シアターいちなち

昼休み、となりのクラスのなつみと2人きりで過ごすことは、
さやかにとってもはや日常だった。
その日もいつものように昼食を持ち、
午前中の授業から解放され思い思いざわめく生徒達で混雑する廊下を屋上へと急ぐ。
「あー。遅くなっちゃったよ。まったく。」
4時間目が体育の今日は、一度校庭から教室まで昼食をとりに戻らねばならない。
少しでも多くなつみと時間をすごしたいさやかにとって、
はたはた迷惑な時間組みであるのだ。
校舎の端のあたりにくると、そろそろ他の生徒もいなくなる。
これ幸いと一段飛びで階段を駆け上がる。

屋上入り口の錆びて思い、鉄のドア。
力を入れて開くと5月独特のきらきらした風景が、
木々の香りをはらんだ空気と共にさやかを包んだ。
「なーっち。待った?」
いつもの場所になつみをみつけたさやかは、
うれしそうに彼女のもとに走りよった。

様子がどうやらいつもと違う事に気がついたのは、
なつみがさやかの問いかけに応えずもくもくとサンドウイッチを食べていたからだ。
普段の彼女なら必ず振り向いて、そして少し照れたように微笑む。
そのなつみの顔をさやかはとても気に入っていて、
見る度ごとに自分の彼女への気持ちを確認させられるのだ。

「なに?どうしたの?なんかあった?」
さやかは不審に思いたずねる。
「‥‥。」
なつみは相変わらずなにも応えない。
手に持っていたサンドウイッチを食べ終り、残りのメロンを口に入れている。
「どうしたのー?なんか怒ってる?あたし、なんかした?」
とりあえず自分も昼食をとらねばと、包みを開けながらさやかはふたたびたずねた。
缶のアイスティーでカラカラになった喉をうるおし、おにぎりを一口ほおばる。
今日はおかか、か。
そんなことを考えながらもなつみの態度は気になって仕方がない。
「なに?なんなの?言ってくれなきゃわかんないじゃーん。」
「‥‥。」
「ゆってみ?ゆってみそ?」
捨て身の寒い言葉になつみの顔が少し反応した。
思わず吹き出しそうになったが、なんとか堪えたようだ。
すぐに元の無愛想な顔にもどったなつみだったが、さやかがそんな反応を見過ごすはずはない。
ここぞとばかり、すかさずなつみにたたみかけた。
「なに?な〜に?教えてよ〜う。
 ね、なっちゃん?どうしたのん?
 なっちゃんたら☆」

するとさやかの必死の問いかけに意を決したのか、
なつみは自分の膝を睨みながらポツリポツリと話し出した。
「さっき‥、さ。校庭だった‥でしょ。見えちゃったの。
 ずいぶん、仲よさそう‥ね。」
「は?なんの事?そりゃ、体育でグランドにいたけど‥。」
そんな事をいきなり言われても、さやかに自覚はない。
「あの子、後藤さん‥だっけ?かわいい子だよね。」
なつみのきつい言い方に、
さやかは焦って先ほどの一時間を思い出そうとした。

しかし。
キーンコーンカーンコーン------------- そんなさやかの思考を遮るように、予鈴がなった。
気がつくとなつみは、かわいらしい小さなかばんにランチボックスを片付け終えていて、
呆然とするさやかを残し、一人さっさと重いドアの中へ消えていった。
「あ、あれかー‥。」
直後さやかはおもいあたるフシを見つけたが、時すでに遅し。
ほとんど手をつけられなかったランチをしまい、とりあえず自分の教室へと急いだ。

その日の午下がり、
そろそろ素肌にきつくなった午後の日ざしを優しくシェイドする白いカーテンは、
入り込む微かな風に波立ち、春の光の中まばゆいばかりの外の景色を時おり垣間見せる。
普段なら間違いなく夢とうつつの間を行ったり来たりしてしまう状況のなか、
さやかは窓際最前列の席で先程突然おこった小さな事件
------- --もちろん本人にとってはかなり真剣な事態だが----------
についてずっと考えていた。

後藤真希。
彼女は2年生になって初めて同じクラスになった。
2週間前の今年最初の席換えで、さやかの真後ろの席をくじで引いた生徒。
はじめの数日は彼女のいわゆる派手な容姿に気後れし、話しかけるのをためらった。
が、一週間もすると、大人びた外見とは裏腹な真希の天然ぶりも手伝ってすっかり打ち解け、
今では休み時間や教室の移動などクラス内での行動を共にするようになった。
しかしさやかはもちろん、真希にとってもそれ以上の気持ちはお互いない。
要するに単なる気の合う友達だったし、そもそも2人だけで仲良くしているわけではない。
もう一人、去年から引き続き同じクラスになったさやかの親友、保田圭も含めた3人で一緒にいるのだ。
当然なつみもそれは知っている。

そんなふうにぐるぐると思考を巡っていると、5限終了の鐘がなった。

「さやか。」
5限の文法の教師が出ていくとすぐに、圭がやってきた。
「あんたさー。さっきの時間めちゃめちゃ悩んでなかった?」
斜め後方に位置する圭の席から、どうやら小羊さやかは丸見えだったようだ。
「え〜、なに?そうなの?」
後ろから真希が覗きこむ。
「あー。見えてた?ちょっと‥ね。」
「てゆーか、どうせなっちの事でしょ。」
なかなか打ち明けようとしないさやかに、
何でもお見通しだと言いたげな表情の圭。
「う〜ん、まあね。そりゃあね。」
なつみとの関係をとっくに打ち明けてある2人を前に、さやかはあっさり認めた。
「うそ。なにかあったの?」
真希は相変わらず呑気だ。
「じつはさあ‥。」
さやかは昼休みの出来ごとを2人に話し始めた。

「ありゃー。なっちゃん。そりゃかんぺきに誤解だわ‥。」
「でしょー?あの時は後藤がさー、バカだからー。
 転んでひざから血だしてさー。」
「へ?あたしのせい?でもあのときはありがとね。えへへ。」
4限の体育はテニスだった。
決して運動神経は悪い方ではないという秘かな自負からか、
真希が相手の打った方向違いな球を無理に打ち返そうとした。
しかしそれでも限度があるというもので、バランスを崩した真希が派手に転倒したのだ。
「でさー、チャイム鳴って教室帰ろうとした時ー、あたしが後藤に肩かしてたじゃん。
 それ見てなっち、誤解したんだと思うんだ。きっと。
 圭ちゃんは後片付けしてたから一緒じゃなかったしさ。」
「うん。体育委員だからね、あたし。
 でも、あの時のさやかと後藤はそういう風に見えたかもね。
 2人とも、後藤のドジのこと笑ってて、
 なんだかんだ楽しそうだったし。」
「だってウケるんだもん、後藤。あそこまで追っ掛けないっしょ、ふつう。」
さやかの軽口を解っているのかいないのか、あいかわらずふにゃふにゃ
と真希が言う。
「でもさ〜。あたしヤだな〜。そういう風に思われちゃったのか〜。
 ぜんぜん。そんなこと小指の先程も思ってないのに〜。
 市井ちゃんとだなんて、そんな、超きもちわる〜い。」
「てか、後藤マジむかつく。」
真希の言葉に息巻くさやかを押さえつつ、
普段から割と大人びている圭がさやかに言った。
「まあ、でも、さ。
 あたしとさやかとなっちは去年クラスが一緒でけっこうお互い解り合ってるからいいけど。
 後藤はなっちゃんとほとんど話した事ないからね。
 後藤、中身はこんなだけど、一見目立つから仕方ないか。
 ほーんと。こんなに天然だって知ったら皆びっくりするよ。」
「ね〜、市井ちゃん。
 なんかなっちってかわいいね。今度ちゃんと紹介してよ〜。」
「やだよ。バカがうつったらやだもん。」
「ちょっと、聞いた?圭ちゃん〜?ひどくない〜?」
真希の天真爛漫さに顔を寄せ合って笑うさやかと圭。
いつまでも笑いが止まらない2人を残し、トイレへと席を立った真希が去り際につぶやいた。
「でもさ〜、なっちって、市井ちゃんのこと教室の窓から見てたんだね〜。
 いや〜、市井ちゃ〜ん。すっごい愛されてるってかんじ〜。いいね〜。」
特に考えたふうでもない真希の一言に、
残された2人は思わず笑いを呑み込んだ。
「ねえさやか‥。後藤ってさ、超たまにスルドイ事言うよね‥。思わない?」
「うん、思う‥。なにげに大物だよね、あいつ‥。」

放課後。帰りのホームルームが終ると、さやかはすぐに一階下のなつみの教室へと急いだ。
「どうか、なっちがまだ教室にいますように。」
そう祈りながら全速力で階段を駈け降りた。

当然、というか、幸いなつみのクラスはまだホームルームを終えていなかった。
さやかだけに限ったことではなく、
ひたむきかつ真摯な少女の願いはたいてい叶うものだ。

壁に凭れながら6限終了後の短い空き時間に圭が言った言葉を思い出す。
「なっちだって、そんな。
 さやかのこと好きでもなんでもなかったらそんな事で怒るわけないんだし、当然だけど。
 なんてゆーか腹を立てる理由の些細さと、相手の事を好きな気持ちってきっと比例すんだよ、
 多分ね。」

圭の成熟した思考について、真希の意外な直感力について、
そしてなによりなつみへの第一声をどうするかについていろいろと考えていると、
どうやらホームルームが終ったらしい。
生徒達がそれぞれ自分が退屈な放課後をいかに有意義にすごすかを誇り合いながら出てくる。
なかにはさやかの知っている顔いくつかあったが、
それらの少女達も笑顔で手を振ると階段へと消えていった。

なつみはなかなかやってこない。
自ら教室を覗き込みなつみを探す事をためらっていると、
なつみと仲のよい矢口真里が、
メールをチェックしているのか携帯電話を操作しながら現れた。
「矢口。なっちいる?」
「おっ。さやか。聞いたよ〜、なっちから。いるよ。どうする?呼ぶ?」
「いやちょっと待って。どう、怒ってる?」
「そーとー怒ってる、あれは。なっちもねー。
 そんなに怒んなくてもいいのにねー。」
「うーん。まあね。でもホラ、うちら愛し合ってるから。仕方ないよ。」
「あっそ。勝手に。ってかんじ。」

あてられて少しふて腐れながらも、笑いながら真里が教室の中を見る。
「あ、なっち来るよ。
 後ろのドアから出るみたい。
 じゃ、矢口はこれで。
 邪魔しちゃ悪いしー。じゃね。がんばれよ。」
そういうと真里は不器用なウインクをひとつ残して駈けていった。

動悸を抑えようと軽く深呼吸をしてから顔を上げると、
ちょうど教室から出てきたなつみと目があった。
なつみは一瞬戸惑った顔をしていたが、
すぐに口をきつく結ぶとさやかの脇をすり抜けるようにして階段へと早足で向かってしまった。

さやかは事態があまりにも唐突な為にしばらく動けなかったが、
すぐに気をとりなおすとなつみを追い掛けた。

「ちょっと待ってよ、なっち。
 あれは、後藤は、誤解だってば。」
何も応えず、相変わらずの早足で階段を降りるなつみを、さやかは必死に説得する。
少しでも自分の話を聞いてもらえるよう懸命に話し掛けるが、
なつみは聞く耳を持たずにどんどん階段を降りていく。
「だから、なっち-----」
とあらたに呼び掛けたその瞬間、
勢いのあまり足を滑らせたのかなつみはバランスを失った。
あやうく転倒しそうになったなつみの体を寸前で支えると、
さやかがため息と共に言った。
「ふぅ。危機一髪‥。まじ危ないっつーの。」
なつみは突然の恐怖からすぐには立ち直れず、
さやかの腕にしばらくすがっていた。

少ししてなつみが落ち着きを取り戻したのか、気持ちのやり場に困り下を向くと、
それを確認したさやかはなつみの肩に手をまわすと静かに、しかし力強く言った。
「あれは、誤解。話を聞いて。」
「‥‥‥。」
なつみはまだ俯いたままだった。

「とりあえず、ここじゃなんだから。落ち着いて話ししよう。」
さやかはなつみの手を取ると、
転倒しかけたなつみに気を使ってゆっくりと残りの階段を降りる。
放校になってからしばらく経ち、
校舎内に残っている生徒はもはや少なくなっているとはいえ、
やはり日直当番の者あるいは屋内で活動するいくつかのクラブの部員などがまだ時おり通り掛かる。
対して、相変わらず口を開かないなつみではあったが、
先程危機を救われたことが功を奏したのか、
さやかに手を引かれて素直に歩き出した。

校舎脇にあるガラス張りの温室は、
卒業後名を成したある高名な同窓生から寄贈されたもので、
中心にある、清らかな水を常にたたえる人工の泉を取り囲むようにして、
さまざまな種類の珍しい植物がそれぞれ色とりどりの花を咲かせていた。
昼休みなどはランチを楽しむ生徒でにぎわうが、
校門と逆の方向にあるため、放課後はほとんど人影がない。

何も言わずなつみの手を引いてその温室に入ると、
さやかは小振りの白い花がたくさん咲いている横の、重そうな石のベンチになつみを座らせた。
自分もなつみの隣に腰をおろすと、
さやかはしばらく思考を整理するように黙り込んでいたが、
数分後なつみのほうを向くと静かに話し出した。

「あのさ、なっちが見たのって、
 あたしが後藤の肩を組んで笑いながら歩いてた、
 とかいうやつでしょ?」
なつみは下を向いたまま頷く。
「あれはね、後藤が授業中に怪我をして、
 ひとりじゃ歩けなかったからあたしが肩をかしてあげてたの。
 だから、なっちが考えてるような事じゃ、ぜんぜんないんだよ?」
すると、今まで下を向いて黙っていたなつみは顔をあげてさやかを睨んだ。
その目にはうっすらと涙をにじませている。
「でも、ずいぶん楽しそうだったけど?2人っきりでさ‥。」
「だからね、圭ちゃんは体育委員で、あの時は授業のあとかたづけしてたの。
 ボールしまったり。だから、後藤と2人だけだったんだよ。
 後藤とあたしはそんなんじゃないってば。
 だいたいあたし、気持ち悪いとか言われたんだよ、後藤に?」
「でも‥!」
さやかを見つめるなつみの目はさらに潤み、
大粒の涙がひとつ、頬を伝い制服にポトリと落ちる。
「でも、なに?」
「さやかはあんなに楽しそうな顔、なっちにはあんまり見せてくれないじゃん!」
訴えながら感情を抑え切れなくなったのか、
とうとうなつみの瞳からはポロポロと涙が溢れだした。
さやかに泣き顔を見せまいと横を向き、ブレザーの裾をぎゅっと握りしめている。
そんななつみが愛しくてたまらず、
さやかは思わず震えるなつみの華奢な肩を抱きしめた。

「あのね、なっち。」
なつみは相変わらずむこうを向いたまま肩を震わせている。
「あたしが、後藤とか圭ちゃんにたいして見せる表情、てゆうか態度と、
 なっちにみせる態度が同じなわけないよ。
 だって、あたしなっちといる時、緊張?じゃないけど、ちょっとドキドキしてるもん。
 好きすぎて。」
さやかの腕のなかで、なんとか暴走する自分の感情を抑えようとしていたなつみだったが、
さやかのそんな言葉を聞いて、ますます胸がつまり、
もはやあとからあとからあふれだす涙を止めることはできなかった。
「そりゃ、なっちの知らないあたしをあの2人には時々見せてるかも知れないけど‥、
 でも、あの2人が想像もできないようなあたしをなっちにはたくさん見せてるんだよ?」

どれくらいこうしていただろうか。
ふと気がつくと、午後の日ざしのなかさんさんときらめいていたはずの風景は、
すっかり薄暗くなり、温室内に一定の間隔をおいて立っているガス灯を模した照明が、
暗さのせいで色を濃くした植物をところどころ鮮やかに浮かび上がらせていた。

腕のなかで自分に体をあずけているなつみがどうやら落ち着いてきたらしいことを息づかいから確認し、
回していた腕を解くと手をとってこちらを向かせた。
「だから、あたしにとってなっちは、べつ。
 特別。どう?
 落ち着いた?」
「うん。ごめんね。へんにヤキモチ焼いて‥。」
なつみはすこし恥ずかしそうに微笑み、頷く。
そのはにかんだなつみの顔を、さやかはとてもかわいいと思った。
こんな笑顔を見せてくれるなら、今回みたいな事件も悪くはないかな、と思った。

「ねえ、なっち。キスしていーい?」
いたずらっこのような上目遣いで突然聞いてくるさやか。
さやかはいつも、突拍子のないことを急に言っては、よくなつみを困らせるのだ。
案の定なつみはストレートな言葉にすこしとまどったが、
すぐにさやかの目を見つめ返して、おかえしとばかり自分も言った。
「いいよ。てゆーか、して。」
普段とはちがうなつみの反応にさやかは意表をつかれたが、
そんなかわいらしいなつみの反抗をさやかはとても嬉しく思い、
いたずらっぽく微笑むなつみに顔を近付けた。

すっかり暗くなった道を、手をつなぎながら駅へと歩く。
「さやかって、やさしいよね。皆にもそうなんでしょ。」
「えー、ちがうよー。あたしがなっちに言ってる言葉とか聞いたら、
 後藤も圭ちゃんもびっくりするよ。」
「そうなの?ふふふ。‥あ、ねえ、こんど真希ちゃん紹介して?」
「えー。やだよ。なっちがバカになったらやだもん。」
そういいつつも、今度ちゃんと会わせてみようかな。と真剣に思う
さやかでありましたとさ。

−おわり−



みなさまへ。

今週の土曜日、なっちの18才を記念してバーベキューをやるよ。
食べ物はあたしが揃えるから、みんなは飲み物を持ってきてくれ。
4時頃さやか家にきてね。
あ、言っとくけど夕方の4時ね。
朝に来られても、まだ寝てるよ☆

 さやか

夏休み。
バトン部の練習を終え、仲間とすこし遊んでから帰宅した圭宛てに、一枚のFAXが届いていた。
冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注ぎながら、それを読む。
「わかるっつーの。」
つぶやいて圭はよく冷えた麦茶を一口飲んだ。
「あー、後藤?圭だけど。」
「あ、圭ちゃん?市井ちゃんからFAX来たね。」
夕食後、ひとしきり見たいテレビ番組を見てから自分の部屋に戻ると、
圭は真希に電話をかけた。
「うん。なっちの誕生日ね。
 でさー、プレゼントの事で、あたしちょっと考えたんだけどー、」
圭は先程テレビを見ながらふと思い付いた考えを真希に相談した。
「おー、圭ちゃん、ナイスアイデア。絶対うれしいよ、それ。」
「でしょ?まあ、来る人数にも寄るけどさ。
 でもさやかの事だからいっぱい人呼んでるでしょ。
 ひとり2000円くらいだせば、余裕でなんとかなるんじゃん?」
「なるなる。
 ヘタに個人でなんかあげるより、そっちのほうが絶対いいって。」
「じゃ、あたしさやかに電話して、誰が来るのか聞いてみる。」
「あ、圭ちゃん、このこと市井ちゃんにも内緒にしておくんでしょ?」
「当然ね。じゃ、おやすみ。」
そういって圭は電話を切ると、携帯の液晶画面にさやかの番号を表示させた。
「もしもし、さやか?圭。FAXよんだよ。」
「あー、圭ちゃん?ほんと来ないでね、朝4時とかに。」
「うん、行くよ。‥てゆうかさむいね、あれ。」
「あ、やっぱりそう?てか何?それを言うための電話なの、これ?」
「ははは。さすがに違うけど。あのさー、パーティーって、誰が来るの?」
「ふーん。けっこう来るね。」
「うん。でも、なんで?嫌いな人でもいるの?」
「ううん、ちがうけど。
 いや、もし大勢来るんなら手伝ってあげようかなー、とか思ってさ。」
「わ。さすが圭ちゃん!ありがと〜〜う。
 じゃ、ちょっと早めに来てもらっていい?」
「じゃ、お昼過ぎくらいに行くよ。後藤もつれて。」
「うん、ありがとう。めっちゃ助かる。」
コードレスフォンの電源を切り、
圭はいましがた聞き出した名前のリストをもういちど見直した。
自分と真希を入れて、16人。
秘密のプレゼントについて、さやかは何も気がつかなかったようだ。
招待客の名前を聞き出す理由を尋ねられた時は少し焦ったが、
どうやらうまくごまかす事ができた。
なりゆき上、早く行って手伝う羽目に
なったが、もとよりそれはこころづもりしていた事だ。
真希もそれは快諾してくれるだろう。
それより、計画を進めなければ。
圭はまず、リスト中ただひとりの社会人である祐子に相談することにした。
「ねー、なっちー。カルビ味って何入れるんだっけー?」
当日。
自宅キッチンで昨日のうちに買い込まれた大量の食材を前にさやかはひとり奮闘していた。
都心をすこし離れたマンションの12階にある市井家は、
リビング、キッチンの他に部屋が3つ、
さらにフロアの隅に位置するため屋根のない随分大きなテラスがついている。
その、人工芝が敷かれたコンクリートの庭が、今日の会場だ。
この広いマンションに、さやかは主にひとりで生活している。
おもに、と言うのは、多忙な両親がほとんど家を開けているからだ。
ピアニストの母親と、指揮者の父親。
さやかが高校生になってから本格的な活動を再開した彼等は、
1年の半分以上を海外ですごす。
昨年まで一緒に暮らしていた姉は、大学のピアノ科を卒業すると共に
現在は両親について世界中を廻っていた。

なつみは昨日の夜からさやかの家に泊まっていた。
年上の祐子に頼み車を出してもらって買い出しを済ませたあと、
お願いついでになつみもピックアップしてもらったのだ。
「何も今から一緒にいなくてもええんちゃうの。どうせ明日会うねんから。」
ぶつぶつ言いながらも笑ってなつみの家へと向かってくれた祐子。
用事があるからと昨夜は早めに帰っていった。

先ほどからリビングのソファに座って、
なつみはひとり張り切るさやかを所在なく眺めていた。
「もー、さやかー。そんなんだったらなっちも手伝うってばー。」
「いいの、今日は。
 それより、ホラ、カルビを付け込むタレって何入れるの?
 本のとおりにやってるんだけどあんまりおいしくないんだよねー。」
「本見てやってるんだったら平気だってば。
 はやく肉付け込んだほうがいいよ。さやかの好きな、おにく。」
あぶなっかしいさやかの手付きをみかねたなつみが、
カウンターをまわってキッチンに入って来た。

「ねー、さやか?ほんとうになっち何もしなくていいの?」
「いいの、いいの。主役は座っているもんだゼ、べいびー。」
「もう、またそんなこと言って‥。」
片目をつぶり、気取ったポーズを作って言うさやかに、なつみは微笑んだ。

結局、忙しいさやかはあまり構ってくれなかった。
「だってなっち、ヒマなんだよ。」
呟きながらしぶしぶソファに戻ったなつみがパラパラと雑誌をめくっていると、
来客を伝えるインターフォンがなる。
「あ、圭ちゃんたち来たよ。ホラなっち、出番。下のドア開けてあげて。

数分後、玄関のドアが騒がしくなった。
なつみが圭と真希を出迎えている。
「なっち、おめでと〜〜〜。」
「ありがと〜〜。」
はしゃぎながら外履きを脱ぎ、玄関からこちらへ向かってくる様子が、
キッチンにいるさやかにもはっきり伝わった。
「おっす、さやか。」
「圭ちゃん、後藤、おっす。いらっしゃい。」
2人の後に続いてリビングに戻ってきたなつみは、
おおきな花束を抱えている。
「見て、これ。すごくない?」
「2人にもらったの?」
「うん。
 すっごいいいにおい。
 さっそく花瓶に入れちゃお。
 さやか、花瓶どこ?」
さやかが花瓶の場所を教えると、なつみは楽しそうにリビングを出ていった。
「圭ちゃん、後藤。ありがとね、花。すごいきれい。」
「うん。てゆうか、あんたにじゃないから。」
圭は持参した飲み物をさやかに渡すと、笑ってソファに座った。

しばらくの間ソファにすわり、
なつみと談笑しつつ渇いたのどを潤していた圭と真希は、顔を見合わせるとどちらともなく立ち上がった。
「さってと。そろそろ手伝いますか。」
少し残念そうな顔をするなつみに微笑むと、
2人はさやかのいるキッチンへと入った。
「さやかー。何すればいーい?」
「うーん、圭ちゃんはとりあえず、野菜切って。
 肉はあたしがやるから、肉好きのこのあたしが。」
「オッケー。」
「市井ちゃん、あたしは?」
「そうさな。後藤はとりあえず、なっち連れて映画でも行ってこい。」
「え。映画?」
「ああ、そうだ。
 近くに映画館あるし、これから部屋のセッティングもしないといけないからな。
 ホラ、これ持ってけ。」
と、言うとさやかは丸めた5千円札を真希の手に握らせた。
「う、うん。わかった。」
「終ったら必ず電話しろよ。
 あ、あと、あんまり飲み食いするんじゃねえぞ。
 そのあとバーベキューなんだから。わかったな。」
「‥はい。」
とまどうなつみを真希が連れ出してから約3時間。
まだまだ日射しの強いテラスには、
備え付けのパラソルがついた白い大きなテーブルと、
それに組んだ椅子が6つ。
バーベキューセットをその脇に置いて、
まわりには家中から集めてきた椅子を配置した。
「ふいー。こんなもんか?」
テラスをざっと見渡すと、さやかは額の汗をぬぐった。
これだけあれば、不自由しないだろう。
全員がすわる事は無理だとしても、
どうせ立食パーティーのようなかたちになるのだろうし、
要は疲れた時に座れればいいのだ。
部屋の中に入ってもらってもいいし、
人工芝なので直接腰を下ろしても、服はそれほど汚れないはずだ。

圭はオープンキッチンで、えんえんと大量の野菜を準備していた。
ひとしきり切り終えたところで一息つこうと顔をあげると、
午後の強い日射しの中、テラスで汗だくになって動くさやかが見える。
いつになく真剣な顔のさやか。
普段は割と調子の良いところもある彼女が、あんな表情を見せる事は少ない。
「愛ですなあ。」
呟いて缶のカルピスを冷蔵庫から一本取り出した。
栓を開けてゴクリと飲んでから、
圭は数時間後になつみが手にするだろうプレゼントの事を考えた。
自分が貰うわけでもないのに、その事を考えると圭もなんだか嬉しかった。

ピンポーン-------
もうひとがんばり。
圭が切り終えた野菜を皿に盛り付けていると、
インターフォンが鳴った。
「さやかー。誰か来たよ−。」
圭はあわててまだテラスにいるさやかを呼ぶ。
「あー。そこにモニターあるから、ドア開けてあげてー。
 *9で開くからー。」
さやかはバーベキューセットに炭を入れている。
軍手をせずにやっているため、手がよごれて受話器をとれないようだ。
カウンター脇の来客用モニターを窓の外から指差して圭に指示する。
「オッケー。」
モニターの電源を入れると、マンションの玄関前に立つ圭織と真里の姿が映った。
「もしもーし。あたし圭。いらっしゃーい。」
「あー、圭ちゃん。カオリ。カオリ。早く開けて。暑いよ〜。」
受話器越しに、機械を通した圭織の声はかすれて届く。
「はいはい。ちょっと待ってね。*9っと。」

しばらく経つと、玄関の呼び鈴がなった。
相変わらず手の離せないさやかに代わって、これまた圭がロックを外す。
「いえーい、圭ちゃん。早いね〜。もう来てたの?」
決して狭くはない玄関をふさぐようにして入ってきた圭織が、
ビールを手渡しながら圭に言った。
「うん。さやか一人じゃ大変だと思ってさ。
 早めにきて手伝ってた。
 あ、矢口も。いらっしゃい。」
「いよう、圭ちゃん。えらいねー。はい、矢口からはコレ。」
「お。ワインクーラー。いいね。飲みやすいし。」
「てゆーか、はい。圭ちゃんに渡していいんだよね?」
大きなサンダルを脱ぎおえると、真里が財布から千円札を2枚出して言った。
「うん。一応、裕ちゃんが今のところ立て替えといてくれてるんだけど。
とりあえずじゃあ、あたしが預かっとく。」
圭織からもお金を受け取った圭は2人をリビングに招き入れ、
ソファに座るよう促した。

白い皮のソファに2人が腰を下ろすと、さやかが窓を開けて入ってきた。
クーラーが効いてほどよく冷えた室内に、外の熱気がむっと入り込む。
それを最小限に抑えようと手早くサッシを閉めてさやかが言った。
「ういーす。お2人さん。暑いなかご苦労様。
 何か冷たいものでもいかが。」
「カオリ、水でいい。」
「矢口、麦茶!ある?」
「あるよん。圭ちゃん、おねがい。」
さやかは自分の手のひらを見せて圭に言った。
「はいはい。グラス、どこ?」
「そこ。」
さやかはカウンターの上に位置する棚を顎でさして言った。
「ねー、なっちは?」
出された麦茶を飲んで真里がたずねた。
キョロキョロあたりを見回していた圭織も、
そうそう、と言いながら立ったままのさやかを見る。
「後藤と一緒に映画見に行ってる。その間に準備しようと思って。」
「あたしもそっちの役目が良かったよ。ただで映画見れてさ。」
さんざんさやかにこき使われたといわんばかりの圭が口をはさむ。
さやかは笑って、感謝してます、と言った。
「なんだ。準備大変なんなら、カオリも手伝ったのに。」
「うん。でも大体終ってるんだ。さやかの方はどう?」
「ばっちりスよ。」
「こっちもそう。あとは盛り付けるだけ。」
「じゃ、カオリ達がやるよ。圭ちゃん、ちょっと休んでな。」
圭織の言葉に、真里もうんうん、と頷く。
「じゃあさ、あたしちょっとシャワー浴びてきていい?
 なんか、汗だくになっちゃって。」
申し訳なさそうに聞くさやかに、圭が言う。
「そうだよ、さやか。ちょっとシャワー浴びてきな。
 真っ黒だよあんた。」
「いいなー。ゴン黒。うらやますぃー☆」
真里の冗談に笑って返した後、
さやかは自分がシャワーを浴びている間の事を、3人に細かく指図した。
「じゃ、圭ちゃん、誰か来たらよろしくね。*9。あと、携帯。
 ここ置いとくね。たぶん後藤からかかってくると思うから。誰か出といて。」
3人がそれぞれ了解するのを見ると、さやかはバスルーム
へと向かっていった。

濡れた髪をごしごしふきながらさやかがリビングに戻ってくると、
招待したメンバーはあらかた揃っていた。
思い思いのドリンクを手にし、あちこちで話に花を咲かせている。
「毎日暑いねー。」
「招待ありがとう。」
「夏休み、どう?」
など、現れたさやかを見つけると口々に尋ねてきた。

知らない内ににぎやかになっていた部屋に、
多少動揺していたさやかは、ソファから圭に声をかけられて我に帰った。
「いまさっき後藤から電話があったよ。
 もうすぐ着くってさ。
 あと10分くらいじゃん?」
「お姫様、もうすぐとうちゃく〜。さあ、これからが勝負だいちいさやか!」
誰かがふざけて叫ぶ声に苦笑しながら窓の外に目をやると、
テラスの準備はすっかり整っている。
ビールの缶を手に、壁に寄り掛かる真里と圭織を部屋の隅の方にみつけ、
目でサンキューと合図を送る。と、小さく大きい2人は笑いながら首を横にふった。

さやかは肩にかけていたバスタオルを自室の机にかけると、
すぐにテラスへと戻った。
バーベキューの火加減を見る為だ。
セットの蓋を開くと炭はほどよく熱され、まわりのタールをすっかり落としている。
準備ばんたん。
まだ家族が家にいた頃、
父親がバーベキューを取り仕切るのをいつも横で見ていたさやかは思った。

一歩進む度にまわりからかかる声を愛想よくあしらいながら、
さやかは皿に盛り付けられた材料を外のテーブルに準備するため、
キッチンとテラスを何度も往復していた。
すると、一体今日何度めになるのかわからないインターフォンが鳴った。
真希となつみだ、皆が少し緊張する。
皆の視線の中、さやかはモニターに映る2人を確認すると無言でふりかえって、
全員テラスに出るようにと合図する。
「はい。」
ひと呼吸おいて受話器をとったさやかは、すぐにロックを解除した。

受話器を置いてすぐ、さやかはテラスに走り、
準備してあったクラッカーを全員にいきわたらせた。

テラスで待機していた招待客はカーテンが開かれるとともに
ハッピーバースデイトゥーユー、と歌いだす。
最後の旋律が終るか終らないかのうちに、
クラッカーをパン、パン、と派手に鳴らし、口々に祝いの言葉をさけんだ。
ひとしきり続いた破裂音の洪水が静まると、
なつみはさやかの腕を抱きしめ、おどけて眉をしかめて見せた。
そこへ、先程さやかから渡されたクラッカーを、
最後にひとつ真希が鳴らすと、一瞬なつみは驚いた顔をしたが
脇で得意げに口を歪めるさやかと目が合うと、さも楽しそうにアハハと笑った。

「えっと。今日はみんな、なっちの誕生日に来てくれて、ありがとう。
 こんなにいっぱいの人にお祝いしてもらって、
 なっちは本当にしあわせです。
 準備をしてくれた圭ちゃん、真希、ありがとう。」
「ちょっとー。うちらも手伝ったんだけどー?」
わざと不満げに言う真里と圭織にも、笑顔でありがとうと言った。
「それから、さやか。ほんとにありがとね。
 さやかの誕生日、なっち倍にして返すからね。」
みんながなつみの言葉に聞き入るなかひとり材料を焼いていたさやかは、
振り向いて親指と人指し指とでオーケーのサインを作ると大きな声で言った。
「みなさーん、そろそろ焼けてますよー。お肉が食べたいおともだち〜。」
その声を合図に、全員が皿とフォークを持って立ち上がった。

太陽がいちばん遠くのビルの向こうに消えて、
そろそろまわりの建物に明かりが灯り始めた頃になっても、
集まったメンバーの食欲は依然衰えない。
酔いがまわってはしゃぎだす者もちらほら出てくる中で、
さやかはバーベキューセットの周りにあつまる仲間のためにせっせと肉を焼いていた。
時おり気を遣った圭が手伝いを申し出たが、
今日のホスト、さやかは笑って断わった。

とりあえず今まで焼いていた分を皆に行き渡らせ、
次回の分の肉と野菜を網の上にならべながら、
ふう。と息をひとつを吐いたさやかは、すぐ脇に置いておいた自分のビールへと手をのばした。
「裕ちゃんの分、とっておかなくっちゃ。早くしないとなくなっちゃうよ。」
そんなことを考えつつビールをひとくち飲んだところへ、
それまで様々の場所で咲いている話の輪をひとつひとつまわっていたなつみがやってきた。

「さやか。お疲れさま。ちゃんと食べてる?」
なつみはいちごのダイキリを片手に微笑み、
さやかの横にならぶようにして屈んだ。
「うん。
 焼きながら食べれるから平気。
 おいしいもんはあたしが一番さきに食べてるモン。
 それよりなっち、楽しい?」
普段は目立ちたがるさやかが、今日は自分の為に影の仕事に徹している。
自分に対するさやかの愛を改めて確認したなつみの胸は、
まるで見えない手に掴まれたようにつんとした。
「さいこう。」
と言ってなつみは素早くさやかの頬に口付けると、自分を呼ぶ声の方に走っていった。

「酔ってるのかな。」
唇の感触が残る頬に手をやりながら、
さやかは珍しく人目を憚らないなつみの行動に少しぼうっとしていたが、
ハッと我に帰ってぷるぷると頭を振った。
気がつくと網の上のとうもろこしが少し焦げている。
あわてて裏返すと、リビングで数人と共に寛いでいた圭が声をかけた。
「裕ちゃん来たよー。下のドア、開けておいたから。」
「あー、サンキュー。
 ついでに玄関も開けてあげて。
 今あたし手が離せないから。」
「オッケー。」
圭はサッシを閉めるとすぐに、玄関に祐子が到着したのか、廊下の方へと向かっていった。

「おっさん。いいもん入ってますか。」
程なくして、皿を持った祐子がさやかの側に現れた。
持っていた皿を手渡すと、さやかのすぐ側の椅子に腰を下ろす。
「裕ちゃん、遅かったね。もう少しでなくなっちゃうとこだったよ。」
「あー、仕事やってん。ほんま土曜日やのに、きっついわー。
あー、ビールうま。」
焼けているもの中から、さやかが適当に見繕った物を皿に乗せて持っていくと、
上目遣いで祐子が言った。
「ほんま、あんた。後ろから見たらおっさんやで?
花の女子高生とは思われへんわ。」
「いいの。今日は。あ、昨日はありがとね。」
「ええねんて。いつでも言い。」
年は離れているが、気さくな祐子のキャラクターは誰からも慕われる。
仕事や自分のプライベートの付き合いで忙しいはずなのに、
さやか達の誘いにも、大抵顔を出してくれた。
「おーい。裕ちゃーん。」
そんな祐子をいつまでも一人占めしていられないのは当然で、
すぐに他のグループからお呼びがかかってしまった。
「あ、呼ばれてもうたわ。ほいだらな。
 自分もいい加減にして、少しは休み。」
はいはい、今行きますよー。と言いながら、祐子は声のほうへ歩いていった。

ふうーっ。さやかは立ち上がって体をのばすと、腰をとんとんたたいて空を見上げた。
すっかり夜の帳は降りている。
向こうには60階建てのビルが煌めいていた。
その奥は新宿。昼間の熱気のせいで空にスモッグがかかりすこしぼやけていたが、
それら人工の景色は十分美しかった。
今日4本目のビールを空けながら大方片付いた食料を見て、
簡単に後始末をする。
空いた食器をかたそうと部屋へ入ると、圭が気付いて手伝ってくれた。

その場にいるみんなの顔が赤い。
みんなそれぞれ楽しんだようだ。
よかった。
簡単に洗い物をしながらふとテラスを見遣ると、
ほろ酔いになった祐子に抱きつかれて、困りながらも笑っているなつみがいた。
そんな2人を微笑ましく眺めていると、圭が尋ねてきた。
「ねえ。思ったんだけどさー。ああいうのはいいわけ?」
「え?
 なっちと裕ちゃん?
 うーん、そりゃ時々はまてまてまてー!って思う時もあるけどさ。
 でもあんまり気にならない。
 なっち楽しそうだし。」
「じゃ、裕ちゃん以外の人だったら?」
「ダメ。
 決まってんじゃん。
 考えただけでも殺したいね。」
「そういう人、いるわけ?」
「いや、いないけど。
 裕ちゃんは、まあオトナだし。
 うちらの関係知っててやってるんだから。
 べつにいいっすよ。
 ヤっすけどね。」
「どっちよ。」
「いや、いいよ。
 わかってるもん。
 裕ちゃん本気じゃないって。」

「はい、みなさ〜ん。ちょっと集まって〜。」
窓を少し開けた真里が、小さな体で大きく言った。
水を止め手を拭くと、さやかと圭はほとんど片付いたキッチンを出て、
テラスへと急いだ。

テラスにはみんなが集まっていた。
何ごとかと不思議に思い圭の顔をみると、なにやら彼女もにやにや笑っている。
見つけたなつみの顔は、自分と同じようにわけのわからぬ様子をしていた。
そこにいる全員の顔からするに、何も知らないのはどうやら自分となつみだけのようだ。
「は〜い。プレゼントタイム〜。いえ〜い。」
おもむろに立ち上がった圭織が、中心に進みなつみを手招きする。
依然不思議そうにしているなつみが自分の元にくると、
圭織は満足げに後ろ手に持っていた封筒を胸の前にかざした。

「はい。みんなから。」
そう言って手渡された封筒を開いたなつみは
「うっそ‥!」
と言って中身を確認し、
興味ぶかげなさやかの目を、自分の目も丸くしながら見つめる。
「なに?なんなの?」
いぶかって尋ねるさやかに、喜色満面の圭織が言った。
気が着けば、集まったメンバー全員が圭織と同じような顔をしてさやかの動向を伺っている。
「じゃ〜ん。
 えっとぉ〜、箱根の旅・2泊3日、2名様ご宿泊け〜ん。」
一瞬事態が飲み込めないさやかに、まわりがヤジをとばす。
「よ。しあわせもの!」
「愛しあってる、2人!!」
「ヒュー、ヒューだよ☆アツイ、アツイ☆」

ようやく状況を把握したさやかが顔をぐにゃぐにゃにして悲鳴をあげた。
「まじっすか〜〜!!!」
圭を見てほんと?と確認するさやかに、圭は笑いながら3度頷く。
それを見て矢口が言う。
「圭ちゃんが考えたんだよ!」
再び、圭をみたさやかとなつみに、圭は少し照れたように言った。
「いや。思い付いたのはあたしだけど、
 ほとんど裕ちゃんがやってくれたんだよ。
 予約とか、いろいろ。
 足りない分、出してくれたし。」
「ステキっ!」
さやかは圭に抱きついた。
なつみは祐子に抱きついている。

「ん〜。」
なつみにキスする振りをしてから祐子が皆の方を見て言った。
「はいはい、みんな。
 もう夜も遅いしお開きやで。
 電車なくなるまでに帰り。
 今日は大勢やしお酒も入ってるから、裕ちゃん送ったったれへんで。」

その言葉でパーティーは開き、みんなそれぞれかえり支度を始めた。
祐子がまた言う。
「寄り道せんと帰んねんで。
 なんかあったら全部成人しとー裕ちゃんの責任になるからな。」

口々に返事をして、みんなはぞろぞろと帰って行った。
真希も圭織も真里も、それぞれ同じ方面の仲間と一緒に帰って行ったが、
ただひとり祐子と家が近い圭だけは、
酔いの抜けるのを待って祐子の車で送ってもらう事になった。

皆が帰って、やけに広々と寂しく感じるリビングで、
残された4人はすっかり話し込んでいた。
ずっと肉を焼いていた為にすっかり匂いが体についてしまったさやかは先程、
今日2度目のシャワーを浴びて髪を乾かすと、
疲れた。と言ってソファの隣にすわるなつみの膝に頭を乗せてしまった。
「おいおい。お二人さんよう。」
祐子がつっこむと、
なつみは、ん?というふうに膝の上のさやかの顔を覗き込んだが、
当のさやかはえへへへ。と笑ってみせるばかりで決して動こうとはしない。
「まあ、ええか。さやかは今日がんばったしな。」
祐子は仕方がないと言いたげな顔でぼやいた。

『しばらくするとよほど疲れていたのか、さやかは寝息を立て始めた。
  「あ、さやか寝ちゃったみたい。」
 ほんとだ。初めに圭が気付き、他の2人もさやかの顔を覗く。
  「やだ。さやか、一度寝ちゃうとなかなか起きないんだもん。」
  「ま、寝かせといてやり。今日はなっちの為にそうとうがんばったんやで。」
  「そうそう。今日のさやか、働きっぱなしの立ちっぱなしなんだよね。」
 そんな圭と祐子の言葉に、本当は体裁を整える為に言っただけのなつみは、
 照れながらも素直に頷いた。』

「なっちゃん、今日は楽しかった?」
なんとなく3人の会話が途切れた時に圭が聞いた。
なんの気なしにさやかの髪に指を埋め、
もてあそんでいたなつみが圭を見て応える。
「すごく、楽しかったよ。プレゼントも、ほんと。ありがとう。」
「いや、あたしはほんと。なんにもしてないよ。
 さやかと裕ちゃんとみんなにお礼言って。」
自分が誉められる事に対してとても繊細な圭が、
照れ隠しに烏龍茶の入ったグラスを手にとりながら言う。
「そんなことないでー。
 圭ちゃん、野菜とかほとんど一人で切ってたんやろう。
 真里がゆっとったで。
 ま、あたしかてけっこうがんばってんけどなー。」
おどけて言う祐子と謙遜する圭に、なつみは改めてありがとうと言った。
「ま、あんたに対するさやかの気持ち見てたらなー。
 助けてあげたなんねんね、いかんせん。」
わざと拗ねたような口調で横を向きながら言う祐子に、圭があいづちを打った。
「そうそう。
 さやか、ほんっとに愛してるよ、なっちゃんの事。
 さやかってさー、あんまり、なんていうの執着しない、
 てゆうか見せないじゃん?他人に。そういうの。」
うん、うん、と頷く2人に圭は続けた。
「でもさー、いっつもなっちゃんの事になると、超真剣。
 もうほんと。
 みてらんない程、ってゆうか。
 今日も外あっついのに、1人でがんばって椅子とかならべてたしさー。」

『 「そうなんだ‥。」
 なつみはいかにも驚いたような声を出したが、本当は知っていた。
 さやかがどれだけ自分を好きで、また、どれだけ自分に対して一生懸命になっているか。
 もちろん滑稽なのはお互い様で、自分が実はどれだけさやかに執着しているか、
 圭も祐子も、そして当のさやかでさえも知らない。
 なつみはふと、この2人にはその事を告白してしまおうかという衝動にかられたが、
 少し考えてやはりやめた。
 自分の内側にしまっておいた方が、こういう事はいいのだ。
 なんとなくそう思った。』

さやかが起きるから、となつみの見送りを遠慮した祐子と圭が帰ってから、
なつみは自分の膝の上で規則正しい寝息をたてるさやかの顔をじっと眺めていた。
眠るさやかの顔は減らず口を叩かず無表情なだけに、より端正に見える。
ふと、悪戯心が持ち上がり頬を軽く抓ると、大きく息をついてさやかが目を醒ました。
「ん‥。なっち。まだ寝ないの‥?」
手のひらで顔をこすりながら、寝惚けた口調でさやかが言う。
「さやかがそこで寝てるから、動けなかったんだよ?」
くすくす笑いながらなつみは応えた。
「あれ‥、裕ちゃんと圭ちゃんは‥?」
「アナタがぐっすり眠ってる間に、とっくに帰りました。」
「ふぅん‥。ん‥。じゃあ、なんでなっちはまだ起きてるの‥?」
なつみは、すぐにも再び眠りに落ちていきそうなさやかに
堪え切れず吹き出した。
「だから、あんたがそこで寝てるからだってば。」
そのままさやかの顔を抱きしめると、アハハと笑った。

−おわり−


とても静かだった。

絶え間ない蝉の声に遠方で続く建設工事の音が混じって
とうとう一定の旋律となったそれは、ぴったりと閉じた窓のわずかな隙間を確実について入り込む。
室内ではクーラーが低いエンジン音を立て続け、
つけ放しの大きなテレビからは高校野球を中継する乾いた音が響いていた。

静かだ------------。
ひとつひとつの音が互いに溶け合い、もはや柔らかな周波となって満ちる部屋でさやかは思った。
少し前まで確かに経過を追っていたはずの野球の試合は、すでに状況を把握できずに久しい。
そもそもこれはさっきまで見ていたものと同じゲームなのか。

ふいに不安になって頭上に目を遣ると、先程食べたそうめんのつゆが残る丸いガラスの器が、
これまたガラス製の背が低いリビングテーブルの上で裏返しに目に入り、
その向こうにはソファで膝を組んだなつみが雑誌をめくっているのが見えた。
「甲子園、今どっちが勝ってんの?」
興味のない野球の中継をなつみが気にしているはずもない、とはわかっていたが、
いつの間にまどろんでいた気恥ずかしさをかき消す為の、声をかける何か適当な口実が欲しかった。

夏休みに入ってからというもの、
なつみは特別な用事がある日以外、ほとんど毎日さやかの家で過ごしている。
なつみの親が心配しないようにと随分気を遣っていたが、
やはり家族のいない家でひとり過ごすことが多いさやかにとって、
それはまるで新しい家族が増えたように思えて嬉しかった。
そのことを知っているなつみの両親も、
毎日とまではいかなくとも大分多い娘の外泊をさやかの家に限っては大目にみてくれていた。

「え、わかんないよ。見てないもん。出てるでしょ?画面に。スコアが。」
あたり前の事をあたり前に返される。
うん、と言ってテーブルの下をくぐり、座るなつみの足元に移動した。
上体を起こしてソファに体を凭せかけると、
頭をスライドさせてなつみの腿の側面に自分の鼻を押し付ける。
ピンク色のスカートの、薄く柔らかい生地が肌に心地いい。
すーっと深く吸い込んだ息をため息と共に吐き出して、そのまま額を擦り付けた。

「ちょっと。何やってんの。」
呟くように言うとなつみは、雑誌から目を離すふうでもなく、さやかの頭を軽く払った。
「たいくつ〜。なんだけど。」
さやかの言葉にようやく読んでいたページを諦めたなつみは、
雑誌を膝に置いてさやかを見下ろす。
「そんなにヒマなら、食器洗ったら?
 さやかが言ったんでしょ、
 自分が後片付けするって。」
そういうとなつみはさやかの髪に指を入れ、無造作にかき回した。
既に目は先程の雑誌に注がれている。
さやかはしばらくされるままにしていたが、わかってるようと言った後、
勢いをつけて体を持ち上げ、なつみの腕の中へ入り込むように自分もソファの隣に座ると、
頭をそのままなつみの肩にのせた。
「なに?今日はずいぶん甘えん坊だねー。」

微笑んで問うなつみの言葉には何も答えず、
逆に自分もなつみが開いていたページに目を遣ると、さやかは聞いた。
「なに読んでるの。」
なつみは、行動とは裏腹に横柄なさやかの態度がおかしくて思わず微笑んだが、
すぐに自分も雑誌に目を落として答える。
「うーん。箱根行くとき、どういう服を着てこうかなー。と思って。」

箱根、と聞いて気を良くしたさやかは、
少し考えて見せたがすぐ思い付いたように目を輝かせて言った。
「ワンピースにしなよ。あの白いやつ。」
「あの、ノースリーブの?」
「そう。あたしあれ超すき!かわいいじゃん!!」
「あれねー。うーん‥。てゆうかほんとは薄い水色なの。」

ほんの少し上品なかんじに惹かれたそのワンピースは夏の初めに買ったもので、
ほんとうはなつみもすごく気に入っているのだが、
うって代わって極端にはしゃぎだしたさやかの前にすこし意地悪を言ってみたくなった。
「えー。でもあれー、汚れちゃったらやだしー。」
なつみも同意するものと信じて疑わなかったさやかは、
からかわれていると知らず真剣に反論する。
が、大して深刻でも無いような理由をあれこれとつけてははぐらかそうとするなつみに焦れ、
とうとうさやかは
「アレ超かわいいのに!!」
と言って口をとがらせてしまった。

そんなさやかにたまらず吹き出したなつみがさやかの目を満足気に覗き込みながら笑って言う。
「冗談。もともと着てくつもり。」
「じょうだん‥?」
まだ事態が呑み込めないさやかが目をぱちくりさせる。
「だってさやかかわいいんだもん。真剣になっちゃってさ。」
いたずらっぽく言われてようやくからかわれていた事に気づいた。
「もーーーーう!!!」
さやかは破顔してなつみに抱きつくと、その勢いにまかせて押し倒しそのままなつみにくちづけた。

いったん顔を離したさやかが、腕の中で笑うなつみを睨んで言う。
「だましたね〜〜〜!?」
不機嫌そうに眉をしかめた顔はしかし、どこか楽しそうだ。
しばらくさやかのされるがままになっていたなつみは、
笑いながらくちびるを塞がれていた為に息を弾ませている。
そのなつみが笑いすぎた目に涙をいっぱい溜めて言った。
「だってさやか。すっごい真剣になってるんだもん。」
「うるしぇいな。」
拗ねた口調で言ったさやかが、なつみの耳にくちづける。
「超おっかしー。」
さんざん笑われてなお、今もまだ自分の下で笑うなつみ。
つられてさやかも爆笑して、今度は鎖骨にくちづけた。

お互いの笑いがおさまってからもしばらく、さやかは抱きついた
格好のまま、なつみの胸に頭を預けていた。
おそらくは自分の鼓動が聞こえているであろうさやかに、なつみが話し掛ける。
「ねえさやか。髪のびたね。」
先程自分がかき回したあと、乱れたままだったさやかの髪をなつみはそっと整えてやった。
「うん。‥てゆーか、超おもしろい。今なっちの声すごかったよ。」
胸に耳を当てている為、声帯の反動が直接伝わるのだろう。
興味を持ったさやかはなつみを促す。
「ね、あー。って言って。ちょっと言って。」
「あーーー。ねえ、髪のびてるってば。美容院いった方がいいよ。」
「ちょう、おもしれー。」

前髪などあちこち触るなつみに、さやかは突然思いついた。
「じゃあさ、なっちが切ってよ。」
思いがけない一言になつみは当然戸惑った。
が、一度他人の髪の毛を切ってみたい、とはなつみもふつうに思っていた。
「だってなっち、しろうとだよ?失敗するかも‥。いいの?」
「いいよ。ちょっとくらい。別に気にしない。
 ワックスつければわかんないって。
 でもやばいと思ったらそこでやめてね。
 美容院いくから。」
簡単に言ってのけるさやかにはやる心を抑え、なつみはもう一度確認する。
「ほんとに?ほんっとうにいいの?じゃ、やるよ?」
「いいってば。でもわざと失敗するのとかはやめてね。」

ちょっとがんばってみる。というなつみの言葉に、
さやかはワクワクして、いてもたってもいられなくなった。
「じゃ、やろう!今すぐやろう!!」
「その前に。」
なつみは言った。
「お皿、洗っちゃって。約束でしょ?」
胸の前で手を組んで言うなつみに、さやかはしぶしぶ返事をする。
「じゃ、さやかが洗ってる間に、なっちは準備しといてあげるからね。」
ね?となつみは楽しそうに言ってさやかにハサミの場所をたずねた。

さやかは水道を止めて、ふやけて少し白くなった手を拭いた。
リビングにはすでに新聞紙が数枚敷かれ、
その中央にはぽつんとキッチン用の椅子がひとつ置かれている。
ガラスのテーブルの上に大きなステンレスのハサミを置いたあと、
先程からどこかへ姿を消していたなつみを探しに部屋をひとつひとつ開けて歩くと、
なつみはさやかの部屋の鏡の前で立っていた。

「ちょっと〜。人のもん勝手に着ないでよねー。」
鏡のなかのなつみに目を合わせ、さやかはわざと口をとがらせて言った。
クローゼットに入っていたはずのT−シャツと短パン姿で
上目遣いのなつみがにっこりと笑う。
「だって今日の服、毛がついたら落とすの大変そうだしー。
 いいじゃん。てゆーかほんとは全然気にしてないくせに☆」
いわゆるひとつのポーズだった言葉をあっさり見破って笑ってから
また鏡に向き直るなつみにさやかは呟いた。
「よくわかるね。」
ベッドの上にはこれまたなつみが引っ張り出した、
しかも既に試着した後とわかるさやかの部屋着が他にも数着おかれてあり、
壁にはピンクのスカートと黒いキャミソールがしっかりハンガーに掛かって吊るされている。
それらに対しさやかは少し大袈裟めに閉口した素振りをみせた後、ふたたびなつみに目を戻した。

「いいけどなんでそんなずっと鏡見てるわけ?
 べつにいいじゃん。
 そんなの。なんだって。」
チラチラと数回角度を変えては熱心に目の前の姿見を覗き込むなつみに
さやかはデスクの椅子を引いて、よいしょ。と腰掛けた。
「うーん、なんていうの?
 やっぱり。好きな人の前では?
 いつでも キレイでいたい?ミタイナ?」
軽く言うなつみに、さやかも負けじと返す。
「べっつに。T−シャツと短パンじゃん。
 てゆうか『ミタイナ』‥。
 どうかと思うよ。」
「やっぱり?」
と、言ってぎゅっと目を閉じて見せたなつみは、
でも、そうなの。とさやかに聞こえないよう、今度は声を出さずに言った。

どうやら納得したらしいなつみの様子を見てさやかが立ち上がると
なつみは、こっち。とさやかの手をとった。
リビングとは反対方向に進むなつみに、手をひかれるさやかが問う。
「だって。先に頭濡らさないとでしょ?」
ああ、と納得するさやかに、なつみは続けた。
「超大サービス。なっちがシャンプーしてあげる。」
「熱い?」
蛇口を捻ったなつみがさやかの頭にシャワーあてながら聞く。
「大丈夫。気持ちいい。」
服を着たままでさやかは浴槽のへりに首をのせて目を閉じていた。
「さやか、Tーシャツすこし濡れちゃうかもしれないけど‥、ってゆってたら
 さっそく少しかかっちゃったよ。ごめんね。」
「うん。いいよ。夏だし。」

直接陽は当たらないとはいえ、夏の午後のバスルームはそれでも程よく明るい。
既に屋外で何度か照り返した後、さらにすりガラスを透過することで、
窓の外でぎんぎらぎんの日射しがさりげないものに変わっていた。
そのやわらかな光をふんだんに吸収した水色のタイルが、
ひっそりと淡い光を放つこの空間において
現在シャカシャカとさやかの髪をなつみが洗う音以外に何も聞こえない。

やさしく揺らされる振動に、少しぼうっとする頭でさやかは考えた。
じっさい今この瞬間にも世界には他者が存在し、
ましてや息をし活動していることなどすべては嘘に違いない。
その証拠に先程までひどくうるさかったセミの声はどうだ?聞こえないではないか。
このところずっと続いているビル工事の音にしたってそうだ。
間違いない。今世界にはなつみと自分だけか。
そうと確信したさやかは、同時にこの時間が永遠には続かないという
ことも知っていた。世界から隔絶されたこの薄青いバスルームを出れば、
すべては元に戻るのだろう。

あ。無人島に行けば平気かな。
そうだよなっち、無人島行こう。行こうよ。

そこまで考えてそっと目を開けると、目の前になつみの喉元があった。
普段は飽くまで白いそれが、少し上気しているのか今はかすかにピンク
がかって見える。そこに透けて見える青い血管が例えようもないくらい
に美しくて、しばらくさやかは見とれていたが、なつみがこちらを向く
気配を一瞬はやく察知すると、あわてて再び目を閉じた。

「はい。じゃあこっち向いて。頭の後ろ流すよ。」
程なくしてなつみが言う。
どうやらあれこれ考えている間に随分時間が経ったようだ。
とうとう終わりが近いこの世界にさやかは試しにひとつため息をついてみたが、やはり何も起こらない。
「首がいたい。」
と、さすって素直に体の向きを変えた。

トリートメントまできちんと終えてバスルームを出ると、2人の服にはだいぶ水がかかっていた。
洗濯機の上にある備え付けの白い棚から、
さやかは黄色いバスタオルをなつみに一枚とりだしてやって、
自分も今朝つかった後すぐ側に掛けておいた青いタオルで体を拭いた。
「ちょっと待って。着替え持って来る。」
そう言ってさやかはバスルームを後にした。

先程なつみが引っ張り出した物の中から
さやかが適当に選んだ服にそれぞれ着替えて二人はリビングに戻った。
濡れたあとに冷房の効いた部屋はなつみが寒いと言うので、
クーラーを切ったさやかがほんの少しためらってサッシを開けると、
室外の熱気と騒音が一気に室内を満たした。
ついに自分達との関わりを完全に取り戻してしまった外界をさやかが眺めているところへ、
なつみもやってきて体を暖めた。
「うるさいね。」
依然続くセミの声と工事の騒音、
さらに窓を開けたことによってますます多様になった音に、
日射しの中へ腕を差し出して、なんの気なしになつみが言う。
「‥そうだね。」
さやかはもういちどあたりを眺めなおして返事をした。

しばらくしてソファに座り、新しく注いだ麦茶を飲むさやかに、
なつみも戻ってきて隣に腰をおろした。
「あ。また自分だけ飲んでー。なんでなっちにはいれてくれないのー?」
といってなつみは不満そうに頬を膨らます。
「だって寒いって言ってたからいいのかと思って〜。
 じゃ、今持って来てあげるから。」
さやかがキッチンへと立ち上がると、
「やっぱいい。これ一緒に飲むから。」
と言ってなつみはさやかのグラスを手にとると、
カランと氷を鳴らせて一口飲んだ。

ふう。となつみが息をついてさやかを見る。
「ねー、さやかー。なっちちょっと疲れちゃった。
 髪切るの、また今度にしよ?ダメ?」
「いいよ。シャンプーしてもらったし。ぜんぜんいい。
 なんだかんだ言ってあたしもけっこう疲れちゃった。」
そう言って準備された新聞と椅子を元に戻そうとするさやかをなつみが止める。
「いいじゃん。そのままで。明日切ろうよ。てゆうか切りたいの。」
その言葉に動作を中断してソファに戻ると、
満面の笑みを作ったさやかはまたなつみをクッションの上に押さえ込んだ。
「じゃ、今日も泊まってきなよ。」
そんなさやかになつみもわらう。
「えー。ママに怒られちゃう。」

ママ!?さやかが言いかけた瞬間、重厚なバロック音楽がTVから盛大に鳴り響いた。
どうやら野球中継が予定の時間より早く終了し、
残りの時間をうめる為のプログラムが始まったらしい。
画面上の映像は今のところ森と湖だけだが、
それらは異国情緒にあふれ、一見しただけで国外の風景とわかる。
間もなくとあるヨーロッパの古城近辺だという事がわかった。
なにげなくそのまま見入っていたうちに、
ため息まじりのなつみが口を開いた。

「きれーい‥。こういう所、すごい行ってみたい。」
自分の腕の中で目を輝かせ、
しきりに瞬きをしながらあれこれと夢を話すなつみはとても可愛らしい。
先程世界から完全になつみを切り離して自分だけの存在にしたいとさやかは願ったが、
ほかでもないその世界が今なつみにこういう顔をさせている。
どうでもいいや。そう思った。
「聞いてるの!?」
さっきからあいまいな相づちしか打たないさやかの態度に気づいたなつみが
少し大きめの声で言ってさやかの腕を揺らした。
「え、うん。聞いてるよ。」
下から自分の目を覗き込むなつみに、さやかは慌てて頷いた。

「じゃあ、さやかはどこに行きたい?」
むじんとう。
めずらしくしく臥せ目がちにそう答えるさやかになつみは少し首を捻ったが、
すぐに元の表情に戻ると愉快そうに言った。
「無人島ですか。
 でも、さやかってターザンとかそういうの似合いそうね。
 あ〜アあ〜。とか言いそう。」
笑いながら声色をまねるなつみにさやかの頬もゆるむ。
ジェーン。
ターザンの恋人の名前。
本当はそう思ったがなんだか照れくさくて言いだせなかった。
「じゃあなっちは、チーター。チーターってかんじ。」
「チーターって、あのサル?絶対ジェーンて来ると思ってたのに。」
サイテ−。と言ってケタケタ笑うなつみは楽しそうである。

−おわり−


午後11時56分。
白い封筒に数枚の便せんをしまい終えた少女は、
目の前にある置き時計を止めると、おもむろに椅子を立った。
各部屋に常備された携帯用の光源をクロゼットから取り出し、
もう二度と動くことのない時計をちらりと見下ろす。
そのまま今書き終えたばかりの手紙を机の上から手にとって、早足に部屋を出た。
部屋の明かりはそのまま点けておくことにした。

青みがかった照明灯にぼうっと浮かび上がる廊下を、少女はひとりぐんぐん進んだ。
階段を通りすぎた突き当たりの部屋まで来て足を止め、
手にしていた手紙をドア下の隙間へそっと差し入れる。
完全に手紙が部屋の中へ入ってしまうと、今度は来た道を引き返し階段を降りてホールへと出た。

誰もいない石のホールは、よく磨かれていて靴音がよく響く。
やけに大きく聞こえる自分の足音を確かめるようにホールを横切っていたが、
途中、階段正面にかけられた旧式の振り子時計が突然重たい音を響かせ始めて、
少し怖くなった少女はとうとう走り出した。

夜の森の覆い被さるような闇の中、
手に持ったわずかな光源だけを頼りに息が切れるのもかまわず走りつづける。
湖の上に聳える崖の上に立った頃には、彼女の額にわずかな汗が浮いていた。
弾んだ呼吸を整えようとランプを置いてその場に佇む。
しばらくして少女はだいぶ落ち着くと、青い月を大きく仰いでそのまま遠くへジャンプした。

斜めに射しこむ早朝の光の為すべてが白く輝くキッチンで、
ひとり圭織は信じられない程に大きい業務用のフライパンと格闘していた。
「いくらカオリに力があるってゆったって‥、
 こりゃちょっと重いでしょ、さすがに‥、っと。」
ぶつぶつ文句を言いながらも3つの目玉焼きは型が良く、我ながらかなり満足の行く出来である。
「あら。カンペキ。」
嬉しそうに言った圭織は紐を引いて勝手口に取り付けられた古い鐘をゴンゴン鳴らし、
手早く料理を皿に移すと食堂へと運んだ。

圭織が最後にミルク用のグラス出そうとしていたところへ、
合図の鐘の音を聞いて裕子とさやかが入ってきた。
圭織の手からグラスを受け取った裕子が言う。
「おう、かおりん。今日は上手くいったんかい。」
「カオリだってそうそういっつも失敗ばっかじゃないのよ。」
この間の当番の時に作ったオムレツで裏返すのに失敗して、
卵料理なしの朝食を二人に提供したばかりの圭織は得意満面に返したところで
ナプキンを出していなかった事を思い出し、急いでキッチンへ戻った。

胡椒をとろうとして圭織がふと目を上げると、フォークを使ってレタスを細かくちぎるさやかが目に入った。
しばらく見つめていたが、一向に口に運ぶ気配がない。
「ねえ。おいしくないわけ?」
カチンときた圭織が挑むように言うとさやかは慌てて一口食べて見せた。
「おいしいよ。」
あきらかに無理をして作ったとわかる笑顔で、さやかが答える。
見ると、目玉焼きには手がつけられていなかった。
「さやかが卵の黄身嫌いなの、カオリだって知ってるけどさー。
 でも、カオリ、ゆいいつ上手くできるのって目玉焼きだけなんだもん。
 しようがないじゃん。」
それを聞いたさやかが卵に手を出そうとするのを、更にイライラした圭織がますますキツい口調で遮った。
「無理矢理食べるなんて、いちばんイヤミよね。」
困ってどうしたらいいかわからなくなったさやかをかばって、見兼ねた裕子が圭織をなだめる。
「今日さやかちょっと、体調わるいねん。」
しかし圭織は返事をしない。黙々と自分の分を口に入れていく。
「ふぅー。」
ため息をついた裕子が隣を見ると、さやかが不安そうに見つめていた。
そんなさやかを見て裕子はふっと頬をゆるめる。
「ほれ。卵こっちよこし。裕ちゃんがたべたるわ。」

陽に照らされて学校をとりまく森がさんさんと輝く午後、湖を少し過ぎたところにある墓地で、
さやかはひとり目の前にある白く小さな墓碑を見下ろしていた。
さやかは黙って何ごとかを考えるようにしていたが、
しばらく経つと一歩後ろに引き、表情の無い顔でポケットから白い封筒を取り出した。
「関係ないから。」
冷たい視線のまま吐きすてるように言って手紙を破ると、
小さな紙片がひらひらと雪のように舞って、先程さやかが供えた白い花束の上に積もるように落ちた。

学校に戻ろうと踵を返したところで、さやかは自分を見つめるひとつの視線に振り返った。
墓地の外から一人の少女が自分を見ている。
あれは-----------------。
「‥‥!」
驚いたさやかは一瞬動けなかったが、すぐに自分を取り戻して
フェンスを廻ると、走って彼女に近付いた。

「真希‥?生きてたの‥?」
しばらくさやかの勢いに押されて瞠目していたその少女は、ひと呼吸置くと怪訝な顔で言う。
「は?マキ?それ、誰?
 私はなつみ。てゆーか、人に名前聞く前に、
 自分が名乗らないっていうのはどうなの?」
不快感を露にしたなつみが聞き返す。
「ごめん。似てるの。すごく。こないだ自殺したコに‥。」
そこまで言うと、ハッとしたようにさやかは口をつぐんだ。
自殺、と聞いてなつみは驚いた顔をする。
「なに、そのマキって言う子?自殺、したの?」
「‥‥。」
はっきり語ろうとしないさやかになつみは、特に興味もなさげに聞いた。
「あなた、学校の生徒でしょ?寮はこっちでいいのよね?」
あまりにも真希に似ているなつみに呆然としているさやかは首を縦に振るのがやっとだった。

さほど重そうでもないトランクを抱えたなつみはすたすたと歩き出したが、
さやかから10メートル程離れたところでもう一度振り返った。
「さやか。帰ってきたよ。」
確かにそう言った気がした。驚いたさやかがすでに再び歩き出している
なつみを呼び止める。
「今、なんて言ったの?」
振り返ったなつみが眉をしかめる。
「は?べつに何も言ってないけど。」
「なんであたしの名前知ってるの?」
「だって今さやかって言ってたじゃない。」
釈然としないさやかを置いて、なつみはさっさと行ってしまった。

裕子は外の日射しを避けて自室で一人本を読んでいた。
解りやすい文章で書かれたその本は読みやすく、内容も裕子にとって興味あるものだったが、
しばらく読み続けていたのでなにか冷たい物が飲みたくなった。
それを求めてキッチンへと階段を降りていると、ひとりの見知らぬ少女が階段を上がってくる。
荷物を抱えている為、まだこちらには気づいていない。
不審に思った裕子がしばらく様子を眺めていると、気配に気づいたのか少女は顔を上げた。
裕子の顔からさっと血の気がひく。

息をのんだまま見つめる裕子になつみは臆する事もなく近付いて話かける。
「転校生なんだけど。」
「名前は?」
裕子は動揺をさとられぬよう聞いた。
「なつみ。安倍なつみ。」
「あなた、真希とは‥。」
「ふう。また、真希、か。」
なつみは肩を竦めてため息をついた。
「さっきもお墓のところでさやかっていう子に会って言われた。
 ここに入る前、もうひとり髪が長い子が花を摘んでたけど、
 その子はなっちの顔見たら逃げちゃった。」
「ああ。さやかとカオリやわ。カオリだけ二年生なんよ。」
そこまで言って、裕子は自分のことを少し話した。
「いちおう監督生やねん、ここの。
 新学期に転入生が一人入るとは聞いていたけどな。
 まさか休み中に来るとは思えへんかったわ。」
だめ?と不安そうな顔で聞くなつみに笑顔を見せ、さらに続ける。
「ま、なんとかなるやろ。夏休みやし開いてる部屋どこでも使ってええよ。」
そう言うと裕子は、なつみが部屋を選びやすいようにトランクを持ってやった。

さんざん迷ったあげくなつみは棟の東側に位置する日当たりのよい一人部屋を選んだ。
ずいぶん気に入ったらしく、すでにベッドに腰を下ろしてしまっているなつみに、
トランクを部屋の隅において微笑んだ裕子が問う。
「そんなに気に入ったん、この部屋。」
「うん。なんか。他の部屋より、住んでる人のにおいがしないってゆうか。」
そう答えるなつみに裕子は窓に寄ってあふれるばかりの緑を眺めた。
「ここに住んどった子なあ、こないだ亡くなったんよ。
 ちょうど一ヶ月くらい前かな。」
なつみは驚いて眉をひそめた。
「それって‥。例の自殺した真希っていう子?」
「さやかがそうゆうたん?」
呟くように答える裕子は相変わらず窓の外に向かったままで、なつみから
その表情は見えなかった。
「事故や。事故。」

一週間もしないうちに元来明るいなつみは、裕子や圭織とどんどん打ち解けていった。
殊に圭織とはよく気が合うようだ。
「早めに宿題やっとかんと、後からきっついで。」
という裕子の忠告もよそに昼食後にはきまって二人ででかけてしまった。

「ちょっと聞いてよー。今日なっちったらさー。」
夕食時、昼間の出来ごとを楽しそうに報告する二人。
どうやら今日は湖でボートを漕いだようだ。
「あれはー、絶対カオリが悪いんだってば。カオリの左手が強すぎるんだよ。
 右利きなのに、絶対ヘン。」
はしゃぐ二人に笑って相槌を打ちながら、隣のさやかを裕子はチラリと見た。
やはり沈んだ顔をしている。
真希が死んでからというもの沈みこむことが多くなったさやかだったが、
その真希とうりふたつのなつみの存在がどうやらそれに拍車をかけている。

ある夜、昼間うたた寝をしたせいでなかなか寝つけなかった裕子は、
帰省した友人宛てに手紙を書いていた。

愛は燃えるから消えるのですか。教えて下さい。 by なかざわ

書き終えて「よし。」と頷くと、満足げに顔をあげる。
同室のさやかはすやすやと寝息を立てていた。

椅子に腰掛けたまま紅茶の入ったカップを手に、裕子はしばらくさやかの寝顔を眺めていた。
と、突然夢を見ているのか、さやかが自分の首をおさえて唸りだした。
「マキ‥、やめてよ‥。手‥離して‥。」
いつまでたっても激しくうなされ続けているさやかに不安になった
裕子は、椅子を立ってさやかを揺り起こした。
「さやか!夢や、夢!しっかりし!」

さやかは一度険しく眉をしかめると、目を開けて辺りを見回した。
額には激しく汗をかいている。
「夢を、見ていた‥。」
自分に言いきかせているともとれる口調で呟く。
「今、何時‥?」
「3時。」
いつまでたっても真希を忘れることのないさやかに苛立ちながら、
それでも裕子は落ち着いた声で答えた。
「3時か‥。うちのおばあちゃんが言ってた。一番人が死ぬ時間なんだってさ。」
「悪趣味やで、自分。ほんま。」
裕子がため息をつくと、突然さやかの目がドアに釘付けになった。
大きく目を見開いたままのさやかが声をあげる。
「部屋の外に、誰かいる!立ってる!」
「そんなわけないやろ。こんな時間やで。」
「いるってば!絶対だれかいるよ!」
ひどく怯えるさやかに軽く舌打ちをして、裕子はドアへ向かった。

「誰もおらへんやん。」
そら見たことかと呟いた裕子がドアを閉めて室内を振り返ると、
あろうことかさやかはベッドに倒れていた。
意識を失ったさやかは先程同様ひどくうなされている。
「なんやねん、自分。」
うろたえた裕子が再び起こそうとした時だった。
「マキ‥、」
と呻いたさやかは息を吸い込むと、そのまま呼吸をしなくなった。
「ちょー。さやか!さやか!」
裕子が叫んでも反応はない。

めくるめく事態のなかにありながら、裕子の判断はしかし冷静だった。
仮死状態にあるさやかが横たわったベッドにつかつかと歩み寄ると、
身をかがめてさやかの顎をもちあげ鼻を押さえる。
そのまま口づけると力を込めて息を吹き込んだ。

どのくらい続けただろうか。
裕子の適切な人工呼吸によってなんとか息を吹き返したさやかは、
今は落ち着いてぐっすり眠っている。
一気に緊張が解けて床に腰を下ろした裕子は、向かいの自分のベッドに凭れて天井を仰いでいた。
「いいかげん忘れたらええやんか。」
ぽつりとつぶやいた。

あの時、ドアの外に確かに立っていた人物がいた。
しかしさやかの危惧した通りの真希ではなく、夜中に目を醒ました圭織だった。
いつまでたっても再び眠りがおとずれないことに対して急に不安になった圭織は、
起きだして二人の部屋を覗いてみたのだ。
ドアの下から漏れる明かりに一瞬心を弾ませた圭織だったが、
同時に漏れてくる話し声に自分が入れる雰囲気ではないと知った。
「ちぇ。カオリはいつもひとりぼっち。」
つまらなそうに呟いた。
「そうだ。なっちのとこ行〜こうっと‥。」

圭織がなつみの部屋を訪ねると、さいわいなつみも起きていた。
「ん、カオリ。どした?」
「うん。目が覚めちゃって。
 裕ちゃんとさやかのところにも行ったんだけど、
 カオリはいつも仲間はずれだから‥。」
「そんなことないよ。」
笑って優しく迎え入れるなつみに、圭織は安心して明るい部屋へと入る。
「なっちも眠れないの?」
すっかりなつみの生活がなじんだ、以前は真希のものだった部屋を見回して圭織が聞く。
どうやらレコードを聞いていたらしく、
清潔なベッドの上にはプレーヤーにつないだヘッドフォンが伸びていた。
「うーん。ちょっと、ね。そうだ。圭織も音楽聞く?」
頷く圭織を見て、なつみはヘッドフォンのプラグを抜いた。

すでになつみのベッドに寝そべっていた圭織が流れだした曲に驚いて顔をあげる。
「ねえ!この曲、マキが好きだった曲だよ!」
そうなの?となつみは微笑んで自分も圭織の脇に腰を下ろした。
「ねーカオリ。この学校の事もっと教えて。」
そう言うとなつみは圭織にならんで、うつ伏せて枕に肘をついた。

カオリはぽつりぽつりと話しだした。自分がこの学校にいる理由。
中庭の噴水の工事。
講堂にいるという妖精。そ
して今は静まり返っている学校が普段はどれほど騒がしいか。

「マキは--------」
しばらくして圭織は亡くなった少女の事に触れた。
「さやかの事が好きだったの。さやかはマキに冷淡で‥。
 でも、それで自殺したのかどうかはわからない。
 事故かもしれないし‥。」
それで?なつみは圭織に体を寄せると、やわらかく続きを促した。
「死体はまだあがってないみたい。
 お墓はあるけど。
 カオリ、マキのことは好きだったよ。
 カオリにやさしかったし‥。ううん、皆にやさしかったよ、マキは。」
そこまで話して圭織は涙の滲む目を擦った。
それは眠いのかからなのか、それとも悲しいからなのか、圭織自信にもはっきりとはわからなかった。
「さやかは、みんなに好かれる。
 さやか自信は決して誰も好きになんかならないのに‥。
 たぶん、裕ちゃんもさやかが好きなんだと思う。
 どーしてだろ?
 みーんな。さやか、さやか‥。さやかばっかり。」

そんな、さやかを、自分は‥。と言いかけたまま圭織は眠ってしまった。
なつみは横で寝息をたてる圭織にブランケットを掛けなおした。

ある日の午後。
珍しくなつみは考えたい事があると自室に戻ってしまったので、
時間を持て余した圭織はさやかと裕子の部屋を久しぶりに訪れていた。
最初の方こそあたりさわりのない会話を交わしていたが、
話題は自然とその場にいないなつみのこととなる。
「ねー、昨日さ、なっちが作ったごはん、めちゃめちゃおいしかったね。」
昨夜、夕食の係だったなつみがビーフシチューを作った。
休みに入って専用のコックも帰省したため、久しぶりの本格的な味に感動した圭織が感動を思い出す。

「そういえばさ、マキも料理得意だったよね。」
無邪気に言う圭織に、裕子はさやかを気にしながら頷いた。
もともと表情をあまり表にすることはないため今も案の定平静を装っているが、
真希と聞いてさやかがひそかに苛立っていることは明確に見て取れた。
それを知ってか知らずか、圭織はさらに続ける。

「あの二人ってほんとに似てるよねー。性格はけっこう違うところが多いけどさ。」
「せやな。なっちと違ってマキは引っ込み思案だったね。」
裕子はさやかを気遣ってなつみと真希の違いを強調した。
さやかは相変わらず無言だ。
窓の景色を眺め出した為、もはやその表情を裕子が読み取ることはできなかった。
「でもさー。見た目なんておんなじじゃん。
 ほんとになんにも関係ないのかなー。
 こないだなんてさ、マキが好きだった曲なっちも聞いてたんだよ?」

場の雰囲気に耐えかねた裕子が話題を反らそうとしたその時。
きらびやかな古典の楽曲が大音量で棟内に響いた。
「あ!これもそう!こないだ聞いた曲じゃないけど、これもマキが好きだったヤツ!」
突然の出来ごとに目を見張るさやかと裕子をよそに、興奮の面持ちで圭織は続ける。
「やっぱマキだ。マキが帰って来たんだ!」
目を見開いていたさやかは裕子が自我を取り戻すよりも僅かに早く椅子から立ち上がると、
青ざめた顔のままドアを開けて部屋を飛び出した。

バンッ。
ドアを開けてさやかはつかつかと部屋の奥まで進むと、
突然の侵入者に驚くなつみに声をかける間も与えずにレコードプレーヤーの電源を引き抜いた。
針を落としたままで回転を止められたレコードが、ぎゅるると伸びた音を立てる。
「ちょっと!何すんの!?」
あまりの事に呆然としていたなつみだったがしばらくして我に返ると、
コンセントプラグを持ったままその場に立ち尽くすさやかに向かって行った。

憤って自分の肩を掴むなつみを、彼女より背も高く力の強いさやかは、凍った瞳のまま軽く振払い、
正面に向き合って思いきり突き飛ばした。
しりもちをついた格好で床に手をついたなつみを、尚も無表情に見下ろす。
激情したなつみが顔をあげてさやかを睨み返したところで、慌てて後を追ってきた裕子と圭織が入ってきた。

「なにやってんねん‥!さやか!」
裕子は責める視線をさやかに向けた。
圭織は何も言えず黙っている。
と、二人がやって来て安心したのか、なつみの目からぽろぽろ大粒の涙が溢れ出した。
突然のさやかの行動に、絞り出すように訴える。
「なっちが何したの‥?」
しゃくりあげるなつみの声に我に返ったさやかは、しばらく下を向いていたが、
ついにいたたまれなくなって、ごめん。と吐きすてるように言うとそのまま部屋を出て行った。

その出来事からしばらく、さやかとなつみは口を聞かなかった。
そのことを気遣って裕子はもちろん圭織までもが妙に明るく振るまい、
それがかえって寮内の雰囲気をギクシャクさせている。
そんな中気分転換にさやかは散歩にでかけたが、
何も考えずにふらふら歩いているといつしか例の崖の上に出ていた。
いや応なしに真希のことを思い出していると、いつの間にやってきたのか裕子が現れ、
何も言わずにさやかの横にならんだ。

「まさか。あんたまで飛び降りるんとちゃうやろね?」
黙って首を振るさやかに、裕子は柔らかい笑顔で聞く。
「なに、かんがえてたん?」
さやかはしばらく向かいの山々を眺めていたが、やがてぽつぽつと話しだした。
「去年、学内の音楽コンクールでバイオリン弾いたんだけど」
「ああ。さやか賞とってたね。」
当然裕子が知らないはずもない。
緊張のため少し顔を紅潮させながらも、精一杯すました格好で弓を操るさやかは随分微笑ましかった。
「あのあと、あたしなんか嬉しくて。ここに来てまた一人で弾いてたの。」
「そしたら?」
「そうしたらマキがやって来て、あたしに花束をくれた。
 白い花。蘭だったのかなあれ。でもその時はなんか、一人で楽しんでたから。
 だから、もらった花束を、ね。
 湖に投げちゃった‥。マキの目の前で。」
辛いはずの内容を、さやかは無表情に一点を見つめながら淡々と語る。
それが逆に彼女のダメージを強調しているようで、とても切なく見えた。
「な、さやか。忘れなあかんで?」
ため息をついて裕子が言った。

日暮れ近くなって草むらの虫がそろそろ鳴き出した頃、
辞書を置き忘れたことを思い出したさやかは自習室まで取りに戻った。
寮のある棟から少し離れた建物にあるそこは、午前中の勉強に割り当てられた時間以外に行くことは少ない。
がらりとドアを開けて一歩中に入ると、思いがけずなつみの姿があった。
さやかはもちろん、なつみもとまどった様子で、目を丸くしてお互い一瞬見つめ合った。

すぐに気を取り直したさやかが辞書の載った机へと歩き出すと、
思い切ったような口調のなつみが話しかけてきた。
「なんでいつもそんな暗い顔してるの?」
「べつに。」
声を掛けられるとは思っていなかったさやかが内心の戸惑いを隠してことさらぶっきらぼうに答える。
さらになつみは続けた。
「マキは‥、さやかが殺したの?」
唐突ななつみの問いにさやかは思わずカッとなる。
「ちがうよ‥!勝手に飛び降りたんだよ!」
「なんで?
 マキはさやかの事が好きだったんでしょう?
 勝手にとか言ってちょっとひどすぎない!?」
歯に衣着せぬなつみの物言いに、ついにさやかは感情を爆発させた。
「ひどいよ?
 だからなに?
 だってあたしは全然そんなこと望んでないんだもん。
 それなのに一方的に気持ちを押し付けられたって。あたしだって困るよ。
 結局人の心に土足で踏み込んでんのと同じじゃん!」

激しいさやかの慟哭に気押されたかのように口をつぐんでいたなつみではあったが、
少しすると顔を上げて言った。
「土足じゃないよ。きっと、裸足。ハダカで、だよ。」
そういうなつみの表情にはどこか俗世離れしたような、まるで聖母のような微笑みが浮かんでいた。
あまりの自分の言い種に気の強いなつみはきっと強烈な反論を返して来る。
そう思って身構えていたさやかは、思い掛けないなつみの表情に、
我を忘れてしばらく見とれてしまった。
「‥なっちわかる。
 みんなが似てるって言うから。
 なんかちょっと他人事に思えなくなってきちゃった。」
なつみはそう言って、はにかんだように笑った。さやかの中で何かが溶けた。

数日後。
明るい図書室の窓辺に置いてある、ほどよくクッションのきいたひとりがけのソファに座って、
さやかは写真集を眺めていた。
膝の上に置いた大きく立派に製本されたその写真集には、
さやかが見たこともないようなエキゾチックな花や草があふれている。
ページいっぱいに大きく印刷されたピンク色の花を見終えたところで、なんとはなしに顔をあげた。
外の景色に目を遣ると、今日も外で遊ぶなつみと圭織が見える。

どうやらバドミントンをしている様子で、手にはそれぞれ華奢なラケットを持っていた。
「じゃ、こんどはなっちのサーブ。いくよ〜。」
笑いながらどこか真剣な面持ちで構えている圭織。ポーンと上がったシャトルを
ふらふらと追い掛けたが、瞬間に目をつぶってしまったために空振りした。
自分の失敗に大笑いしながらシャトルを拾った圭織が再びサーブをあげたが、今度はなつみが空振りする。
「うちらヘタじゃん。」
身を捩って笑う二人につられて、さやかもひそかに吹き出した。
なにあれ。

そんな二人の様子がおかしくてしばらく眺めていたところへ、
向かいに座って小説を読んでいた裕子も気づいて口を開く。
「なんやあの二人。めっちゃ下手やん。」
「うん‥。あははっ。」
ようやく圭織が返した羽をなんとか打ち返したなつみだったが、
フレームにあたってしまったために、シャトルはへろへろと地面に落ちたのだ。
つい声を出して笑ったさやかを見て、裕子は一瞬複雑な顔をしたが、
すぐに笑顔を作りなおした。

しばらく笑って様子を伺っていたが、
さやかは急に昨夜の雨で外に出しておいたスニーカーがひどく汚れてしまった事を思い出した。
「あ。靴洗わなきゃだった。」
そう言い残してさやかが図書室から去ってしまうと、裕子は無表情に立ち上がって、
開いていた窓をピシャリと閉じた。

夕食後、当番の裕子はカチャカチャと食器を洗っていた。
同じく当番である圭織が食堂から残りの皿を持って現われ、
隣で自分ももう一つのスポンジに洗剤をたらす。
「ねえ、裕ちゃん。なんか最近のさやか、明るくなってない?」
ここ最近食欲が落ちていたさやかが、近頃は出される料理を全て食べるようになった。
口数も以前に比べずいぶん増え、
あまつさえ今日はなつみが残したハムを皿から奪い、いたずらっぽく笑って口に入れたのだ。
圭織に言われるまでもなく、裕子にとってもさやかの変化は明確に見て取れた。
何かあったのかねー?首を捻りながらも圭織は懸命に皿を洗う。
「そうやな‥。」
裕子は呟くように相槌を打った。

「おうい。」
そろそろ食器も洗い終り、
テーブルに出された調味料の類いをそれぞれ棚や冷蔵庫に二人が戻しているところへ、
さやかとなつみが揃って顔を出した。
見るとさやかは少し大き目の紙袋を抱えている。
「ねえ。花火やろうよ。なんか、なっちがここに来る時に持ってきてたんだって。」
「きゃ。花火〜?カオリちょ〜う久しぶり。やろうやろう。」
圭織の目がキラキラ輝く。
キッチンの入り口に並んで立つさやかとなつみを見て裕子が笑いながら言った。
「ええよ。けどさやか、なっちの部屋に行ってたん?」
「そうだよ。えへへ。」
「なーんだよ。じゃカオリたちが気を遣うひつよう、もうないのね〜。」
なつみが来て以来ぴりぴりしていた空気を少しでも和らげようと
自分なりに努力していたらしい圭織が不満げに、しかし嬉しそうに言う。
「てかアンタ、気つかってたんかい。」
「え?つかってたよ〜。もう必死。」
からかわれて大袈裟にふくれて見せる圭織に3人は大いに笑った。

湖畔のボート寄せのところに場所を決めた4人はしばし、
思い思いの花火を手にとり輝く火花が飛び散る様を楽しんでいた。
さまざまの華やかな色に照らし出されたお互いの顔は、煙のせいかどことなく現実感を喪失して見える。
実際よりも遠くに感じる3人の姿を見ながら、圭織はひそかに考えた。

‥みんなと過ごすのは、今年が最後。
裕ちゃんもさやかもなっちも、来年の夏休みにはもういないんだ。
3年生だしね。卒業しちゃう。もちろん新入生は入ってくるけどさ。
夏休み寮に残る子なんて、そうそういないんだろうね。

来年カオリはひとりなのかな‥。

相変わらず他の3人は煙にかすんで遠くに見える。
「淋しいですなあ。」
そう呟いて圭織はひときわ大きい打ち上げ花火の筒を手に取った。
が、こんなに大きな花火にかつて自分で点火したことはない。
迷いながらもとりあえず裏面の説明書きに目を通していると、
それに気がついたさやかが近寄って話しかけた。
「なに、カオリ。それやりたいの?」
「うん‥。けど。火つけるのいまいちこわくて。」
「かしてみ。」
答えながらも目を離さずに説明を読み続ける圭織の手から、突然さやかが花火を奪う。
驚いたカオリが顔をあげると、ポケットからライターを取り出したさやかが得意そうに微笑んでいた。
「やってあげるよ。」
カチ。
いとも簡単に導火線に点火したさやかが、
少し離れたところで見守っていた圭織の脇へと急いで戻って来る。
自分にならってしゃがみこむさやかに圭織は言った。
「なんかさやか、やさしくなったね。」
「そう?」
「今までのさやかだったら、多分放っといたと思う。カオリが困ってても。」
真剣に顔を覗き込んでくる圭織にさやかは苦笑した。
「えー。あたしってそういう人だったの?カオリにとって。」

やっぱり変わったよ、なっちが来てから------。
圭織がそう言おうとしたところで花火の筒が激しい音を立てた。
「あ。上がった。」
そういって上を見上げたさやかと同じく圭織も顔を上げる。
数秒後、随分高いところまで発射された火薬の球は、パンと弾けて上空に美しい模様を描いた。
「これって、何連発?」
次の噴射を待つ間にさやかが訪ねる。
「ろくれんぱつ。」
答えて辺りを見ると、なつみと裕子も向こうから筒を見つめていた。

次の朝、朝食の鐘の音にさやかが食堂へと降りていくと、テーブルには3人分の用意しかなかった。
既に席に着いていた圭織に理由を訪ねると、どうやらなつみの家族に不幸があったらしい。
家に戻ったようだった。
「お母さん、亡くなったらしいで。」
当番の裕子が神妙な面持ちで料理を運んできた。
「昨日連絡があって、うちのとこまで言いにきたんよ。とりあえず帰るって。
 さやかは寝とったから、起こさんかったけどな。」
「ねえ、なっちのお父さんて、何してる人?」
成りゆき上食卓はなつみの家族の話題になり、圭織がミルクをのみながら聞いた。
「や。なんでもな、お父さんもずいぶん前に亡くなってるらしいんやんか。」
「兄弟は?」
監督生であるためなつみの家族に対する書類を読んでいた裕子に、圭織はさらに聞いた。
「ひとりっこやて。ほんま、かわいそうや。」
うーん。と圭織が俯くと、急にさやかが立ち上がった。
「あたし、行ってくる。
 いくらなっちが明るい子だからって、ひとりはちょっと辛すぎるよ。
 裕ちゃん、住所知ってるよね。教えて。」
「あー。ええよ。けど、とりあえず朝食食べてからにし。」
「ほんとに行くん?もしかしたら迷惑かもしれへんで?」

しぶる裕子から強引になつみの実家を聞き出して、
準備もそこそこにさやかが寮を出てから、かなり時間が経っていた。
「もうそろそろ着く頃やろか。」
随分傾いた陽をみながら、誰にともなく裕子は呟く。
読みかけていた本は内容がまったく頭に入らず、とうに諦めていた。
「あたし、また負けるんかなー。」
誰にも動かせなかったさやかの気持ちは今、はっきりとなつみに傾いている。
自嘲ぎみに笑って、膝の上に置かれたままの本を閉じた。

なんできづかへんねん。さやか。なっちはマキやで。

汽車にのったさやかがなつみの実家に辿り着いたのは、
すでに日が暮れあたりが暗くなり出した頃だった。
掛けられた表札と手に持ったメモを確かめて、ドアをとんとん叩く。
しばらく待つと想像していたよりもいくらか平気そうな顔をしたなつみが、それでも目を赤くして現われた。
「さやか‥。どうしたの?」
「うん。なんかなっち一人ぼっちだって聞いたから‥。いろいろ辛いかと思って‥。」
ありがとう‥。そう呟いてなつみはさやかを中へ通した。

通された部屋はずいぶんガランとしていた。
側面の棚にはさまざまな種類の油絵の具がならび、部屋の中央には大きいイーゼルがひとつ。
ひとめで画家のアトリエとわかる。
「なっちのお母さん、アーティストだったの?」
「うん‥。まあね。なっちの絵もあるんだよ。見る?」
さやかが頷くと、なつみは自室へ案内した。

「すごい‥。いっぱいある。」
学院に来る前に使っていたであろうなつみの寝室には、
ルノワール風に描かれたなつみの肖像が数枚、それぞれ品の良い額に納められ飾ってあった。
「いちばん多いのは、やっぱりお父さんの絵なんだけど。
 なっちのもいっぱい描いてくれたんだよ。」
そう言って少し悲しそうに笑うなつみ。
さやかはなつみの母に対する愛をみとめて胸が苦しくなった。
身内の死をまだ知らないさやかにとって、
このような際に果たしてどのような言葉をかけるべきかなのかわからない。
ただ、涙だけが流れた。
「なんでさやかが泣くの?」
そう訊ねるなつみの目からも涙がこぼれていた。
「わからない。」
そう答えたさやかはなつみに近付いて震える華奢な手をぎゅっと握りしめた。

しばらくして、ベッドに腰を下ろしたさやかになつみが紅茶をいれて運んできた。
「無表情なさやかが泣くなんて、ね。」
そう言ってカップを手渡すなつみに、さやかは恥ずかしくなって下を向いた。
「だって、なんか。なっちが可哀相になったんだもん。
 なんなんだろ。こないだカオリにも言われたよ。
 変わったって。
 そんなに冷血っぽかった?あたし。」
冷血、と言う言葉に苦笑しながらなつみが答える。
「冷血、っていうか。
 殻に閉じこもってるかんじがしたよ。
 まだ会ったばっかりだから、前のことはなっち知らないけど。
 忘れてないもん。
 いきなりなっちの部屋に入って来て、レコード止めた時の事。」
狂気じみたあの日の行動に言及されたさやかが赤くなって下を向くと、
なつみは頬をゆるめてさやかの顔を覗き込んだ。
「うそ。もう気にしてないよ。最近さやか本当にやさしくなったし。」

なつみを慰めに来たはずが、いつの間にか自分の方が慰められている。
そのことに気づいたさやかが慌てて言った。
「ごめん。これじゃ、逆だね。何しに来たんだろ、あたし。」
「いいの。そのほうが気がまぎれるってゆうか。だからもっと話して。」
そういって自分の肩にあたまを乗せるなつみにさやかは少し緊張したが、少しでも
なつみの気持ちが紛れるのなら、とぽつりぽつりと話し出した。

なっちの事、悪いけど初めはほんとうに嫌だった。
マキにそっくりなんだもん。どうしたってやっぱり思い出さずにはいられないし。
マキの気持ち、はっきり言ってあたしにはちょっと重かった。
マキは、大人しかったけど、けっこうみんなから人気があったんだよ。
実際いいこだったし。
そんなマキが、どうしてあたしなんかを好きになったのか不思議。
わからない。
なんであたしなんだろう。って思った。
だいたいあたし自身でも、自分の事あんまり好きじゃなかったのに。
それなのにマキの視線はまっすぐで純粋で。
それがなんだか辛くって、マキにあんなに冷たくしちゃったんだと思う。
マキのことが嫌いだったんじゃない。
純粋なマキに似合わない自分が嫌いだったんだよ。今思えば。

随分話した。
そう思って覗くと、いつの間にかなつみはすやすや寝息を立てていた。
どのくらい時が経ったのだろうか。
窓の外にはきらきら星が輝いているのが見えた。
「聞いちゃいねえ。」
さやかはフッと笑うとなつみをベッドに寝かしつけた後、自分もブランケットを一枚拝借し、
アトリエへと戻ってソファに横になった。
聞いていなかったにしろ、なつみが眠りに落ちたことは良いことだ。
眠っている間は、悲しいことを考えずに済むだろう。
自分も眠ればマキを思い出さずに済むかな。
てゆうか最近けっこう平気になってきたみたい。
そうこう考えているうちにいつの間にか自分も眠りに落ちていた。

翌日の正午近く、二人が揃って寮に戻ると木漏れ日の下に腰を下ろして小説を読む裕子がいた。
昨夜はあまり眠れなかったのか、多少目を赤く腫らしている。
ただいま。二人が声をかけると裕子は顔をあげ、少し疲れた
ように笑った。

「おかえり。そろそろ帰ってくると思って、ここでこうして待っとったんよ。
 なっち、大丈夫?」
「うん。だいぶ平気。さやかが来てくれて本当に助かったよ。」
なつみの言葉に照れた顔をして笑うさやか。
とうとう二人は自分達だけの世界を持ってしまった。
それを認めた裕子の笑顔は普段に比べほんの少しだけ歪んでいたのだが、
それは本当に微々たるものであったため二人が気づく事はなかった。
笑顔のままの裕子が急に立ち上がる。
「こんなところで話もなんやから。中入ろ?」
そう言うとなつみの荷物を持ち、おどけた素振りでさやかに言う。
「さやかは自分で持ち。」
そうして裕子は2人に先立ち寮の中へと入っていった。

「話があるんよ。ちょっとそこまで付き合えへん?」
そう言った裕子がなつみを散歩に連れ出したのは、二人が帰ってきてしばらく経った頃のことだ。
すぐに快諾したなつみは裕子に連れ立って随分と歩いていたが、
「話がある」と言ったはずの彼女は、一向にそれらしい事を話し始める様子がない。
不思議に思ってあれこれ訊ねたが、
当の裕子はいつもどおりに微笑むばかりで何も答えなかった。

そうして森の中をめちゃくちゃに歩きまわっていると、いつしか二人はあの崖の上に出ていた。
「ふう。随分歩いたなあ。」
明るい日射しの中振り返った裕子の笑顔はまるで、いつか見た白い天使のようであった。
湖の向こうをふちどるように見える周囲の山々は、晩夏にあってその緑をいっそう色濃くし、
薄めの雲を2、3浮かべる空は今日も飽くまで青い。
やけにすっきりした裕子の笑顔になつみもあいまいな笑顔をつくると、
遠くの上空をとんびが横切るのが見えた。

「なあ、なっち。死んで欲しいんやんか。」
相変わらずの笑顔のままで裕子が言う。
なつみはその言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
「え‥?」
「いなくなって欲しいんよ。世界から。あんたマキやろ?
 いいかげんうっとうしいねん。
 そこから飛び降り。」
「何‥言ってるの、裕ちゃん?なっちはなっちだよ‥?」
ようやく裕子の言葉を理解したなつみは、
それでも笑顔を無理矢理つくって裕子の言葉をキツイ冗談として受け流そうとした。
しかし裕子の表情に先程までの笑顔はない。
「いいや。あんたはマキや。
 あたしは騙されへんで。
 マキのおかんも死んどるんよ。
 そのもともと誰もいない家に、こないだだって帰ったんやろ?
 さやかが追ってくる事をあらかじめ予想してな。」
「な‥、ち、ちがうよ。なっちは、」
裕子は崖を背にしたなつみに言いながら少しずつ近付く。
恐怖を感じたなつみが懸命に訴えようとしたが、裕子はそれを遮った。
「なっち。いや、マキか?
 あんたは死んだ。そして生き返った。
 今度こそさやかの心をつかむために、今度は明るい『なつみ』になってな。
 完敗やで、ほんま。
 見事にさやかの心を奪ったもんやね。」
反論しかけるなつみを抑え、裕子はさらに続ける。
「マキにはほんまムカついたわ。
 もう必死やで。大人しいくせにあの女、
 いっつもさやかの視界に入るように行動するんよ。
 少しでもさやかに見つめてもらえるようにな。
 そんなマキがやっと死んでくれてせいせいしとったところにあんたが来た。
 ほんとならさやかはあのまま、うちだけにすがるようになるはずやったのに‥。
 ほんまウザいねん、消えろ。」
一歩一歩ゆっくりとなつみににじり寄る裕子。
見ると崖の淵は自分の足元のすぐ後ろだった。
そんな中なつみは必死に抵抗する。
「裕ちゃん‥、おかしいよ。そんなこと言うなんて。」
「おかしい‥? そうかもな。」
裕子の顔には嘲笑が浮かんでいる。
果たしてそれは自分に向けられたものなのか、それとも裕子自身に向けられたものなのか、
なつみにははっきりとわからなかった。
「‥狂ってる!
 裕ちゃんはさやかを好きだって言ってるけど、ほんとはただ自分の物にしたいだけじゃない!
 すがるとかすがらないとか‥!
 裕ちゃんはさやかをオリに閉じ込めたいだけなのよ!」
なつみの言葉に裕子が笑って答えた。
「‥そうや?悪いか?」
また一歩、裕子はなつみに近付いた。

「2人とも‥、何やってんの!!」
と、突然しげみの小径をかき分け、さやかが現われた。
「下でカオリと遊んでいたら、2人が見えたから‥。危ないよ!なんなの?」
ここまで駆けてきたのか、さやかは息を切らしている。
激しく息をつきながら裕子に不審な目を向けた。
崖の上に立つ3人の間に緊張した空気が流れた。

しばらくして裕子が観念した様子でため息をつく。
「今あんたが現れるとはな‥。
 ふ、なっちに聞き。
 あたしには運の神様も味方してくれんねんね。」

裕子はそう言い残すと目を合わせないようにさやかの脇をすりぬけ、森の中へと消えていった。

「どうしたの‥、一体?」
さやかは呆然と立ち尽くすなつみの体を支え、とりあえず地面に腰掛けさせてやってから聞いた。
しばらく下を向いていたなつみだったが、突然顔を上げてさやかの目をじっと見つめる。
「ねえ。さやかはなっちの事‥、好き?」
「え‥?」
突然の問いにさやかはどきどきして思わず視線を泳がせた。
どうしていいかわからず、あらぬ方向を向いた首になつみが白い腕を伸ばす。
「ねえ‥。」
返事を待たずになつみはさやかの胸元に顔を埋めた。
自分の腕の中にすっぽりおさまったなつみの体は、なぜだかひどく体温が高く、
その髪からはなにやら熟し切った花びらのようなやけに甘い香りがする。
いいにおい。そんな状況のなか、さやかは素直にコクンと頷いた。

そのまま時が流れたが、
しばらくしてもはや思考を飛ばしていたさやかに腕の中のなつみが顔をあげずに囁いた。
「さやか、なっちはね‥、マキだよ。」
「‥‥。」
突然のなつみの告白に驚かなかったわけではない。
しかし、さやかは何も答えなかった。
顔を伏せたままで話すなつみの言葉を遠くの山々を見つめながら、ただ聞いていた。
「なっちがまだマキだった頃、さやかはすごく冷たかった。
 誰も愛してなんかやらない。
 そんな態度で私に接してたね。
 だから、飛び降りて、死んだの。
 私のこと、一生忘れさせないように。
 でも、やっぱり悔しくて‥。
 だから戻って来た。
 今度は絶対振り向かせようと思って。」

「ねえ、知ってる?」
ゆっくりと顔をあげたなつみの目は胸の中にずっと伏せられていたせいか幾分熱を帯び、
しっとりと潤んでとても美しかった。
「少女の時間はいちばん素敵なんだよ‥。
 ねえ、一緒に死のうよ。
 それでまた生まれ変わろう?
 今のままでさ‥。
 そしたらまた死んで‥、また生まれ変わるの。
 そうやってずーっと、2人で一緒にいるの。
 永遠に、少女のままで‥。」
なつみは口を動かしているものの、その声はまるで遠く空の上から響いているように聞こえ、
熱っぽい視線とともにまるでなにかに包み込まれているようだ。
と、さやかは遠くなった意識の彼方でかすかに考えた。
なつみだろうとマキだろうといい。
自分はただこの少女を愛している。

このまま2人、永遠にいられるのなら‥。

さやかはうつろだがかすかに意志を秘めた瞳でなつみを見つめた。
「いいよ‥。一緒に‥、死ぬよ。」
なつみは再びさやかの胸に顔を戻していて、さやかからは表情が伺えない。
体温を感じながらさやかはその体をやさしく抱きしめ、
まるで全てを誓うかのようにしなやかでやわらかいなつみの髪にキスを落とした。
「ちゃんと口に、して。」
顔をあげてそう言うなつみの表情は嬉しそうではあるものの、
どことなく憂いを帯び、かすかに涙のにじむ目許は比べるものが見当たらない程に美しい。
顎をあげて目を閉じたなつみに、さやかはまるで何かに吸い込まれるかのように顔を近付けた。

マキ、なつみ、さやか。そしてあの崖-----------。
混乱した思考にまかせ森の中を歩き回っていた裕子はひどい胸騒ぎに襲われて、
やみくもに動かしていた足を止めた。
「まさか‥!」
頭から離れなくなった激しい不安感にすぐさま体の向きを転換し、断崖への道を駆けた。
途中、そこかしこから伸びる枝が手足を擦り小さな傷をいくつかつけたが、
それらにかまっているヒマはなかった。
裕子は自分の不吉な想像を打ち消すべく、先程の気まずさも忘れて無我夢中に走り続けた。

崖の上へと引き返した裕子の目に映ったものは、
互いに手を取り合い淵に望むさやかとなつみの後ろ姿であった。
「‥‥!」
立ち尽くし息をのむ裕子の気配に感づいた2人がゆっくりと振り返る。
なつみは挑むような微笑を浮かべていた。
「裕ちゃん。正解。なっちはマキだよ。望み通り死んであげる。
 でも一人じゃイヤ。さやかも連れていくよ。」
「待っ‥!」
言うが早いかなつみはさやかの腕を引き、裕子の言葉を待たずに湖へと飛び降りてしまった。
なんて事---------!
「あたしが望んだ結末は、こんなんちゃうで!」
一瞬目を見張った裕子だったが、すぐさま自分を奮い立たせるようにそう叫ぶと、
先ほどから未だ治まっていない呼吸のまま全力でボート置き場へと向かった。

一面にうす青い湖の水中で、さやかは何もわからないままただ必死にもがいた。
ごぼごぼと音を立てた水が口といわず鼻といわず大量に自分の肺へと流れ込んで来る。
夢中で目を開くと、自分の体に絡み付くなつみの白い肘が目に入った。
酸素が足りないために、こめかみがガンガンと音を立てているようだ。
もうどうでも良かった。ただこの苦しみから一刻も早く抜け出したかった。

(苦しい‥!誰か‥。)

最後にひと振り腕をおおきく動かすと、さやかの意識はそこで途切れた。

ジリジリと鳴くセミの声が煩くて目を醒ますと、さやかはひどく明るい部屋のベッドに寝かされていた。
ぼんやりする意識のままで辺りを見回すと、どうやら寮の自室のようで、
脇には椅子に腰掛けて心配そうに覗きこむ圭織がいた。
「裕ちゃん、さやかが気がついた!」
裕子は何ごとかを祈るような格好で机に肘をつきその上に自分の額をのせていたが、
圭織の声にはっと振り向き2人の方に向かって来た。
「さやか‥!」
裕子は喉をつまらせながらさやかの手を握る。自分は‥、死ななかったのか。
なっちは‥?そこまで考えたところでさやかは再び眠りの闇に落ちた。

日暮れ近くの風が少し冷たくなって、そろそろ秋を思い出させる頃、
さやかと裕子と圭織は湖畔の砂利にこしかけ、
沈み行く太陽がひときわ赤く大地を照らす壮大な夕焼けを眺めていた。
激しかった蝉の鳴き声は以前の勢いを失い、
かわりに目立つようになったひぐらしの声が夏の終りを告げている。
それぞれ思う事がありだまりこんでいた3人だったが、
ひとり離れて座り山間の大きく赤い夕日をじっと眺めていたさやかが誰にともなく語り出した。
「昔、まだ学校に入る前に、こんな夕焼けを見たことがある。
 すごく綺麗で、すごく感動したんだけど、
 その感動を伝えたくても、話せる人が誰もいなかったの。
 それが悲しくて、あたし、その場で一人で泣いちゃったよ。
 なんだかすごく、自分がひとりってかんじがしてさ‥。」

2人が崖から飛び降りたあの日。
急いでボート置き場へと走った裕子はもとからその場にいた圭織に指示を出し、無我夢中でボートを出した。崖下でまだ波状の紋を浮かばせている湖面を見回し、
2人の姿が水面のどこにも見つけられないことを見て取ると、
不安そうに目を潤ます圭織を残してひとり湖水に飛び込んだのだ。
水中で痛む目をそれでもしっかり見開いてしばらく探していると、
ぼんやりとした水影の向こうに、漂うさやかの姿が見えた。
急いでそこまで泳ぎ寄り、さやかを抱えるとひとまず水上に顔を出して圭織に合図しボートを寄せさせた。
意識を失っていたさやかを圭織にまかせ、すぐになつみを探しに戻ったが、
どれだけ泳ぎまわっても、とうとうなつみの姿を見つけることは出来なかった。

「さやかしか‥、助けることができなかってん‥。ほんまや。
 なっち、許して‥。」
そういって嗚咽を漏らす裕子の肩を、圭織が沈痛な面持ちでぎゅっと抱きしめた。
その日3人は、炎のように辺りを朱く染め上げる夕陽をいつまでもいつまでも見つめた。

夏休みも終わりに近いある日、圭織はひとり寮の前庭で花を摘んでいた。
あの事件が起こってからというもの、さやかはともかく裕子までが沈みこむことが多くなったので、
暗くなりがちな食卓を少しでも華やかに飾り付けようと思った。
黄色、白、たくさんの花を摘んだ。
これでもう少しピンクの花が入ればすごくきれいだ。
そう思った圭織がピンク色の花を探して腰を伸ばすと、
向こうから大きなトランクを抱えた少女が微笑みながらやってくる。
おかっぱで愛らしい顔つきの少女は確かに見覚えがあり、
ある面影をはっきり認めた圭織は嬉しそうに笑って、もはや逃げ出すこともなかった。

「あなたは、なっち?それともマキ?」

少女は清純そうにきれいに整った白い歯を見せ、鮮やかに微笑むと、
花束を抱えて少しはにかむように自分を見つめる圭織に言う。

「どっちでもないの。でも、2人とも良く知っているわ。」

少女の荷物を持ち、圭織が寮へと案内する。
階段のところで、小説を読んでいたはずの裕子に会った。
「おう、おかえり。待っとったで。」
喉が渇いたのか、キッチンへと向かう途中だったらしい。
そう言って笑う裕子の笑顔は、本当に穏やかで嬉しそうなものだった。

−おわり−


ぎしぎし車体を軋ませて、ゆっくりと山を上る登山鉄道を降りた時、
夏で長いはずの日射しは既にまわりを囲む、より高い山々の向こうに隠れていた。
2人が新宿を出たのは午前のまだ早いうち。
しかしついでに行きたいとなつみが言ったのでかなり遠回りにはなるが、途中鎌倉にも寄ってきた。
見回すと降り立った駅の周辺は観光地から遠いため人通りが少なく、バスは一向に来る気配を見せない。
さやかが時刻表を確かめると、次の発車まで一時間以上も間があった。

「ねー、なっち。もうタクろうよ。あたし疲れた。」
「うーん。そうする?」
タクシー乗り場には観光客の到着ラッシュをとうに終えた運転手が数人、
いかにも暇そうにタバコをふかしていた。デジタルな時計表示は6時48分。
少し渋めの顔をしたなつみの同意を得ると、さっそくさやかは彼等のところに走った。

「おう、おじょうちゃん。こんな時間じゃバスはなかなか来ねえだろ。
 どこまで行くの?」
「えっと‥、」
さやかが目的地を告げると、
一人の運転手があおあおと濃い髭の剃り後を撫でながら、人の良さそうな声で言った。
「うーん。ちょっとそこは遠いなあ。5千円くらいかかっちゃうぜ。」
相変わらず髭をゾリゾリしながら運転手は上を向いて何事か考えているようだったが、
すぐにさやかに向き直るとニヤリと笑った。
「まあ、いいか。3千500円にまけてやるよ。お嬢ちゃんかわいいからなあ。」
それを聞いて、それまで不安気な様子だったさやかが、俄然目を輝かせる。
「ほんと?いいの?ありがとう。もう一人いるの。今呼んでくる。」
そう言うとさやかはなつみの元へ急いで戻り、運転手は車に乗り込んでエンジンをかけた。

何度もカーブを繰り返しつつすっかり夜の色が濃くなった山道を進む車内でさやかが運転手に訪ねる。
「ねえおじさん。箱根って何がおいしいの?」
「あー、ソバだね。」
慣れた調子でハンドルを切る運転手はミラー越しに笑いながら、どこか誇らし気に答えた。
「ふうん。ソバなんだー。知らなかったね。」
ねー。覗き込むとなつみも真剣な面持ちで頷く。
「どっかおいしいお店とかってあるの?」
「どこで食べてもおいしいよ。でも、おじさんがよく行くのは、アレだな。
 芦ノ湖のフェリーをおりた所にあるやつ。」
「芦ノ湖の、向こう側?」
興味深そうにしていたなつみが、少し体を前に乗り出した。
「そう。お嬢ちゃん達も行きな。安くてうまいぜ。」

店の名前を聞きだして、あれこれ楽しそうに言葉を交わすさやかとなつみに運転手が顔を緩ませた。
「なに?2人は高校生?かわいいねえ。学校のお友達かなんか?」
「ええ。まあ。」
タクシーに乗り込んでからずっと、2人は手をつないだままだ。
膝に置いた荷物の影になって運転手からそれは見えない。
一瞬自分の目を見たさやかが、急に丁寧な言葉遣いで答えているのがおかしくて、
なつみは思わず吹き出しかけた。
なあに?という表情で片眉を上げたさやかが、かばんの下でつないだ手にぎゅっと力を込めてくる。
なつみは耐え切れない笑いを隠そうと先程から窓に顔を向けていたが、
そしらぬふりのままで自分も負けじと握り返した。

「ほら。ついたよ。ここだろ?」
最後に随分急な坂を上って着いたところは、こぎれいな洋風のホテルだった。
「おじさん、ありがとね。」
笑顔で礼を言うと、開いた窓越しに片手を振ってみせた運転手は旅館の車寄せを出ていった。

ホテルの玄関をくぐりながらなつみが口を開く。
「きれいなとこだねー。みんなに感謝しなくちゃ。」
「うん。」
「ほんと。さやかのぶんも出してもらってねー。」
「う〜ん。ほんと。みんな、アリガトウ☆」
品良く調度されたロビーをフロントへと向かう途中、大袈裟な表情でさやかが感謝をあらわす。
「そのぶんもなっちだけにつかってくれたら、なっちもっと良かったのに。」
呟いたなつみをさやかがふざけて睨むと、なつみは笑いながらあらぬ方向をむいて見せた。

「ナカザワで、予約してあるんですけど。」
カウンターに寄って、フロントにさやかが話し掛ける。
「はい。承っております。」
カウンターの中には揃いのベストを着けたフロント職員が男女各ひとりずつ勤務していて、
静かな笑みをたたえた彼等はそのどちらも感じが良い。
「では、お部屋のほうにご案内いたします。」
キーを持った男性職員が2人の荷物を持って歩き出した。

職員の後に続いて部屋に向かう途中、さやかはやけに緊張していた。
なんでだろう。なっちとはいつも一緒にいるのに。旅行おそるべし。
そう思ってなつみの顔をちらりと伺うと、なつみは普段と特に変わらぬように見えた。
あたしだけかな。そう思って視線を戻すと、にこやかな顔の係員が足を止めて振り返った。
「こちら、723号室になります。」
ドアを開けた係員は手早い調子で部屋の明かりをつけ、適当な場所に2人の荷物を置く。
2人きりの空間。しかもいつもとは違う場所。部屋に入ったことでそれを鮮明に
実感したさやかは更に胸を高鳴らせた。
「それでは。お食事の方は食堂に準備が整っておりますので。できましたらお早めにお願い致します。」
そう言って入り口近くの小さなテーブルにキーを置くと係員は出ていった。

パタン。ドアが閉まる。
部屋はなかなか広い。
クイーンサイズのベッドが2つ。窓際には藤の椅子が2つとそれに組んだテーブルがひとつ。
それ程明るくない照明の中、ぼんやりと照らし出される部屋を、
先程から続く気恥ずかしさを隠すようにさやかはうろうろと歩き回った。

用はないがなんとなく開けてみたバスルームから視線を部屋に戻すと、
なつみはベッドに腰を下ろしていた。
なぜか熱心にホテルの案内に目を通すなつみはわずかに顔を伏せていて、
その長いまつげが影をつくる様子はとても美しい。
さやかが思わず見とれていると、気づいたなつみが顔をあげた。
「さやか。」
ぼんやりとした明かりのなか、微笑んだなつみが自分の名を呼ぶ。
部屋に入ってからなぜか理由もなく遠くにかんじていた彼女に自分が近付くことを許されたような、
そんな気持ちにさやかはなった。

ベッドに座るなつみの前にやってきても尚、視線を合わせられず下を向いていた。
「どうしたの?」
いつもとは違う様子に、座ったままなつみはさやかの手を取り、笑いながら顔を覗きこむ。
「うん‥。ちょっと‥。」
口籠るさやかの両手をなつみは軽く揺さぶった。
「なーに?」
思わず上げた視線がなつみの目と合わさって、あわてたさやかはすぐに視線を逸らし、
顔を横に向ける。数秒おいて、とうとう観念したようにさやかが口を開いた。
「だってさー。なっち今日すっごいかわいーんだもん!なんかどきどきする!」
怒ったようになぜか早口でまくしたてたさやかは、
それだけ言うと照れ隠しに口を尖らせた。
そんな様子がなつみにはとても可愛く思える。
「ちょっとー。こっち向きなよー。」
なつみが再びさやかの手を揺らすと、さやかはやっと顔を戻した。
照れたようなその顔には、それでも満面の笑みが広がっている。
「えへへ。」
そう言ってさやかはなつみに抱きつき、押し倒した。
キスをした後なつみがゆっくり目をあけると、ばつの悪いように笑うさやかの顔があった。
「だってさ。ほんとかわいいよ、今日。だいすき。」
「なっちはいつもと同じだよ?いつもかわいいもん。」
腕の中のなつみがわざとふざけて言っているのは、さやかにもわかっていた。しかし今は
なぜだか何も言う気にならなかった。
ただ微笑んで、そうだね。と応えた。
いつもと違うさやかの受け答えに、調子がくるったなつみは声をあげる。
「ちょっとー、なあにー?つっこんでよー!」
「やーだよー。はずかしがれ。なっちばーか。」
ひどーい。言いながらも笑うなつみの首筋に、さやかは唇をよせる。
思わず行為に熱中しそうになったさやかが、服の中に手を入れてきたところで、
なつみはそれを懸命に遮った。
「ん‥。ダメ‥だよ。さやか。食事、に‥、行かなくちゃ。」
「そうだった‥。」
ため息をついて行為を中断したものの、さやかは尚も名残り惜しそうになつみを抱きしめている。
「続きは、またあとで。」
笑って言うなつみに軽くキスをすると、さやかはその目を見つめた。
「言っとく。寝かさないよ。悪いけど。」
「やだー。なっちはねるもん。」
さやかは体を離すと、軽く受け流すなつみを大事そうに抱き起こした。

翌日。
「ん‥。」
カーテンから漏れる朝日の中、鳥のさえずりで目を覚ましたなつみは、
脇ですやすやと眠るさやかを残し一人ベッドを起き出した。
備え付けの冷蔵庫から水のボトルを取り出し、のどの渇きを癒すべく良く冷えた軟水を一口ふくむ。
コク、とのどを鳴らしてふとベッドのさやかに目をやってみたが、
俯せて顔をこちらにむけたまま健やかな寝息をくり返すさやかは、依然目を開ける様子がなかった。
「ふふふ、すっごい寝癖。ボッサボサ。」
あまりに無邪気なさやかの寝顔に少し微笑んだなつみは、
まだ多少ぼんやりする自分の意識をしっかり覚醒させようとバスルームに入った。

「今日はどこに行こうかな‥。」
熱めの湯を全身に浴びながら、なつみは考えを巡らせる。
「とりあえず、お昼は例のソバ屋でしょ?
 だから、湖渡らなきゃだから、あのフェリー乗って‥。
 あ、気をつけなきゃ。フェリー乗ってる時。
 さやかの事だから絶対やってくる。ほんと気をつけよう。
 やだもん、人が見てる前でタイタニックのまねとか‥。
 こわいよう。あ!そう言えばフェリー降りた所に美術館あるってパンフレットに書いてあったね。
 ジュエリー展やってるみたいだし。
 よし、キマリ。そこ行こう。ちょっと楽しみだわ。そうとなったら早くさやか起こそうっと。」

思いついて急に楽しくなったなつみは、急いでバスルームを出るとさやかの眠るベッドへ近付いた。
先程同様、さやかは依然規則正しい寝息をくり返している。
「さやか。起きて。」
聞き慣れたなつみの声に目を開けたさやかは、しばらくの間目をしばたかせていたが、
やがて意識がはっきりしだしたのか大きく伸びをしてから深い息を吐き出した。
「ん‥。なっち。早いね‥。もう、起きたの?」
さやかはいかにも眠そうに顔を手でしきりに擦っている。
その子供のような仕種に表情を緩ませたなつみは、
ベッドに腰をおろすと寝癖で立ち上がったさやかの前髪の中に優しく指を埋めた。
「うん。はやくごはん食べて出かけようよ。」
「うーん‥。まだ眠いよう。もうちょっと‥。」
そう言って横を向いてしまったさやかに、なつみが覆いかぶさる。
「だーめ。一日は短いの!ね?早く起きよう?」
せかすなつみから逃れるべくしばらく布団の中に隠れていたさやかだったが、
やがて観念したように顔をだすとなつみの身体に腕をまわした。
「わーかったよ。じゃあ、キスして。キスしてくれたら起きる。」
「もう‥。」
不満な口調と裏腹に微笑んだなつみがくちづけると、満足げな表情でさやかはなつみを抱きしめる腕に力を入れた。
「なに?なんかなっちいい匂いするよ。かわいいね。」
「だってさやかが寝てる間になっちシャワー浴びちゃったもん。さやかも早く
支度しようよー。一回きりの青春でしょ。オーイエー?」
一向に起きる様子を見せないさやかがもう一度キスをしようとしたが、なつみが笑顔で遮った。
「おう。いえ〜。」
少し拗ねたように言ったさやかは大袈裟にため息をついて立ち上がり、しぶしぶとバスルームへ向かう。
それを嬉しそうに見送ったなつみは、自分も立ち上がって備え付けのクローゼットから白いワンピースを出した。

朝食を軽く済ませた2人は、足早にホテルを出た。
途中キーを預けに寄ったフロントには、昨日とは違う職員が同じく2人いたが、
よほど行き届いたホテルなのか、そのどちらもまたかんじが良かった。

長い坂道をバス停まで下る途中、随分張り切っているのかなつみはさやかの3、4メートル先を弾むような足取りで歩いてゆく。
それを見ながらついてゆく格好になっていたさやかが突然口を開いた。
「うーん。やっぱさー、」
「ん?」
振り返ったなつみの手には、白く可憐な花が一輪握られている。
道中大きな別荘の石垣の隙間に群生していたもので、その中から一つさやかが失敬してやったのだ。
「やっぱいいわ、そのワンピース。超高原てかんじ。すごいかわいい。」
その言葉に、はにかんだような笑みをこぼしたなつみは、
答える代わりに花を持っていない方の手のひらをさやかに向かって差し出した。
「急ごう?」
「うん。」
朝靄のためぼんやりと霞み、むせかえるほどに強い森林の薫りのなか、2人はやんわりと手をつないで歩いた。

湖の向こう側の美術館。
催しを見終えた2人が外に出ると、太陽はそろそろ真上にきていた。
朝食を急いで軽く済ませたため程よく空腹になっていた2人は、昨日タクシー運転手から聞いた例のソバ屋を目指す。
日射しの遮られた館内から急に外に出たため、まだそれに順応しきれていない両目がかすかに痛んだ。
それにしても----------、
なつみと歩くさやかは白く舗装された道にくっきりと映し出される2人の影を見つめながら先程見た指輪のことを考えた。
あの指輪、きれいだったな。
ジュエリー展に入ってからのなつみはずっと目を輝かせていた。
特に、清らかにきらめく大粒の石を冠し、
控えめで品の良いプラチナの装飾がまわりを縁取った指輪にはことさら心を奪われたようだった。
それは今回の展示の目玉のひとつででもあるのか、大きな部屋の中央の随分目立つ場所に飾られていた。
「この指輪、すごい。キレイ‥。」
そう言って息をのむなつみにさやかも額を近付けると、
数学的な型にカットされたその石は何層にも光を屈折させ虹と同じ色に輝く。
それがとても興味深くて、何度も角度を変えてさやかはその指輪を見つめた。
なっちの指にあったら、もっと綺麗なのかね。

「あ!あそこじゃない?」
考え込むさやかの腕をなつみが引っ張る。
我に帰ったさやかが顔をあげると確かに聞いたものと同じ名前を掲げたそば屋の看板が目に入った。
「あ、そうだね。」
「やーん。ほんとにあったねー。」
両手を胸の前に組んだなつみがきゅーっと目をつぶる。
「なっち、何食べる?」
「なっち天ざるー!取りー!」
はしゃぎ気味に言うなつみにさやかの気分も高まった。
「えー。あたしも天ざる食べたい。なっち違うのにしなよ。」
「やだよー。てゆうかいいじゃん。おんなじの頼もうよ。」
「いいよ。じゃあ。」
訳も無く不機嫌な素振りで答えてみせた。

昼時であったため少し並んで席を待った2人は、結局違うものをそれぞれ頼んだ。
たった今、先に運ばれてきた炭酸入りのソーダにストローを差し込んだなつみが言う。
「いいの?さやかは鴨南蛮で?」
「いいよ。だって鴨好きだもん。」
答えたさやかは淡いみどり色をしたソーダを一口飲んだ。
ひさびさに飲みたくなって注文した炭酸はとても冷たく、そしてどこか懐かしい味がした。
「ほんと好きだよねー、お肉。この暑いのに南蛮てどう?ってかんじだけど。」
「いいんだよ。クーラー効いてるし。そんな事言う人にはあげないもん。」
「うそ。ごめん、ちょうだーい。」
わざと口を尖らせるさやかになつみが笑う。
「いいよ。そのかわりエビちょうだい?」
「えー、イヤに決まってるでしょ?あんたエビだよ?わかってる?」
語気を強めながらもなつみはとても楽しそうだ。冗談にきまってんじゃん。
笑いながらそう言って、さやかはまた炭酸を飲んだ。

「ふう。食べたね。」
エビの天ぷらは結局2本盛られていた。
そのうちの一本と、他にもなつみが食べ切れなかったなすとししとうをたいらげたさやかが、
ふくれたお腹をさすって言う。
「そりゃね。これだけ食べればね。」
満足げにため息をつくさやかを、微笑ましく思いながらなつみが言った。
「まあね。」
ニヤリと笑ってさやかは答えた。

しばらくたって伝票に目を落とすさやかが決めかねる様子で口を開く。
「ねえ、なっち。これからどうする?どっか行きたい所とかあるの?」
「うーん。特に。あ、お土産とか見よっか。なっちのやついくら?」
「1400円。あー、そっか。みんなに買わないとだよね。」
「うん‥。」
この旅行をプレゼントしてくれたみんな。
その事を考えるとなつみはとても幸福な気分になる。良い友に恵まれた。
感慨に浸っていると、それを察したさやかが穏やかな笑顔でなつみを見つめていた。

人でにぎわう高原の観光地を突然の激しい雨が襲ったのは、
あらかた土産を買い終えた2人が商店街をそのままフラフラ歩いていた時のことだ。
照りつける午後の日射しをゆっくりと遮った灰色の大きな雲はやがてぽつりぽつりと雨粒を落とし、
間もなくそれはバケツをひっくり返したようなどしゃ降りへと変わった。
「ぎゃー。」
あまりの雨足に叫んださやかは土産の入った大きめの紙袋をなつみの手から素早く奪い取って、
そのままもう片方の手でなつみの手を掴むと大慌てで走り出した。

「夕立ちだよ。まいったね。」
雨をよけて逃げ込んだ適当な軒先で、息を切らせたさやかは肩を弾ませて言った。
「お土産、濡れてないといいけど‥。」
少し濡れた髪を整えたなつみは不安そうに紙袋を覗く。
「平気だよ、少しくらい。それよりはやく雨やまないかね。」
辺りの景色を霞ませる程、激しく降る雨の勢いは依然衰えず、
頭上ではアーケードの屋根が大きな雨粒を跳ね返してぼとぼとと大きな音を立てていた。

ため息をついたさやかがふと後ろをふりかえると、
ぴかぴかに磨かれたショーウィンドーの中にこぎれいな椅子とクッションが陳列されている。
その奥にわずかに見える店内には、なにやらよさげな雑貨がいろいろと置かれているのが目に入った。
わけもわからずに逃げ込んだこの軒先は、どうやらギャル向けのこじゃれた雑貨屋のものだったようだ。
「んー?なんかここ、いいかんじ。見ようよ。」
さやかが声をかけると、空を見上げていたなつみも振り返った。
「あ、ほんとだ。ふーん。こんなお店があるとはねー。」
「よいしょ。」
地面の濡れていない場所を見つけて置いた紙袋をさやかが再び持ちあげ、2人はその店のドアを開けた。

中に入ってみると店内は思いのほか広く、充分なスペースをとってそれぞれ並べられた商品は観光地にあって尚、
なかなかのセンスの良さを見せている。
意表をつかれた2人がなにげなくカウンターに目をやると、鼻にピアスを開けた店員がニコリと微笑んだ。

しばらくしてさやかはクリアパッケージに入ったきれいなきみどり色のビーチサンダルを手にとった。
800円。8月もそろそろ後半にさしかかり今さらビーサンを買うのもどうか。と、少し迷ったが、
フレンドリーな値段に負けて結局買うことにした。
顔を上げてなつみを探すと、なつみは店内の奥の方にいて、
プラスチックで編まれた色とりどりのカゴをひとつひとつ 手に取っては熱心に選んでいる。
おおかた店内を見終えてしまって時間をもてあましたさやかは、偶然目に入った壁側のガラスケースへと寄った。

「ユビワ。ね‥。」
それほど大きくないガラスケースの中には、かわいらしいアクセサリーの類がそれでも多数収まっていて、
なかでも一番数多く揃えられた指輪に目を止めたさやかはひとりそう呟いてしばらくそれらを眺めていた。

「さーやか。」
そうしているうちになつみがやっと気がすんだのか、オレンジ色のカゴを手にさやかの元へと寄ってくる。
「なーに?指輪なんて見て。あ!もしかして買ってくれるとか!?」
「死ね。」
なつみの軽口にさやかが笑いながら答えた。
「な〜んてね。ほんとに買ってあげるよ。どれがいい?」
冗談のつもりが、さやかの予想外な返事になつみは目を丸くして言う。
「え?いいよべつにそんな。なに?どうしたの?」
「うーん、なんとなく。なんかさ、あげたくなった。」
平気な顔でそう言うさやかに、なつみは尚も繰り返した。
「なーんなの?いいって。そんな。悪いよ。」
依然として遠慮するなつみに、さやかはわざと意地の悪い表情をつくって見せる。
「なに、嬉しくないの?」
「や。いや。嬉しいけど。でもぅ‥。」
それに動揺したなつみが、慌てて首を振る。その素振りに満足したさやかはにっこり笑った。
「ならさっさと選べコノヤロウ。」
ほんとにー?さやかはそう言いながらガラスケースに目を落とすなつみを喜色満面の
面持ちで眺めていた。
とまどいながらもやがて本気で品定めを始めたなつみは、赤い唇を心持ち上向かせている。
そのいかにも真剣な横顔は、なにやらとても可愛らしかった。

「じゃあ、コレ。」
そう言ってなつみが指差したのは、銀製のシンプルな指輪だ。
回りにはそれと組んだ他のアクセサリーがいくつか揃えられ、ひっそりとケースに収まっている。
シンプルでありながら柔らかな照明に照らされ楚々とした輝きを放つその指輪はきっと、
幸福ななつみの笑顔にとても似合うだろう。そう思った。
「あ、それ。あたしもいいと思った。」
そう言ったさやかの目を一瞬意味ありげに、かつ楽しげみつめたなつみは、再びケースに目を落とす。
「でね。これとお揃いのこのアンクレット、さやかに買ってあげる。なっちが。」
「は?」
意表をついたその言葉に今度はさやかが目を丸くすると、すでになつみは店員の座るカウンターへと体の向きを変えていた。

なつみに声をかけられた店員が、カウンターの下からカギを取り出してこちらに向かってくる。
鼻にピアスを開けている彼女はその人なつこい笑顔のせいか、随分気さくな印象を与えた。
程なくしてケースを開けた店員が、そのままの笑顔でなつみに聞いた。
「どれ?」
「これと、これ。」
目を輝かせたなつみが嬉しそうに指をさす。
「あー。かわいいよねー、これ。」
そう言って取り出した指輪を、店員はなつみの手のひらにのせる。さっそくはめてみる
なつみの様子に笑いつつも、続いてアンクレットを取り出した彼女はさやかに向かって微笑んだ。
「こっちは、アナタ用?」
いったい何が起きているのか。
全く理解できず、呆然と目の前の2人を見つめていたさやかは、店員に声をかけられてようやく我をとり戻す。
それでも依然として驚きは消えず、
とまどった目でなつみを見た。
「いいのに、そんな、べつに。」
「ううん。なっちがあげたいの。お揃いでつけよう?」
すごいかわいー。そう呟きながらなつみは手をさやかの目の前にかざして見せる。
そんなやりとりを見守っていた店員が、交互に2人を見比べた。
「なになに?なにやらあやしいねー。さては付き合ってるでしょ?」
にやりと笑って片眉を上げた店員に、なつみが冗談めかした表情でこたえた。
「そ。デキてるの。うらやましい?」
微笑ましいなつみの口調に破顔した店員はさやかの背中を軽く叩いた。

「ホラ。くれるって言ってんだからもらっとけって。
 しょうがないからほんのちょこっとなんだけど、勇気振り絞ってオマケとかしてあげるし。」
そうウインクして見せる店員に目をかがやかせたなつみが声をあげた。
「え!オマケ?」
そのまま向き直って、嬉しそうにさやかの目をみつめる。
「ね、そうしようよ。それとも他のやつがいい?」
きらきらした目で自分を覗き込むなつみに、さやかもついに顔をほころばせた。
「じゃ、それでいい。てゆうか、それがいい。なっちが選んだやつ。」
少し頬を赤らめたさやかがそれでも嬉しそうに言うと、なつみと店員は顔を見合わせて微笑んだ。

知り合いに、似てるの--------、そう言って笑った店員は結局20%も割り引きしてくれた。
笑顔の2人がようやく店を出る頃、あれ程激しかった雨はすっかり上がっていて、
何事もなかったように再び輝く太陽の下,あたかもフィルターを一枚はがしたように全てははっきりと、
辺りの風景は鮮明さを増して映った。

陽はまだ高かった。生気を取り戻した木々の葉があまりにもきらきらと瞬くので、
それに誘われるようにして2人の足は自然と緑豊かな小径へと向いた。
表通りからたいして離れてもいないそこは、それでも随分静かで、
時折思い出したように吹く風がなつみの白いワンピースをひらひらとはためかせた。

「のど渇かない?」
歩き出してから半時も経った頃だろうか。さやかはなつみの声で足を止めた。考えれば昼からずっと立ち通しだ。
「そうだね。ちょっと疲れたしね。どっか入る?」
なつみの顔ごしに周囲を見渡したものの、静かな裏通りにそれらしき店は見当たらない。
「何もないねー。この辺。戻ろっか?」
そう言ったさやかが表通りへ向き直ると、なつみがその服の裾を引っ張った。
「ねえ。」
「ん?」
「なんかあそこに公園みたいなのがあるよ。」
振り返ったさやかがなつみの指差す方角に目をやると、
いくつかの建物の向こうになにやら広場の入り口ようなものが見えた。
「ほんとだ。」
目を凝らすと、古びた鉄製の柵で囲まれたその場所は、
いかにも柔らかそうな芝生があおあおと植えられていて、見るからに居心地が良さそうだ。
「あそこにしない?」
「いいよ。」
さやかがにーっと口角を上げて笑うと、なつみは更に手前の自動販売機を指差す。
「ホラ。あそこに飲み物もあるね。」
「うん。」
楽しげななつみの表情に、さやかの目はますます細くなる。
うきうきした足取りで2人は進んだ。

プシュ。
ジャスミン茶の缶を開け、その3分の1ほどを一息に飲んださやかが
大きく息をつく。
「ふう。ウマイ。」
手の甲で口元を拭うその男前な仕種を見て、なつみが笑みをこぼした。
「さやか、超おやじっぽいよ。もしくは仕事後の裕ちゃん。」
公園は、入ってみると奥の方にそれほど大きくない清流が流れていて、
両岸には上の山から運ばれた大小の岩がごろごろと転がっていた。
それら石の堆積の中からひときわ大きく、
平らで座り心地が良さそうな岩に腰を下ろした2人は、目の前を流れる透明な水を眺めながら渇いた喉を潤した。

「はじめてだね、お揃い。」
サワガニをとる地元の少年達が数人、向こう岸で派手に歓声をあげる。
その様子をぼんやりと眺めていたさやかに穏やかな口調のなつみが話しかけた。
「うん。うれしいね。」
返事をしたさやかが目を向けると、手につけた新しい指輪をなつみは宙にかざしていた。
「でも、なんで?うれしかったけど‥。
 急に買ってくれるって言ったからびっくりしちゃた。」
「うん。でも結局、なっちもあたしに買ってくれたからさ‥。なんつーか、おあいこだね。」
「さやかがくれるって言ったから、それならなっちも。って思ったんだよ。
 でもほんとにどうして?あんなに突然?」
「うーん、なんかさ。約束みたいなものが欲しかった、ってゆうか。」
「約束?」
そう声に出して、なつみはさやかを見た。
ぽつりぽつりと選ぶようにして言葉を紡ぐさやかは、なんだかとても大事な事を話しているように見えた。

「うん、やくそく。
 なんかね、その指輪みたらなっちさ、あたしの事思い出すでしょ。
 いつでも。どこでも。」
静かでゆっくりとしたさやかの口調は自分には見えない遠くの何かをじっと見つめているようで、
急に不安になったなつみはさやかの腕をぎゅっと掴んだ。
「え?どっか行っちゃうの?」
「ううん、どこにも行かないよ。けど、」
「けど?」
尚も生真面目な表情でなつみはさやかを覗き込む。
そんななつみの様子はさやかは胸を穏やかに満たした。
「けど、なんか。
 そういう証拠みたいなやつを、なっちに持ってて欲しかったんだよ。」
「うん‥。たいせつに、する。」
そう言ったなつみは下を向いてしまって、華奢な肩に遮られたその表情はさやかから見えない。
俯いたせいで顔を覆った柔らかな髪を小振りな耳にかけたあと、表情を隠したままのなつみは囁くように呟いた。
「さやかもアンクレット大事にしてよね。なっちがあげたんだから。
 なっちのモノっていうしるしなんだよ。、」  
「うん。決まってんじゃん。嬉しかったんだよ。ほんとに、すごく。
 ありがとう。」
そう言ってさやかが微笑むと、岩の下からなにかの拍子で水滴が跳ね上がり、その足飾りのついた右足をかすかに濡らした。

とりかこむ全てのものは、ともすれば閉息感すら伴うようにしてさやかを包んでいた。
絶えることのないせせらぎ、頭上で鳴く鳥の声、そして隣に座るなつみ。
全てが完全で、全てが独立していた。
時折軽く前髪を揺らして去る風に、その圧倒的幸福のなか心地よい疲労を感じたさやかは、
自分の背負っていたかばんを枕にして石の上にあおむけで寝転がった。
見上げた空は随分高く、輝く太陽は目を閉じても尚その存在を感じることができた。

いつの間にか眠っていた。肌寒さを覚えて目を醒ますと、さやかの体にはなつみのカーディガンが掛けられていた。
脇を見てもなつみの姿はなく、太陽はいつしか西に傾いて周囲の景色は随分朱みを帯びている。
ハッとしたさやかが起き上がると、なつみは水際で流れに足を浸していた。

「なーっち。」
安心して胸を撫でおろしたさやかが、その後ろ姿に声をかける。
「あ、さやか。起きたの?」
今まで眠っていたせいなのか、振り返るなつみの表情がひどくまぶしいものに思えて、思わずさやかは目をこすった。
「うん。どれくらい寝てた?」
「うーん、一時間弱かな。」
「ふーん。起こせばいいのに。ヒマだったでしょ。」
そう言ったさやかが脇に腰を下ろすと、なつみは楽しげに微笑む。
「うん。でも、さやか良く寝てたからさ。べつにいっかとか思って。」
「目開けたらいないから、びっくりしたよ。」
そう言ってふと目をやると、騒がしかった少年達はすでに帰ってしまったようで、
その中の誰かが置き忘れでもしたのか空っぽの虫カゴが川を隔てた岩のかげにぽつんとひとつ置かれていた。

「寒くないの?」
川からあげた足をハンカチで拭くなつみにさやかが言った。
しばらく水に浸けられていたなつみの足首は、いつもに増して白い。
桜貝のようなその小さな爪がふいにひどく儚く思えて、無意識にさやかは手を伸ばしていた。
「寒いよ?あっためてよ?」
さやかの指先が触れると、冗談めいた口調のなつみが上目遣いで微笑んだ。

帰りのフェリーは、それ程待たずに乗ることができた。
すっかり薄暗くなって藍色めいた景色の中、遠くの岸辺に見える観光街の明かりはそれほど華やかなものでもなかったが、
水面にうつる影と共に可憐に揺らめくその姿は、見つめる者の内に郷愁にも似た何かを誘った。
なつみの横で船の手すりにもたれ、それを眺めていたさやかの胸も、等しくその同じ思いで溢れた。

沸き上がる不思議な感情にとうとう苛立ったさやかが目を反らすと、
つないだなつみの手の指輪と足飾りのついた自分の足が、俯いた視線の先に目に入った。
揃いのそれらはまったく揃っていて、輝き具合もまるでぴかぴかと揃っている。
それを見ていたら先程までのおかしな感情は消えた。
----勢いついでに例の映画の真似でもしとくか。一応。----
そう思ったさやかはなつみの背後にまわろうとして、やめた。
なつみが許すはずもない。そんなことはわかっているのだった。

                  おわりです。