ふゆのおわり。






「三日間、泊めてくれないか?」

 二年ぶりに会った年下の従弟は、開口一番こう言ってのけた。

 突然の展開に、真樹はドアに手をかけた姿のまま……凍り付いた。


◆◇ ◆◇◆ ◇◆



「大学受験で出てきたのはいいんだけど、財布落として、ホテルに泊まれなくなったんだ」

 洗いざらしのジーンズにホーキンスを履き、ダウンジャケットを着込んだ彼は、悪びれもせずそう続けた。

「で、こっちに知り合いは他にいねえし、真樹のところに泊めてもらおうと思って」

 低いはっきりとした声が、耳に流れ込んでくる。懐かしさと痛み、そして微かな後悔を思い出させる声。それを聞いているうちに、フリーズしていた頭がゆるゆると動き始めた。

「……だからって、どうしてそんな結論に達するわけ?」

 我ながら、ひどく冷たい声だった。

「あんたがサザエさん並みのポカをやろうが、わたしにはなんの関係もないわ。財布を落とした? じゃあ、交番に行ってお金を借りるなりなんなりしなさいよ。ひとりで、勝手に」

 言い切って、きつく睨み付ける。

「久しぶりの従弟に、すっげえ冷てえ言い方」

 揺介は傷付いたように顔を伏せて……そして、にんまりと唇を歪めた。

「そう言うと思った。でも、俺はここにいるって決めたから」

「決めたからって……なによそれ?」

「泊めてくれなくても、ここにいるってこと」

「……どういうことよ?」

「なかに泊めてくれねえって言うんなら、この外の通路に寝泊りさせてもらう」

 親指で外を示し、ふてぶてしく揺介は笑う。

「ッざけないで! 冗談じゃないわ!」

 こんな学生用アパートの狭い通路で夜を明かされては、とんだ見世物だ。それが真樹の身内だとわかったら、ご近所さまに顔向けができない。

「野宿なら別の所にしなさいよ、別の所に!」

「そんなこと言われても、俺、公園の場所さえ知らないぜ」

「公園なら、迷いようがないくらいきっちり地図を書いてあげるわ」

「二月のこの時期、外で寝たら死ぬって。その点ここなら、屋根があるからなんとかなるだろ」

 そこまで言ってふと、揺介は笑みを消した。たじろぐほど真剣な瞳で、まっすぐに真樹の顔を見つめる。

「俺は、ここにいるって決めたんだ。だから、部屋に入れてもらえなくても、ここにいる」

 さあどうする、と言うように首を傾げる。だが、それは問いではなかった。揺介はこれと決めたことを……それこそほんの些細なことでさえしはしない。その姿勢が崩れたら自分さえも崩れると、揺介には昔から頑なに思いこんでいる節があった。

 だから初めから、勝負は決まっている。

「……勝手にすればいいわ」

 吐き捨てた言葉に、揺介の表情が変わる。先ほどまでのわざとらしい笑みではなく、少し弱々しくさえ見える淡い笑み。

 二年前は真樹と同じほどだった身長が少し見上げるほどに伸び、肩幅も広くなって外見は昔とは違うのに、その笑顔は腹立たしいほど変わってはいない。

 昔、二人で過ごしたときは暗い顔ばかりだった分だけ、真樹はこの笑顔に弱かった。

「ただし、三日間だけよ。それ以上いるのなら、なにを言われても外に放り出すから」

 努めて冷ややかに言い渡すと、揺介は神妙に頷き、スポーツバックを玄関に置いた。 

 自由になった片手が、差し出される。

「じゃあ、三日間よろしく」

「……よろしくなんて、するつもりない」

 記憶よりも骨太でしっかりとした手を、真樹は荒く払いのけた。





 数分後。

 真樹は普段なら見向きもしない電話ボックスで、実家の番号を押していた。

 数回のコール音。その後聞こえたのは、明るいアルトだった。

「はあい、橘です」

「……」

 ため息のような声を、吐き出す。それだけで、相手には誰だかわかったらしい。弾んだ声が、受話器を通して返ってきた。

「真樹ちゃん? 珍しいね、元気?」

 双子の姉である明樹は、やわらかく問いを重ねる。

「うん、元気」

「なにか送って欲しいものでもあるの? 本当に珍しい。真樹ちゃんが自分からかけてきたの、初めてじゃない?」

 自分と同じトーンのはずだが、随分と甘く感じる片割れの声に、真樹は目を閉じた。

 確かに、大学のために上京して二年、自分から電話をしようとはしなかった。今までも、こんなことがなければ、これからも。

「お喋りは後にして。話があるのよ、明樹。揺が、わたしのアパートに来ているの」

「あら、揺ちゃんってばどうしたの?」

「財布を落としたんだって。だからここに泊まるって。困っているのよ。あんなの、家に置いときたくないの。あんたも嫌でしょう?」

「なにが?」

 真樹は眉をひそめた。

「だって揺は、あんたの彼氏じゃない。わたしと一緒にいて、なんにも感じないわけ?」

 責めるような真樹の言葉を、明樹はけらけらと笑い飛ばした。

「なぁに言ってんの、真樹ちゃんてば」

 あんまりにも軽い言い種に、真樹の声が尖る。

「そうよね。わたし相手じゃ、なんの心配もないわよね。ごめんなさいね、くだらない用で電話しちゃって。もう二度とかけないわ」

「真樹ちゃんごめん! 誤解だよう、待って待って待って!」

 叩き付けようとした受話器から、慌てた声が飛び出して来る。気を取りなおして、真樹は受話器を握りなおした。

「えぇと、でも……もしかして真樹ちゃん、揺ちゃんからなにも聞いてないの?」

「なにもって……ああ、揺、大学受験って言ってたけど、どこ受けたの?」

「え!? えっと……わかんない」

「わかんないってあんた、同じ家に住んでいるんでしょう!?」

 明樹、真樹姉妹の母梨香子と揺介の母柚香子は実の姉妹だ。五年前夫を亡くした柚香子は実家に戻り、橘家の離れで暮らしている。体の弱い妹を心配し、姉である梨香子が無理を言って呼び寄せたのだ。その心配性は今も続き、梨香子はなにくれと妹親子の世話を焼いている。多分柚香子よりも梨香子のほうが、揺介のことを熟知しているに違いない。

 それがわからないとは、馬鹿な話だった。

「聞いたことない名前だったんだもん!」

 癇癪を起こして、明樹は叫んだ。一気にトーンの上がった声が、耳に突き刺さる。

「わかったわよ、もう……。で、お願いがあるのよ、明樹」

「なになに? お願いごとも珍しいね」

 無邪気に、明樹がはしゃぐ。

「わたしの家に、電話してもらえる? 直接、揺を説得して欲しいのよ。わたしの家から、とっとと出ていくように。……って明樹、聞いてる?」

 電話の向こうで、明樹が黙り込んでいる。

「うーん、聞こえてるんだけどね……。それは、いくら真樹ちゃんのお願いでも勘弁だわ」

 困ったような……どこか面白がるような口調で、明樹は続ける。

「だってね、揺ちゃんが決めたこと、あたしなんかが覆せるはずないもん。大丈夫、揺ちゃんが真樹ちゃんを襲うつもりなら襲うだろうし、襲わないつもりなら絶対襲わないよ」

 自信に満ちた言葉に、眩暈を覚える。

 この姉は、いつもそうだった。子供っぽくて物腰が柔らかすぎるほど柔らかく、ともすると頭の回転も鈍そうに見えるのに、大事な部分は絶対に見逃さない。か弱くて小さな少女なのに、どこか賢い大人の部分を併せ持っている。むしろ、大人よりも純粋に。

 優しくて可愛くて……汚いところのないお綺麗過ぎる片割れ。

「……直裁的なお言葉、ありがとう。随分と、揺を信用してるのね」

 嫌味を込めた台詞に返されるのは、また甘い笑い声。

「そりゃあ、真樹ちゃんよりはね。じゃあ」

 一方的に、電話が切られる。

 ため息をひとつつき、真樹はのろのろと受話器を戻す。電話ボックスの外はもう、薄闇に包まれていた。

 冬独特の乾いて冷えきった空気に、真樹は首を竦める。見上げれば、夕日さえも遮るくすんだ色の雲に空は被われている。吐いた息さえも雲に呑み込まれてしまうのだろうかと、馬鹿な考えが頭を過ぎる。

 明樹の最後の言葉は胸の底に重く沈み、いつまでもじくじくと痛み続けた。





 奇しくも電話の向こうでは、明樹もまた、ため息とともに受話器を置いていた。

「さて、揺ちゃんはどういうつもりなのかしらね。まあ……あたしには関係ないけどさ」

 宿るのは、一抹の淋しさ。

 その響きを、真樹は知らない。





 誰かが、包丁でなにかを刻む音がする。

 一番心地よい、朝のまどろみのなか。

 朝の気配に、炊き立てのご飯にお味噌汁の匂い。二年前までは毎朝嗅いでいた匂いが、部屋に漂っている。

 布団のなかで丸くなりながら、真樹は微かな笑みを浮かべた。

 沈んだ想い出のうちで、珍しいほどの暖色に包まれた風景。記憶のなかの背中は、姉に良く似た快活な母のものよりもむしろ……。

 そこまで思い浮かべて、真樹は布団を放りだし、勢いよく起き上がった。

「おはよ、真樹」

 狭いキッチンスペースでレタスをむしりながら、揺介が振り返った。実に、自然に。

 一瞬、錯覚を起こしそうになる。

「……最ッ高に嫌な目覚めだわね……」

 ぐしゃぐしゃと髪をかきまぜて、真樹は独りごちた。そこにタイミング良く、揺介がタオルを投げる。

「おはよ。顔、洗ってくれば?」

「あんたに世話焼かれる筋合いないわ。あんたは、わたしの親でも兄弟でも……彼氏でもないんだから」

 ぎりぎりと睨み付け、タオルを掴みバスルームの扉を乱暴に閉める。ヒステリックな音を立てて閉まった扉のなかで、真樹はひっそりとため息をついた。

「明日までの辛抱よ、明日までの……」

 ……それでも、きついものはきつい。思い出したくないものを、思い出す。例えば……捨ててきた不安と、自分と周りへの苛立ち。

 どっぷりと暗く沈みこんだ真樹に追い討ちをかけるように、揺介の声がする。

「ご飯よそるよ、真樹」

「いらないわよ。あんたの作ったものなんか」

 必要以上に刺々しく、真樹は返した。

 バスルームで手早く着替えを済ませ、コートを掴む。

「どこに行くんだ?」

 真樹のきつい言葉など意に介さず、のんびりと揺介は訊ねてくる。

「あんたには関係ないでしょう」

「いや、バイトなら行ってもムダだぜ。休みの連絡しておいたから」

 鍋をかきまぜながら揺介は言う。それを聞きとがめ、真樹はコートを羽織る手を止めた。

「……なんですって?」

 円満とは言えないかたちで実家を出た真樹は、学費を奨学金その他自分で賄っている。家庭教師と料亭の仲居と、掛け持ちしたアルバイトも貴重な収入源だ。特に料亭は自給が高く賄い付きなのが一人暮しに嬉しくて、嫌味が多い先輩仲居達のいびりに今まで耐えてきたのだ。

 それを、この従弟はなんと言った?

 大きく見開いた目に映るのは、縊り殺したくなるほど白々しい笑みを浮かべた揺介の顔。

「『橘真樹は、風邪をこじらせて肺炎一歩手前。枕も上がらない重病人と化しておりますので、休ませていただきたい』 そう、電話しといた。短縮一番がバイト先だろ? 『お大事に』だってさ。いい上司だな」

 小気味の良い音が、部屋に響いた。

 とうとうと語る憎たらしい横っ面を、真樹は手にしたバッグで張り飛ばしていた。

 一方、揺介は冷静にお玉をシンクに置いてから、頬を押さえもせず腕を組んでみせる。

「こッの、大バカ! 前触れなしに休むと、あいつらは散々嫌味を言うのよ!? 上品な口調の湿った嫌味ほど、最低なもんはないんだから! あんた、わたしになんの恨みがあるの!!」

「へえ、ないと思っているんだ」

 からかうような声に、真樹の肩が震えた。感じる視線は決して、声ほど軽くはなかった。

「俺が真樹を苛めたいを思う理由なんて、ひとつもないとでも? ふーん……」

 芝居じみたため息を、ひとつ。

「まあ、それはそれでいいけどさ……。俺、こっち来たら観光がしたいと思ってたんだ。案内、してくれねえか?」

 強制力は、なにもない。でも、投げつけられた言葉は確かに痛い所を突いていて、真樹はふて腐れてそっぽを向くしかなかった。

 面白そうに、揺介はうながす。

「返事は? 真樹」

「……わかったわよ。付き合えばいいでしょう。楽しい楽しい観光に、付き合えば」

 もう一回張り飛ばしてやりたい衝動と戦いながら、真樹はうめいた。

「さんきゅ」

 だが揺介の短い言葉は、予想したよりも微かに重く静かに感じられて、真樹はまじまじと揺介を見つめてしまった。

 なにも、わかりはしなかったが。

 



「で、どこに行きたいのよ?」

 駅へ向かう道。ニ階建てのアパートや建売住宅、それに小さな商店が並ぶごちゃごちゃした街並を歩きながら、真樹は訊ねた。

「どこでも!」

 ぐん、と両手を伸ばしてのびをしながら、揺介はひどく投げやりに言う。

「真樹とデートがしたかっただけ、と言ったら、どうする?」

「殴るわよ」

 短く言い切る真樹に、揺介は苦笑した。

「ひっでえなぁ……。でも、俺達って二人ででかけたことなんかなかっただろ、ずっと」

「だってそんなこと、しようとさえ言わなかったじゃない。そんな……恋人みたいなこと」

 二年前までの自分達の関係を、なんと呼べばいいのか、真樹は知らない。

 初めて逢ったのは、真樹達がようやく中学に上がった頃。揺介は、やっとを越えたばかりだった。小さな手で母親の手を引いていた揺介を、真樹の母や父は偉いわねと笑っていた。でも、意固地ともいえる強い瞳の少年が白くか細い母親の手を握っている姿は、真樹にはひどく痛々しく思えた。

 ただその瞬間から特別で、いつのまにか一緒にいるようになった。キスもセックスもしたのに、それでも恋人らしい言葉ひとつ交わさなかった。

 二人傷を舐めあうように一緒にいて、真樹は一人、痛みを感じない場所へ逃げ出した。

 逃げ出すことができた真樹を、きっと揺介は恨み、それ以上に羨んでいるはずだ。

「……柚香子叔母さんは、最近どう?」

 言葉が続かなくて、真樹は話を変える。

 揺介の母柚香子は病弱で、息子の揺介に縋るように暮らしていた。特に憶えているのは、離れの縁側に座りぼんやりと庭を眺める少女めいた儚い横顔。それに、全てが集約されているような女性だった。

 当然のことだが、どことなく揺介と似ていた。揺介が、特に女顔というわけでもないのに。

「ああ……今度、再婚するってさ」

 さらりと言われた言葉に、真樹は目をみはる。

「再婚って……いつ? 誰と?」

「今度の春。かかり付けの医者と」

 真樹は、それらしき人物を頭のなかから探り出した。思い当たるのは、四十代のクセのありそうなバツイチの男性。始終なにを考えているのかわからない薄い笑みを浮かべていたが、ただ……ひどく優しい仕種で柚香子に触れていた気がする。

「……随分と急な話ね」

「いいんじゃねえの。本人達が幸せなら」

 靴底でアスファルトを蹴って、揺介が呟く。

「結構顔もいいし。母さんにべたボレだし、収入はいいし、性格も見た目ほど悪くねえし」

 義理の父親の長所を指折り数え上げる揺介は、なんだかぽっかり明るい顔をしていた。

「じゃあ、もう……揺は、辛くないの?」

 すう、とナイフめいた鋭さの瞳で掬い上げられ、真樹は自分の失言に気付いた。揺介の視線はそのまま真樹を擦り抜け、枯れた葉を閃かせる街路樹で止まる。

 立ち竦みそうな真樹を嘲笑うように、揺介の口許が歪んだ。 

「……さあね」

 昔と同じ風に囁いた真樹を、揺介は作り物めいた笑顔で拒絶した。

「俺、東京タワーか都庁に行きてえな」

 笑って、背中を向ける。

 その背中に、気安く心に踏み込もうとした自分が、無性に恥ずかしくなる。

「高い所に上りたがるのは、猫か馬鹿だけよ」

 憎まれ口で、真樹はやりきれない想いを隠した。





 東京タワーに上り、その後浅草へ。仲見世をひやかし、揺介の行きたいと言う都庁へ向かう為に地下鉄を待ちながら、真樹は何度目とも知れない言葉を口にした。

「あんた、本当に楽しい?」

 自動販売機で買った缶コーヒーを飲んでいた揺介が、同じように何度目かわからない、実のない笑顔で応える。

「楽しいよ。真樹こそ、ずっと不機嫌そうな顔してる」

「……そりゃあ、全部おごりで遊ばせてやってるかと思うと、機嫌も悪くなるわ」

 言葉ほど冷たくはできなかった瞳に、揺介は更に笑みを深める。

「ごめんな。地元に帰ったら、耳を揃えて送り返すから」

「いいわよ……もう」

 話す言葉がなくて、真樹は力なく足元に視線を落とした。地下鉄のホームにはひとが疎らで、ぬるい空気に息が詰まりそうになる。

 今までの時間、なにを話したのかさえ憶えてはいない。そして過去にさかのぼっても、見つめてきたのはあくまで己の痛みだけで、他の楽しい話題などなにもなかったような気さえする。お互いを見ずに、ずっと背中合わせに時間を過ごしていたのだ、自分達は。

「明樹といるときも、そんな嘘っぱちな笑顔か、仏頂面なわけ?」

 存在すら忘れていた紅茶の缶を振って、そんな言葉を投げかける。口にして初めて、自分が大してそのことを気にかけてはいないと、気付いた。

 不思議な気分だった。真樹が実家を出た遠因は、あの名前通り明るく翳りない、同じ顔をした姉だったのに。

「明樹は自分と一緒にいるときは、なによりも笑っててもらいたい、と思うでしょう。そんな顔じゃ、怒られたんじゃない?」

 ぴたり、と缶を頬に付けて温もりを楽しみながら、真樹はなにげなく問いかける。

 まるで、テレビドラマの恋人達のその後を、訊ねるように。

「明樹といるときには、こんな顔してねえよ。あいつが笑っているのを見ると、俺も笑える。あいつ、本当に見てるだけで幸せになれそうな顔で笑うから」

 空になった缶を潰して、揺介は呟いた。うっとりと柔らかな言葉とは裏腹に翳った揺介の顔を見て、真樹は首を傾げる。

「なにがあったの? そんな風に思ってるくせに明樹を置いて、なんでこっちに来たの?」

 するりと、ずっと疑問に思っていた言葉が、飛び出す。

「そんなの決まって……」

「大学受験のために、なんて言ったらぶっかけるわよ。そういうのじゃなくて……なんで、今更わたしに会いに来たの?」

「会いたかったから、なんていうのは?」

「そんな大嘘よく吐けるわね。口腐らない?」

「……そう大嘘でも、ねえけどな」

 潰した缶をもてあそびながら、揺介は言う。 缶をごみ箱に落としたところで、遠くから地下鉄の来る音がした。

「真樹は、こっちにいて幸せか?」

 ぼんやりと、ホームの向こう側を眺めながら、揺介は訊く。その横顔になんだか不安になって、真樹は軽く流そうとした。

「幸せって……随分大袈裟なこと、訊くのね」

「確かに、俺も言ってて恥ずかしくなっちまった」

 小さく、揺介は吹き出す。

 いきなり鋭くなったり、甘くなったり……なんだか、今の揺介はひりひり痛い。

「じゃあ、質問を変える。真樹は明樹がいない場所へ逃げて、不安にならなかったか? 今まで比べられていた人間が消えたとき……自分も、消えてしまいそうに思わなかったか?」

「揺……?」

「枷だと、思ってたんだ。母さんがいるから、俺は自由に動けねえって。でも、そうじゃなかった。母さんがいなくなったら俺は、自分を支えるものなんてなにもない。枷なんかじゃなくて、母さんに頼られることが俺の存在意義だった。だから……それが消えちまったら、どうしていいのかわからない」

 呟くような言葉は、昔寄り添っていたときと同じ質。そして答えを期待しない処も、昔と同じ。

 真樹にとっては見慣れた、だが他の人間には想像すらできないであろう、生の傷付きやすい揺介の素顔だった。

「……らしくないほど、あんたらしい弱音ね」

「そうか? でも、俺らしいなんてどんなだったか、忘れちまったよ」

 ふらふらと、揺介の脚が白線を踏み越える。

「揺!」

 そのまま線路へ降りようとする肩を、真樹は必死で掴んだ。

 鼻先を、轟音をあげて地下鉄が通過する。

 きしむほど強く、真樹は揺介のジャケットの生地を掴んだ。

「なに、驚いてんだよ。冗談だよ、バーカ」

 数秒前の弱々しさを見事なほど隠して、揺介が笑う。

 強張った指が、ゆっくりと解かれる。

「そうね。あんた、殺しても死ななそうだもんね。いっそ、突き落としとくべきだったわ」

 動揺を振り払うように、真樹も憎まれ口をたたく。

 だが不安は消えず、観光を終えアパートに戻っても、胸のなかが重苦しく感じられた。

 そして次の朝、真樹が目覚めると、すでに揺介の姿は消えていた。





 なんとなく、予想はついていた。

 目が醒めたら、揺介はいないだろうと、そんな気がしていた。

 しん、と空気の冷えた広くもない一Kの部屋を見渡しぐしゃぐしゃの髪を撫で、真樹はベッドから下りた。

 部屋の隅には、意外と不器用に畳まれた毛布が置かれていた。揺介の痕跡が残っているのは、それだけ。

 目が小汚いスポーツバッグを探してしまうのを舌打ちして、冷蔵庫から牛乳パックを出す。マグカップを両手で包み、真樹はぺったりと床に座りこんだ。指先も、身体も冷たい。

 昨日のことが、幻のように思える。

 このまま、揺介を帰していいのだろうか。なにかがあったから、きっと揺介は会いに来たはずなのに。それを昔のまま憎まれ口だけ返して、なにも渡さなかった。

 昨日地下鉄のホームで見た、虚ろな瞳。

 あれを、あのままで帰していいのだろうか。

 そう思ったときには、真樹は受話器を掴んでいた。一昨日もかけた番号を、もつれる指で必死に押した。

 コール音さえも、もどかしかった。

「はあい、橘……」

「明樹!?」

 受話器に、食い付かんばかりに叫ぶ。

「えっ、真樹ちゃん? どうしたの、こんな朝っぱらから。真樹ちゃん、低血圧なのに」

 そう言われ壁のモノトーンの時計を見ると、短針は真下を差している。確かに、いつもならこんな時間はぐっすり寝ているはずだった。

「そんなのどうでもいいのよ。明樹、お願い」

「また、お願いね」

 くすり、と小さな明樹の笑い声。どこか、真樹の動揺を面白がっているように聞こえた。

「……明樹。揺がいなくなったわ」

「あら、真樹ちゃん、揺ちゃんといるの嫌だったんでしょ? じゃあ、好都合じゃない」

「明樹! 教えて欲しいことがあるのよ」

「なにかしらね」

「まず、先に確認したいの。揺、大学なんて受験してないんじゃない? 今は国立の試験期間じゃない。あのがちがちの親孝行者が、金のかかる私立なんて受けるはずないもの」

「……真樹ちゃんは、揺ちゃんのこと、お見通しなのね」

 先ほどの上機嫌が嘘のように、明樹の声が沈んだ。ひどく不安定な、感情の波。

「明樹?」

「じゃあ、あたしなんかに訊かなくたって、なんでもわかるんじゃないの?」 

 どんどん、電話の向こうで明樹の声が潤んでいく。それを少し鬱陶しく感じながら、なんとかなだめようとする。

「なに言っているのよ。揺は、あんたの彼氏でしょう? わたしは、ただの従姉じゃない」

「揺ちゃん、あたしにはなんにも苦しいのも辛いのも、話してくれないよ。ただ、真樹ちゃんに会いに行くって。だから、口裏合わせてくれって。真樹ちゃんにはなんでも話せて、あたしには話せないってこと? そんなの、彼女じゃないよ!」

 胸のつかえを吐き出すように、明樹は叫ぶ。 それを真樹は、不思議な気分で聞いていた。

 真樹は、明樹が大嫌いだった。憎んでいた、と言ってもいい。同じ姿、同じ顔。同じ器に盛られた分だけ、真樹と明樹の性格の差は、色濃く出た。明るい性格の明樹は、そのままで真樹のどんな努力も飛び越えていく。微笑みひとつで明樹は他人の心を掴み、真樹はいつしか明樹の影になっていく。

 そんな子供じみた単純な、だが根深い不安がいつも真樹の底にはあった。だから、真樹は明樹のいない場所へ逃げ出した。自分が自分として扱われる所へ。

 なのに今、泣きじゃくる明樹を、真樹は驚くほど愛おしく感じた。

 二年という時間は確かに真樹の上を流れて……今の真樹は二年前の真樹ではないのだと、初めて気付いた。化粧を覚え身に付ける服が変わったように、心もそのままじゃない。

 なにもかもを姉のせいにしていじけていた、昔のままではいられない。

「泣かないで、明樹。泣かないで……」

 子供をあやすように、真樹は囁く。

「揺は明樹の所に、戻ってくるから……」

 息子を夫のように頼りきる母に年齢以上の役割を与えられた揺介と、自分の居場所を見つけられなかった真樹。

 同じ所が同じだけ欠けた二人が一緒にいても、なにも満たされない。なにも、癒せない。 そう思ったから、真樹は二年前、揺介の傍を離れた。

「揺介の弱い所も強がりな所も、明樹なら愛してあげられる。……わたしじゃ、駄目なの」

 明樹の嗚咽が、だんだん小さくなっていく。それを見計らって、真樹は問いを口にした。

「ね、ひとつだけ教えて。揺は……今日、何時の電車に乗るの?」





 全力疾走で、駅までの道を走った。朝の空気を楽しむ間もなく、足踏みをしながら電車を待ち、途中で山手線に乗り換え……新宿の目的のホームについたのは、発車五分前。真樹は、他人を刎ね飛ばさんばかりの勢いで、ひとつひとつ車両を覗いていく。

 目当ての車両、窓側の席に座った横顔を見つけ、真樹は力いっぱい窓を叩いた。

「揺!」

 怒鳴り声と音で、周りにいた乗客が一斉に振り返る。

「揺! とっとと出てきなさい!!」

 驚き顔の、揺。荷物を座席に残したまま、揺は乗り口まで歩いてきた。

「真樹……随分と、早起きだね……」

「明樹と同じこと言わないで。気が抜けるわ」

 電車に手をついて、真樹は荒い呼吸を整えようとする。真冬なのに汗が頬を伝う。

「なにか、言うことはないわけ? 礼のひとつも言わず、勝手に出てきてすみませんとか」

「勝手に出てきて、スミマセン……」

 呆然としたまま、揺介は台詞を棒読みする。

「別に、九官鳥になって欲しいわけじゃないんだけど……」

 袖で乱暴に汗を拭って、真樹は背中を伸ばした。ゆるぎなく、揺介の瞳を見据える。

 みつめあうことすら、初めてのような気がした。

「ひとつ、言いたいことがあったの」

 そう言って、真樹は揺介のダッフルコートの襟元を掴んだ。

「いや……やりたいこと、かな……?」

 そのまま引き寄せ、掠めるように口付けた。

 離れていく感触を惜しみながら、微笑む。

「わたし、揺のこと、好きだったわ」

 黙ったままの揺介。その顔をみつめながら、更に続ける。少しでも、伝わるように。

「あんたは馬鹿で弱々しくて意地っ張りで、全然いいトコなしの奴だったけど、それでもわたしは好きだった。意地を張ってない弱いままの揺を知っていても、好きでいられたわ」

「……途中で、逃げたくせに」

 低く呟かれた言葉に、真樹はあっさり頷く。

「そうね、逃げたわ。だって、あんたの隣りにいたってなんにもならなかったんだもの。あんただって、そう思ってたでしょう?」

「嫌な言い方だな」

「だって、本当だもの」

 怒っているような諦めているような複雑な顔をした揺介に、真樹はさばさばと笑ってみせた。

「弱い所を、見せてあげなさい。明樹は……わたしと違うわ。きちんと、あんたを癒してくれる。だから、わたしがいなくなった後、傍にいたんでしょう?」

 くしゃくしゃと、子供の頭を撫でるように、真樹は手を伸ばして揺介の髪に触れる。

 初めて逢ったあの時。

 真樹はただ、揺介を見つめるだけだった。でも、明樹は違った。甘い笑顔で、揺介に手を差し伸べた。萎えそうな足を支えるように優しく、でもしっかりと自分の力で立てるように毅然と。

 あの時から、本当はずっと揺介は明樹のものだったのかもしれない。

「くさい説教なんてすんなよ」

 吐き捨てた言葉とは裏腹に、揺介は抗わなかった。捨てられた仔犬のように見えた。

「あら、わたしは揺よりも二つも年上だもん。これくらいの姉貴風、吹かせたっていいじゃない」

「姉貴ってタマかよ」

「まあね、本当に姉だったら困るわ。実のおとーととやってたことになっちゃうもん」

「お前……東京に来て下品になったな……」

「オトナになったのよ。オトナに」

「相ッ変わらず料理できねえくせになに言ってやがる。シンク、異様に綺麗だったぜ」

「料理なんかできなくても生きていけるのよ。それに女だからって料理ができるなんて信仰は、男社会の弊害もいいところだわ」

「女だからじゃねえよ。人間なら料理のひとつもやれて当然って言ってんだよ」

 言葉に詰まった瞬間、顔を見合わせて二人笑い転げた。

 なぜ、今更真樹に会いに来たのか。

 多分、それは自分と良く似た真樹に、背中を押してもらいたかったから。

 なら、いくらでも後押ししてあげたい。それが真樹のできる、最初で最後のことだから。

 笑いの発作にまだ震えている肩を見つめて、真樹は言葉を紡ぐ。

「弱いままのあんたでも、明樹はあんたを好きでいてくれる。きっと、一緒にいたら本当に強くなれるわ。羨ましい限りね」

 ほんの少し、声が揺れた。視線を重ねることができずに、ただ揺介のジャケットの肩に目を凝らす。

「真樹は、そんな人間を見つけられたのかよ」

 そう問う揺介の姿は、昔似ていると思っていた女性とは全く違って見えた。しっかりと自分の足で地面を踏み締め、どこまでも行くことができる大人の男の人。真樹の、知らない人だ。

「誰に訊いてるつもり? この美貌と知性だもの、見つけられたに決まってるじゃない」

 真樹はこれ以上ないほど華やかな笑顔で、言ってみせた。

 今の自分達なら、なんて思わない。二年前に、本当は全部終っていたのだ。

 弱いままでいたかった。これは溶けかけた雪にような、ただの想いの名残りにすぎない。

「時間だわ」

 ゆっくり、ドアから離れようとする。その手を揺介が掴んだ。

 指先に、手の甲に、温かいものが掠める。 

 離れていく、唇。 

 そのまま、閉まろうとするドアの隙間から、ひどく吹っ切れた顔の揺介が一言、落とした。

『俺も、真樹が好きだったよ』

 訊き返す間もなく、電車が遠ざかっていく。

「くッさい、台詞……」

 それを見送り、真樹はほんの少し笑って……そして、ほんの少し泣いた。

 雪には遅く花には早い春待ちの季節。二月の風が人気も疎らなホームを吹き抜ける。

 心の底に凍り付いていた冬が、ゆるやかに溶けていく。

   


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ふゆのおわり。 
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