抱き寄せて歩いていく。

 どこにでもいる、べたべたと暑苦しいカップル。そんな見知らぬ祐司がそこにいた。

 ふと視線が流れて想子を捉える。まるでショウウィンドウのマネキンを見るように凍り付いた想子を眺めて、興味を失ったように視線を逸らした。

 『どうしたの?』と訊ねた隣の女に、祐司は笑った。『なんでもない』と、自信たっぷりの唇が動く。ドウセ、アノ女ニハ何モデキナイヨ。そう嘲笑われた気がした。

 立ち去る背中に、想子は呟いた。

「……なんで、そんな平気な顔していられるの……?」

 なぜ、想子をこなごなに壊しておいて平然としていられるの? あの、母親みたいに。

 ダイキライ。

 白く塗りつぶされた胸に言葉が空回りする。

 ダイキライ。 

 想子の指が、写真を執拗に細かく千切っていく。細切れを拾い、丁寧に火を点けた。

 火の点いたままの欠片が、くすぶる。

 煤けたグラスの底で灰が音を立てて崩れた。

 灰の色は、くすんだ白。

 絵の具のチューブから出す『灰色』よりも、もっと白く濁った色。

 黒や茶色を汚れた色だと言うけれど、それは間違っていると想子は思った。本当に穢れた色は、きっとこんな彩だ。うっすら黒を帯びて白く白く、なにもかも塗り潰す。

 知らない場所へ来て想い出を燃やしても、感情はそんな風におさまらない。

 ダイキライ。

 今も変わらずに、大嫌いだ。

 祐司なんて、死んでしまえばいいのに。

 ……死んじゃえば、いいのに。



 気が付くと辺りは、薄暮に包まれていた。

 手のなかのグラスが、さらさらと音を立てる。まるで、ため息みたいだ。

 目の前には、細波立つ海が広がっている。想子は手摺りに手をついて、そっと身を乗り出した。

 伸ばした手にはグラス。満ちた灰を、暗く沈み始めた海に落としていく。

 ここに来る前に考えた、新しく日常を始めるための儀式。過去そのものの写真を焼き捨ててしまえば、自分の内側で身食いする感情も忘れてしまえると思っていた。

 なのに今の想子は以前の想子と一ミリも変わらず、ただ機械的に灰が風に飛ばされるのを眺めている。

「すごい、不毛だわ……」

 自分のしつこさに呆れ果てる。

 それでも写真がないのだから、これからいくらでも忘れられるはずと自分を慰めた。

 なのに、心の底の感情は変わらない。

 家族なんて大嫌い。

 祐司なんて大嫌い。

 ……想子なんて、一番大嫌い。他人を嘲笑っているうちに、一番汚い人間になっていた想子。死んじゃえばいい。

 飛び散っていく灰の代わりに、想子の心が灰色に染まっていく。

「大嫌い……」

 砂のように乾いた声で呟く。涙さえもでてこない瞳を、瞑ってみた。

 灰のなくなったグラスが指先から離れて、水に落ちる。沈んでいく微かな音に、想子は目を開けた。

 そして息を呑んだ。

 眼前の海が、紫を帯びた深紅に映えていた。

「なに、これ……」

 数瞬前とは全く違う声が、想子の唇から零れた。

 青を呑み込んで、なお深く紅く染まる空と海。その色が、じわじわと灰色だった想子を染めていく。しみるほどに綺麗だと、思った。

 いつのまにか緩んだ瞳から、涙が溢れた。拭っても拭っても止まらず、涙は想子を潤す。

 子供のように、想子は声を上げて泣いた。

 ……本当は、ずっと彼が大好きでした。


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