
Access to Inner Worlds
★『右脳の冒険』★
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第一章 左脳意識を超えて
第二章 フィンランドの十日間
第三章 「もう一人の自分」と接触する方法
第四章 幻視的意識への道
第五章 消極の自由から積極の自由へ
第六章 一世紀に及ぶ誤解
第七章 内宇宙への道
電話でアルバート・カミュが死んだという話を聞かされたコリン・ウィルソンは、その事実を受け入れてもどこか奇妙な感情が生じていた。彼の反応も『異邦人』の主人公ムルソーのように不条理なものでしかなかったのだ。このような意識の状態はウィルソンの歓迎するものではなかった。その後、ウィルソンはマスロー心理学の発見をして思想的転回を行っていたが、さらに、一人の研究者との出会いが実践的な意味でこれまでの問題を解決するための重要な鍵を発見することに……
1981年、ウィルソンはフィンランドのヴィイッタキヴィ・センターというさまざまな宗教から有機農業まで教える学校でのゼミナールに招かれ、彼は休暇をかねての旅行のつもりで出掛けていった。彼はそこでヘンリー・ジェイムズに似たアメリカ人講師のブラッド・アブセッツに出会う。ブラッドは彼の発見した自動筆記を使って「集中」と題するいくつもの詩を書き上げていた。ウィルソンはあまり乗り気がしなかったが、読んでみてすぐに驚かされることになった。ブラッドの詩からウィルソンはアダベルト・シュティフターの自然描写を連想し、ユングの能動的想像力の一つの成果だと看做した。ウィルソンはブラッドとの出会いを契機にして『右脳の冒険』を書き上げることになったのである。
ウィルソンが引用しているブラッドの詩の断片を以下に挙げておくことにしよう(pp. 63-5)。
* * * * *
私の内部から脅威が除かれると
世界は明るい見通しでいっぱいになる。
世界から脅威が除かれると
私は世界でいっぱいになる。
* * * * *
悲しみが私の内にある
私の内なる風景をぼやけさせる
低くたれこめた灰色の霧のように――
私の内なる裂け目から立ち昇る
まといつく青い煙のように――
私の内なるうつろな部屋にこだまする
憂鬱なメロディのように……
* * * * *
朝の潮が引いて
岸辺はすべすべときれいに洗われ
早起きの鳥たちのくっきりと刻まれた足跡さえすがすがしく
遠くの水平線は
ゆったりと波打ち
内面の海景を寸分の狂いもなく反映する。
カモメが一羽
朝の海の静かな灰色の表面に突き出た
ただ一本の杭の上に
片脚でじっと止まり
まばたきもせず静かに
消えゆく霧をすかして
外なる無限の方を見つめている。
* * * * *
読んでみると、確かにここには独特のゆったりとしたペースがあり、われわれの無意識の心の流れがうまく描かれているような気がする。皆さんはこの詩を読んで、どんな感想を持つだろうか?
このような詩をブラッドが生み出す原因になった彼の精神的危機については、第三章の「「もう一人の自分」と接触する方法」の中で詳しく論じられている。ブラッドと妻は養子をもらったのだが、その子供が突然発病して急死してしまい、その結果として、彼の家庭は破壊的な衝撃を受けてしまうことになったのだ。ブラッドがこの追い込まれた状況からどのように回復を果たしたのか……。
『右脳の冒険』はウィルソンの作品の中でも特に文学的な意味で傑作ではないだろうか、と私は考えていた。こういう見方はひそかに広がっているものなのかもしれない。その後、私はハワード・ドッサーの評論『コリン・ウィルソン』を読んで、彼もまたこの作品を高く評価していることを知った。
私が評価するのは、1.『性日記』の思索表現、2.『アウトサイダー』以来の評論、3.『超能力者』の三人の奇妙な人物や『性のアウトサイダー』の冒頭部分のシャーロット・バッハへの取材に基づいたエッセイ、という三つの表現形式を、ウィルソンがこの作品でみごとに一体化してみせたことにある。更に、文学における表現の問題だけではなく、ブラットの体験から考察されるようになったウィルソン流の「アクティブ・イマジネーション」論がなかなか面白く、形式と内容が非常にうまくかみ合っているのだ。話の展開は読者を引き込み、彼の思考の流れに浸っているかのような爽快感がある。初期ウィルソンの硬い表現が消失して、彼が文学作品で培ってきた成果が見事に生み出されたといえるだろう。単純に彼を賛美するというつもりではなく、この部分の正当な評価を与えることがウィルソンの見方を変えることになるのではないだろうか。
コリン・ウィルソンの読者は一度は必ず読んで欲しい作品です!