
| 1 「経験がないから書けないなんて言い出したら、じゃあ犯罪小説はどうなんですか?」 またそういう陳腐な例を出してきて、それでこっちを追いつめたつもりなのか? もういい加減勘弁してくれよ。君の相手するのも苦痛になってきたぞ。 「だから、僕の言っているのはね、そうだな、体験と経験は違うってことだ」 「は?」 「君は人を殺したことがあるかね」 「ありませんよ。あったらこんなところにいません」 「だろ。でも、人を殺したくなったことは?」 「それはあります。あ、体験と経験って、そういうことですか」 「そうだ。つまり、犯罪を犯したことがなくても、犯罪を犯そうと思ったことはあるかもしれないじゃないか。人を殺したくなったり、万引きをしようかとおもったりね。犯罪を体験してなくても、でも心の中では経験してるかもしれない、その意味ではみんな犯罪を経験してるんだ」 「でもそれだったら…」 面倒だから遮る。 「君の場合、書きたいモノがモノだろう」 「でも、犯罪小説は書けて、官能小説はどうして駄目なんですか」 「だから、君の場合、体験じゃなく、経験も欠けてるだろ。このまえから何度も聞いてるじゃないか、君は欲情したことあるのか?」 「ないんです」 「根本的に駄目じゃないか」 こいつ、考えこむ。でも、こんなこと、考えこむようなことかね。 「だったら……」 決然とした目で俺を見る。 「先生、私を欲情させて下さい」 おいおい! そんなマジな目で見るなよ。 「君、君は……」 舌が回らない。あわてるなよ、俺! 「君は、自分の言ってる意味がわかってるのか!」 「わかってますよ。セックスして下さいって言ってるんです。一回では欲情しないかも知れないから、私が欲情するようになるまで相手して欲しいんです」 落ち着けよ、落ち着けよ、俺! 「ど、どうして僕なの? ボーイフレンドぐらいいるでしょ」 「いません。それに、多分、若い子はへたくそだと思うんですよ。私を欲情させるより、自分の欲情を満足させるのを優先させるような気がして」 「それで、僕が喜んで、うんって言って、それで君を抱くと?」 「だって、先生はご著書で言ってるじゃないですか、男と女の間にはあらゆるタブーは存在しないって。常識も道徳も疑えって。体だけの結びつきも、婚姻外の恋愛も肯定せよって」 あれは……あれは、まだ大学内のセクハラが問題になる前に書いた本で、当時は、あれを読んでカブれた女子学生を数人むさぼり食ったもんだったが、今はまずいだろ、ちょっと。 「だから私を欲情……」 「知ったようなことを言うんじゃない!」 だいたい、今、あのころと同じことをしてバレたら確実に失職だぞ。時代は変わったんだ。 「先生の言うこと矛盾してる」 「子供が理屈を言うな!」 娘をしかるように声を荒げると、こいつはいったん肩を縮めてうつむき、そしてそうっと目を上げ、 「本当のこと言っていいですか」 「嘘を言うよりいいだろ」 「先生って、実は私、全然趣味じゃないんです」 「なんだって?」 「私、ハゲはだめなんですよぉ」 ムカつくことを平気で言う! 「だから、先生だったら、私、絶対に深入りしない自信があるし……」 もう終わりだ。帰ってもらおう。 「ありがとう。君のような聡明な女性に見込まれて僕も嬉しいよ。今日はもう時間がないし、これまでにしよう。君もあまりバカなことを考えるんじゃない。それにテストもすぐだろう。さあ、帰って帰って」 木下明美は名残惜しそうな顔を作って研究室を出て行った。 とんだ学生に見込まれたもんだ。 だいたい、十九になったばかりで官能小説を書くだと、それも何かの商業誌の官能小説賞に応募するために。 官能というモノを、小説というモノを、あるいは文学というモノをなんだと思っているのかね、君は。 「文学ですかぁ〜」 あの時も、問いつめられてふてくされたような顔をしたな。 「字幕しかない映画? って感じ? やっぱりつまんないですよね」 気の利いたことを言ったつもりで、ひとり笑う。あのなぁ〜、殴るぞ、こら。 「君はそんなつまんないものを書きたいわけだ」 「だって、映画とかだったら、お金かかるじゃないですか、小説はパソコンさえあったら書けるし」 「チープだからね」 「そうなんです!」 我が意を得たりと笑う。皮肉も通じない。 「でも、いくらチープでも、内容って必要じゃないですか。でも、私には内容のあるようなものが書けるとは思えないし、でも、えーと」 何が言いたいのか自分でも混乱してしまってる。まったく。 「私みたいな若い子の書いた官能小説なら、誰だって読みたいと思うじゃないですか」 「誰だって、ねえ」 「先生は読みたくないですか?」 「君が書いたモノはね」 「あ〜ひどぉ〜」 顔をしかめてみせる。 「とにかく、書きたかったら一人で書くんだね。創作ってのはそういうものだから」 その日は話を打ち切って帰ってもらった。ところが翌日から毎日、研究室に押しかけてくるじゃないか。 女子学生が一人で来たときにはたいていドアを開けっ放しにして応対することにしてるのだけれど、こいつとの話は隣のフェミニストには絶対に聞かれたくないから、 「ドアを閉めたまえ」 「密室ですね」 嬉しそうに言う。 で、またエロ本談義、今日に至る。 そしてついに、欲情させてくれ、だと。 確かに木下明美、ちょっとした美人ではあるが……。 2 私十九歳、ピチピチの女子大生です。どうか私の経験を聞いて下さ…… …… 渡された原稿の一行目で嫌になった。それに段落の最初は一字下げだろう。こんな基礎的なことも知らずに何を書くのかね、君は。 「どうですかぁ? これで、最初のつかみはバッチリだと思うんですよぉ」 うんざり。 「ああ、その通り、バッチリだね」 「でしょ」 嬉しそうに。ホントに何の皮肉も通じない。 「だから」 弾んだ口調で。 「あとは経験を書けばいいだけなんですよ」 「君はこれまでの生涯で、最長、何枚ぐらいの原稿を書いたことがあるの?」 「え〜と、高校の頃の読書感想文が五枚」 「今回は何枚のものを書こうとしてるの」 「だいたい二百枚程度って、応募規定には書いてました」 「五枚しか書いたことがなくて、今回、いきなり二百枚かね。そりゃ無理だって、自分では思わないの」 「思いません」 きっぱりと。 「だって、どんな偉い作家だって、最初は全く書いたことなかったはずだし」 何を言っても無駄か。 「じゃ、この続きに当たる部分ね、私十九歳、から始まって、カレが出来ましたまでだね、この原稿は。じゃ、これ以後、どうやって膨らませるの」 「デートしました、それから、ホテルに行きました、セックスしました、感じました」 「それが官能文学か?」 「違うんですか?」 「根本的に違うね」 「どこがですか?」 「君は官能とかいう以前に、文学そのものもわかってない。君はいったい、何の小説を読んでるの」 「最近は何も読んでません」 またまた、きっぱりと。はずかしげもなく。 「だって、ヘタに読んで影響されちゃいけないでしょ、やっぱりオリジナリティって大事にしたいと思うんですよぉ。書く前って大事な時期だし……」 しゃあしゃあとよく言うよ……もう我慢ならん! 「生意気を言うな!」 本気の怒鳴り声に驚いたのか、肩が飛び上がった。 「一人の教師として言っておく。世の中を舐めるのもいいかげんにしろ。まずは小説を目が潰れるくらい読んでこい。話はそれからだ。今日は帰れ」 顔がくしゃくしゃに崩れ、 「だって……」 あ〜あ、泣いてるよ。俺が泣かしたのか? 「だって……」 涙が頬をスーッと流れる。 スン、スンと鼻をすする。 泣き顔もまた、ふるいつきたくなるほど可愛いじゃないか。 そう思った瞬間、こいつは涙に濡れた目をこちらに向けた。 見透かすように。 照れ隠しもあってティッシュの箱を差し出すと、そっと押し戻し、自分のスーツの胸のポケットからハンカチを出す。見れば胸もけっこう豊かだ。形も崩れてないし。さすが十九歳と言うべきか。 「だって、先生、何を読んだらいいか教えてくれないじゃないですか」 おいおい、そんなこと一度でも聞いたか? 「私、何を読んだらいいんですか」 涙に濡れた目をさらに近づける。 妖艶ですらある。 おいおい、こっちが欲情してどうする。 「締め切りはいつなんだ」 「十月の末日です」 「あと四ヶ月……」 「一日二枚書けばイケルと思うんですけど」 「駄目だね。五枚づつ書くんだ。それで、夏休み中に何が何でも完成させるんだ。それから、俺も読んでみて、その小説に何が足りないかを検証する。今、読書リストを作ってやるから、泣きやんだら持って帰れ」 3 試験、採点、と、くだらぬ雑用をすますと夏休みだ。 この夏ほど、夏休みが早く終わらぬかと思った夏はない。 夏休みが終われば、木下明美が小説を持ってくる。どうせ箸にも棒にもかからないものだろう。で、俺は叱りつける。木下は言うだろう。 『だから言ってるじゃないですか。私を欲情させて下さいって』 俺は渋々とした表情で応じる。内心はもう、十九の夏のように燃えているが。 十九歳になったばかりの女、欲情の意味さえ知らぬ女、この間まで少女だったまだ青い果実! 妻と最初にやったのはあいつが二十二の夏だし、それ以後も二十歳をこした女としか、やったことはない。十代の女を抱く! それも木下明美のような美人を! それも向こうの意志で! 欲情するまで! いや、ここは思案のしどころだ。 初めてセックスというものを知ってから二十年、俺の持っている全てのノウハウを注ぎ込んでしまえば、最初の一回で木下明美は欲情してしまうかもしれない。 「これなんですね、欲情って。わかりました」 とか言ってそれで終わりになるだろう。 それはまずい。 やっぱり少しずつ少しづつ、教えていくのがいいだろう。男についても、一気にではなく、徐々に、徐々に、教えてやろう。 俺はラブホ街をうろついて適当なところを品定めしたが、やっぱりラブホはまずいだろう、と、きちんとしたホテルに部屋を取ろうと思い直した。何せ相手は十九歳だ。十八以下にさえ見られかねない。すわ児童売春、などと、もし受付で呼び止められたりしたら不愉快だし。 とまあ、色んな妄想と計画と、ベッドに入ってからの微細な部分まで様々に検討を重ねつつ、まるで十九の夏のような欲情を燃やす休みはすぐに終わった。 ところが、木下明美、何も持ってこない。 どころか、講義が終わるとそそくさと逃げていく。 講義中も、絶対に俺と目を合わさない。 夏休み明けの二回目の講義の後、俺は木下明美を廊下に呼び止めた。 「夏休みの課題はどうしたんだ」 「そんなの出てましたか?」 と凍りつくような表情でトボケる。 「君にだけ……」 「ごめんなさい、待ち合わせがあるんで」 そういってクルリと向こうを向き、膝に青いスカートをひるがえして走っていった。 いったい何がどうなったんだ。 俺は呆然と立ちすくんだ。 そしてその夜、前に木下明美が勝手に置いていったメモ用紙の携帯の番号にかけてみた。 「えぇ〜先生困ります、こんな時間にかけてこられても」 「そんなこと言うなよ。君はもう小説書くのをやめたのか」 「やめました」 またきっぱりと。 「どうして?」 「だって、先生が作ってくれたリストの一冊読んだだけでも気分が悪くなったんですよ。私に官能小説なんか、最初から無理だったんです」 「おいおい、そんなに簡単にあきらめるのか?」 「だって、書けないですよ、私才能ないし。じゃあ切りますね」 プツッ。 何という身勝手! 何という気まぐれ! 俺の気持ちはどうしてくれるんだ。 「先生しつこいですね」 たった二回の携帯で言うか! 「しつこかったのは君だろう。いったい何回、僕の部屋に来たと思ってるんだ」 「だから、それは謝ります。私、自惚れてたんです。才能も何もないくせに、小説が書けると思いこんでたんです。ごめんなさい」 「だから、なんでそんなに簡単に……」 プツッ。 「君はいったい、僕の気持ちを……」 プツッ。 「欲情させ……」 プツッ。 「これは間違いなくあなたの声ですね」 教授会で、隣の部屋のフェミニストが再生したテープの声は、否定しようもなく、明らかに、俺のものだった。 「セクハラです! ストーカー行為です!」 昔は俺とも肉体関係のあったこのフェミニストは誇らかに宣言した。 十年前より二十キロは増えたであろう脂肪がこいつの頬をもブルブルと震わせていた。 抗弁は何も認められず、俺は失職した。 今は牛丼のチェーン店に就職して一軒を任されている。 これはこれで、やりがいのある仕事である。 (おわり) |