死と乙女
テアトル仁川 武庫川通信
 一
「余所者」
 という言葉が、私の心に根をはった日。
 *
 夕陽が彩花の頬を照らしていた。
 逆光に射られ、産毛が金色に輝いていた。
 高等部に入りたてだったあの日、なぜ私たちは音楽室にいたのだろう。
 二人で。
 *
 彩花はピアノに向かい、シューベルトの歌曲集『冬の旅』の第一曲、「おやすみ」の伴奏を何度も何度も繰り返した。
 若者が恋人への未練を抱きつつ雪道を去る、その足取りを模した単調で重苦しいリズム。春の夕暮れのけだるさもあって、私は心底その音楽に飽いていた。
「それどんな歌なの? 歌もちょっとだけ歌って」
「難しい歌よ。出だししか歌えない」
 彩花はそう言うと、出だしの数小節をよく透るソプラノで歌った。

Fremd bin ich eingezogen,
Fremd zieh ich wieder aus.

「ドイツ語?」
「そう」
「どんな意味?」
「大体の意味でいい?」
「もちろん」

 余所者は、私、ここに来て、
 余所者のまま、去っていく。

「余所者は、私、ここに来て、余所者のまま、去っていく」
 私は彩花の言葉を繰り返した。
 このとき、生まれて初めて、私は詩というものに感動した。
 彩花は再びピアノに戻った。歌のない伴奏だけの音楽が始まり、そしてそれは私の心にいきなり染み入ってきた。私は泣いた。声をあげて泣いた。
 彩花は気づかぬふりをしていた。
 *
 物心ついてからずっと、余所者だった。
 どこか美しい他の世界から、たったひとり、この薄汚い世界に放り出された余所者だった。
 父は他に住んでいた。なのに葬儀はうちの家でやった。どこかから運び込まれる棺。
 小さな窓からのぞき見た父の顔。
 やせ衰えて死んだ顔は土色の皮を被った骸骨だった。
 まだ四十前だった。
 そして見た。
 庭の銀木犀の裏に、私より少し年上の女の子。
 ずっと昔から、よく同じ場所に薄ら笑いを浮かべながら立っていた。それに気づいた祖母は千円札を持っていって手渡した。
 お金を受け取ると、まるで猫のように去った。
 *
 なぜあの女の子はいつもここに来るのだろう。
 なぜ祖母はあの子にお小遣いを渡すのだろう。
 あの子は誰?
「遠い親戚」
「いとこ?」
 黙り込む祖母。
 *
 祖母のいないところで母に聞く。
 いきなり平手で打たれる。
 そんなことおばあちゃんに聞くな、と。
 そんなこと二度と口にするな、と。
 ……この家には魔が住んでいる。
 と、気づく。
 *
 口を閉ざす。
 貝になる。
 仮面を被る。
 *
 余所者は、私。
 二
 彩花もまた、余所者だった。
 けれど彩花は、それを自ら激しく主張しながら生きていた。
 ガラスのように鋭く、そして脆かった。
 彩花は言った。
「死にたいって思ったことない?」
 私は答えた。
「生まれてこなければよかった、とは思う」
「それとこれとは違う」
「どこが?」
「死にたいって思うのは、それが復讐だからよ」
「そうね。私は復讐したいとは思わないから」
「誰にも?」
「うん」
「私はまだ幸せなのかも知れない」
「どうして?」
「この世を憎んでいられる」
「私は?」
「あなたはすっかり麻痺してる。すべてに」
「麻痺じゃなく、倦怠かも」
「高一で?」
「年齢は関係ない。それに私、処女じゃない」
「いつから?」
「このあいだから」
「相手は?」
「祐二」
 彩花の目が穴になる。表情の全てが消える。絞り出すように言う。
「いつから……あなたたち、そうだったの?」
「わからない。気づいたら抱かれてた」
「なぜ私に言うの?」
「あなたを傷つけたいから。あなた、祐二が好きなんでしょ」
 彩花は絶句する。
「嘘よ彩花。全部嘘よ」
 彩花の目がかすかに笑う。
「やっぱりそうなのね」と確認する私の中に、残虐な気持ちが湧く。
 祐二はやはり奪わなければならない。
 *
 コンサート。祐二がバリトンで、彩花はピアノ。「おやすみ」の演奏。
 音楽室で聞いた彩花の伴奏だけの方がよかった。祐二の歌は邪魔。
 でもそんなことは口にしない。
「よくわからないけど、よかった」
 などと、知ったような口を、翌日きく。
「来てたの?」
 などと照れながら答える祐二。
 プライが、フィッシャー=ディスカウが、などとひとしきり音楽談義。レコードの貸し借りの約束。ちょっといい雰囲気。クラスの皆が噂する。隣のクラスの彩花が知らぬ間に、こうして祐二との関係を作る。気づいたときには手遅れの。
 *
 密室の文芸部室でいきなり抱きしめられる。
 自ら罠を仕掛け、お望みの獲物がかかったというのに、恐怖で足がすくむ。
 硬くなったまま抱かれる。乾いた唇が重ねられる。
 全然甘美じゃない。
 祐二の手を振り払う。逃げる。
 どうしてこんなことになったのかわからない。
 そして泣く。自らを責めて。

 三
 高校初めての夏休み、その初日、今日は親戚と大事な話があるから外に出ているように、と母に言われる。文芸部室で一人勉強することにする。
 祐二が来た。
 きっと、私を狙って。
 来ることはわかっていた。
 それなのになぜ来たのだろう、私はここに。
 *
 当たり障りのない会話。友達の噂。先生の話。
 とぎれる。
 来るぞ、と身構える。
「帰る」
 席を立つ。
「どうして?」
 祐二の目には真剣な光が満ちている。
 一瞬、さんざん焦らしたのだし、夏休みだし、いいかな、と思う。もうキスはごめんでも、抱かれるくらい、と一瞬思う。思うと体が硬直する。動けない。
「俺のこと、どう思ってる?」
「どうって?」
「好きか、嫌いか」
「そんな。どっちでもない」
「じゃあ、どうしてこの間は……」
「やめて!」
 思い出したくない。聞きたくない。どうしてあんなことを言葉にしたがるのだろう。
 ドアの取っ手を握る。立て付けが悪く、なかなか開かない。悪戦苦闘しているうち、祐二が後ろから近づいてくる。肩に手が触れる。もう駄目だ、と思う。鞄を床に置く。
 *
 キスさえもないただの抱擁。男の体の重さ。
 腕をまわすべきか。このまま下に下げておくべきか。
 思い切って祐二の腰に手を回す。
 抱きしめられる。
 息が出来ないほど。
 前とは全然違う。ときめきと、安らぎ。こうしたかったのだ、との、確信。
ふと、自分は生きていていいのだ、と気づく。
 満ち足りて、腕をほどきながら、次の瞬間、唇が重ねられる。固い感触。すぐに離れる。
「ありがとう」
 なぜ礼を言うのかわからない。でもそれ以外、思いつかない。
 自分も生きていていい、一人の人間なのだ。
 それを教えてくれた祐二へ、もういちど
「ありがとう」
 でも、今はとても一緒にはいられない。
 ドアは、今度は素直に開く。
 *
 家路は夏休み初日だからだけでなく、輝いている。
 輝きが、涙できらめく。
 私は抱かれるだけの価値がある。
 抱くだけの価値があると思ってくれる男がいる。
 祐二のことが好きだ、と一瞬思う。
 家路を急ぐ。
 早く自分の部屋でこの想い出に浸りたかった。
 *
 なぜ今日、家を出されたのか忘れていた。
「ほーう、K学院ですか」
 仏間に居た若い男は、私の制服姿を上から下まで舐めるように見て、嫌みな口調で言った。
 隣にはあの女の子が、奇妙にケバケバしい化粧をして座っていた。
「この子は高校へも、やってもらえなかったんだ」
 母が私の所に飛んできた。
「なんで帰ってきたの」と低い声で。
「私たちは構いませんよ。お嬢さんも一緒にいてくれた方が、これからのことも話しやすいんじゃないですか」
 祖母が苦しそうに呻いた。
「さ、これで何か食べに行きなさい」
 母は私に千円札を渡す。
「これまでこの子も、そんなはした金で追い払ってきたんですよね」と男の太い声。生まれて初めて聞く、心底の悪意に満ちた声。本当の恐怖。
「お嬢さん、だめですよ、あなたもそんなはした金で追い払われちゃ」
「さ、早く」
 苦しそうに歪んだ母の表情。
 千円札を握りしめて玄関を飛び出す。
 *
 もう一度やってきた文芸部室には誰もいない。
 すべては錯覚だったのかもしれない。
 私には待たれる価値など無かったのだ。
 幸福など、私にはありえない。
 魔の宿る家。魔の宿に住む私。
 消えていく幸福を、肉体に残る幸福の名残を、今度は一人、抱きしめる。
 
 四
 夏休みに入っても、夏はやってこなかった。梅雨はあけることなく夏休みに入り、学校の側の溝はずっと茶色の水にあふれていた。ただ、夏休みに入ると雨は小降りとなって、溝の水は澄まないまでも水位を下げた。
 *
 休みに入って二日目、文芸部室をノックする音がした。開けると彩花だった。祐二と抱き合っていたことが空気を濃厚にするのかも知れない。あまりの息苦しさに彩花の目は私たちを探っていた。
「ふたり?」
「そう」
 私は冷たく言った。たった今までキスしてたのよ、という目をして。
「ねえ、溝に、人形が沈んでるんだけど」
「人形?」
「家庭科室のマネキンだと思うの」
「誰がそんなとこに」
「ねえ、祐ちゃん、見て」
 祐二はゆっくりと立ち上がった。
「こっち」
 彩花について祐二は出ていった。私も続いた。
 *
 溝の底にある人形はうつぶせになり、流れ着いたゴミが制服の上に被せられていた。
「これは人だ」
 祐二は言った。
「当直の先生に連絡しないと」
 祐二は走って去った。
 私たち二人が残された。
「人?」と彩花は言った。
「これが人?」と私は返した。
 だとしたら、なぜこんなところに転がっているのだろう。人なら人らしく、しっかりと起きあがりなさいよ。
 髪の生え際を泥水が舐めていた。粟粒が浮かんでいた。毛穴など、人形にあるはずがない。
「見て、うなじの生え際」と私は言った。返事はなく、沈黙の後、彩花は側の植垣にうずくまり、吐いた。咳き込みながら、何度ももどした。
 教員と祐二が走ってきた。私は彩花の肩を抱きながら、水道のあるところへと歩いた。
 *
 パトカーと救急車の音が近づいてきた。
 警官が来て、部室に寝かせていた彩花を連れて行った。
 *
 彩花と祐二は、もう夕暮れになって、部室に戻ってきた。
 三年生の女子が行方不明になっている。多分その子だろう。事件性も考えられる。
 警察から聞いたことを祐二は言った。
 彩花は黙っていた。
 *
 今日は一人になりたくない、と彩花は言った。
「ここで徹夜しようよ」
「三人で?」
「うん」
「俺は帰る。こんな所にいたら、警察に怪しまれる」
「じゃあ、彩花、ウチに来る? 泊まれるよ」
 彩花は、うん、と小さく言った。
 *
 夕食は私の部屋で二人でとった。交代で入った風呂上がり、ベッドの端に並んで腰掛けると、私と同じシャンプーの香がした。
「祐ちゃんと、出来てるの?」と彩花は言った。
「そうよ」と私は冷たく言った。
 死体を見せられて私はひどく残虐な気持ちになっていた。
「いつから?」
「六月の終わりに一度キスした。昨日も今日も部室でキスした」
「そう」
 諦念のため息に近い返事だった。それに続けて彩花は言った。
「女にも、性欲ってあると思う?」
「性欲?」
 彩花の目を見て、私はゾッとした。口元は笑みながら、目は全く笑っていなかった。彩花もまた、残虐な気持ちになっていたのだろう。
「あるんじゃないかな」
「好きだっていう気持ちと、性欲とは同じ?」と彩花。
「わからない。彩花はどう思う?」
「私は経験がないからわからない。あなたは経験があるでしょ」
「経験?」
「祐ちゃんと」
「こんなの、経験の内に……」
「あなたのはただの性欲よ」
 彩花は私を遮ってピシャリと言った。
「何?」と私は驚いて返す。
「あなたは祐ちゃんを好きじゃない。そんなのはただの性欲よ」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「私にはわかる。あなたは祐ちゃんごときを好きになれるような人じゃない」
「祐ちゃんごとき?」
「小さい頃から見てて知ってるの。あれは屑よ。あなたの相手じゃない」
「買いかぶられたものね」
「じゃあ言ってみて。祐ちゃんのどこが好きなの?」
 絶句する。
 体が、としか言えない。祐二とは挨拶さえ煩わしかった。
「言ってみてよ! どこが好きなのか」
「あんなの嫌いよ。本当は」
「ほら、そうでしょ」
「なぜわかったの?」
 私にもわからなかったのに。
「あなたは自分を罰しようとしている。つまらない男に身を任せようとしている。あなたは自分を愛していない。だから他人を愛せるはずが……」
「彩花だってそうでしょ!」と、堪らず、言い返す。
「そうよ。だから解るの。あなたは人を愛せない」
「彩花、祐二のこと好きなんじゃ……」
「小さい頃からペアにさせられてたから、愛しくは感じる。でも今、はっきりわかった。あなたに対しては全然嫉妬を感じないの」
「嫉妬を感じる価値がないほど、私がそれくらいつまらない女だってことじゃないの?」
「違う。むしろ祐ちゃんに嫉妬してる。あなたとキスしたなんて」
「どういうこと?」
「あなたは特別なのよ」
 わからない。
「貴族なのよ」
「貴族?」
「あなたにはわかっていたはずよ。この世界と、自分と、どちらが尊いか」
 わけがわからない。
「私たちはね、この世の住人じゃないの。もっと他の、本当に美しいところから来た人間なのよ。ね、そう感じたこと、あるでしょ」
 うなづくほかなかった。
「私たちは、苦しむべくして苦しむのよ。これは貴族の特権なの。祐二なんかとは違うの。私たちは選ばれているのよ。この苦しみは選ばれたものにしか与えられないの」
「どうして彩花は……」
「あなたは鈍いわ。自分の才能の在処を知らない。磨けば玉になる才能なのに」
「何の?」
「人間の、よ」
「人間?」
「文章とか、音楽とか、そう言うと思った?」
「うん」
「そんな発想はすでに精神的な庶民よ。いわゆる才能とやらが世間的に役に立つか立たないかで自分を切り売りしなきゃならない哀れな庶民の発想よ。貴族っていうのはね、全人格的存在なのよ。あれが出来る人、これが出来る人、とか、そんなんじゃない。そこにいる、それだけで尊い人格なのよ、わかる?」
「それはわかるような気がする」
「あなたは貴族なの。私と一緒」
 言葉がとぎれ、私たちは見つめ合った。
 記憶の中の死体が私たちを結びつけた。
 私たちは唇だけを、漫画の中の小鳥のように、一瞬、合わせた。
 驚いて、すぐに離れ、そして、起こってしまったことの恐怖からか、彩花は極端な早口になった。
「男を好きにならなければならない必然性なんか、ない。そんなのは自然が勝手に決めたことで、人間はそもそもが自由で、誰をどんな形で好きになろうと、自由で、もともと不自然なのよ、だから、誰をどんなかたちで好きになったとしてもかまわない。そう思わない?」
 私はすぐに返事せず、彩花をじっと見つめ、そして言った。
「自然がどうとか、それは彩花の理屈よ。あとからつけた理由よ」
「だから?」
「彩花は私のことが好きなんでしょう」
「好き? 好きってどういうこと」
 わからない。
「あなたにはわからないはずよ。あなたは人を愛せない人だから」
「彩花はどうなのよ」
「もちろん、あなたが好きよ。あなたもわかったはずよ。私が好きって」
「わからない。でも、虐めたいとは思った。虐めたくて、祐二を取り上げたの」
「やっぱりね。でもおあいにく様でした。ぜんぜん悔しくないの」
「残念ね」
 彩花は目を閉じ、唇を差し出した。私も応じた。
 *
「祐ちゃんと、どっちがよかった?」
「わからない。別物だと思う」
「別物ね。そうかも知れないわ。で、どこが別なの?」
「何もかもよ。祐二の時はドキドキと安らぎが半々だった。今はまだドキドキしてるから」
「私にも、祐ちゃんと同じように、して」
「出来ない」
「どうして」
「彩花に対して失礼だから」
「じゃあ、私に思い切りキスして」
 私たちは抱き合い、唇を重ねた。さっきは閉じたままだった彩花の唇が今度は少し開いた。震える舌が応じてきた。けれど私の舌に触れると驚いたように引っ込め、そしてまた怖ず怖ずと応じてきた。
 *
 彩花も怖がっている。それがわかると彩花がたまらなく愛しくなる。ベッドに横座りのキスではなく、きちんと正面から抱き合いたい。抱きしめつつ、正面になるように、そのまま押し倒す。彩花が一瞬気を失ったのがわかる。
 *
「私とあなたは特別よ」と彩花は私の腕枕の中で言った。「何をしたって許されるのよ。さあ白状して、私の方がよかったでしょ? あなた、すっかり夢中になってたわ」
「彩花だって」
「そうよ。私は隠さない。よかったわ。だからちょっとだけ気が遠くなった。どう? あなた、祐ちゃんのときもこれほど夢中になる? ならないでしょ?」
「だって……」
「当たり前よ。私たちは特別なの」
 抱き合いながら、私たちは話し合い、話がとぎれると唇を重ね、満足するとまた話し始めた。お互いの寝顔が見たくて、意地になって、お互い起きていた。
 離れるとすべてが消えてしまいそうで、朝が怖かった。
 それでもいつのまにか寝入っていた。
 *
 朝、どちらともなく目を覚まし、キスした。夜、二人とも歯を磨いていなかったから、口が猛烈に臭かった。
「人の口は臭い。よくわかった」
「本当。百年の恋も冷めるわ」
 *
 朝食は、祖母と、母と、彩花と四人でとった。気まずかった。隣のクラスで、同じ文芸部員で、などと、いくら言っても、彩花との関係を上手く説明できなかった。本当の関係、夕べ出来た関係を説明できるはずもなかった。
 食後、居間にいつもの朝のコーヒーが出て、祖母が新聞を差し出した。
「行方不明のK学院生 他殺? 学校横の溝に」との文字が目を射た。
「他殺」と私は言った。
「可愛そうにね」と母は言った。「殺されるなんて」
 母には昨日の死体のことは話していなかった。
「うらやましい」と彩花は言った。
 ギョッとして、祖母と母と私は彩花を見た。
「殺されるくらい激しい感情をぶつけられる。うらやましい。そう思わない?」
 *
「面白い子ね」
 彩花が帰ると母は言った。
「でも、危険よ。ああいうタイプは崩れ出すとキリがないからね。友達になるにはそれなりの覚悟がいるよ」
 そんなの、早く言ってほしい。
「男の子にもてるでしょ、あの子」
「男の子にも、女の子にも避けられてる。どっちかというと」
「そう? そうかもねえ、あんたも距離を置いた方がいいかもよ」
 もう遅い?。
 それともまだ引き返せる?
 でも、あんなことは夕べ限りにする。
 プラトニックな親友になる。
「それはそうと……」と母は口調を変えた。私は心の中で身構えた。
「おとといの男の人と女の子」
 来た、と思った。
「何でもないからね。どこかで会っても、絶対に挨拶なんかしないでね」
 どうして? と聞けない。
 ……この家は魔の宿り……。
 返事もしない。
 ふい、と自分の部屋に逃げる。
 ベッドに倒れ込む。
 彩花の残り香……?

 五
 突然生理になった。
 夕べでなくてよかった、と一瞬思い、自分で頬が紅くなっているのがわかった。
 整理できないほどの大事件が立て続けに起こって、体がたぶん、処理し切れていないのだと思う。体の抗議。
 おとといと昨日、祐二と抱き合ってキスした。
 昨日は彩花とも抱き合ってキスした。
 死体を見た同じ日に。
 なんという恐ろしいことを。自分はなんという恐ろしい女になってしまったのだろう。同じ日に二人と。男と女。しかもどちらも本気だった……。
 家に住む魔、そして溝に沈んだ女の子が、私を狂わせた。そう思いたい。
 思いたいけれど、きっと違う。あれはきっかけにすぎない。あれはただの鍵で、私はその鍵を待っていたのだと思う。開けてもらいたかったのだと思う。
「あなたのはただの性欲よ」
 恐ろしいことをさらりと言った彩花。
 性欲だったのか? それならなぜ祐二でなくてはならなかったのか。
 わからない。
 でも、自分が抱かれたいと思ったことは確かだ。
 嫌いなのに、抱かれたい?
 ただの性欲だから?
 ちがう、と思う。
 彩花のことは好きだと思う。
 それでも、もう抱きたいとは思わない。
 昨日のはただの事故。
 けれど、キス以上のことを、私がもし知っていたら……
 だめだ。
 想像できない。したくない。
 けれど、たぶん、知っていることはすべて、彩花相手にもしただろうと思う。
 夕べの数十回のキス以上のことを。
 いやだ、と頭を振る。否定する。
 そしてふと思い出す、おととい、うちに来た女の子。どう見ても、まともじゃない。なぜあんな人間たちがうちの家に出入りしているのだろう。
 なぜ?
 ずっと昔から見慣れていた、あの女の子の薄笑い。
 あの子は誰?
 聞けない自分が悔しい。
 恐ろしい女になった自分が恐ろしい。
 *
 そして三日間、何もなかった。どこへも出かけず殊勝に机に向かっていた。
 勉強が忙しかったのではない。祐二と彩花、どちらから先に連絡があるか、心の中で賭けていた。どちらが先だったからどうというのではない。ただ、二人を試してみたかった。私の不在に、どちらが長く耐えることができるのか。試したかった。
 *
 例の水底の女の子のことで新聞やテレビが騒がしかった。
 すべて見ないようにしていた。
 母親には彩花が帰った後、一応言った。
「それであの子、泊まっていったのね」
 と、奇妙に納得していた。
 *
 ふと、試されているのは私なのではないかと気づいた。
 このままもし一人で放っておかれたら、私はどちらに電話するのか。
 私が求めているのは、どちらなのか。
 *
 彩花から電話があった。
 学生三人が逮捕された、と彩花は言った。
 リンカン、と耳で聞いただけではわからなかった。
 漢字を聞き、輪姦、という言葉を初めて知った。
 *
「逃げ出して溝に落ちたらしいね。みっともない最期、無様よ」
 そんな言い方もないんじゃないか、と思う。
 けれど黙っている。
 この悪口は川底に沈んだこの女の子への、彩花なりの追悼なのだ、と思う。
 そういうことが、この前の夜に、わかった。
 悪口も懐かしい感じがした。
「犯されたって、輪姦されたって、私たちは毅然としていようね」
「毅然と?」
「川に流されるなら、オフィーリアみたいに」
「綺麗すぎる」
「綺麗でいたいの。最期まで自由にね。私たちは自然を超えてるの。男なんて、ただの自然よ。砂糖に群がるアリを誰も非難できないでしょ。悪いのは砂糖をこぼした人間よ」
「私たちは砂糖?」
「どうしようもないアリたちのなかにわざわざこぼされた、ね」 
「男が嫌いなの?」
「べつに。好きな男もいる」
「お父さんは?」
「嫌う対象にもならない」
「お兄さんは?」
「そうね、嫌ってあげてもいい。あなたこそ、お父さんの記憶はあるんでしょ」
 ない、とは言えない。
「小学校の帰り道で、たまに待ち伏せしてた。元気かって。段々目が鋭くなって、怖かった。死んだときもそんなに悲しくなかった。居るのか居ないのかわからなかった人が、やっぱり居ませんでしたって感じかな」
「離婚?」
「じゃないと思う。出ていっただけ」
「女?」
「よくわからない。お母さん、黙ってるから」
「聞きなさいよ。もう高校生なんだから」
「聞いたりして、嫌なことを聞かされたら嫌だから」
「私たちにとって、この世で生きていくこと以上の嫌なことがある?」
 文芸部室のドアがノックされた。祐二が入ってきた。この男とも三日ぶり。ちょっと懐かしい。
「ふたり?」と聞く。
「見ればわかるでしょ」と彩花。
「何してるの?」
「話、話、話」
 じれている祐二。気持ちが手に取るようにわかる。
「またあれから警察が、家にまで来た」
「そう」と、彩花はこれ以上ないほど冷たい口調でつきはなす。
「そっちには来なかった?」
「私はあの夜、お泊まりだったから。ねぇ」と私に同意を求める。
「ねぇ」と私も乗る。
「そうか」
「帰ろうか?」と彩花は私に。断れないような口調で。
 *
 彩花の家。彩花の部屋。本棚をはみ出し、天井にまで横積みになった猛烈な量の本。
「彩花、これ全部読んだの? すごい読書家!」
「まさか。兄貴のよ。置き場がないから置かせてくれって」
「お兄さんが読書家なんだ」
「読書家なだけよ。大学で学生運動なんかしただけで、世の中のこと知った気になってる。でも、人間については何もわかってない。何よりだめなのは、マザコンだってことよ」
「マザコン?」
「母親べったり。あんな母親に」
「彩花、お母さんにも文句があるのね」
「文句? あるわけないわ。私にとっては完璧な母親よ。感謝してるくらい」
「だったらなんで?」
「すぐにお茶持ってくるって言ってたから、見るといいわ。昼間から酔ってるのよ」
「酔ってる?」
「アル中ってこと」
 *
 お茶とゼリー菓子を持ってきて机に置くなり、彩花の母親はベッドの上に座り込んだ。酒に酔った女性を見るのは初めてだった。
「彩花はね、気が弱いんですよ。そう思いません?」
「そうですか? むしろ気が強い方じゃ」
「そんなことは、ありません。気が弱いんです」
「そうなんですか」
「小さい頃からね、ちょっとしたことを気にして、泣くんですよ」
「よく泣く子だったんですね」
「そうそう。気が弱くてね。そう思いませんか?」
「いえ、今じゃ、気が強い方だと思います」
「小さい頃は気が弱くて、いつも泣いて泣いて困ったんです、今は泣きませんか」
「泣いたところは見たことないです」
「昔はよく泣いたんですよ。気が小さくて。今だってそうでしょ」
「いえ、今は気が強いですよ」
「そんなことはありませんよ。小さい頃は気が弱くて、いつだって泣いてるような子だったの」
「今は、結構気が強い、よね」と彩花に助けを求める。
 無視される。
「気の弱い子で、お兄ちゃんにいつもついてまわって、いたんですよ」
「お兄さんとは仲よかったんですか」
「今だっていいんですよ。昔はね、この子の気が弱かったから、よけいよかったんでしょう?」
「そうでしょうね」
「そうなんですよ。気が弱くて。よく泣いて、泣いて」
「今は全然泣きませんけどね」
「友達が遊んでくれないと言っては泣き、ちょっと転んだと言っては泣き、いつも泣いてたんですけどねえ」
「今は結構気が強いほうですよ」
「お兄ちゃんも終いには面倒くさくなって、そんなに泣いてると、そのうち目から水がなくなるぞって」
「お兄さんはおもしろい人なんですね」
「この子は気が弱いんですけどね、あの子は……」
「お母さん」と彩花が冷たく言った。「私たち、これから勉強するんだけど」
「あっ、ああ、ごめん」と彩花の母親は、ベッドからこぼれるように滑り降りると、床に手をついてよろよろと立ち上がった。
「ごゆっくり」と部屋のドアを強烈な音を立てて閉めた。
「家はもう、あの女のせいで無茶苦茶よ」と彩花は吐き捨てるように言った。
「完璧な母親じゃなかったの?」
「見ての通り、完璧じゃない。完璧すぎて、死ぬほど嫌なの」
 *
 彩花の腕。
 唇。
 もうしない、と決めていたのに。
 柔らかい体。コロンの香り。彩花の髪に顔を埋める。
 心地よい、とは思う。でも違う。
 生理中だから?
 ふと思う。祐二はまだ部室にいるだろうか。
 *
 彩花がトイレに行ったすきに、ちょっと机の引き出しを開けてみる。
 ずっと前の家族写真。母親と、父親らしき男性と、小学生の彩花と、そして、見たことのある若い男。
 急いで引き出しを閉じる。
 恐怖に胸が高鳴る。
 彩花が戻ってくる。
「どうしたの?」と雰囲気に気づいたのだろう。
「お兄さんって、どこかの学生?」
「K大」
「賢いんだ」
「さあ。成績はよかったからね」
「それに、きっとハンサムなのよね」
「どうして?」
「彩花のお兄さんだから」
「そんなことない」
「ねえ、写真とか、無いの? 最近の」
「あったかなあ」とガラス戸の本棚からアルバムを出す。
「これが比較的新しい。大学入学の時の写真よ」
 のぞき込み、間違いない、と確信する。
 恐怖で頭が真っ白になる。
「どうしたの?」
「お兄さん、いつも帰ってくるのは遅いの?」
「遊び歩いてるから、深夜が多いけど。どうしたの? 会ってみたいの?」
 ううん、と首を激しく振る。
 じゃあ、と彩花はアルバムを閉じる。続きをしよう、とでもいうような仕草で私の手を取る。むしろありがたいと思う。顔色では気取られても、キスで気づかれることはあるまい。わざと激しくする。醒めきった心で。

 六
「電話よ、男の子から」
 母の声。
 祐二だったら嫌だな、と思う。
 そしてやはり祐二。どうして家になんか電話してくるのだろう。
「なんでしょうか」とわざと丁寧に聞く。クラスの連絡網か何かとごまかせるよう。
「彩花と、仲良くなったのか?」
「は?」
「明日、文芸部室に来てくれ」
「何時でしょう」
「十一時」
「はい、わかりました。十一時から会議ですね」
「なんだよ、それ」と怪訝な口調で聞いてくるのを無視して、
「じゃあ、また明日」
 などと素っ気なく切る。
「何?」と母が聞く。
「文芸部の会議だって」と答え、部屋に駆け上がる。
 ふう、とため息をつく。
 明日、また祐二と抱き合うことになるのだろうか。
ものごとがあまりに急に進みすぎる。
 それにしても、なぜ彩花の兄が、と考え……一瞬、あまりの思いつきに自分ながら恐怖する。
 祐二に聞く! 
 祐二なら、彩花の兄がどういう人間か知っているはずだ。あの女の子との関係も、もしかしたらわかるかもしれない。
 そうしたら、なぜ彩花の兄が、あの女の子を連れてうちにやってきたのか、そもそも用件はなんだったのか、糸口くらいはつかめるかもしれない。
 たとえ、つかまないほうが幸せな糸口だったとしても、つかんでみたい。
 つかまなければならない、と思った。
 *
 十一時の文芸部室、祐二は憮然と座っていた。
「彩花から、何か聞いたか?」と、入ってきた私の顔も見ずに言った。
「何を?」
「俺のこと、とか」
「聞かないよ。どうして?」
「なんで俺を避ける」
「避けてなんか、ないよ」
 じゃあ、と祐二は立ち上がる。
「何よ」と私はひるまずに言う。
「彩花は狂ってる」
「いきなり、何?」
「おまえ、あいつの言うこと、理解できるか?」
「できるよ」
「嘘だ」
「あなたに無理だからといって、他の人も……」
「俺には理解できる。あいつがああ言うことは理解できるってことだ。内容の理解は別だ」
「同じよ。私も」
「たとえば、あの死んだ三年生の女子のこと、なんて言ってた?」
「みっともない最期、無様だって」
「おまえ、そんなこと、言えるか」
「言えないわよ、絶対に」
「だろ。あいつは狂ってる。あいつの言うことなんか、聞くな」
「なんであなたに命令されなきゃならないの」
「俺はおまえのことを考えて言ってるんだ」
「よけいなお世話よ」
「じゃあ、俺のことは、なんて言った?」
 屑。とは言えなかった。
「わたしにはふさわしくないって」
「チクショウ、あいつ」
 無表情だった祐二の顔が怒りの皺に刻まれた。これほどまでに感情をむき出した男の顔を初めてみた。
「で、何だって? 俺とは別れろと?」
「そんな話はしてないよ」
「したはずだ」
「してないよ」
「チクショウ」と祐二は壁を殴った。プレハブの部室が揺れたようだった。
「やめてよ!」
 怖い、と言うより、気味が悪かった。
「おまえ、俺のこと、どう思ってる?」
「どうって?」
「好きか、嫌いか」
「嫌いだったら、こんなところにこない」
 これが精一杯の答えだった。
 少しだけ、雰囲気が和んだようだった。
「ちょっと聞きたいんだけど」とこちらから話題をそらした。「彩花のお兄さん、知ってる?」
「清一さんか?」
「名前は知らないんだけど」
「知ってるけど……」
「どんな人?」
「昔はまじめな人だった、と思う。だんだん彩花と同じに狂っていった。噂じゃ、K大にもあまり行ってないらしい。学生運動して、女のところに入り浸って」
「女?」
「なんか、良くないところにつとめてる女らしいけど」
「良くないところ?」
「わかるだろ?」
「ほかには?」
「それだけだよ。なんで?」
「なんでもない。それより、なんで私を呼びだしたの?」
「呼び出した! なんだよ、その言い方は」
「だって、電話までかけてきて、呼び出したんでしょ?」
 毒を含んだ私の口調に、祐二は気の毒なくらい、しおれた。
「俺はバカだ。おまえらがよく知ってる通りだ」
「何よ、急に」
「難しい話もできない。気取った話も」
「だから?」
「人に自慢できるのは、声楽だけだった。初めて、同級生でほめてくれたのがお前だった」
「それで?」
 私は素っ気なくするのに苦痛を感じ始めていた。心底、祐二が哀れだった。
「キスも初めてだった」
「私もよ」
「本当か?」
「本当よ。あなたにもわかったでしょう」
「わからない。俺には何もわからないんだ。彩花、あれはなんだ。女か? 俺に言わせれば、あれは、化け物だ」
「彩花は特別よ。あんな人は二人といない」
「おまえもそう思うか」
「思うよ。誰だって」
 *
 ……いつのまにか祐二に抱かれていた。髪をなぜられていた。男の体の固さが心地よかった。頼っていいのだ。預けていいのだ。心地よい香りではない。けれど、このほうが、今はよかった。学生服で抱かれる陳腐さも仕方がない。私だって制服なのだから。
「好きだ」
「……」
「嫌いか?」
 ううん、と祐二の胸で首を振る。
「好きか?」
 うなづけない。
 でも、顔を上げ、目を見て、目を閉じ、唇を求める。
 柔らかくない。無精ひげが痛い。汗臭い。でも、いい。もっと欲しいと思う。彩花にはこんなこと感じない。
 時のたつのを忘れる。
 *
「このあいだはね、彩花の家に行ったのよ」
 と、抱き合いながら私は言った。相手が祐二でも、顔さえ見なければ、なんでも話せそうな気がした。
「うん」
「彩花のお母さんに会ったの」
「綺麗な人だろ」
「わからない。まだお昼なのに、お酒に酔ってた」
「酔ってた?」
「もうふらふらで、話もよくわからなかった」
「あの人が?」
「なんか、彩花もめんどくさそうにしてた。私も話しかけられて嫌だった」
「昔はすごく綺麗な人で、小さい頃、発表会で、うらやましかった。あんな綺麗な母親がいるなんてってね」
 祐二は私の髪を梳くようになぜた。心地よかった。
「お母さん、彩花に似てるね」
「冷たい感じはね。でも彩花はむしろ父親似だよ」
「父親はどうしてるんだろ。お母さんがあんな状態なのに」
「さあ。最近は会ったことないから、知らないなあ」
 足音が聞こえて、離れ、急いで椅子に座る。部室の戸がノックされる。二年生の先輩が入ってくる。入ってくるなり、
「ねえ、あんたたちが第一発見者だって、本当?」
「厳密には彩花なんですけど。通報したのは僕で」
「その彩花なのよ! 彩花のお兄さんも事情聴取されたんだって」
 そんなこと聞いてない! と声を出しそうになった。
「清一さんが?」と祐二。
「そうらしいの。あれって、内ゲバかリンチかもしれないって言われてるんでしょう。三年生のあの人、有名な活動家で、K大の社研にも出入りしてたらしいの。彩花のお兄さん、K大社研の大物でしょ。それで、事情聴取されたんだって」
「清一さんなら、もしかしたら」
「でしょ?」
「さっきもちょっと話題になってたんだけど……」
 話を打ち切って、すぐにでも彩花に会いたかった。「内ゲバ」だの「セクト」だの、何も聞いてない。でも彩花は知っていたはず。なぜ輪姦なんて嘘をついたの? こんな、すぐばれるような嘘を。
「彩花のお兄さんは、それで?」とおそるおそる聞く。
「別に逮捕されたわけじゃないらしいの」
「じゃあ」
「事情を聞かれただけだって話なの」
「それはどこから?」
「K大に行った先輩から」
 そして二年の先輩の口から、他人の憶測と偏見がとめどなく流れ出してきた。彩花の兄が人からどう思われているかよくわかった。先輩も、あのクソ生意気な彩花の兄が犯罪に関わっているかもしれないことに満足げで、お昼のラーメンを私たち二人にオゴると言い出した。
 祐二と二人御馳走になった。
 *
「らしいわね」と彩花は軽く言った。
「らしいわね、って、そんな簡単なこと?」
「簡単なことよ。え? 何か問題があるの?」
「私に嘘をついた」
「嘘?」
「輪姦だって」
「それは……」と彩花は軽く笑んだ。「私の想像よ」
「想像って……」
「リンチでも内ゲバでもいいのよ、別に」
 彩花は狂ってる、という祐二の言葉を思い出した。
「お兄さん、事情聴取され……」
「ああ、そのこと? うちにも警察が来た。私、第一発見者で、家にいなさいって言われてたのに、あの夜無断外泊でしょ、おまけに兄貴のこともあって、一日中、刑事が居着いてた。刑事って、嫌ね。根ほり葉ほりで、あなたの家にまで電話したのよ。刑事から電話があったかどうか、お母さんに聞いてみたら?」
「もういい」
「で、何が知りたかったの?」
 彩花のお兄さんのこと、とは言えなかった。それでは何をしに彩花の家にまで来たのか。
 沈黙を挑発と勘違いしたのか、もう彩花の手は伸びてきて、私の髪を耳に掻き上げていた。
 今日は本当は嫌だったのに。
 祐二の感触が消えそうな気がして。
 でも逆らえない。
 柔らかい手が髪を梳き、頬を滑る。
 指が唇に触れる。
「愛撫」と彩花が耳元でささやく。
 これが愛撫なんだろうか、とふと思う。彩花の手が私の胸に伸びる。
 いや、と黙ったまま手を突き放す。
「どうして?」
「いや」と、やっと言う。
「ごめんなさい」
 抱き合う。唇を重ねる。
 けれどさっきのわだかまりが消えない。
 体が固くなる。
 彩花は何をしようとしたのか。
 固くなったままの私を今日は彩花が押し倒す。
 大胆な唇と舌に、やっと応じる。
 胸を、彩花が触っているのがわかる。
 口をふさがれ、抗議できない。
 まあいいか、減るもんじゃないから、と半分あきらめる。
 体の固さがほぐれてくる。
「おい、彩花!」
 突然目の前のドアが開く。彩花の重さに跳ね起きることもできない。彩花が起きあがる。私も起きあがると、あの男! 目が合う。
 私と目が合い、驚愕した男の顔が、一瞬、笑む。
「失礼!」
 ドアが閉まる。
「バカ!」と枕が飛んでドアに打ち当たる。
 あまりの恐怖に、体が固まる。湿った口の回りを手の甲で拭う。
 帰る、と、やっとの思いで言う。彩花も引き留めない。


 七
 登校日。
 夕べは食事もろくにとっていない。夜も眠れなかった。朝はもちろん抜いた。
 教室に祐二がいるのが不思議だった。
 例の第一通報者として、話の輪の中心で得意げになにやら話している。
 抱き合い、口づけを交わした男が同じ教室にいる。
 何の不思議もないのに、何か奇跡のようだった。
 祐二は私にとって何なのか。
 恋人? 好きでもないのに?
 友達? 友達は抱き合ってキスなどしない。
 彩花が廊下から私を呼んでいる。
 これもまた奇怪なことのように思われた。
 私たちは何なのだろう。
 恋人? 女同士なのに?
 親友? 親友は抱き合ってキスなどしない。ましてや胸を触らせたりしない。
 教室にはこれだけの男と女があふれているのに、どうして祐二と彩花なのか。
 わからない。
 考えられない。
 *
「昨日はごめんなさい」
「なんのこと?」と私は素っ気なく言った。一夜の動揺と恐怖を気取られてなるものか、と意地にもなっていた。腕を組んだ。胸を守ろうとするかのように。
「昨日のこと」
「お兄さん、死ぬほどびっくりしたでしょうね」と私はまた素っ気なく言った。
「ノックぐらいしろって、あとで言っておいたから」
「そう」
「許してくれる?」
「何を?」
「私を」
「彩花の何を?」
「前にも言ったと思うけど」と彩花は静かに言った。「私たちは貴族なの。だから、不可分の、一個の、全体的人間なの。許すっていったらすべて許すのだし、許さないなら、全部の拒否よ。私たちは自分を切り売りしたり、分割したりするような庶民じゃない」
「許さないって、言ったら?」
 私はまた残虐な気持ちになっていたのだった。
「ここから飛び降りて死ぬわ。あなたの拒絶は、私の全否定よ。存在の全否定。だから死ぬわ。何の躊躇もない」
 彩花もまた、残虐な気持ちになっていたのかもしれなかった。
「あなたがひしゃげて死ぬところを見てみたいけど」と私は言った。「それはまだ後にする。とりあえず今日は許すわ。で、お兄さん、びっくりしたんでしょうね」
「目が醒めるくらいかわいい子だって、言ってた。褒めてるつもりなんでしょう」
「そう」
 *
 立っていられないほどの恐怖に襲われた。
 目の前にいるのは、あの男の妹。
 彩花はどこまで知っている?
 あの女の子を連れてうちの家に来たあの男。
 祖母と母親のあの恐れ方。
 ホームルームの始まりを告げるチャイム。
 めまいがする。立っていられない。
 *
 保健室。
 一時間寝て、保健の先生に買ってきてもらったジュースを舐めると頭が冴えてくる。
「生理、終わりかけだったんでしょ。だめよ、食事ぬいたりしちゃ」
「はい」とおとなしく言う。
「痩せようとか、してる?」
「いいえ」
「ちゃんと食べなきゃ」
「はい」
 すべてのことに体が抗議している、のだと思う。好きでもない男とキスしたこと。女とキスしたこと。胸を触らせたこと。その女があの男の妹だったこと。あの男に現場を見られたこと。これらのすべてを体が拒絶している。
「あなた、あの事件の通報者だったの?」
「通報はしてませんけど、見ました」
「かわいそうにね。あの子、頭良くて、正義感も強かったから、心配はしてたの。危ないところに行ってるなって」
「危ない所って?」
「学生運動って、いろいろあるでしょう。変なところだと、対立セクトとの内ゲバとか、セクト内のリンチがあったりするからね」
「危ないところだったんですか?」
「K大の社研って、アナキスト系セクトの拠点でしょう。有名なのよ」
「K大、社研」
「知ってる?」
「友達のお兄さんが……」
「もしかして、清一君?」
「知ってるんですか?」
「ここの卒業生よ。あの子も真面目すぎるのね。たしかに頭はすごく良かった。抜群に。でも、何か、ちょっとしたことが欠けてる感じがした。あぶなっかしくて」
「妹もそんな感じ」
「ああ、彩花さんでしょ。ここの常連よ」
「そうなんですか」
「頭痛いとか、生理痛だとか、見た目では解らないからね。よく寝てるわよ、ここで」
「ふうん」
「さあ、あなたは本当に気分悪いんだから、もう少し横になってなさい」
 言われたとおり横になる。何も考えるまもなく、寝付いた。
 *
 外がうるさい。目がさめる。昼前の下校時間になったのだと気づいた。様子を見に来た担任に、大丈夫です、一人で帰れます、と告げて保健室を出た。文芸部室にも書き置きをした。まっすぐ家に帰ろうと思った。
 校門からずっと嫌な予感がした。角ごとにあの男が立っていそうな気がして恐ろしかった。
 *
 昔、よく父親が小学校の帰り道に待っていた。
『氷でも食べようか』
 黙ってついていく。
『おかあさんには言うなよ』
 秘密。秘密。秘密。
 口を閉ざす。
 貝になる。
 仮面を被る。
 *
 父親が買ってくれた小さなお人形。
 見つからないように引き出しの奥に隠していたのに。
『会ったの?』
『どこで?』
『いつ?』
 父親との約束。
 母親の詰問。
 口を閉ざす。
 貝になる。
 仮面を被る。
 *
 余所者は、私。
 *
「よお」と声をかけられる。驚かない。来るのはわかっていたから。
「何ですか?」と歩きながら。
「お嬢さん、お茶でもいかがかな」
「結構です」
「そう言うなよ。俺は恋人の兄だよ」
「そんな言い方はやめてください」
「違うのか」
 立ち止まる。男を見据える。
 梅雨明けのギラつく太陽の下に出してみれば、ただ痩せて貧相な若者だ。汚いTシャツ、破れたGパン、裸足にサンダル。目つきだけが全体と不釣り合いに異様に鋭い。
 こんなものを、と自嘲の笑みが浮かぶ。自分は恐れていたのか。
「お嬢さん、お茶でもいかがかな」
「オゴりでしょうね」
「もちろん」
「じゃあ、お好み焼きにしてください。お腹、すごく空いてるんで」
 *
 学校近くの商店街は避けて、少し遠いところまで行くことにした。早足で歩くと、男はもう息が上がり、ついてくるのもやっとだった。
「元気だな、お嬢さん」
「そんなことないです。さっきまで保健室で寝てたくらい」
「俺が、怖くないのか?」
 立ち止まる。振り返って、見据える。
「ぜんぜん」と言い放つ。
 これまでさんざん影におびえさせられたお返し。
「お嬢さん、強いな」
 無視して歩く。
 *
 復讐する。いちばん高い大玉を注文する。男はビール。
「彩花は、どうだ。いい子だろう」
「悪い子ですよ。ものすごく」
「悪い子、か。それはその通りだ。なかなか言うね」
「で、何なんですか? 昨日の詫びですか」
「それもある。ノックくらいすべきだった。失礼した」と、男は頭を下げる。
「ほかには?」
「むしろ、お嬢さんの方が俺に聞きたいことがあるんじゃないか?」
 図星だった。
「図星だろ」
「それは食べてから言います」
「おお、そうだな。しっかり食べてくれ。このあとお茶に行ってもいいし。そうだな、お嬢さんが食べてる間、俺の自己紹介でもするか」
「どうぞ、ご自由に」
「お嬢さんも、今度の事件があったから、もう知ってるんだろ? K大の社研がどういうところかも」
 私は黙って玉を裏返した。
「ばかばかしい話さ。いつの間にか、アナキストだもんな。大企業の部長の息子が。でも、お嬢さんの親父さんも似たようなもんだったんじゃないのかな」
「お父さん?」
「聞いてないのか?」
 首を振るしかなかった。
「言っちゃ悪いが」と男はビールをコップについで舐めた。「お嬢さんの家の、この間亡くなったお祖父さん、ありゃ反動地主の典型だ。あんたのお父さんが反抗したのも無理もない。絶対的に正しい行動だ。おお、もう焼けたんじゃないのか? とりあえず、食えよ」
 男が思ったよりまともなのに安心して食欲が戻った。一人では無理かと思った大玉も男に少し手伝ってもらっただけで食べ切れた。
 *
「で、何から聞きたい?」
 男は次に入った喫茶店でまたビールを注文して言った。私はコーヒーにした。
「この間、うちに何しに来たんですか」
「リャク、さ」
「リャク?」
「掠取のリャクさ。あるところからは、取る。そういうことだ」
「ゆすり、ですか」
「ゆすられるようなことを、お嬢さんの家はしたのか?」
「知りません」
「知らないだろう。いや、知らなくていいんだ。今は、な」
「ゆすりでないなら、じゃあ、何しに来たんですか?」
「言ったろう、リャクさ。人民から不当に搾り取り掠奪したものを、人民がこんどは掠取する。正当な行為さ」
「それと私の家と何の関係があるんですか」
「あんたの家はな、まず、戦前は不在地主として小作農民の血を搾り取った。それで戦後はGHQのお目こぼした山林をゴルフ場なんぞに開発して自然を破壊して原初的蓄積を終え、今では開発会社を作り、そこで働く人民を搾取している。違うか?」
「言い方は色々あるでしょうけど、それがそんなに悪いことだと思うんだったら、家に来たりせずに、会社の方に直接行ったらいいじゃないですか」
「会社、か。お嬢さんは不思議に思わなかったのか? 小さい頃、父親が家にいなかったのを」
「思いません」
「思っても、口に出しちゃだめだと思ってただけなんだろう?」
「同じことです」
「同じこと、か。それが同じことだとは、お嬢さん、強いな」
「いいえ」
「ま、そういうわけで、お嬢さんの家からは徹底的にリャクさせてもらう。いいかい?」
「なぜうちなんですか?」
「俺がそう決めたからさ」
「やっぱりゆすりなんですね」
「それは違うよ」
「違いません」
 少し沈黙があった。
「俺と一緒にいた女、知ってるだろう?」と男は言った。
 言い返せない。それがいちばん聞きたかったことなのだ。
「向こうはよく知ってるよ。よく見に行ったらしいからね。お人形みたいに綺麗なお嬢さん、あんたを」
「私を?」
「自分がいるはずだった場所にいる女の子をね。お祖母さんは何か勘違いして、そのたびにお小遣いをくれたらしいけど」
「どういう意味?」
「あいつはね、お嬢さんのお姉さんさ。腹違いのね」
 驚かない。やっぱり、としか思わない。そのかわり、重苦しいものがこみ上げてくる。やはりそうなのだ。と思う。驚きの代わり、知ることの重さが胸に胃に満ちる。喉にまでこみ上げる。
「あいつは十八だ」
 かろうじてうなづく。涙が出そうになる。
「それでもう、子供を産めない体だ」
 驚いて男の顔を見る。
「どういう、ことですか?」
「四回も中絶して、性病にも、何度もかかった」
「……どうして……」
「中学から体を売って暮らしてたからさ。最近は安全にお口専門にしてるが、そんな知恵は中学生のガキにはなかったろうからな」
 涙があふれてきた。どうして?
「なんで体を売り始めたか、おしえてやろうか。お嬢さん、あんたみたいに綺麗なおべべを着たかったからさ。綺麗なおべべを着れば、自分もあんたみたいに綺麗になって、みんなから大事にしてもらえるかと思ったんだとさ、あんたみたいに、な」
 胸に固まりで留まっていたものがこみ上げる。もう涙を止められない。
「いいかい、お嬢さんが同級生の女の子と乳繰り合っている間も、たった今も、あの子は裸で男のモノを口にくわえてるんだ。一日に十何人とな」
「もう、もう、やめて!」
「男の精液を口で受け止めてるんだ。たった今も。わかるか」
 喉にこみ上げてくる。
 耐えられず、立ち上がる。
 トイレへと走る。
 間一髪で間に合う。悲しみと、苦しみと、怒り、そしてさっきいい気になって食べたお好み焼きがこみ上げる。何度も吐く。あの子、あの子が姉だなんて。そしてそんな仕事をしているなんて。
 すべてが悔しい。
 自分が悔しい。
 何もかもが悔しい。
 何も知らなかった自分が悔しい。
 ……消えたい……
 *
「大丈夫か?」
 うがいをし、顔を洗い、身構えて席に戻ると、男は平然とタバコをふかしている。
「あなたのオゴり、全部トイレに流してきた」
「そうか。ま、遅いか早いかの差さ」
「下か上かの差じゃない?」
「ほう、これは参った。どうだい、俺たち、仲良くなれそうじゃないか」
「あら? 仲良くなってどうするの」
「どうする? 仲良くなるのに意味があるのかね。たとえば彩花とお嬢さんと、仲良くなることに何か意味があるのか? あれこそ全くの無意味じゃないか。ま、俺に言わせりゃ、お嬢さんの、その絶世の美貌こそ全くの無意味だね。隙がなさすぎる。それじゃあ男は近寄れんだろ。寄ってくるのは、きっと、彩花みたいな狂った女だけだ」
「気分が悪いから帰ります」
 私は立ち上がった。
「俺たち、今日は有意義な出合いだったと思わないか?」
「そうね。このこと彩花は知ってるの?」
「知るわけないさ。知らせる必要もない」
「じゃ、これからも黙っていてくれるわね」
「秘め事か? いいねえ。俺としては、もっと淫靡な秘め事がいいんだがね」
「それは間に合ってます」
「彩花で足りてるって? まあいい、今日は帰りな。また会えるだろうしな。そのうちあの子も紹介するよ。それから彩花にも言うんだな。する前にはちゃんと鍵をかけろって」
 財布を出す。
「俺が出すよ」と男。
「どうせ」と言いかけて、また涙が出そうになる。「私の家からリャクした金なんでしょ!」
 テーブルにコーヒー代を叩きつける。
 *
 喫茶を出ると、張りつめていた心の糸が切れ、涙が噴き出す。
 歩きながら泣いた。
 泣きながら歩いた。
 ハンカチがグシャグシャになった。
 そしてふと気がつけば、きつい日差しの下、油蝉が鳴いていた。
 入道雲。
 ……私の世界は変わってしまったのに、夏は夏らしく、さざめき輝き、木の葉は真緑に照り映えている。
 夏の風が私の髪とスカートの裾をなぶる。
 拭った涙も一瞬で乾く。
 立ち止まり、深呼吸し、振り返り、この世を眺める。
 これほど世界を美しく感じたことはなかった。
 この美しい世界で、自分が綺麗な体でいることが許せない。
 どこか汚い世界に身を投げてしまいたい。
 帰る場所がない。
 けれど家にしか帰れない。
 *
「何かあったの?」と雰囲気を察した母が聞く。
「なんでもない」と部屋に駆け上がる。
 枕に顔を埋め、声を殺して号泣する。
 *
 口を閉ざせ!
 貝になれ!
 仮面を被れ!
 *
 余所者は、私。


 八
 泣き疲れ、自分を哀れむのにも飽きて部屋から下りていく。
 母親がキッチンのテーブルに座っている。
「何か、あったんでしょ」と、待ちかまえていたように。
「別に」
「あの男に会ったのね」
 いきなり図星を突かれる。
 というより、母親の知識からして、それしか思い当たるまい。
「会ったわ」
「どこで」
「どこだっていいでしょ」
 と、自分でも驚くほどのふてくされた口調。
「なんなの? その言い方は? いったい何を聞いたの?」
 もう潮時かな、と自分で思う。
 知らぬふり、子供のふり、聞かぬふり。
 そんなのは、もう、ここで終り。
「お姉さんのこと」と、思い切って言う。
 思い切ったわりには、あまりすっきりとしない。
「お姉さん?」
「腹違いの」
 言葉のどぎつさに後から気づく。
 母の顔はのっぺりとした無表情に叩きつぶされる。
「なんて言ったの?」
「腹違いのお姉さんのことよ!」
「お姉さん?」
 母の顔に表情が戻ってきた。
 仮面の夜叉のような、憎悪そのものの顔へと徐々に変じた。
「お姉さんなんて、呼ぶなぁ! あんな、泥棒猫の子供がぁ!」
 小さい頃は、このあと必ず平手だった。
 いまはもう打たれることはないとわかっていても、恐怖に金縛りになる。
 何も言い返せない。
「おまえぇ、何も知らないくせに、何も知らないくせにぃ。いいか、あの女の母親がどれほど私を苦しめたか。私がどれほど血を吐いたか。何も知らないくせにぃーっ」
 母は髪を掻きむしり、自ら額をテーブルに打ち付ける。
 一瞬後に振り上げた髪は乱れ、夜叉の面が張り付いた顔は紅潮しながら震えている。
 目には、こちらが気を抜くと飛びかかって来そうな、異様な光が満ちている。
 あまりのことに恐怖を通り越して金縛りが逆に解け、すっきりと頭が澄み渡る。
 そして思い出した。
 昔もそうだった。
 こうやって発作を起こし、私を恐れさせていた。
 数分後にはケロリと直っているくせに。
 恐怖が、嫌悪に変わる。
 どうしてこんな大事な記憶をこれまで忘れていたのか。
 母がこんな女だったことを。
 いつから発作がなくなったのか。
 ……父の死……
 それに気づくと私はまた金縛りになる。
 *
 どれほど金縛りの時間が過ぎたのか、よくわからない。
 居間の電話が鳴った。
 母は平然と歩み寄り、受話器をとった。
「はい、もしもし」と一瞬で普通の声に戻る「まあ、この間は大変だったでしょ? そうよぉ、うちにも電話があってねぇ。だめじゃない、ちゃんとおうちの人には言っとかなきゃ。……いいえぇ、うちはいつだっていいのよ。だって、うちの子って、きょうだいがいないでしょ、にぎやかで楽しかったのよ、ほんとに。あ、じゃあ、すぐそこにいるから、替わるわね」
 あまりの変わり身についていけない。
 受話器を受け取れず、落としそうになる。
「今日、あれから大丈夫だった?」と彩花の声。
「ぜんぜん大丈夫じゃない」
 などと話しながら、思いつく。
 彩花はあの男の妹なのだ。
 けれどもう恐怖はない。
 むしろあの男が私の救いのような気さえする。
 できればもう一度会いたい、と思う。
「どうしたの」と彩花。
「ねえ、今夜、泊めてくれない?」と母に聞こえないような声で。
「今夜? いいよ」と彩花も雰囲気を察して。「私もこの間、いきなり泊めてもらったから。食べ物はインスタントよ。いい?」
「いいよ、もちろん!」と、まるで向こうの提案に応じたような口調で、キッチンの母に聞こえるようなわざと大きな声で。
「これから行ってもいいの?」
「もちろんよ」
「今日は、お兄さんは?」
「帰ってこないか、帰ってきても深夜だと思う。大丈夫、部屋には鍵かけるから」
「うん」
「じゃ、待ってる」
 *
「彩花さんの所に行くの?」と母は、もう普通に戻っている。
「泊まりに来ないかって。こないだのお礼だって」
「そう。それはいいけど、さっきの話」と普通の調子で言う。「お祖母ちゃんには絶対にしちゃダメよ」
「どうして」
「お祖父ちゃんのことで苦労し続けなのに、また気苦労の種を背負わすの?」
 言い返せない。
「あなたが、あの男からまず聞かされたってこと、これは悪かったわ。あなたを子供扱いしてた。謝る」
 *
 そしてまた思い出す。
 昔も、発作の後はこんな風に理性的だった。
 鬼の母と優しい母と、なぜ同じ一人なのか、二人でないのが不思議だった。
 *
「確かにね、あの子は、あなたの、アナタの、あんたの、腹違いの姉よ。でもね、そんなこと、私は認めてないの。絶対に。いい? 私はちゃんと親同士が決めたお父さんの婚約者で、もう、戦時中から、十のころから、満州から、この家に養女で来ていたのよ。それなのに、あの女、いつのまにか、イツーノマニカ、人の婚約者に手を出して、勝手に籍まで入れて、あげく子供まで作ったのよ。それがあの子なのよ。昔ならね、地主の坊ちゃんが小作の娘にお手つきなんて、珍しくもなんともなかったのよ。できた子はどっかに売り飛ばして、それですんでたのよ。いまは何? 親が認めなくても勝手に結婚できるからって、手を出して、籍まで入れて、子供まで作って、その子供がまた、ああやって、アアヤッテ、厚かましくやってきて、養育費だのなんだの……あんなのはね、勝手にのたれ死んだらいいのよ。あんな、あんな、あんな! 泥棒……泥棒……泥棒猫の……」
「お母さんとお父さんは?」とたまらず母を遮る。
「死んだからよ! あの女が死んだからよ! 何か変な病気になって、それでも掘っ建て小屋に凍えながら寝かしてて、薬もなくて、あの人、困り果ててお祖父さんのところに帰って来たのよ。お金貸してくれって。それまで、極道地主が、親でも子でもない、なんて言って、散々反抗して、逆らって、家を飛び出したくせに、そんなときだけやってきて、お金よ。お金、お金、お金。お金貸して下さいって。そこの敷居の所に泣きながら額をすりつけて。あの人もやっと、やっと、わかったのよ。お金のありがたみが。それで、お祖父ちゃんに約束させられたのよ。ザマーミロ。お金は貸す。でも、もし、あの女が死んだら、そのときは帰ってきて私と結婚するって。それでねぇ」と、母は中断してしゃっくりのように、とぎれとぎれに笑い始める。笑いながら、
「小作の娘を! たかが小作の娘を! 大学病院にまで入院させたのよ。たかが小作の娘を個室に付き添いまでつけて! それで、やっぱりダメだったのよ! 罰が当たったのよ。そのまま掘っ建て小屋に寝かせてりゃすぐ死ねたものを、あの泥棒猫、死ぬまでの半年、実験台にされて、血を抜かれるわ、切られるわ、いろんなことを試されて、そうとう苦しんだらしいわよぉ、それはそれは、語りぐさになるくらいぃ……」
 母を遮り、「わかった」とだけ言う。
 これ以上、聞けない……。
「わかったでしょ。だから、あんなのは姉なんて思わなくていいの」
 ケロリという。
 もう返事しない。
 部屋へと駆け上がる。
 涙も出ない。
 身支度をする。
 *
 あの男の家。
 けれどうちの家にいるよりは、まし。
 あの男の妹。
 けれど母親よりは、まし。
 インスタントのカレーライス。
 けれどうちの手作りを食べるよりは、まし。
 *
 一緒にお風呂に入ろう、と彩花は言う。
 一月前ならそうしたかもしれない。
 けれど今は嫌。奇妙に意識するようになってしまった。
 *
「何があったの?」と彩花。
「言えない」と私。
「兄貴のこと?」
 ハッとして彩花を見る。
 どこまで知っているのだろう。
「見られたくらい、心配しなくていいよ。お互い様よ」
「お互い様?」
「ずっと前に見たことあるの。兄貴がアレしてるとこ」
「アレって、アレ?」
「そう。ものすごくばつが悪そうにしてた。男なんだから、アレって、して当たり前なんでしょ。もっと堂々としてりゃいいのに。次の日から、なんか、私の前で居心地悪そうで」
 あの男にもそんなことがあったのか、と、ふと笑ってしまう。
「おかしい?」
「うん」
「だから、気にする必要はないわ」
「うん、もうしない」
「で、本当は何があったの?」
 順序立てては、もちろん話せない。彩花の兄、あの男との出合いの部分を抜いて、話す。物語めいてきて、自分が悲劇の主人公のように思えてくる。
「男は、ダメよね」と彩花がポツリという。
「ダメって?」
「うちのお父さんも、ずっと、新しい女の所に行ってしまってるの。兄貴によれば、子供までいるらしいって」
 返事できない。
 うちの父親や祖父と同じだから。
 *
「それで男が嫌いになったの?」と私。
「前にも言ったでしょ。別に男が嫌いなんじゃない。あなたのことが好きなだけ」
「はっきり言っていい?」
 私は生まれてからいちばん残虐な気持ちになっていた。彩花くらい、簡単に、虐殺できそうな気がした。
「何?」と彩花は言った。
「私は男が好き」
「そう」
「彩花とキスしても、もっともっとって思わないの」
「祐ちゃんとの時は」
「思う。もっと欲しいって」
「そう」と彩花はまた、いつかと同じ、諦念したように言った。
「ごめんなさい」
「謝る必要はないわ。それに、私、前に言ったでしょ。あなたのはただの性欲だって。あなたの体は性欲に支配されてる。でも、心は別のはずよ。心は私を求めてる。祐ちゃんなんかじゃなく」
「言い返す訳じゃないけど、それは変だと思う」と私は言い返す。「最近、ずっとそのこと考えてたんだけど、彩花は私たちのこと、分割できない貴族、全人格的存在だって言ったよね。だったら、私たちのことを心と体とに分けて考えるのがそもそもおかしいんじゃないの? 体が求めてるってことは、私たちの場合、心も求めてるのよ。そうじゃないの」
 彩花は考え込む。
 ずっと考え込む。
「ごめんなさい」と沈黙に耐えかね、こちらから口を開いてしまう。
「私とキスするのを、やめるの?」と彩花。
 涙に濡れた長い睫毛が、私をいっそう残虐な気持ちにする。
「できたら、ね」
「嫌なの?」
「嫌じゃない。でも、できたら許して欲しい」
「できない。やめるなんて」と彩花は言う。消え入るような声で。
 涙が左目からすうっとこぼれる。
 右目の涙もすうっと続く。
 その涙を見て、とびっきり残虐な言葉を思いつく。
「あなたは二号さんなのよ。いくらがんばっても。それでもいいの?」
 これまで見たことのない素直な表情で彩花はうなづく。
 とどめを射る。
「どれだけがんばっても、祐二の次なのよ。いいの?」
「いいの、それでも」
 強烈な、強烈な勝利の陶酔。脳の芯がしびれるほどの。
「私は……」と私は言う。
 言いかけて、陶酔と、自分自身への残虐な気持ちが抑えがたく湧いてくる。
「私は……汚れたいの、わかる?」
 彩花は素直にうなづく。その素直さが気に食わない。
「それなら彩花、私を汚せる? 私が明日、別人になるくらい、彩花、あなた、私を汚せる?」
 彩花はいつもの生意気な笑みを浮かべた。
「もちろんよ。最近、そればかり考えてたの」
「そればかり?」
「あなたを最初に汚すのは私だって」
 彩花の口調に、何か違う、と思う。
「雪の朝ってあるでしょ」と私は言う。
「うん」
「彩花、あなたって、雪の朝、朝一番に、地面に足跡を付けて歩くような、そんなことを思ってない?」
「思ってるよ。あなたの体に、最初に私の足跡を残したいの」
「それはあなたの自己満足よ。それじゃだめなのよ。少々足跡がついたって、雪の朝の美しさは消えないもの。雪の朝の美しさがね、一瞬で泥水の汚さに変わるような、そういう汚し方ができるかって、私は聞いてるの」
 彩花はまた考え込む。
「答えてよ、早く!」
 彩花は、今度は泣きながら、頭を抱える。
 気の毒なくらい。
 でも、もう声をかけてはやらない。
 一生懸命、考えるがいい。
「どうなのよ!」
 そして彩花は立ち上がり、本棚の奥を探し、ノートを出してくる。ページをめくる。開いて私に渡す。
 渡されたノートに目をやる。私の名前が出てくる。
 ……あまりのグロテスクに気味が悪くなる。
「ここに書いてある通りよ。本当は、私、あなたとのこと、こんなふうに、ずっと妄想してたの。どう? これであなたが私を見限るなら、それはそれでしょうがないわ。でもこれが私の正直な気持ち。もうこれで後はないわ。これが私のすべてよ。今晩、私の好きにさせて。そうすればあなたは、泥水のように、汚れる」
 彩花はついに声を上げて泣き始める。
「私はこういう女なの、こういう女なのよ」
 彩花はやはり、狂っている。
 あの沈黙は、考えていたのではなく、これを見せるかどうかの逡巡だったのだ。
 ノートを返す。
「どう? 私のこと、嫌いになったでしょ?」
「ちっとも」
 と明るく言う。
「私を汚すのにふさわしいわ。彩花のしたいように、好きにして」
 手に手が重ねられる。
 汚れるにはちょうどいい。
 狂った女。
 あの男の妹。


 九
 乾きたての髪が、サラサラと肌に気持ちいい。
 *
 ふと、思い出す。
 母と、祖父と祖母と。
 四人で河原の道を歩いていた。
 ポスターのような青空の下、緑の草の上、線路が通っていた。
 土手の上から父が叫んでいた。
 母が手を振って答えた。
 父の手には、お菓子が握られていた。
 私は叫んだ。
「おとうさーん、おとうさーん」
 父は大きく手を振り、私の名を呼んだ。
 幸せだった。何も欠けていなかった。
 あれはいつ頃だったのだろう。
 そしてこんな大事な幸せの記憶を、どうして今のいままで忘れていたのだろう。
 私たちはあのとき家族だった。
 何も欠けるところのない、家族だった。
 そしてなぜ、今のいま、思い出すのだろう。
 父。
 いつから父がいなくなったのか、正確にはわからない。
 わからないけれど、父が私だけの父ではないことにはなんとなく気づいていた。
 気づいていたから、聞かなかった。
 家が家でないような感じがしていた。
 だって、家には私だけの父がいない。
 *
 何かを探り当てようとする指や舌は徒労に終わるような気がした。彩花には結局、私を汚すことはできないのかもしれない。
 *
 正月。
 お餅つき。
 昔の小作の人たちが集まってくる。
 屈強な、私たちとは種類の違うような男たち。
 餅をつく。あっという間につき上がる。
 皺だらけの、これもまた私たちとは種類の違うような女たちが受け取る。
 次の回。
 父が参加する、という。
 足手まといなのは明らか。
 それでも参加する、という。
「坊ちゃんには、無理でしょう」と誰かが言う。
 屈強な一群に穏やかな笑いの輪が広がる。
 父は一緒に笑ったのか、それとも怒ったのか、わからない。
「やらせてあげてくださいな」と祖母。
 屈強な男は杵を父に渡す。
 その重さで、父はもうよろける。
「チッ」
 舌打ちする母。
 顔色を見る。
 後で荒れるぞ、と思う。
 父が家にいた最後の記憶。
 *
 もういい、やめて、と体をかわす。結局何も起こらなかった。悲しそうな彩花の目。
 *
 また思い出す。
 祖母が泣いていた。
 私は見つめていた。
「なんでもないのよ」
 なんでもなくはないと思った。
 父が消えたのに。
 *
 同じことを、こんどは私が彩花に返す。
 彩花の体がビクン、と震える。
 面白い、と思う。
 *
「お父さんは?」
「知らない」と、母。
 以上、終わり。
 もう聞かない。
 聞いてはならない。
 いつか、いなくなる人だった。
 わかっていた。
 だから、もう聞かない。
 *
 彩花の体。
 声を漏らさないように口に巻いたタオルを噛みしめ、全身を泥と化していく。
 こんなふうに汚して欲しかったのだ、私は。
 こんなふうに、情け容赦なく、徹底的に、無惨に。
 これは懲罰。
 無能な彩花に。
 *
 小学校の入学式。
 次の日。
 通学路に父が立っていた。
 泣きながら駆け寄った。
 父も泣いているようだった。
 帰ってきて。
 とは言えない。
 しゃがみ込んだ父と抱き合い、泣く。
 名前入りの鉛筆を一ダース、もらう。
「おべんきょう、しろよ」
 *
 私は今、何をしているのだろう。
 女相手に。
 こんなことを。
『おべんきょう、しろよ』
 父の声。
『おべんきょう、しろよ』
 父の声。
 彩花の激しい硬直が私の指で崩れ落ちる。
 どうして父を思いだしたんだろう。
 こんなときに。
 *
「男と女だったら」と私は言った。「あとで手とか、洗うの?」
「シャワー、浴びるんじゃない?」
「そうか」
「浴びる?」
「そうね。けっこう汗かいたからね」
 シャワーを一人づつ浴び、並んで寝た。
 もう抱き合わなかった。
 キスもしなかった。
 話も、もちろん。
 ただ純粋に気まずかった。
 夕べの睡眠不足もあって、すぐに寝入った。


 一〇
 朝食は彩花が二人分、部屋に運んできた。
 ジュースとパンとインスタントのスープ。
「兄貴が帰ってきてるの」
「そう」
「あなたが来てるのかって」
「そうって言った?」
「うん」
「で?」
「会いたいって」
「私も会いたいな」
「下で一緒に食べようか?」
「うん」
 彩花もきっと、二人だけでとる朝食が気まずかったのだ。
 ドアを開け、兄貴、と叫ぶ声がこころなしか弾んでいた。
 *
「昨日はどうもごちそうさま」と彩花とこの男の機先を制する。
「いいえ、どういたしまして。あまりお口には合わなかったみたいだけど」
「どうしたの?」と彩花。
「昨日、実はお好み焼きをごちそうになったの」
「お嬢さんがあんまりお美しいんで、待ち伏せしたのさ」
「私、何にも聞いてない」
「お嬢さんが、彩花には秘密にしていてくれって言うからさ」
「ごめんね、ちょっと恥ずかしかったから」
「いいのよ」と例の諦念の返事だった。
「清一さん」と私は男の名を呼んだ。
「ほう、俺の名前を知ってるのか? さすがお嬢さん」
「有名人、ですからね」
「有名人? どうして」
「清一さんって、読書家なんですね」と男の質問をはぐらかす。
「なんだって?」
「読書家」
「そりゃまた、なんで」
「彩花の部屋の本、みんな清一さんのものなんでしょ」
 男は彩花と顔を見合わせる。二人で噴き出す。
「嘘よ。本当は、全部私の本なの」
「え?」
「読書家なんて、あなたに言われたから、なんとなく兄貴の本だって言っちゃったの。ごめんなさいね」
「また私に嘘をついた」
「こいつから嘘と妄想を取ったら女好きしか残らないだろ、勘弁してやってくれ」
「じゃあ、あの本、みんな彩花が読んだの?」
「全部が全部、最初から最後までは読みはしない。面白かったら読むけど」
「気まぐれなんだよ、こいつは。体系だてて物事を考えようとしない」
「体系? 何がいいたいの、兄貴」
「知識には体系ってものがあるんだよ」
「誰が知識のために本を読むの? 私はそんなことしないわよ」
「だからダメなんだよ、おまえは」
「兄貴こそ、本を知識のためにしか読まないから、人間ってものがいつまでたっても理解できないのよ」
「人間ね、人間。お前の議論には、いつまでたっても階級的視点が欠けてるよ。ブルジョア小説やブルジョア哲学ばかり読んでるからそうなる」
「自分だって、ブルジョアの息子のくせに」
「出身階級と思想とは基本的には関係ないさ。要は、やってることだ。そうだろ、お嬢さん?」
 何がなにやらわからない。なぜ私に話が持ってこられるのか。
「地主階級の御曹司かつアナキストの忘れ形見のお嬢さん、何か言ってくれよ」
「言ってる意味がわかりません」
「わからなくていいのよ。兄貴の言ってることなんか、みんな屁理屈なんだから」
「屁理屈ね。彩花は現実を何にも知らないからな。現実を知らないと、理論ってものが屁理屈に聞こえる。そう思わないか、お嬢さん」
「現実って、何なんですか?」
「たとえば、お嬢さんにとってのお姉さんさ」
「やめてください」と私。少し感情的になる。
「お姉さん、いるの?」と彩花。
「ここにいるゆすりに聞いて」
「ゆすり?」
「ま、彩花も現実を知るいい機会だ。このお嬢さんにはな、腹違いのお姉さんがいるのさ。うちの社研OBの大先輩の娘さんなんだが」
「社研OB?」と聞いてしまう。
「知らないのか? あんたの親父さんは、俺たちの大先輩さ。俺たちの組織がコミュニストにいちばん迫害を受けてるときに、身を挺して党を守った英雄なんだ。もっとも俺は、英雄なんて個人崇拝はしないがね」
「何を言ってるんですか?」
「お嬢さんの家じゃ話題にもならんだろうが、ま、偉大なアナキストだったってことさ」
「知りません、そんなこと」
「知らなくてあたりまえだがね」
「もうやめようよ」と彩花。「もっと楽しい話をしようよ」
「こういうやつさ。すぐに現実から逃げる。お嬢さん、あんたも彩花の逃げ場の一つなのさ。あんたの、その現実離れした見目麗しさが、彩花の逃げ場になってるのさ」
「もう、兄貴ったら、やめようよ」
「どうだ、お嬢さん、これから外で、こんどはきちんと俺のお金で、コーヒーをオゴらせてくれないか」
「いいわよ」
「そういうわけだ。彩花、後かたづけを頼む。俺たちは、『水車小屋』に行く」
「行くの?」と彩花。
「うん。また電話するね」と席を立つ。
 彩花も引き留めない。
 昨夜の彩花の壊滅的な失敗と、私の徹底的な懲罰が、二人の間に溝を掘った。
 それでも、玄関を出るとき、目で、またね、と言った。
 彩花も、またね、と目で返した。
 *
「モカ」
「キリマン」
 と二人同時に声を出した。顔を見合わせて笑った。
「夕べはお楽しみだったようだね」
「どうして?」
「あんな深夜に、ひとりづつシャワーを」
「げすな想像」
「悪かったね。げすで。まあいい。あの家は息が詰まる。朝食のあと、こうしてここでコーヒーを啜るのが俺の唯一の息抜きさ」
「おじゃまだったかしら」
「とんでもない。お嬢さんのような絶世の美女となら」
「その言い方、やめてくれませんか」
「自分で思ったことはないか? 美人だって」
「ありません」
「嘘をつくんじゃない。小さい頃から意識してたはずさ。まあいい。そんなことは」
 コーヒーが来る。香りが立ち上る。
「香りが贅沢だな、モカとキリマンが並ぶと」
「うん」
「どうだい、やっぱり俺たち、仲良くなれそうじゃないか」
「聞きたいんですけど」
「何を?」
「父のことです」
「聞いてどうする?」
「あら? 聞かせたいんじゃなかったの」
「お嬢さん、なかなか言うね。好きだよ、そういうとこ。想像以上だ」
 もう言い返さない。
 コーヒーを味わう。
「ブラックなのか?」
「まずはブラックでしょう」
「昨日もそうだったか?」
「昨日は、こんなに立派なコーヒーじゃなかった。香りからして」
「そうだな。たしかに」
 二人とも黙り込む。
 そのまま時が過ぎる。
 どうしたのだろう。
 ゆったりしている。
 祐二や彩花といるときのようにピリピリしない。
 *
「『死と乙女』だ」
「なんですか?」
「この曲。シューベルトの弦楽四重奏」
「なんだか、『運命』みたい」
「リズムの展開はよく似てる。たしかにね」
「どうして『死と乙女』なんて題名なの?」
「第二楽章の冒頭に、『死と乙女』って歌曲からメロディを採ってるからね」
「運命、死と乙女……」
「どうした?」
「難しい曲ね」
「うん」
 *
「清一さんって」
「なんだ?」
「本当は優しい人なんじゃないですか?」
「そうさ。優しいよ」
「自分で言うなんて」
 笑ってしまう。
「この種の優しさはただの弱さだって、同志からは言われてるがね」
「優しさが責められるんですか?」
「階級闘争を戦ってるんだから、仕方ないだろう」
「よく知らないんですけど、セクトって何なんですか?」
「セクト? なんでそんなこと知りたい」
「あの事件なんかで話題になったから」
「あんたも、あの子の死体、見たんだったな」
「そうです」
「あれは無関係だよ。夜の夜中に女一人で歩いてるから、あんな目にあう」
「そんな言い方は……」
「可愛い子だった」と男は私をさえぎって言った。「素直で、優しくて。女の子一人で帰すからあんなことになる。あれは俺たちの責任だ」
 何も言えない。
 沈黙。
 *
「ほら、ここからが『死と乙女』のメロディ」
「綺麗。でもどことなく不気味」
「死神と少女の対話なんだ」
「どんな?」

 あっちへ行って、お願い 
 荒ぶる死神! 
 私はまだ若いの 消えてよ、お願い
 どうか触らないで
 
 手を取ろう 若く美しいお前 
 これは罰じゃない 思いやり
 落ち着きなさい 痛くはしない
 そしてお眠り 私のやさしい腕で

「俺流の訳だがね」と男は言った。
 水底の女の子を思いだした。あの子も死神に、あっちへ行ってとお願いしたに違いない。それでも死神の腕に抱かれてしまった……。
「不気味な歌ですね」
「だから美しいのさ」
「不気味だから、美しい?」
「美しさには不気味が潜んでいるものなんだ。お嬢さんといっしょさ。お嬢さんにはあの家があるだろう?」
 言い返さない。音楽に聴き入る。
 *
「辞めないんですか?」
「何を?」
「セクト」
「そりゃまた、どうして」
「似合わない」
 男は噴き出した。高笑いした。
「お嬢さん、賢いんだか、バカなんだか」
「バカなんです」
「だろうな」
 頭にはこない。確かにバカなんだろうな、と思う。
 また沈黙。
 コーヒーに茶色の角砂糖を入れる。
「砂糖、入れるのか」
「味が劇的に変わるのよ。やってみて」
「俺はいいよ」
「やってみて」と、半分残った男のコーヒーに角砂糖を放り込む。
「ちぇっ、なんてことを」
「飲んでみて」
 男は砂糖を溶かしてカップに口を付ける。
「どう?」
「驚いた」
「でしょ。おいしいコーヒーはね、半分ブラック、半分砂糖を入れるものなの」
「同じことを言う女がいるよ。そいつはコーヒーの味なんかわかりゃしないくせに、安物のインスタントでも同じことするんだ」
 もう誰のことかわかる。だから聞かない。
「それが誰だか聞かないのか?」
「わかってるから」
「そうか。お嬢さんがバカだってのは撤回する」
 また沈黙。
 ふたり、甘いコーヒーを啜る。
 恋人か誰か、いちばん安心できる男とふたりでいるのじゃないかと勘違いする。
 目の前にいるのは、うちからリャクしようとしてる男。
 あの狂った女の兄。
 なのに。
 *
「俺は行くよ」
「どこへ?」
「これでも活動家だからね。結構忙しいんだ。これから一度家に帰り、それから学校で会議。それからこんどのデモの打ち合わせ……」
「そう」
「あんたはここにいたけりゃ、まだいてもいい。コーヒー代はここに置いておくから」
「じゃあ、そうする。行ってらっしゃい」
「ああ……『行ってらっしゃい』。『行ってらっしゃい』なんて、何年ぶりに聞くんだろう。じゃ、行って来ます」
 男の笑みには皮肉のひとかけらも混じってなかった。
 初めてだ。この男のこんな笑み。
 本気で無事を祈りながら見送る。
 ドアを押し開けて出ていく男。
「ふう」と息をする。
 やっとひとりになれた。
『死と乙女』が終わるまでここにいよう。
 *
 祖母に教わった飲み方だった。
 祖父は戦前からコーヒーが大好きだった、という。戦時中の物のない時代には、祖母がタンポポの根や大豆を煎り、代用品を作って飲ませてあげていた、という。
「お砂糖は?」
「もちろん無いのよ」
 砂糖も代用だった、という。タマネギを乾煎りして、煮詰め煮詰めした茶色のどろどろしたもの。ほんのり甘い。という。
「戦後に初めてコーヒー豆が入ってきて、それを炭火で煎ったら、それはもう、いい香りが家中に立ちこめて、ああ、本当に戦争が終わったんだなあ、って思ったものよ」
 きっとそのコーヒーは、父と、そして養女で来ていた母も飲んだのだろう。
 *
 想い出の中の父もコーヒーを飲んでいた。
 あれはどの店だったのだろう。
 算数の宿題を見てもらっていた。
 私が父のカップに触り、コーヒーがプリントの上にこぼれた。
 しかられる、と思った。母ならきっと叱りつける。
「あーあ」と父はあきらめの口調で言った。「ま、しょうがないさ。お醤油をこぼしましたって、先生には言ったらいいよ。いや、醤油にしては色が薄いかなあ」
 *
 どうして昨日から父のことばかり思い出すのだろう。
 *
『死と乙女』が終わった。
 マスターがレコードを替えている。
 さて、私も出よう。
 で、どこへ?
 家に、帰る他はない。
 魔の潜む家に。


 一一
 一週間、何もなかった。誰からの電話も。
 もう肉体関係はこりごり、だと思った。
 ずっと、殊勝に机についていた。
 自分には勉強以外ないと思っている。
 運動もできない。
 特技もない。
 父もいない。
 勉強しか、ない。
 *
 あの女の子はどうなのだろう。何か、これが自分だと言えるものがあるのだろうか。
 きっと、ない、と思う。
 あの薄ら笑い。
 自分への自信も何もなく、ただのお追従の固まりと化したようなあの笑み。
 姉。
 私と父を共有する人間。
 *
 窓を開ける。
 瓦に焦がされた空気がムッと入ってくる。
 *
 冷房がないから、朝の冷たい空気が逃げないように、熱い空気が入ってこないように、昼間は窓を閉め切ってカーテンも開けず、洞窟のような部屋で過ごしている。 
 *
 まぶしい。
 夏の日差し。
 目の前にある銀木犀の大木。
 *
 小学校に上がる前、この木が自慢だった。季節になると雪のように白い花を散らす。その白い小さな固まりがほのかに香る。マッチ箱に集める。友達に差し出す。ああいい香り、と友達が言う。
 小学校の校庭には金木犀があった。もっと強い香り。比べれば、負ける。祖母に直訴する。
「どうしてうちは金じゃないの?」
「金木犀はね、香りじゃないの、あれは匂いなの。銀木犀より下品なの」
「下品?」
「誰だって、あれが匂ってるって、わかるでしょ?」
「うん」
「そういうのを下品っていうの。あれ、この香り、どこからくるんだって、そういう、かすかな香りがいちばんなの」
「かすかな?」
「そうよ、かすかな」
 かすか、という言葉を憶えた。
 *
 銀木犀は自己主張しない。そこにあることさえ忘れさせる。花の季節にも、樹の下に入ってじっとしていなければその樹が木犀であることを気づかせない。樹に身をあずけ、じっとしている者にだけ、かすかな香りのヴェールをかけてくれる。
 *
 高等部への入学式前に祖父が逝った。
 棺だけが家に運び込まれた。
 父親の時と同じ。
 喪主は祖母。
 りん、として、美しかった。
 銀木犀のように。
 *
 いつごろだろう。
 父が消えてすぐ、祖父が消えた。
 女だけの家になった。
 祖父はたまに帰ってきた。
 いつもおみやげ。
 お小遣いも。
 *
 可愛がってくれた。
 いつも違う綺麗な服を着せてくれた。
 祖父の前でクルリと回って見せたりした。
 *
「お祖父ちゃんは」と、そのころ祖母は言った。「女を人とは思ってないの」
 女? 人?
「お祖父ちゃんはね、昔の人だから」
 昔の人?
「女はお人形さんだと思ってるのよ」
 よくわからない。
「だから、あまりおねだりしちゃ、だめよ」
 どうして? うちはお金持ちだから、お洋服でも、お人形でも、なんでも買ってくれるって、お祖父ちゃん、言ってたよ?
「このままだと、お祖父ちゃんは、きっとあなたを駄目にする」
 駄目って、何?
「いいの。今はわからなくて」
 わからない。
 *
 いつからか、おみやげがなくなる。
 お小遣いも決められた金額だけになる。
 祖父そのものが家に帰らなくなる。
 *
「かわいそうなことをした」と、祖母は言う。
 私の父親のこと?
「おかあさんのことよ」
 おかあさんが? なぜ?
「お祖父さんが満州にいたころの親友の娘なの。馬賊のまねごとしてた仲間で、義兄弟のちぎりなんかして、あげく、子供同士を結婚させて、親戚になろうなんて約束して」
 親戚? 約束?
「それでね、おかあさん以外のおかあさんの家族はね、みんな終戦の時、満州で死んじゃったの」
 みんな? 死んだ?
「おかあさん、ここ以外に行き場所なんかないのに」
 自分の家以外に行き場所のある人がいるんだろうか?
 お祖母ちゃんの昔話はよくわからなかった。
 もちろん、今はわかる。
 *
 祖父が死んでから、知らない親戚が出入りするようになった。
 祖母はよく「向こう」と言った。
「今日は、向こうの人が来るからね……」
「今日は向こうの弁護士が……」
「ちょっと向こうと話があって……」
 向こう・向こう・向こう。もう何年も祖父の家になっていた、別の女性の家。父の腹違いの弟がいて、会社を継いでいる。その家のこと、「向こう」。
 *
「お祖父ちゃんはね」と母は言った。「お父さんと同じで、この家が嫌いなのよ」
 家がきらい?
「お祖母ちゃんのことは好きなんだけど、家がだめなんだ」
 どういうこと?
「受け継いでいくってことの重さよね」
 重さ?
「女には、わからないことかも知れないわね。お祖母ちゃんもわからないみたいだから」
 女には、わからない?
 どうしておかあさんにはわかるの?
「ひとりだからよ」
 ひとり?
 *
 祖父名義の不動産や預金は妻である祖母の方へ。
 会社は「向こう」の息子の方へ。
 そんな話になったのはおぼろげながら知っていた。
 落着したのかと思っていた祖父の死を、さらに掘り返したのがあの女の子とあの男だった。
 十八、にしては幼い感じを与える。私と同じか年下のような……。
 もう恐怖は消えていた。
 むしろ、お金くらい、出してあげればいいのに、と思う。
 けれどそのお金はあの子に行くのだろうか。
 あの男のセクトとやらに行くのは嫌だ、と思う。
 *
 母親も祖母も、学生運動を怖がっている。私も、怖い、と思う。何がしたいのか、あの人たちは。ただ壊したいのか、誰かを殺したいのか? それとも誰かに操られているのか。あの男の、ちょっと醒めた感じ。活動家って、みんなあんな感じなのだろうか。
 *
 肉体のことは考えないようにしている。
 女とは二度としない。
 祐二とは、してもいいかな、と、ふと思うことがある。
 祐二の腕の中で思いっきり泣けたら、自分を哀れんで泣けたら、と思う。
 そのあいだ、祐二が何も聞かず、ただ髪を、手で、指で、梳いていてくれたら。
 そうしたら、私はすべてを祐二の前に投げ出すかも知れない。
 彩花のときのように。
 彩花。
 どうしているんだろう。
 何も連絡はない。


 一二
 二年の先輩から電話。
「彩花が自殺したの、知ってる?」
 頭が真っ白になる。
 まさか! 
 なぜ!
 どうして!
 声も出ない。
「未遂なんだけど」
 みすい?
 それなら生きてるんだ。
 脳に血が戻ってくる。
「知らなかったの?」
「はい」
「登校日の、次の日らしいんだけど」
 脳の血が、激しく巡るのがわかる。
 登校日の次の日。
 私が彩花と最後に会った日。
 あの男と『水車小屋』に行った日。
 彩花を徹底的に汚した、あの夜の朝!
 私のせい?
 私が彩花を殺した?
 いや、殺しかけた?
「もしもし、聞こえてる?」と先輩の声が私をこの世に引き戻す。
「いえ、はい、聞いてます」
「睡眠薬を飲んで、胃を洗っただけなんだって。でも、今も入院してるらしいの。みんな、狂言だって言ってるけど」
「狂言?」
「あなた、どう思う?」
「わかりません! そんなこと」
 思わず叫んでしまう。
「ごめんなさい。いきなりこんなこと聞いて」
 あまりの不躾さに怒りが湧く。
 なんだ、こいつは、と思う。
「じゃ、また何かわかったら連絡するわね」
 私の勢いに気おされたのか、おとなしい声になる。
 先輩なのに、なんという無邪気。
 でも仕方ないか、と思う。
 私たちの関係、あの男以外、誰も知らないのだから。
 *
 彩花の家に電話する。
「はあーい」といきなり間の抜けた声。
「彩花さんは、いらっしゃいますか?」
「はあー」
「彩花さんは、ご在宅ですか?」
「あー、彩花?」
「はい、彩花さんは?」
「彩花? 彩花は私の娘ですけど」
「お願いできますか?」
「ああー」
「彩花さん、お願いできますか?」
「彩花はね、私の娘なんですよ」
 まだ朝なのに、酔ってる。
 どうしようもない。
 切る。
 *
 祐二に電話する。
「初めて聞いた」という。驚いている。
「まだ確認してないから、誰にもいわないで」とすぐに切る。
 時間を見る。
 もしかしたら、と思う。
 *
 いた。
 前と同じ席で悠然と本を読んでいる。
「よお」と親しげに言う。これが、妹が自殺未遂した兄の態度か、と思う。
 向かいの席に座り、キリマンを注文する。
「聞きたいんだけど?」
「なんでも。彩花は今……」
「入院してるんでしょ?」
「はぁ? なんでお嬢さんがそれを知ってる?」
「さっき、先輩から電話があった」
「ちっ」と心底悔しそうに舌打ちする。こういう表情も初めて見る。「しょうがないな、だから特別病棟にしとけって言ったんだ」
「自殺未遂って、本当ですか?」
「そこまで知ってるのか!」
「先輩が」
「きっとあいつが自分で喋ったんだ。まったくどうしようもないな」
「じゃあ、事実なんですね」
「睡眠薬を飲んだのは事実だけど、限りなく狂言に近いよ。ありゃ発作的なものさ。だって、俺の目の前だったんだから。飲んだの」
 絶句する。
「どうして?」
「俺はもう、あれにはかかわりたくないんだけどな」
「どうして? 自分の妹のことでしょう?」
「そうか。あんたにとっては愛しい愛しい恋人だもんな」
「そんな言い方……」
「病室に直接行けよ。そこで彩花から直接聞いたらいい。俺からは言えん」
「私には何にも……」と私は恐る恐る言った。「知らせてくれなかった」
「普通の病気や事故じゃないんだし、仕方ないだろう。あいつ自身も、誰にも言うなって言ってたんだから。わかるだろ、刺激できないことくらい。さあ、もういいだろ。コーヒー飲んで、早く見舞いに行けよ。今なら会えるよ」
 男は心底不機嫌な様子で本に戻った。
 こんな扱いを受けるとは思わなかった。これほどストレートな拒絶とは。
 そして拒絶にあって初めて、自分が彩花の消息とは別の何かを、この男に期待していたことに気づいた。あの朝の、ゆったりとした時間のような、何かを。
 *
 拒絶の沈黙の味は時間がたつにつれ強烈だった。
 コーヒーの味などわからなかった。
 何か話しかけて欲しかった。
 急に泣けてきた。
「悪かった」と男は言った。「あの件に関しては、俺は余裕がないんだ。俺の家のことだからな。彩花一人で親戚の家に行っているってことにしてたんだ。きっと、病院で誰かが彩花に会って、それで彩花自身がそいつに喋ったんだろう。お嬢さんにも心配かけてすまなかった。彩花は、肉体的には、何も問題ない」
「じゃあ、精神的な……」
「まあ、そうだな。知っての通りの人間だから」
「さっき、おうちに電話したんです」
「母親が出たか」
「はい」
「話にも何にもならなかったろう」
「はい」
「病気なんだ。こっちも、もう入院させないと」
「病気?」
「アル中だよ。見ての通り」
「入院させて……」
「治るかどうかはわからない。ただ、このままだと彩花が駄目になる。あいつ、母親を治せるのは自分だけだって思いこんでるから」
「治せる?」
「ああ。自分が良い子にしてれば、母親は酒をやめて昔のようになってくれるってね」
「……」
「だから、俺は、あいつも狂ってるっていうんだ。別にあいつが悪い子だったから父親が家に帰らなくなったわけじゃないし、もちろん、あいつが悪い子だったから父親が外に女を作ったわけじゃない。そんなことはあいつも、理性ではわかってるさ。でも、駄目なんだろうな。どうしても、自分が何とかしなきゃって思うんだろう。あいつが泣きながら、母親に、お酒やめてって頼むのを見るのは、もう、それはそれは痛ましいよ……」
「泣いて頼んでも駄目なんですか?」
「駄目だよ。あれはもう病気なんだから。意志とは関係なく、体が酒を求めてるんだ」
「お酒を取りあげたら?」
「どうやって?」
「隠すとか」
「大人なんだよ、あっちも。隠しても、買いに行くさ。お金を持って」
「じゃあ、もう、どうしようも……」
「ないね」
 絶句する。
「この間の胃洗浄と点滴も」と男はタバコを取り出し、失礼、と言って火を付けた。「彩花と母親の、『お酒やめて』『うるさい』の延長線上さ。俺の見てる前で、彩花が死ぬって言い出したんだ。お酒やめてくれなければ、死ぬってさ。それで母親も酔ってるもんだから、自分の睡眠薬の瓶を投げつけて、死んで見せろ、ここでさあ、死んで見せろって。ひどい話さ。自分の産んだ娘に向かって。で、彩花も彩花で、瓶の蓋、あけて、薬をざらーっと手のひらに出して、バラバラ床にこぼしながら、飲むんだよ。いや、むさぼり食うって感じだったな。鬼気迫る、さ。母親は何が起こったのかわからないし、彩花はヒステリー起こしてて吐かないし、俺が引っ張って車に連れ込んで運んで行ったよ、病院に」
 何も言えない。
「俺ももう、死にたくなったよ、あのときばかりは」
 何も言えない。
 もしかしたら、自分が彩花を汚したことが関係しているのかもしれない、などと思っていた自分の思い上がりが嫌になる。
「今日これから、見舞いに行ってくれるのか」と男は言った。これまで聞いたことのない優しい調子だった。
「はい」
「病室では、あまり刺激しないでくれ。まあ、お嬢さんなら大丈夫だと思うけど」
「どんなところに注意したらいいんですか」
「何を言いだしても、ふんふんって聞いてくれ。さえぎったりすると、興奮するから」
「はい」
「ありがとう。彩花も喜ぶと思う」
 また、ゆったりとした時間が流れそうになった。
 *
 突然、『水車小屋』の戸が開いて、祐二が入ってきた。
「よお」と男は祐二に向かってタバコの手を挙げた。
 祐二は私の方を一度見て、そして男に向かって「彩花さんは?」と言った。
「大丈夫だよ。たった今、ここのお嬢さんにも説明したところだ。そうか、同級生だったな、祐二君は」と男。
「はい」と言いながら、祐二は立ったまま私の方を見る。疑惑が目に渦巻いている。面倒くさいな、と思う。
「じゃ、祐二君、お嬢さん、俺は行くよ」
 男は立ち上がった。
「清一さん」と祐二は挑発するような口調で言った。「逮捕、されなかったんですね」
「ああ。でも時間の問題だろう。リャク専門のアナキストだからな、俺は」
「リャク?」
「そこのお嬢さんに聞いたらいい。じゃ」
 男はタバコを灰皿に押しつけ、鞄を持った。
「清一さん」と祐二は引き留めた。「歌は?」
「歌?」
「リートは?」
「やめたよ。とっくに」
「どうして? あれほど上手かったのに」
 ふっ、と自嘲するような笑みが男の顔に浮かんだ。
「歌が何の役に立つ? この、全世界的規模で激化する階級対立の中で、歌なんぞ、麻酔薬でしかないさ。もうすぐ一九八〇年だ。安保はどうする? それに二一世紀まであと二〇年しかないんだ。これからますます反動勢力と革命勢力との対立は先鋭化していくだろう。世界は変わりつつある。こんな切迫した時代状況の中で、百年以上前のドイツの歌なんか歌ってる暇があると思うか? 状況は歌なんぞ許してはいないんだ。わかるか?」
「わかりません」と祐二はふてぶてしい口調で言った。
「だろうな」と祐二の返事を予想したような男の自嘲的な笑みだった。
「わからなくていい。お前は歌を続けたらいい。俺は俺の信じる道を行くだけだ。格好良すぎるかな? お嬢さん」
 いきなり話しかけられた。何も言えない。
「じゃ、あとは二人で楽しんでくれ」
 男はテーブルに千円札を置いた。
 そして言った。
「お嬢さん、わかってると思うが、彩花はかなり想像力が豊かだ。というより、妄想がかなりきつい。病院であいつが何を言っても、話半分、いや、話四分の一ぐらいに思って聞いてくれ。とくに母親の話は」
「わかりました」
「ありがとう。さすがお嬢さんだ」
 男はもう振り返りもせずに出ていった。
 祐二は私の向かいに座った。
 何から話したものか、空気が重くなった。
 *
 祐二に彩花のことを簡単に説明した。
「どうしてここを知ってた?」と祐二は説明を聞いた後で言った。
「あなたこそ、どうして」
「ここは昔からあの人の隠れ家だった。で、お前は?」
「この間、清一さんにつれてきてもらった」
「どうして清一さんと」
「関係ないでしょ、あなたとは」
「あの人は危険だよ、セクトの……」
「わかってるわよ、そんなこと」と私はいらついて祐二をさえぎった。「今日は仕方なかったでしょ。彩花のことを知りたかったんだから」
「あのきょうだい、二人とも……」
「あぶないって、言うんでしょ、わかってるわよ」
「じゃあ、なんで近づく」
「そんなこと、あなたに指図なんかされない」
「うわさじゃ、清一さん、トルコ嬢のヒモみたいなことしてるって」
 ふう、と私は息をついた。バカな男、と思った。
 何も答えず、半分残ったコーヒーに角砂糖を入れる。
 トルコ嬢、ね。その子は多分、私の姉なのよ。
 ゆったりとした時どころか、雰囲気は尖った秒針だった。
「砂糖、入れるのか?」
「私の勝手でしょ」
 同じ男なのに、あの男とはどうしてこうも違うのだろう。
「部室に、行かないか?」
 拒絶のほうが面倒な気がした。
 それに、なんとなく、祐二に抱かれたい、という気持ちがあった。
「病院に行かなきゃ」
「途中だよ」
「じゃ、少しだけ」


 一三
 祐二には帰ってもらい、病院へは一人で行った。祐二に抱かれキスした直後に彩花と三人で対面するのは耐え難かった。
 祐二の胸で泣いてしまったことを彩花に気取られるのも嫌だった。
 *
 最近、よく泣く。
 小学校の低学年以来じゃないだろうか。
 毎日のように、いや、日に何度も、泣いている。
 あの男が言うように、もしかしたら、世界は変わりつつあるのかもしれない。
 世界がもし変わるのだとしたら、自分は生きていけるだろうか。
 反動?
 革命?
 わからない。
 ただ、革命を信じるあの男が私の家を敵だと言っている以上、もし革命が起こったら私は生きてはいけないだろう。
 あの男は私を、殺すだろうか。
 殺すだろう、と思う。
 とびっきり、残虐に。
  *
 病室に入ると、彩花の顔に嬉しそうな表情が一瞬浮かび、そして疑問の無表情に塗りつぶされた。
「いきなり来て、ごめんね」
「どうして知ったの? あ、そこの椅子に座ってね」
「先輩から、連絡があって」と言いながら座る。
「そうか。おおとい、廊下で、三年生の先輩に会って、言っちゃったの。自殺しましたって」
「そう」
「誰にも言わないでって言ったのに」
「ひどいね」
「でもいい。あなたが来てくれたから」
「具合はいいの?」
「知ってるんでしょ?」
「だいたいね」
 まさかここで体を求めてくることはないだろうという安心感があった。だから沈黙も苦にならなかった。彩花と一緒に外を眺めた。
 *
「夏だぁ」と彩花は言った。
「夏ね」と私は返した。
「こんな夏、初めて」
「どんな夏?」
「こんな綺麗な夏」
「綺麗?」
「あなたがそばにいてくれて」
「そんな」
「本気よ。この汚れきった世の中で、あなただけが私の救いよ」
 彩花はまっすぐ私を見た。
 それなのに目が合わなかった。
「お願い、私を捨てないで。何にもしなくていい。いてくれるだけでいい」
「どうしたの? なんか変よ、彩花」
「変でなきゃ、自殺なんかしない」
 それもそうだ、と、一瞬、納得しそうになった。
「私の母親はね、屑よ」と彩花は言った。来た、と思った。
「そんな言い方しなくても」
「お母さん、見たでしょ?」
「うん」
「ひどい酔っぱらいよ」
 返事できない。
「私に、私に、死ねって言ったのよ、睡眠薬の瓶投げつけて、死んで見せろって。こんな母親がこの世にいていいと思う?」
 返事できない。
「だから死んでやろうと思ったのよ。そしたら後悔して、お酒もやめてくれるかなって」
 何も言えない。
 たとえ後悔して、それでお母さんがお酒やめたって、そのときあなたは死んでるのよ。
 そんなこと、口が裂けても言えない。
「あの日、あなたに抱かれて、ものすごく幸せな気持ちでいたのに、あの母親が全部台無しにした」
 何も言えない。
「あなたのこと、ヨウフだって」
「何?」
「妖婦よ。その美貌で、男だけでなく、女も惑わすって。もうつれてくるなって。顔も見たくないって」
「そんな……」
「ひどいでしょ」
 ひどい。
 でも、それをまた私に言うなんて、彩花もひどい。
 どうかしている。
 普通じゃない。
 普通じゃない……だから入院しているのだ、と自分に言い聞かす。
 それに、それが本当だとは限らない。また彩花の妄想かも知れない。
「捨てないで」と無表情に彩花は言った。
「何を言ってるの」
「捨てないで、お願い」
「友達じゃない。あたりまえよ」
 ふう、と彩花は長いため息をつき、「疲れた」と静かに言った。「お母さんもね、気づいたみたい。私たちのこと」
「何を?」
「あの夜のことよ。タオル噛んでも、声がやっぱり漏れたでしょ。聞こえたらしいの。それで、あの日、起きてきて、もう寝床でお酒飲んでたらしくて、べろべろよ。降りてくるなり、お前は汚い、汚れてる、お前なんか娘じゃないって叫んで。兄貴の前であの夜のこと、散々言われたの。あの女、ドアに張り付いて私たちのこと聞いてたのよ、きっと。もうほんとうにひどいことばっかり言うの。あんな汚い女だったなんて、もう、うんざり。兄貴は間に入って、どっちかというと私をかばってくれたけど、もう我慢できなくて、お母さんこそ何よって言い返したの。お父さんに新しい女ができたからって、私たちに当たらないでって。お母さんこそ汚いよって。まずお酒をやめなさいよって。言ったの。そしたら薬の瓶が飛んできて、死ねって。お前なんか死ねって。ひどいでしょ。無茶苦茶でしょ。だからね、もう、ほんっとおに、生きるのに、疲れた。疲れた疲れた。疲れた」
 何も言えない。
 何を言っていいのかわからない。
 あれを親に知られたなんて。
 恥ずかしいなんてものじゃない。
 嫌悪。自己嫌悪。
 汚れた、と思う。
 汚れるとは、こういうことなのだ。
 でも、どこまでが本当?
 *
「いつごろまでいるの?」と私は聞いた。
「病院に?」
「そう」
「わからない。そんなの先生や兄貴が決めるんでしょ」
「でも、体はもう大丈夫なのよね」
「頭が駄目ってこと?」
「どうなの?」
「そんなの、私にはわからないよ。だって、あなたとあんなことしたってこと、それだけでじゅうぶん、変だもの」
「そうよね」と私もまた、諦念の返事をした。
 あの夜の光景や声や感触。
 もしあれを母親に知られ、なじられ、薬の瓶を投げつけられれば、私もそれを飲んだに違いなかった。彩花に対する哀れみと嫌悪が同時に湧いてきた。
「私のこと、どう思ってる?」と彩花は言った。
「どうって?」
「好きか、嫌いか」
 また始まった、と思った。さっきもその詰問を祐二から受け、体でごまかしてきたところだった。答えようのない、袋小路。嫌悪といらだちと、でもそれをここでは押さえなければならないという理性とがごっちゃになって、私を黙らせた。
「嫌い?」
 首を振った。
「好き?」
 答えようがない。
「嫌いなの?」
「嫌いなら、ここにこない」
 祐二の時と同じように答えるほかなかった。
 しかもここでは体に逃げることは出来ない。
「好きだと……」
「ちょっと待って」と彩花をさえぎる。
 そしてまた黙る。さえぎってはいけないとあの男に言われていたことを思い出して。
「好きだと受け取っていいの?」
「彩花、前に言ったよね? 私は人を愛せない人間だって」
「うん」
「その通りなの。わかる?」
 彩花は黙っている。
 返事を待つ。
「祐ちゃんは?」と彩花は長い沈黙の後に言う。
「彩花と同じよ。好きじゃないわ。嫌いじゃないけど」
「あなたは、誰だっていいの?」
「どうして」とついに我慢できず言ってしまう。「どうしてそんな失礼なこと、平気で言うの?」
「だって」
「だって、じゃないでしょ」
「だって……」
「彩花も、祐二も、なんで私を問いつめるの? 追いつめるの? どうして言葉にしたいの? なんで、黙って抱いていてくれないの? 好きとか嫌いとか、そんなの、簡単に言葉に出来るわけないじゃない! 勝手に自分から求めておいて、抱いておいて、それで好きか嫌いかなんて、勝手に聞かないでよ。私にわかるわけ、ないじゃない。私から求めたんじゃないんだから。勝手に求めて来て、勝手に抱いて、それで……」
 これは言ってはいけないことだったかも知れないと気づき、黙る。
 静かに泣きだす彩花。
 もう遅い、と気づく。
 来るんじゃなかった。
 来てはならなかった。
 泣きだしたい。
 でもここでは泣けない。
「ごめんなさい」と、ちっともこちらは悪くないと思いながら、それでも謝る。
「あなたは、綺麗すぎるのよ」
「私が?」と驚いて聞き返す。
「それに気づいてないのも、あなたの罪よ」
「罪?」
「美しさって、それだけで罪だと思う。それにあなたの場合、心の殻の堅さが加わってる。これは罪よ。絶対に」
「わからない。何を言ってるのか」
「いいのよ。わからなくて。わかったら、あなたこそ、死ぬかも知れないから」
 わからない。何が言いたいのか。
 *
 ノックされた。
 看護婦さんが昼食を運んできた。
 それを潮に、じゃあ、今日はこれで帰るね、と言って立ち上がる。
「もう、来ないで」と彩花。
「……」
「ここでお母さんと鉢合わせしたら、どうするの?」
 想像して、また絶句する。何と言っていいかわからない。
「大丈夫、すぐに退院できるから。こっちから連絡する」
「うん。待ってるから。お大事に」
 またね、と言いながら、彩花と目は合わさなかった。
 というより、目が合わなかった。
 

 一四
 彩花のことが気になりながら見舞いにも行けず、たまに部室で祐二とキスしたりしながら、夏休みも半分が過ぎた。
 夕方に秋の風が吹き始めれば、もう祖父の初盆だった。
 *
 小さい頃、お盆に、うちの菩提寺に行くのが嫌だった。
 地獄図を見るのが。
 特に、両脚を開いて逆さまに縛りつけられた女の図。
 和尚は、二夫にまみえるとこうなる、と言った。
 死んでから夫たちが女を奪い合って、股からノコギリで二つに裂く、と。
 恐ろしい。
 そんな恐ろしい罪を犯す女がいるのだろうか、と思った。
 今思えば、罰が恐ろしいからといって、その罪が本当に恐ろしいことだとは限らないのに。
 罰の恐ろしさで、罪の恐ろしさを印象づけようとすることもあるだろう。
 これは一種のペテンだ。
 なのに、今も、恐ろしい。
 祐二と彩花が私を奪い合ったら……。
 *
 八月十五日。
 祖父のいない女だけの精霊流しになった。
 そして思った。
 祖父の精霊は何処に帰ってきたのだろう。
 仏壇のある場所だというのなら、家だ。
 でも、祖父は家には帰ってきてはいないような気がする。
 祖母はどんな気持ちで伏せ鐘を叩いているのだろう。
 そういえば、母は、どんな気持ちだったのだろう。
 どんな気持ちでお鈴を叩いてきたのだろう。
 お盆にも、父の精霊が家に帰ってきたはずはないのに。
 *
 木魚を叩きながら考える。
 ノコギリで裂かれるべきは、本当は男ではないのか、と。
 *
 精霊の乗った船が西の方へと消える。
 精霊流しが終わる。
 *
 八月十六日。
 百万遍供養。
 八年ぶりの百万遍は、私にとっては、もはや異国の土俗でしかなかった。
 本尊の前では数十人の男女が丸くなって座り、巨大な数珠に繋がれている。
 そして和尚の木魚に合わせつつ、「なんまいだあなんまいだあ」を唱えながら、梨ほどの大きさの数珠玉を手から手へと渡す。
 その大人たちの輪の中では、子供たちの小さな輪が、大人たちを真似て「なんまいだあなんまいだあ」を唱えながら、ここでも数珠を回している。
 *
 その回の念仏が終わった。
 数珠が置かれ、輪が解かれた。
 和尚は壁に掛けられた地獄図極楽図の前に善男善女をいざなう。
 和尚は、待ちきれずに「ねえあれはあれは?」などと先走って聞く子供やそれを制する大人たちに向かって、私の小さい頃と同じように、地獄についてやたら詳しく、極楽についてはごくあっさりと、説く。
 *
 人は、幸福よりも不幸の細部にやたらとこだわるものなのだ。
 ただ、不思議なことに、例の女の説明がない。
 あんなものはどこにもなかったのか?
 それとも、最近ではもう説明しないのか?
 わからない。
 絵の中に探す気もない。
 *
 数珠の輪には結局参加せず、本堂を出て閻魔様のお堂を見る。
 と、その前には初盆の者の名の書かれた紅い提灯がいくつも揺れている。
 もちろん祖父の名もその提灯に黒く大きく書かれている。
 夜の闇の中、祖父の名の書かれた紅い提灯がこうして閻魔様の前に架けられている。
 何か気分がざらつく。
 なぜ祖父は、と思う。
 こうして閻魔様の前にまるで晒し者のように吊され、線香の煙に燻され、読経の声と木魚の音にふらふらと揺れていなければならないのだろう。
 それに一瞬納得がいったようで、何か不愉快で、理不尽なものを感じた。
 むしろ怒りに近いものがこみ上げてきた。
 いったい、こうして、鬼火になって吊され晒され、閻魔様に裁かれなければならないようなことを、生前、祖父がしたというのだろうか。
 もちろん、しただろうとは思う。
 あの男に言わせれば、極道地主なのだから。
 しかも、妻を捨て、他の女のところで、子供まで作って、そこで死んだような男だ。
 けれど、それでも、祖父には閻魔様の前を素通りして極楽へと導いてもらえるだけの理由があると私は思った。
 根拠はない。
 ただ、私に、私のような者にも優しくしてくれたという理由だけで、閻魔様の裁きを免れて当然だと思った。
 そして、ふと振り返り見れば、そう思う善男善女のひと群が、ほんの一瞬、数珠につながるための百万遍供養なのだった。
 閻魔様の前で苦吟している精霊たちのために、今生きている私たちこそが、あの大きな数珠の鎖に繋がれ、念仏を、唱えなければならないのではないか。
 *
 本堂に戻る。
 小さい頃は正視できなかった地獄図の前に立ち、「なんまいだあなんまいだあ」が一段落つくのを待ちながら、あの女の絵を探す。
 いた。
 逆さにつるされ、股をノコギリで裂かれ、苦悶にゆがむ表情のその口元には、けれど、奪い合われることの、かすかな悦楽が浮かんでいる……。
 *
 逮捕された学生たちは釈放された。
 証拠不十分だということだった。
 警察の見込み捜査が云々、といった記事が新聞に載っていた。


 一五
 祖母が、ちょっといい? と部屋に入ってくる。
 入ってくるなり、祖母はゆっくりと、よいしょ、とベッドの端に腰掛ける。
「あの男の人に会ったの?」といきなり聞かれる。
 けれど詰問ではなく、優しい口調だった。
 喋ってもいいかな、と思った。
「実はね、親友のお兄さんだったの」
「彩花さんでしょ?」
 驚いて祖母の顔を見る。
「知ってるの?」
「弁護士に相談して、この件も依頼したの。彩花さんのお兄さんと話し合ったらしい」
「お祖母ちゃん?」
「なに?」
「私、ほとんど知ってるから」
「お兄さんから、聞いたでしょ」
「うん」
「どう思う?」と祖母。
「お金くらい、出してあげてもいいんじゃないかって、思う」
「私もそう、思ってるのよ」
 でもね、と祖母は疲れた様子でため息をついた。
「でも、おかあさんは、絶対に認めないだろうねえ」
「うん」と答えるほか、なかった。
 沈黙があった。
「でもね」と私から口を開いた。「お金を渡したとして、それでお姉さんにそのお金が行くのかしら。あの男のセクトに行ったりするんだったら、嫌だ」
「セクト?」
「あの男の、アナキストの」
「セクトよりもね、まずはあの子の、育ての親の借金の方に行くと思うのよ」
「借金?」
「五百万くらいあるんだって。それをあの子は一生懸命返してるのよ」
 どうやって返してるか祖母は言わない。
「お祖父ちゃんのお金を、少し出してやるってことで、あんたは、いいかなあ」
「私は、もちろん、いいよ」
「私が死んだとき、あんたが受け取るお金が減ることになるよ」
「そんな、不吉なこと言わないで」
「もうそろそろ、そういうことも考えとかないと、あとであんたたちが困ると思うけどね」
 そうかも知れない、と、ふと思う。
「おかあさんには黙っててね」と祖母。「むかし、私、こっそり会いに行ってたのよ。あの子に」
 考えてみれば、あの子こそ、お祖母ちゃんの初孫なのだ。
「おとうさんのところに?」
「ううん、その後よ。親戚に貰われていってからよ。かわいそうに、まともな服も着せてもらってないの。お小遣いを渡してもすぐに親戚に取られるだろうから、お小遣い欲しかったら、家においでって言ったのよ。たまに来てたの、知ってるでしょう」
 うん、とうなづく。
「かわいそうに」と祖母は言った。「どうしてこんなことになったんだろう」
 答えようがない。
 よいしょ、と祖母はベッドの端から立ち上がる。
「じゃあ、そういうことにするから」
「うん」
 振り返りながら、
「彩花さんのお兄さん、悪い人?」と聞かれる。
「わからない。私にはあまり悪くは見えない」
「弁護士の先生もそう言ってた。主義者だけど、信頼は出来るって」
「信頼できるかどうかは、わからなかったけど」
「うん……じゃあ、このことは、おかあさんには、内緒ってこと。じゃあね」
 祖母は部屋を出ていく。
 これでいい、と思う。
 会うことはない姉に、私が今、してやれる精一杯のことだ。
 ちょっと満足した気分になる。
 *
 突然、物凄い音。
 階段から何か堅くて重い物をいくつも転がすような。
何か落としたんだろうか。
 まさか!
 と思いついて廊下に出る。
 階段へと歩く。
 見下ろせば、一階に祖母が倒れている。
 奇妙な格好で。
 駆け下りて、声をかける。
 うめき声。
 母を呼びながら、電話に走る。
 救急車、呼ばなくちゃ。
 指が震え、なかなかダイヤルを回せない。
 たった三つの数字なのに。
 つながる。
「火事ですか、救急ですか」などと聞かれる。
 火事なんて、なんてバカなことを聞くの!
「お祖母ちゃんが階段から落ちたんです!」
 *
 少なくとも大腿骨は完全に折れている、と主治医は言った。
 ぽっきり、と言った。
 意識が戻っても、寝たきりになるかも知れない、と。
 しかたがありません、と母は言った。
 *
 毎日、病院に通った。
 意識が戻るまで付き添いは要らないと言われたけれど、病室は冷房が効いていて、勉強がむしろはかどったから。
 *
 四日目、祖母がこちらを見ているような気がした。
 意識はまだ無いはずなのに。
 けれど口は確かに動いている。
 私に何かを言おうとしている。
「何、お祖母ちゃん?」
 と、耳元で叫んでみた。
 うめき声から、何か、言葉のようなものが切れ切れに聞こえてきた。
「……み……」
「み?」
 祖母はうなづく。
「……つぃ……」
「ち?」
 うなづく。
「……こ……」
「こ?」
「……に……」
「……お……」
「……か……」
「……ね……」
 言い終わって祖母は大きくうなづく。
「み・ち・こ・に・お・か・ね?」
 復唱すると、こんどは微笑みながらうなづく。
「みちこさんって、お姉さんのこと?」
 うなづく。
「わかった。彩花のお兄さんに会ったらいいの?」
 うなづく。
 あの男とちゃんとした用事で会える。
 そう思うと、何か、恋人との関係を認めて貰ったような、ちょっと浮わついた、嬉しい感じがした。
「明日、会うね」
 うなづきながら、祖母は嬉しそうに微笑んだ。
 こちらの浮わつきが伝染したような笑みだった。
 *
 意識が戻ったことを主治医に報告した。
 ほう、と主治医は驚いたように言った。
 実はもう意識は戻るまいと思ってました、と主治医は病室へと歩きながら淡々と言った。
 それほど深刻だったということを、初めて知った。
 *
 翌日。
 母は朝早く、祖母に付き添うため病院に出ていった。
 私は朝食もとらず『水車小屋』に来て、モーニングサービスというものを初めてたのんだ。
 サービスの中身はトーストとゆで卵。
 トーストは厚切りでたっぷりのバターが塗られ、ちぎって口に入れるとさっくりとして香ばしかった。
 おいしい。
 家で焼くのとぜんぜん違う。
 ゆで卵も、半分に割ってみると黄身の中心がオレンジ色で、家では食べたことのないような複雑な味がした。
 半熟とはこういうことなのか。
 コーヒーはモカにした。
 あの男のまね。
 *
 男は『水車小屋』の戸を開け、私に気づくと凍りついたようになった。その露骨な驚き方に私は少し傷ついた。これほどあなたを待っていたのに、もっと嬉しそうにしてよ、と、私の勝手な思いこみ。
「よう」と男は、驚いたのを照れたのか、いつもより親しげに言った。私の前に座った。
「お祖母ちゃん、大変だったな。大丈夫か?」
「知ってるのね」
「もちろんさ。大事な交渉相手だから。具合は?」
「昨日意識が回復したの」
「そりゃよかった。何か言ってたか?」
「そのことで来たのよ」
「だろうな」
「どうぞ、先に注文して」
「ああ。マスター」と男はカウンターの方を向いた。「キリマン」
「あれ、モカじゃないの?」
「最近はこれ。お嬢さんの香りだからね」
「私の意見は」と私は少し照れ、話を戻した。「お祖母ちゃんと一緒。お姉さんに出来るだけのことはしてあげたい」
「殊勝だな」
「きょうだいなのよ」
「きょうだいって意識、あんたにあるのか」
「本当のところは、よくわからない。きょうだいってのがどんなのか」
「だろうな」
「で、一つ聞きたいの」
「なんだ」
「お金、絶対に姉に行くんでしょうね」
「そりゃ行くさ。他のどこに行く」
「親戚、とか」
「それは仕方ないだろう。聞いたんだろ? 借金のこと」
「うん」
「それが問題なのか?」
「ううん」
「何だ?」
 私は言うのを少しためらった。
「あなたのセクト」
「そういうことか」
「そう」
「それはわからんよ。金の使い道は彼女が決めたらいいことだ。親父さんが命をかけて守った党にカンパしてくれるって言ったら、断る理由はないだろう」
「あなたのセクトにお金が行くようなら、そんなお金は出さない」
「そう、お祖母ちゃんが言ったのか?」
「これは、私の意見よ」
「だろうな」
「どうして」
「あんたのお祖母ちゃんは、そこまで気が回ってはいまい。孫可愛さで、孫をトルコ風呂からすくい上げられたらって、それだけだろう。そのためなら、セクトであろうが、やくざであろうが、手を組むつもりなのさ。ちがうか?」
 その通り、だと思う。
「で、あんたは何しに来たんだっけ」
「私、わたしは……」
 何をしに来たんだろう。
 交渉はすべて弁護士がやっているはずなのに。
 何をしに来たんだろう。
 でも、「何しに来た」なんて、そんな言い方はないじゃない!
「あなたに会いに来たの」と思い切って言う。
「それはわかってる。その目的を聞いてるんだ」
「それが目的よ。あなたに会いに来た。それだけ」
「妹だけじゃ足りずに、その美貌で兄まで餌食にするつもりか」と男は言った。嫌らしい口調ではなかった。むしろ爽やかな言い口だった。
「そうじゃない。お祖母ちゃんの言ったことをあなたに直接、ちゃんと伝えなきゃって、思ったのよ。『みちこにおかね』って言ったのよ。意識が戻った、その最初に」
「そうか。けっこう感動的だな」
 気がつけば、男も私もコーヒーを半分飲み終わっていた。
 コーヒーに角砂糖を一つ、入れた。
 男も同じようにした。
 顔を見合わせて笑った。
 *
「ミチコさんも、同じようにするの?」
「ああ。お父さんのまねだってよ」
「お父さんも、お祖母さんのまねなのよ。本当は」
「そうなのか。お祖母さんも、若い頃はハイカラだったんだろうな」
「でしょうね。戦前からコーヒーを飲んでたなんて」
「名前も聞いたんだな」
「え?」
「ミチコ。あんたの姉さ。可能性は未知数の子」
「未知子さん、ね」
「お祖母さん、何か聞いたかい? 俺のこと」
「悪そうな人かって、聞かれた」
「どう答えた?」
「悪そうには見えないって」
「そりゃそうさ。これでも正義のために戦ってるんだからな」
「正義?」
「社会的正義さ」
「会社を爆破したり、飛行機を乗っ取ったり、人を殺したりが、正義なの?」
「いろんなセクトのことがごっちゃになってるが、まあいいだろう。いいか? 新しい建物を建てようとする。けれどそこには古い建物がデンと居座ってる。あんたなら、どうする」
「古い物は壊してどけるって言うの?」
「それ以外、どんなやりようがある?」
「古い建物がもうだめだって、どうしてわかるの?」
「そんなの、新聞を見りゃわかるだろう。テレビだって同じだ。毎日のニュースを見てみろよ。陰惨な事件や、腐敗しきった政治、子供たちの悲惨な現状を見ろ。もう古い体制がもたなくなって、あちこちでヒビが入っている証拠なんて、いちいちあげるのもばからしいくらいだ。この資本主義体制はもう何年ももつまい。いや、もたせちゃいけないんだ」
「でも、古い建物にも、人が住んでるでしょ」
「ああ」
「どうするの?」
「どいてもらうしかないだろうね」
「嫌だって言ったら?」
「嫌だって言いながら、どいてもらうさ」
「それが革命?」
「そう。よくわかったな」
「どかなかったら、殺すわけね」
「それが歴史的必然だとしたらね」
 人を殺すことさえ、必然なのか。
「私は、怖い」
「なにが?」
「あなたの言う、革命が」
「そりゃそうだろう。あんたは革命によって没落する側の人間だから」
「そうなのかしら。違うと思う。もっと違った意味で……」
「違わないよ」
 断固とした調子に、言い返せない。
 黙り込む。
「いや、違うかもな」と男。「あんたはもしかしたら、この世界そのものが怖いのかもな。あんたは生まれながらの余所者だよ」
「余所者?」
「そうだ。この世を自分の居場所だと感じたことはあるか?」
「ない、と思う」
「あんたは多分、革命状況の中でも、革命後の社会でも、余所者であり続けるさ。きっと」
「じゃあ、あなたが革命を起こしたら、私を、殺す?」
「なぜ?」
「没落しつつある側の人間なんでしょ」
「それだけでは殺さないよ」
「どうだったら、殺すの」
「殺さなきゃならないような必然性があれば、さ」
「必然性、ね」
「なんだい?」
「なんだか、その『必然性』って言葉、嫌」
 ふ、と男は笑った。
「貴族趣味だ」
「かもね」と答え、私も軽い笑みを笑んだ。
 私のことを、余所者、と、この男は言った。この男は私を理解してくれている。
「『冬の旅』、知ってます?」
「シューベルトの、か?」
「はい」
「あれがどうした」

 余所者は、私、ここに来て、
 余所者のまま、去っていく。

「あんたそのものだな」
 男はドイツ語で、軽く節を付けて繰り返した。

 Fremd bin ich eingezogen,
Fremd zieh ich wieder aus.

「歌ったことあるの?」
「昔ね」
「聞きたかった」
「よせよ、冗談は。で、どうする? 交渉は、一応成立でいいのかな。全部弁護士に任せるってことで」
「一つ、条件があるの」
「なんだ」
「姉に、未知子さんに会わせて」
「あんたのために言うんだが、俺は会わない方がいいと思う」
「前は、そのうち会わすって言ったのに」
「あの時は」と男は口ごもった。「あの時だ。あの時はお嬢さんがこんな人だとは知らなかったから」
「私ってどんな人?」
「ま、その話はやめとこう。それより、本当に会いたいのか?」
「会いたいの。あなた、同棲みたいにしてるんでしょ」
「そんなことはない。たまに連絡のために行くだけさ」
「私も連れて行って欲しいの」
 男は私の目を見た。
「ま、考えておくよ」
「それからもう一つ聞きたいの」
「なんだ」
「なぜ、あなたなの?」
「どういう意味だ」
「私が聞いてるの。なぜあなたが私の姉のことで……」
「偶然だろう」
「必然じゃないの?」
「これは多分、違う」
「自信がないのね、多分、なんて」
「自信なんて、この俺にあるわけがない」
「そう? 口調はいつも自信に満ちてるけど」
「それは自信のなさの裏返しさ。確信とか、自信とか、そういうものとは、もともと縁が無いんだ、俺」
「本気?」
「もちろん」
「それで過激派だなんて」
「ははは、お嬢さん、それは言わないでくれ。自分で変に思うこともよくあるくらいなんだから」
「未知子さんとは、どこで?」
「党が革命戦士の追悼集会をやったのさ。そこに来てたよ。未知子さんには党の幹部が連絡を取ったんだ。未知子さんが遺族代表で祭壇に花を捧げた」
「遺族、か」
「あんたもそうだったな」
「考えたこともなかった」
「父親がアナキストだったってことを、か?」
「そのことを、まず、知らなかったんだから」
「ショックだった?」
「お父さんも、あなたみたいに、必然性、なんて言ったかしら」
「子供には言わないだろう」
「必然性があれば、お父さんも人を……」
「本当の戦士なら殺すだろう」
「私、お父さんには、殺せないと思う」
「どうして」
「あなたと同じ。人を殺せそうじゃないから」
「人は殺せないかも知れないが、敵は殺すよ」
「敵は人じゃない?」
「……この話はもうやめよう。さて、俺は行くよ。で、どうしたらいい、連絡方法は? どうせあんた、お母さんには黙って来てるんだろう?」
「そうよ。そうね、彩花に言付けるか……」
「どうやって?」と男は言った。優しい口調で。
「そうよね。まだ病院だものね。そうだ、彩花、休み明けには学校に出られそう?」
「それは問題ないと思う。母親をまず入院させてって手順があるから、病院に入れてるだけさ。いつでも出られる」
「会いたいな」
「寂しいか?」
「そういうんじゃないけど、病院でどんなこと考えてたのかなって、聞きたい」
「うん。で、俺の連絡は?」
 男は時間に焦れているようだった。
「じゃあ、休み中の昼過ぎだったら、家に私一人だから」
「電話したらいいんだな」
「そう」
「じゃ、俺は行くよ」
 *
 男は『水車小屋』を出ていった。
 ふと、寂しさがこみ上げてきた。
 私はどこにも行くところがない。
 やっぱりどこにいても余所者なんだ。
 ひとりなんだ、と思った。


 一六
 夏休みが終わりかけ、世界が変わったような気がしていた。
 確かに何かが変わった。
 終わりかけた夏、死にかけた夏の空気の中で、私の何が変わったのか、世界が変わったのか、わからない。
 こういう感じは、むかし一度だけあった。
 *
 あれも銀木犀の下だった。
 *
 いつも、節句には、陽の当たる庭がステージとなった。
 銀木犀の陰に入った縁側が客席だった。
 日向のステージで、小さいころの私はいい気になって振りを付けて歌い、レコードや母の琴に合わせて踊るのだった。
 祖父や祖母や父や母が手をたたき、そのわきには祖母の手作りの稲荷寿司や巻き寿司、お重の中には赤飯と季節のもの。
 私は祖母の作った生姜の梅酢漬けが好きで、それを囓りにステージから客席へと乱入したりしながら、幸せだった。
 *
 あれは何の節句だったのだろう。
 祖母も祖父も母も父も縁側にいた。
 私はテレビでチャイナドレスを着た女がやった通り、皆の、いち、にい、さんに合わせて帽子を取った。
 羽ばたく音と共に樹下を軽く旋回して青空に舞い上がっていく数羽の白い鳩、驚嘆する皆の顔、拍手。
 ……すべては幻と消え、幼い母のお気に入りのオモチャだったという、満州の小さな紅い手風琴だけがそこにゴロリと転がっていた。
 観客よりも私の方が呆気にとられていた。
「鳩は?」と私は母に聞いた。「テレビで、これを、こうやったら、鳩が出たの」
 一瞬の間の後、客席では爆笑が起こった。
 笑いながら祖母が言った。
「それは手品よ。手品には、種があるのよ」
 今思えば、このときの祖母は私に何も説明していない。
 手品を知らない子に、それは手品よ、と言ったところで、おまけに、手品には種があるのよ、などと付け加えたところで、いったい何をどう説明したことになるというのだろう。
 それでも私には祖母の言葉の全てが一から十まで理解できた。
 手風琴から鳩は生まれない。
 手品には、種がある。
 あしもとに無惨に転がった古ぼけた手風琴。
 手品に種のある、この世界の神秘と真実の圧倒的な証拠。
 私は自らの無知と非力を思い知った。
 そしてあまりの屈辱に号泣した。
 私は、このとき、手品に種のあるこの世界が、私の皮膚の内と外から隙間なく私に重なってくるのを感じていた。
 私はこの世界に重なり、この世界は私を取り込んだのだった。
 私は、この世界が私を抱擁し浸食し取り込んでしまうのに何一つ抵抗できぬまま、ただ泣いていた。
 そしてこの世界と重なる痛苦に堪えて、私が私へと生まれ変わりつつある私を眺めながら、客席の大人たちは大笑いに笑いつつ、私を祝福し続けた。
 *
 私が生まれたときと同じ、私をこの世界へと歓迎する儀式だった。
 あのとき私は死に、私は生まれた。
 *
 世界のすべてが私を祝福していた。
 手品に種のあるこの世界へようこそ。
 神秘に満ちたこの世界へようこそ、と。
 *
 信じがたいほどの屈辱を味わい、私は、世界を知った。
 私自身を知った。
 楽園を追われた私はこの薄汚い世界へと投げだされたのだった。

 そして今もまた、世界が私に被さって来つつあった。
 内と外とが重なり合い、私を隙間なく埋め尽くす。
 世界が変わるのか、私が変わるのか。
 *
 彩花が言うように、この夏はとびきり美しかった、と思う。
 ……残酷なほど。


 一七
『死と乙女』のレコードを買った。
 母が出ていって一人になると、居間のステレオにかけて聞く。
 第二楽章がいちばん好き。
 死神と少女の対話。
 きっと少女は自分から死神を呼んだのだと思う。
 呼んでいながら、恐ろしくなった。
 でも、もう遅い。
 死神の優しい腕が少女を包む。
 *
 音楽に浸っていると、電話のベル。
 きっと祐二から。
 母親がいない時間を教えているものだから、堂々とかけてくる。
 これから会えないかって言うんでしょ。
 ちょっとだけ渋り、結局、従うことになるんだけど。
 *
 ここ数日、祐二と会ってもあまり口をきかない。
 抱かれて、キスするだけ。
 しゃべる祐二は鬱陶しい。
 *
 祐二じゃなかった。
「お嬢さんか?」
 あの男だった。
「はい」
 心なしか、声が弾む。
「未知子に会いたいか?」
「うん」
「『水車小屋』に住所を書いた手紙を言付けておいたから。受け取ってくれ」
「どうしてそんなこと……」
「すまない。たぶん、もう会えないだろう」
「会えない?」
「お嬢さんを巻き込んですまない。あんたとは、こんな形でなく、出会いたかった。じゃ……」
「待って」
「……なんだ」
「嘘でしょう、会え……」
 電話はいきなり切れた。
 彩花の自殺未遂を知らされたとき以上の恐怖がかぶさってきた。
 死神のマントを、いきなり、バサーッとかぶせられたようだった。
 待って、行かないで、と叫びたかった。
 *
『死と乙女』が第四楽章に入ったところだった。
 *
『水車小屋』に自転車で走ってきた。
 マスターに言うと、すぐに手紙を渡してくれた。
 白い封筒。
 あの男がいつも座っていた席に座り、モカを注文した。
 封を切る。
 でも、恐ろしくてひらけない。
 躊躇しているうちにもうモカが来た。
 あの男の香りだった。
 その香りに励まされるように、手紙をひらく。
  …………
  こんなことになってすまない。
  残念だが、これも必然性があったのだと思ってくれ。
  未知子の住所を知らせておく。
  ただ、前にも言ったと思うが、
  未知子には会わない方がいいと、俺は思う。
  未知子と君とはあまりにも違いすぎる。  
  今会うのは、お互いに不幸だと思う。
  会うべきときが来たときに、会えばいい。
  その時は必ず、来る。
  
   W町X通りYのZ くすのき荘201

  ここで手紙を終えられたら、どれほど格好いいか。
  ひどくみっともない、ということを承知で、書く。
  会えば会うほど、喋れば喋るほど、お嬢さんに惹かれた。
  君はもっと自分に自信を持っていい。
  殻を破るんだ。
  少なくとも俺は、君に会えてよかった。
  もっと色々なことを語り合いたかった。

  もう一つ。
  申し訳ない。この間は嘘を言った。
  彩花は特別病棟に移した。
  あれから何度も死のうとした。
  狂言かどうか、もうわからない。
  きっとしばらく、出られないだろう。
  医者は、今年中の復学は無理だと言っている。
  もうあいつを気にかけてやれるのは君だけだ。
  お願いだ。あいつを見守ってくれ。

  すまない。
  そしてありがとう。
  君に会えてよかった。
  それでは、さようなら。
  …………
 *
 目の前が暗くなる。見えているのに、暗い。何も読めない。
 *
 さようならって、なに? 嘘でしょう。どうしていきなりこんなことになるの。いったい何がどうなったの。知らないよ、何も。だってこの間までここにいていろんなこと話したじゃない。あの自信たっぷりな口調でなんでも断定してたじゃない。彩花だって元気だったよ、もうすぐにでも退院できそうな感じだったのに、どうして特別病棟に移されなきゃならないの。病気なのはアル中のお母さんでしょう。復学は無理なんて、冗談でしょう。でもいいの、彩花のことは。それよりあなたよ。清一さんよ。どこに行ったの? 青いインク。万年筆ね。こういう趣味なんだ。そうよ革命を起こすんじゃなかったの? 革命を起こして必然性があれば私を殺すんでしょ。反動の極道地主の孫なのよ。どうしたのよ、リャクは? 徹底的にリャクするんでしょ。逃げるの? 私から逃げるの? 卑怯よ、あなたは卑怯よ。それにしてもいきなりどうしたの? まさか死ぬんじゃないでしょうね。そんなことは許さないわ。私に黙って死ぬなんて。でもあなたが死ぬわけがないわね。思ったより汚い字ね。急いで書いたのかしら。死ぬなんて、そんな理由がない。じゃあいったい、どこへ行くの? 外国なんてありえないわね。いえもしかしたらそうかもしれない。それなら帰ってくるはずよ。どうしたのこの悲壮な調子は。それにこれは愛の告白なの? それにしてはあっさりしすぎているじゃない。でも、これがあなたらしいのかもね。ありがとう、あなたのこと私も好きだったんだと思うの。なのに、告白が遅いわ、遅すぎるじゃない。あなたはどこにいるのいったいどこにいるの。どこにどこにどこに。なぜ消えたの。
 *
「清一さんどこかに行くんですか」とさりげなくマスターに聞いてみる。
「知らん」と一言だった。
 *
 書かれていた住所、X通りはK市でも有名な悪所だった。
 口には出さないものの、誰もまともな女性は近寄ろうとは思わない。
 住所を口に出すだけでも汚れる感じがする。
 祖母からも、母からも、友達からも、女性の誰からも、その住所が口にされるのを聞いたことはない。
 そこに、姉が、未知子さんがいる。
 あの男の消息を知っていそうな、唯一の人。
 行くの?
 行かなきゃ。
 自分を奮い立たす。
 あの男の香りのするコーヒー、さめたモカを一気に飲み干す。
 行かなきゃ。
 昼間のうちに。
 *
 玄関の間口が広いだけの、ごく普通の商家が建ち並ぶ通りにしか見えなかった。
 住居表示をたよりにふらついていると、祖母ほどの年齢の女性に声をかけられる。
「あんた、どこの子」
「K学院です」
 何かとんちんかんな答えをしてしまったことが女性の表情でわかった。
「どこか、探してるの?」
「YのZのくすのき荘なんですが」
「誰かいるの?」
「知り合いが」
「二つ目の角を右に行ったら、すぐだよ。早く。あんまりこの辺をふらふらしてるんじゃないよ」 
 恐ろしくて、すぐに自転車に乗った。
『くすのき荘』
 と看板の出ているアパートまでそう遠くはなかった。
 二階建て、瓦葺き。古い建物。
 郵便受けを見る。
 201 田中未知子
 いる。
 ここにあの女の子がいる。
 小さい頃からうちに来ていたあの子。
 父の子。
 姉。
 そしてあの男の消息を知っているかもしれない人。
 *
 けれど、自分は何しに来たのだろう。
 何から話し始めたらいいのか。
 こんにちは、お姉さん。でもないだろう。
 お金、受け取りましたか? とでも言うのか。
 祖母が倒れました。そんな、何日も前のことの報告のためにこんな所に来るのか。
 だめだ。勇気がわかない。
 *
 けれど、もしかしたら、あの男からの伝言が、あるかもしれない。あの男のことだ、私を試したのかも知れない。本当にここまで来ることが出来るかどうか。それでここのドアを開けたらあの男がいて、「よう」、なんて、また手を挙げて迎えてくれるかも知れない。あり得ないことではないし、それにこんなに早くやってくるとは思わずに、まだここで身支度をしているかもしれない。あの男に会える、これが最後のチャンスかもしれない。行け、行くのよ!
 *
 ぎしぎしと軋む階段を一歩ずつ踏みしめながら二階に上がる。
 と、そこがもう201。
 ベルを押す。
 無機質な音が続く。
 何も返事はない。
 もう一度押す。
 いない。
 *
 安心し、そして途方に暮れる。
 自分はいったい、どうしたらいいのか。


 一八
「何があった?」と祐二。
 いちばん聞いて欲しくないこと。
 あなたは黙って私を抱いていてくれればいい。
「何もないわよ」
「いいや。お前から俺を呼び出すなんて、何かあったんだ」
「あったけど、言わない」
 抱いていた手が肩に置かれ、突き放される。
「いきなり何よ!」
「お前にとって、俺は、何だ?」
「何だって、何よ?」
「俺の何が欲しいんだ?」
「欲しいって、何なのその言い方は!」
 私もつい激してしまう。
「欲しいんだろ! 俺の体だけが! 違うのか?」
 その通り、と気づき、愕然とする。でも、
「そんないやらしい言い方はないじゃない! あなただって、そうじゃないの、私を抱きたいんでしょ!」
「違う! 違うんだ。もっと違うつながり方をしたいのに、お前はいつも突き放す」
「突き放してなんか、ないわよ」
「だったら、もっと話してくれよ、いろんなことを」
「これ以上、話すことなんか、ないよ」
「俺には、か?」
「ううん。誰にも」
「だからお前はひとりなんだ」
「何?」
「ひとりだったろう、これまで」
「友達くらい、いたわよ」
「でも、心を許したはずはない。違うか?」
「そんなこと、今は関係ないでしょう」
 と言いながら、何か悲しいものがこみ上げてくる。
 その通り。
 ひとりだった。
 誰にも心を許したことはない。
 許されたこともない。
 表面だけ。
 仮面だけ。
 突き刺されたこともない。
 突き刺したこともない。
 冷ややかに眺めていた。
 通り過ぎただけ。
 行き過ぎただけ。
 彩花でさえ、遠い人になりかけている。
「今は関係ないでしょう」と私はやっと繰り返した。
「関係あるさ! これまでこんな言い合いをしたことあるか? 本気で言い合いをしたことがあったか? どこかで余裕をもって、表面をなでさすってただけだろう。違うか」
「そうよ」と言い返した。「それのどこが悪いの」
「お前にとっては悪くはないさ。ただ、お前に本気で触れた連中、みんなが傷つくって言ってるんだ。彩花は自分が傷ついてしまうタイプだけど、お前はみんなを傷つける。見て見ろ、回りを、みんな傷ついてるだろ」
「そんな言い方、しなくてもいいでしょう」
 その通りだから。
 もう私は負けを認めているんだから。
 もう許して。
 黙って抱いてよ。
「何があったんだ?」
「清一さんが、消えたのよ」
「どこに?」
「知るわけないでしょう!」
「清一さんと……」
「何もないわよ。話してて楽しかっただけ」
「あの人は……」
「危ないって言うんでしょ。わかってる。でもね、私の前ではそんなじゃなかった。何でも話せたのよ。あの人の前でなら」
「俺は」と祐二は静かに、悲しみそのもののような声で言った。「あの人の代用品か?」
「違うわよ。何を言ってるの?」
「じゃあ、なんだ」
「あなたはあなたよ」
「お前にとって、俺はなんだ」
「いったい、こういう言い合い、どれくらい繰り返したらいいの?」
「答えが出るまでだろ!」
「じゃあ……」ともう訳がわからなくなる。「じゃあ言う。あなたはただの体よ。黙って私を抱いていてくれればいいのよ。それだけよ。それ以上何も望まない。黙ってて! 何も聞かないで! 私を問いつめないで! 黙ってそのまま抱いていてくれたらいいの。そうよ。私が求めてるのはあなたの体よ。それだけよ。それだけよそれだけよ。悪い?」
「じゃあ、俺も、お前の体だけを求めていいのか。それで平気なのか?」
「平気よ。どうぞ。そのほうが気が楽だわ」
「どういうことか、わかってるのか?」
「バカにしないで。どう? これからX通りのホテルにでも行く? 私はかまわないわよ」
「そんなとこ、行ったことあるのか?」
「入ったことはない。さっき前を通ったの。二時間いくらって書いてたわ。二人合わせたら、お金、そのくらいあるでしょう。行こうよ、さあ」
「本気か?」
「本気よ。それとも出来ないの? 私だってあなたが初めてなのよ。怖いの?」
「怖いんじゃない」
「だったら、何?」
「感情的になってるんだったら……」
「感情的になれって言ったのは、誰?」
「そういう言い方はしてないだろ」
「どうだっていいわ。行くの? よすの?」
「じゃあ行こう」と祐二は力なく言った。
 生理はおととい終わったから……と感情的な言い合いの裏で冷たい計算を始めている自分に気づく。
 *
 これほど悪趣味な部屋は、見たことがない。
 ピンク、赤、緑で埋め尽くされた壁。
 毒々しいくらい。
 座り心地最悪の椅子。
 座るな、と言わんばかり。
 タバコで焦げたテーブル。
 ものを置くな、といいたげに。
 それに、ベッドの回りになぜこんなに鏡が多いのか。
 シャワーを浴びようにも、着替えの部屋がない。
 トイレでホテルのロブに着替えようとする。
 トイレに鍵がない。
 洗面所に着替えを置き、髪を上げ、シャワーを浴びる。
 排水口に様々な色の髪の毛が溜まっている。
 気分はもう、最悪。
 でも、いいかもしれない。
 こういう場所で汚されるのも。
 そうだ、私は捨てられたのだから。
 あの男に。
 そう思うと何か気分が楽になった。
 私は捨てられた女。
 ここで少しでも汚れ、あの女の子に近くなれば、あの男がまた帰ってくるような気さえする。
 ここであのつまらぬ男に汚されれば、私はあの女の子に会いに行ける。
 対等に口がきける。
 と、そんな気もする。
 彩花が汚そうとして汚せなかった細部を丁寧に清める。
 今日は汚れますように、と、おまじないのように。
 *
 祐二がシャワーを浴びている。
 天井の鏡に写った自分の顔を眺めながら、だんだんと浮ついた気持ちになってくる。
 怖い。本当に怖い。
 でも、楽しみ。
 何が起こるのか楽しみ。
 罪悪感、恐怖、嫌悪さえ、今は、甘美。
 *
 祐二が照明を一つづつ消すと、真っ暗になった。
 ピンをはずし、髪を下ろした。
 *
 抱かれ、キスされる。
 暗闇の中。
 すべて「……される」と言える、徹底的な受動。
 体だけが、感覚だけがある。
 これほど陶酔するとは思わなかった。
 どこも醒めてない。
 すべてが火照り、触れられるのを待っている。
 汚れるどころじゃない。
 触れられたところが一つづつ目覚めていく。
 そう。
 目覚める。
 知らなかった感覚。
 感じる。
 思い切り声を上げる。
 彩花、タオルを噛ませてかわいそうだったな。
 ……あなたのはただの性欲よ……
 彩花はそう言った。
 ……あなただってそうじゃない……
 今ならそう言い返すだろう。
 ただ、ただ、感覚に気持ちを集中した。
 祐二が終わったのに気づかなかった。
「すまん」と祐二はばつが悪そうに言った。
「何が?」
「満足できなかったろ」
「ううん。すごく満足したよ。あなたは?」
「うん」
「よかった。私だけ感じてたんじゃないかって、心配したの。ねえ、しばらく抱いてて。いいでしょ?」
 満ち足りた気持ちでキスをねだった。
 返ってきたのは硬いキスだった。
「私のこと、好き?」
「嫌いなら、こんなところにこない」
 いつか私が言った科白だった。
 それがこれほど冷たく響く言葉だったとは。
 初めて気づいた。
「ごめんなさい」
「何が?」
「意地悪なことばかり言って」
「うん」
「これからも、抱いてくれる?」
 返事はない。
「ねえ」
「抱くよ」
 もう一度、キスを交わした。
 やっぱり硬かった。
 *
 電気をつけると、シーツは、毎月の血とは違う鮮血にまだらに染められていた。
 そっと鏡の中の自分を見た。
 顔も胸も血まみれだった。
 見れば、もう、全身が血まみれなのだった。
 祐二もそれに気づき、血まみれの口元で笑んで見せた。
 まるで地獄の鬼のように。
 *
 気絶しそうなほどの恐怖。
 気絶さえ許されない嫌悪。
 叫びながら裸のまま、すべてから逃げて走り出したかった。
 あの地獄絵の亡者のように。
 本当に罰が当たった。
 私はノコギリで裂かれた。
 裂いたのは誰と、誰?
 *
「見ないで!」とシーツを引き剥がし、それを持ってバスルームへと走った。
 *
 私のあとでシャワーを浴び、服を着た祐二を見て、強烈な後悔が湧いてきた。
 こんな男だったのか。
 こんな男にすべてを任せ、血まみれになりながら感じていたのか。
 そして思った。
 自分は誰に抱かれているつもりだったのか?
 あの男?
 ちがう。
「あなたのはただの性欲よ」
 愕然とした。
 声も出ない。
 汚れた。
 血だけではなく、汚れた。
 *
 祐二も同じように後悔しているのかも知れなかった。
 だからあれほどキスが硬かったのだ。
 *
 シーツを洗っていたら、二時間料金を一時間も超過していた。
 もう祐二とは二度とないだろうと思った。


 一九
 ホテルを出るともう暗かった。
 あたりにはホテルに入る前とは見違えるばかりにネオンが輝き、昼間歩いた通りにはあのとき出会ったような女性たちが何人も出て、椅子に座ったり、立ち話したり、あるいは通りをぼうっと眺めていた。ところが男というものが現れるや、まるで餌を見つけた肉食獣のように走り群がり、嬌声を上げながら袖を引き、鞄を引き、自分の巣の中へ引きずり込もうと猛烈な争いを始めるのだった。
 こういう場所なのだ。
 私が血まみれの処女を捨てたのは。
 そしてふと見れば、くすのき荘まで一本道だった。
「私、寄っていくところがあるから」
「どこに?」
 と祐二は気弱そうに言った。一人で取り残されるのが怖かったのだろう。
「親戚の所。すぐそこなの」
「大丈夫?」
「女は大丈夫よ。あなたこそ気をつけて。じゃあ」
 そう言って、返事も聞かず、自転車に乗る。
 祐二のそばを離れたい。
 一刻も早く。
 それに、今なら会える、きっと会える、と思った。
 *
 二階のあの部屋に明りが見えた。
 *
「はあい」と、かわいい、けれど大人の声がして、戸が開けられた。
 私の顔を見て、未知子さんの顔は引きつり、全身は凍り付いた。
 私も同じだった。
 いったい私は何をしにここに来たんだろう。
 なんと言えばいいのか。
 何も考えてなかった。
 祐二から離れたい一心で、勢いで、ここまで来てしまっただけ。
 泣きたい。
 泣けない。
 *
「御祖母様、大丈夫ですか」と未知子さんはやっと声を出した。
「意識は戻りました」と私もやっと言った。
「入ります? 狭くて汚いですけど」
「いいですか?」
 *
 部屋に入る。
 靴箱には信じられいほど派手な靴。
 台所つきの一部屋。
 玄関の上がすぐに部屋になっている。
 座布団が出される。
 冬はコタツになるようなちゃぶ台で向き合う。
 私の部屋より狭い。
 狭いけど、綺麗に片付けられていて、汚くはない。
 可愛い食器棚の上に四つ、箱に入った小さなお地蔵さんがならんでいる。
 私がそれを見たのに気づくと、未知子さんはジッとうつむいてしまう。
 いったい、私は何しに来たんだろう。
 わたしがここにいるだけでこの人は苦痛なのだ。
 ではこのまま帰ったらいいのか。
 今となってはそのほうが変だろう。
 何か用事を見つけなければ。
 お金の話は変だ。
 あの男の話など論外だろう。
 何をしに、私は来たのだろう。
 会わない方がいい、と男が言ったのは、その通りだった。
 *
「ありがとうございました」と未知子さんは言った。
「はい?」と何のことかわからず、聞き返した。
「お金です。あんなにたくさん」
「祖母が決めたんです」
「ありがとうございました」と深々と頭を下げる。
 また沈黙。
「御祖母様の具合は?」と未知子さん。
「意識はもどってます。まだ話せるような状態ではありませんけど」
「心配ですね」
「はい」
 また沈黙。
「お嬢さん」と未知子さんは顔を上げた。真正面から見られた。目元が私に似ている。これは祖母の目だ。
「はい」
「今日は、どうして?」
 黙っていても仕方ないと思った。
「清一さんがいなくなったの、知ってますか?」
「せえいっちゃん?」と子供みたいな口調だった。
「清一さん」と私は繰り返した。
「来るよ」とあっけない口調で。「今日の八時。だからもうすぐに、ここに」
「え?」
「そこの荷物、清一ちゃんのよ」
 見れば、女性の部屋には不似合いな登山用の大きなリュックがおいてある。
 ここに来て、荷物を受け取って、それから消えるのか……
「どこに行くのか、知ってます?」
「しばらくもぐるんだって」
「え?」
「地下に」
 ……地下にもぐる?
 何を言っているのかわからない。
「清一ちゃんのこと、好き?」と、突然。
「そんな、考えたこともないです」
 嘘だった。
 今もそのことを考えていたのだった。
「私は大好き。やさしいから」
「やさしい……」
「うん」
「どんなところがやさしいんですか?」
「清一ちゃんは殴らない」
「殴らない?」
 そんなのあたりまえじゃないか、と思う。
「お嬢さんのことは、殴るの? 清一ちゃん」と心から心配そうな口調で聞いてくる。
「いいえ、そんな!」と強く否定する。
「でしょう、だから大好き」
「未知子さんは、男の人に殴られたことあるんですか?」
「え?」と、未知子さんは一瞬惚けた顔になる。「男はみんな殴るよ。殴らないのは清一ちゃんくらい」
「どうして」
「だって、私バカだから」と、何の問題もない、と言った口調で。
「そんなこと……」
「ううん。きっとバカだから殴るのよ。だって、お嬢さんは殴られないんでしょ?」
「殴られるなんて……」
 想像も出来ない。
「ほらねぇ。頭のいい人は殴られないんだ。お嬢さんは頭がいいし、綺麗だから、男も殴ろうとは思わないんだよ。普通、女は殴られるんだよ。特にね、私のように、バカで、ブスな、女はね、挨拶がわりに殴られるんだ」
「そんなこと、ないと思う」
「ううん。だって、ほら、ここのアザ」
 と未知子さんは右の二の腕を見せる。
 薄い赤黒いアザ。
「半年も前なのに、まだ残ってるの。前の男に殴られて、ええと、これ、なんで殴られたんだったかなあ」
 だんだん、話すのが苦痛になってくる。早く八時になればいいのに、と思い、時計を見る。
 八時をもう三分、過ぎている。
「清一さん」と話をかえる。「来ないですね」
「来るよ」と平然と言う。「約束したから。清一ちゃんは、私との約束をやぶったこと、ないよ。あ、清一ちゃんに用だったの?」
 答えられない。
 あの男にどんな用があるというのだろう。
 たった今、自らの処女の血に、祐二とふたり、まみれあったというのに。
 どうかしていた。
 本当に。
 こんなことで処女でなくなっていいのか。
 そうだ、自分はもう処女ではないのだ。
 すべてを知ってしまったのだ。
 愛を交わすとか、愛を確かめるとか、そういう言葉の本当の意味を、この体で知ってしまったのだ。
 しかも、一片の愛もなく。
 しかも、自ら悦びつつ。
 どんな顔をして、あの男に会う?
 どんな顔を?
「やっぱり好きなんだ、清一ちゃんのこと」と未知子さんは私の顔をジッと、失礼なくらい、のぞき込んで言う。
 顔には、あの薄ら笑いが浮かんでいる。
「抱かれたんだぁ」といきなり言う。
 ギョッとして、誰に? と聞き返しそうになり、首を横に振る。
 ぶんぶん振る。
 色々な想いが湧いてきて、口を開くと泣きだしそうだ。
 *
「抱いてもらえばいいのに。上手いって感じじゃないけど、すごくやさしいよ、清一ちゃん」
「そんな」
「お嬢さんのほうが清一ちゃんもいいと思うよ。だって、こんなに綺麗だし、スタイルもいいし、きっと抱きがいがあるよ。それに清一ちゃんインテリだから、お嬢さんのような頭のいい人の方がいいに決まってるよ。もちろん、そうなったら、私、身を引くからね。約束するよ。お嬢さんが相手じゃ仕方ないよ、私のようなバカじゃ、もともと清一ちゃんにつりあわないから、お嬢さんの方が……」
「そんなんじゃ!」と思わず強く言ってしまう。
「ごめん……」と、気の毒なくらい、縮み上がる。
 また沈黙。
 *
「おとうちゃん」と未知子さん。「やさしかった?」
「憶えてる範囲では、やさしかったと思います」
「やさしかったよね」と声が弾んでいる。
 私とこの女性とは、きょうだいなのだ、と思いつく。
 なぜ今まで忘れていたのだろう。
 あの男のことで頭がいっぱいだったのか。
「お祖母さんも優しいでしょう?」と未知子さん。
「はい」
「家の人がいるときはダメだったけど、お祖母さんだけのときは、上にあげてくれたのよ、私を。さあ、お線香上げなさいって、御仏壇の前に。うれしかった。こんなバカで、汚い女を、お屋敷にあげてくれるなんて、うれしかった。こんど倒れたって聞いて、病院に飛んでいきたかった。でも迷惑だから、こんな女が行ったら、迷惑だから、行かなかったんだ。お嬢さんが来てくれて、よかった。お祖母さん、長生きしてくださいって、私のかわりに言ってね」
「未知子さんがお礼を言っていたって、ちゃんと伝えます」
「ありがとう」
 また沈黙があった。けれど、お互いを確かめ合うような、柔らかな沈黙だった。
 この人と私は姉妹なのだ。
 *
 戸が、尋常でない叩き方で打たれた。
 来た、と思った。
 全身の血が逆流した。
 未知子さんは平然とした口調で、
「あ、清一ちゃん来たね」
 と立ち上がった。
「珍しいお客さんよぉ」などと言いながら鍵を開ける。
 恐ろしくて玄関の方を見られない。
 きゃ、と小さな声。
 ドサリ、と倒れ込む音。
 這うように男が上がってくると、玄関から畳にかけて血の筋ができる。
 私も未知子さんも、声も出ない。
「来てたのか」と私を見つけてちゃぶ台に肘で起きあがり、うつぶせて言った。「早かったな」
「どう、したの?」
「待ち伏せだった。例の女の子の復讐のつもりが、情報が漏れてた。向こうにも、権力にも」
「復讐?」
「あんたも見たろう。あれは絶対にやつらの仕業だ」
 そういいながら首をもたげると、男は激しく咳きこんだ。
 口から血が、まるで映画かテレビの場面のように噴き出した。
 ちゃぶ台に小さな紅い、泡立つ水たまりがいくつもできた。
「折れた肋骨が、肺を傷つけたな」と、手の甲で口元の血を拭いながら冷静な口調で言う。
「せえいっちゃーん!」と、やっと正気に返った未知子さんはかけより、背中から抱きかかえて男の肩を激しく揺さぶった。
 男は見たことのない苦悶の表情をした。
「やめて! 動かさないで」と私は激しい口調で言った。「まず救急車でしょ!」
 それでも未知子さんは、
「ギャーッ」と叫びながら男を揺さぶり続ける。
「やめて! やめなさい!」と私は未知子さんの肩を持って引き剥がさなければならなかった。
 未知子さんの手を離れ、男は畳にゴロリ、と横になった。
 畳に血が、ポツ、ポツ、と落ちた。
「せえいっちゃーん」と未知子さんは畳にペタリと座りこみ、子供のような本気の号泣を始めた。「わたし、どうしたらいいのぉ、どうしたらいいのぉ、おねがぁい、せえいっちゃーん、死なないでよぉ」
「救急車の前に、警察が来るさ。待ってりゃいい」
 男は寝たまま言った。
「そんな」と私。
「お嬢さんは、帰れ。ここにいられちゃ、迷惑だ」
「そんな……」
「あんたは、ここにいていい人じゃない。帰れ」
「せえいっちゃーん、わたし、どお、どおしたらいいのぉ」
「未知子、いいから、お嬢さんを帰せ」
 遠くにパトカーのサイレンの音がする。
 だんだん近づいてくる。
 死に神のように。
 ……来ないで、お願い!
 気が遠くなる。
 すべてが見えていて見えないような。
 *
 二人が叫んでいる。
 我に返る。
「帰れ、お嬢さん、帰れ」
「帰って! ねえ、おねがぁい!」
 私はここでも余所者なのだ、と気づく。
 *
 余所者は、私、ここに来て、
 余所者のまま、去っていく。

 二〇
 家の玄関で、左の靴が、男の血に汚れているのに気づいた。
 ハンカチで拭き、大事なもののように折り畳んでポケットにしまった。
 *
 キッチンに母。
「どこに行ってたの?」
「どこだって……」
「いいわけないでしょう! お祖母ちゃんに聞いたわよ、あんた、あんた、アンタァ!」
 母親の発作の始まりを眺めながら、ふと気づいた。
 ……みんなひとりなのだ。
 ひとりで生きていくしかないのだ。
 私一人がひとりなのではない。
 母も、祖母も、未知子さんも、祐二も、彩花も。
 そしてあの男も。
 この世では、みんな、ひとりなのだ。
 ……ポケットの中のハンカチを、しっかりと握りしめる。
 ひとりたちは、ひとり同士、血の鎖でつながるしかないのだ……。
 *
 もう夏休みが終わる。
 私の夏が終わる。
 これまででいちばん美しかった、残虐なほど美しかった、私の夏が。
                           ―了―
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