
| 1 「とにかく今は大事な時なんだから、おねがい、あなたさえ黙って、我慢して、嵐が過ぎるのを待って。ホンのいっときなんだから、解ってるでしょ、あの人の性格。あなたが今、大人にならなきゃだめなんだから」 そう諭されてみればその通りだし、結果としてはまた俺が我慢することになるんだろう。解ってる。全部解ってる。それでも。 「だから言ったでしょ! ここの地の色は赤じゃなきゃ駄目なのよ、それも黒みがかった赤でなきゃ! 緑なんかだれが指定したのよ!」 あの女がわめいてる。あのなぁ〜。その色指定は自分がやったんだろ。字の色との兼ね合いで、そこは赤系統しか駄目だって俺がさんざん言ったのを、無理に緑にしたんじゃなかったのか。ほらご覧なさい、まったく文字が見えませんよ、ってパソコンの画面できちんと説明したのに、 「今の人は本ッ当にダメね、何もかも画面で済ませてしまう。いい? パソコンの画面ってのは光源なのよ、印刷物は反射光なの。その辺の微妙な感じは、もう経験でしかわからない世界なの。これは上品に仕上げたいの、インパクトは二の次よ」 で、今朝あがってきた見本ビラの文字は見事に地に沈んでしまっている。 目を凝らさなければ読めない。 これじゃ選挙のビラとか言う以前に、人に読んでもらうものとは言えんだろう。 あの女、一目見て、 「何これ! 誰がこんな色、指定したの?」 こうして毎日恒例の発狂寸前。手がつけられなくなる前に処方。 すなわち、俺の出番ってわけ。 「あ、この色遣いですか? ちょっと僕の指定ミスみたいですね、やっぱり弱いですね」 「弱い?」 さあ始まるぞ、ネチネチ攻撃。 身構えるが頭の中は澄み渡っている。 あの女も攻撃対象を見つけた安堵感に、発狂エネルギー値が下がってきている。 顔でわかるんだよ、もう発狂はない。 俺が我慢すればいいだけの話さ。 「はい、申し訳ありません」 「なんで、こんな色遣いにしたの、それも私に無断で!」 「申し訳ありません」 そう言いながらも、よくもまあこれだけ自分の都合のいいように記憶を操作できるモンだと感心するよ。やっぱり政治家に向いてるよ、あんた。 「こんなの配れると思う?」 「思いません」 「自分でも思わないようなものを何で作ったのよ」 「申し訳ありません、ミスです」 そう言いながらも、よくもまあここまで責任転嫁できるもんだと感心するよ。当選する前から実に立派な政治家だよ、あんた。 「ミス! ミスですって、皆さん聞いた?」 ほらあなた、などと新入りの、まだ名前も憶えていないボランティアに声をかける。 「こんなミスをするのよ! いちばんの古株が! いったい何を考えているんでしょうねぇ、全然成長してないなんて、あなたはこうなっちゃ駄目よぉ」 新入りはあまりのことに苦笑も出来ない。 こういう光景がいかに人を遠ざけるか、あの女にはそんな気遣いもない。 俺の方に向き直る。 「この時期のこのミスがどれだけ痛いか!」 「申し訳ありません」 基本的には謝るしかない。とにかくこの女が候補者なんだから! 我慢だ我慢、心を閉じろ、精神を殺せ! 「謝れば済むの、ふ〜ん、謝れば済むのね、あなたは。あなたなんか、どうせ無名のいちボランティアだからね、私がこの選挙に落ちたって、どっかで静かに暮らしていけるんでしょうよ。でも、私がもし落ちたら、私はどうなるのよ、そのこと考えたことある?」 「はい」 そう言いながらも、また始まった、と心を閉ざす。まともに相手になんかできるか、こんなの。 「嘘よっ!」 「申し訳ありません」 「あなたなんか、どうせ私の選挙をお祭りみたいに考えて、なんか面白いことないかな、ぐらいの気持ちで来てるんでしょ。だいたい、選挙のボランティアにやってくるなんて、世の中からあぶれた出来損ないばかりじゃないの? 自分でもわかってるんでしょ、自分は、自分で、自分がよくわからない人間ですって。だから自分探しに来てるんですって。顔に書いてるわよ。そんな人間はまずカウンセリングに行きなさいって。そんな人間に私の必死さなんかわかってたまるもんですか。だからこんなミスをして平然とした顔でいられるのよ。いい? 私のこの顔、あちこちに顔写真貼られて、テレビにも出て、雑誌でも叩かれて、みんな知ってるのよ。私は落ちたらゼロじゃないのよ! マイナスなのよ、もうどうしようもないドツボなのよ! なんでわかってくれないのよ! あなたッ!」 「申し訳ありません」 「謝るのはもういいわよ、耳にタコができた。あんたなんかとつき合ってると耳そのものがタコになるわよ! それよりどうするのよ、これ」 「実は、見本、三種類あるんです、これとこれも」 そう言って、こっちこそ無断で発注していたビラ見本を差し出す。 そのうちの一枚を見るなり、この女の顔が悦び色に変わる。 「これよ、これ! 私が指定したのは! あるんじゃない。最初にあんなの見せるからびっくりしたわ、これよこれ、いいじゃない」 記憶を都合良く操作して機嫌も直り、鼻歌を歌いながら選挙カーへ。 ボランティアたちが俺に感謝の視線を送ってくる。 事務所の空気が安堵色に染まる。 「木下明美、木下明美をよろしくお願いします! クリーンな政治、新鮮な政治、国政の場に若い女性の力を注ぎましょう! 金権腐敗、官僚独裁もうごめん。対話の政治、思いやりの政治、弱者の視点に立った、新しい政治を作りましょう! 暮らしの視点を永田町へ! 暮らしと永田町の距離を近くする、木下明美、木下明美をどうぞよろしくお願いします」 2 なんでこんなことになったのか、なんで俺はここであの女の秘書をしているのか。それもボランティアで。だいいち、もはや俺は、あの女が議員として相応しいとは思っていない。いや、この期に及んで、あの女が議員として相応しいと思っている人間など、この事務所の中にただの一人でもいるものか。みんなもう、辟易して辟易して、それでもほんの少し我慢すれば嵐は過ぎ去っていくのだからと、心を閉じ、精神を殺し、我慢に我慢を重ねているだけではないのか。そうだろ、みんな。ちょっと聞くが、本当にあの女を議員にしたいのか? そう聞けば、 ノー! と一人残らず答えるに違いない。 なのに、なぜ、俺はここにいて、あの女の選挙を手伝っているのか。 もちろん最初はこんなじゃなかった。あの女にもまだ節操があった。まず怒っても怒鳴らなかった。さらには個人攻撃もしなかった。ところが今や、どうだ。なにか問題が起こるたびに責任者をでっち上げ、ネチネチネチネチいびりまくる。それも男に対してはまだ手加減があるが、女に対しては、もう際限なし、泣こうが、逆ギレで叫こうが、しつこく、執拗に、気が済むまでなぶりぬく。とにかく女を虐めたいんだな。だから、あの女が何かで叫き始めると俺の出番がやってくる。怒鳴られ係、嬲られ係。 これであの女の外ヅラが良ければまだ許される部類だろう。ところが外部に対しても同じなんだな。あの女自身が一言詫びればすむような場面で、下らない言い訳、ヘタな言い逃れを並べ立てて一歩も引かない。プライドを守り抜いているつもりなのか知らないが、ちょっと引いたところから見ると、そのくだらなさは横綱級だ。そんな議論で、相手が呆れて去っていけばこちらの勝ち、だとでも思っているのかよ、おいおい。 これでもし当選したら、国会で何を議論するつもりなのか。 ふと考えてぞっとする。 俺はこの女を議員にしようとしているのではないのか。そのために分刻み秒刻みのスケジュールで動き回り、二度も倒れて点滴を受けながら、それでもこの女のために町内会を回り、組合に頭を下げ、ミニ集会を主催しては作り笑いに顔を引きつらせているのじゃなかったのか。それも無給で。 二ヶ月前、 「一緒に国会に行こうよ」 そう言われて悪い気はしなかった。 最初はインターネットでしか知らない相手だったけれど、自身が主催する掲示板へのあの女の書き込みは意表をついた比喩に彩られ、また受け答えも誠実で、奇妙な魅力に溢れていたよ。初めてのオフ会でも凡人の中でギラギラと輝いていたな。そのオフ会も回を重ねるごとに盛況だったし、この二年間、みんな楽しくやってたよ。立候補について相談を受けたときには驚いたが、俺は驚きながらも賛成した。なにせ俺は当時ついていた仕事に飽き飽きしていたし、あの女が夫以外でいちばん心を許していたのは俺だったから、もし通ったらそのまま秘書として就職したらいい。そういう打算もあったのさ、ハハ、ハ。 で、今朝、あの女が突如、新しい公約を発表した。 「当選したら秘書を公募します」 企業、団体からの出向などという形ではなく、本人の能力とやる気を見て秘書を決めるのだと。 あの〜、僕も公募してよろしゅうございますか。 そう聞けばいいのか。 あるいは、公募の書類を議員様になったあの女宛に送ればいいのか。 さっき手渡された、秘書公募のコンセプトのメモをパソコンに打ち込みながら、結局これは俺への三行半なんだと気づき、煮えくりかえる思いに煮えくりかえりながら、でもあの女が通ってオサラバできるならそれもいいじゃないか、などとまた自分をなだめている自分を発見して、それでも悔し涙さえ出てこない自分のふがいなさに呆れもし、情けなくも思い、結局、与えられた仕事を淡々とこなしているのだった。 あの女を議員にするために。 3 そしてあの女は僅差で当選した。国会議員になった。 議員になったら何をやりたいですか、などと選挙運動中にインタビューで聞かれ、今は選挙に必死でゆっくり考えられません、などと顰蹙買いまくりだったのが、通ってみれば、これから考えます、だと。確かに正直でいい。が、結局、こいつに入れた有権者は何を思って投票したんだね、通ることしか考えてない女に投票し、それで良かったのかね。 俺は遠山の部屋のテレビを勝手に切った。 ワイド画面に大写しになったあの女の顔など見たくないから。 「これで良かったんだよ。大衆のバカさ加減がわかっただろう」 遠山は俺の顔を眺めながら続けた。 「お前の顔は変わったよ」 「そりゃ、痩せたもの。この2ヶ月で4キロ痩せたよ。ガリガリだ」 「そんな意味じゃないんだ。どう説明したらいいか……お前、この前まで、選挙だとか政治だとかにそんなに過剰に思い入れをしてたか?」 俺は少し考えて答えた。 「それは、ないな」 「だろ」 遠山は畳みかけるように、 「だいいち、お前、これまで投票に行ったことあるのか?」 「あるよ! 失礼な」 「何回?」 「二回」 「あとは棄権か」 「ああ、なんか色々あって、投票には行けなかった」 「そんなものだろう。選挙に必ず行くなんてのは利権がらみか、共産党か、公明党だよ。一般の国民にとっては、選挙なんてどうでもいいんだ」 「現状ではそうだと思うよ。でもそれじゃ駄目だってことで、今回……」 「お前の言うバカ女を国政の場に送り込んだってわけだ」 ぐうの音も出ない。遠山は哀れみの目で続ける。 「俺は選挙に行ったことはないが、選挙制度自体は否定しないよ。政治家に目に見える形で権力の正当性を与えるという意味では、最高の形だからね。だからといってこんなものに俺が参加する必要はないだろう。俺抜きでも権力の正当性は維持されていくからね。もちろん、正当な権力があることによる政治的安定性の恩恵には充分浴させてもらっているから、申し訳ないとは思う。でも、やっぱり、政治につきまとう、どうしようもない胡散臭さは俺にはやりきれん」 「そうやって政治から逃げる人間が増えたから……」 何かひどく教条的なことを口走りそうになって、俺は口を閉じた。 「まあ、お前はよくやったと思うよ」 遠山の目が優しくなった。 「本気か?」 「ああ、でもまた同じことをしたいなんて言ったら、俺は体を張ってでも絶対にとめる。これ以上お前がボロボロに……」 その時、突然テレビの電源が入り、あの女の顔が大写しになった。 あの女は遠山をにらみつけ、テレビの枠を握り、頭から肩をズルリとこちらへと乗り出した。ワイドだからか、少々太って見えるあの女はそのまま手をついて部屋の中へと入ってきた。入って来るなり、 「アナタみたいな人間が居るから、この日本の政治が駄目になったのよっ! さあ体を張ってもらいましょうかッ!」 あの女は身動きひとつ出来ない遠山の喉に食らいつき、バリバリと音を立ててへし折った。 噴水のように吹き上がった血が天井からネチャッと落ちてきた。 「醤油ッ! 気の利かない人ねッ!」 俺は遠山の台所から醤油を取ってあの女に渡した。あの女はまず遠山の頭に醤油をダラダラと回しかけ、顎の当たりから食い始めた。 飛び散る血と骨の砕ける音、飛んできた脳漿の生臭さに、俺は畳にへたり込んで涙と大小便を垂れ流しながら動くことも出来なかった。 女はボドッと畳に落ちた遠山の目玉を拾い、 「あなた、なんで今日の大事な場にいなかったのよ、え?」 口に入れてブチャッと噛みつぶした。 俺は何も言えなかった。 「え? どうしたのよ」 腹を割いて取りだした、湯気の立つ生き肝に醤油をかけながら、 「ふん、答えられないようなこと、するんじゃないよ」 そう言って肝を一口かじると、今度は腹に首を突っ込み、まるでラーメンのように、ズルズルと音を立てて腸を啜った。 「酒! 酒がないわ!」 俺はさっきまで飲んでいた燗酒を渡した。 一口飲んで、 「本ッ当に粗悪な酒ね、でも無いよりはいいわ」 酒、肉、酒、肉、酒、肉の一時間ほどの惨劇が終わり、遠山は骨格だけを残して消えてしまった。 血まみれのあの女はこちらを睨みつけた。 「さあ行くわよ、政治よ、政治、アナタは明日から国会議員の秘書なのよ、しょぼくれた顔してないで、シャンとするの!」 「秘書?」 俺はやっと口を開くことができた。 「そうよ、アナタにはこれまで以上に頑張ってもらわないと」 「秘書は公募……」 「だってアナタ、たった今、応募したでしょう、採用よ、採用。採用してあげる」 「あ、あの、国会議員の秘書みたいな立派な仕事、ボクみたいなモノに務まるでしょうか」 「だから頑張ってって言ってるでしょう! シャンとするのよ、シャンと!」 「あ、あ、ありがとうございますっ! もったいのうございますっ!」 俺は感激の涙を流しながら、遠山の骨を蹴り飛ばし、血の池に土下座して額を畳にすりつけた。 「行くわよ」 先生はおっしゃってテレビの画面に向かいました。 私も先生に従ってテレビの画面に入っていきました。 最近では人肉の味も覚え、恰幅もよくなった私は、すっかり秘書らしくなったと言われています。先生の山よりも高く海よりも深いご恩に感謝する日々です。(おわり) (続く) |