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| 著者名 タイトル 出版社 値段 ページ数 |
心に残った言葉 | コメント |
頼藤和寛 『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』 文藝春秋新書 \660 198ページ 2001.4.20発行 |
前著『人みな骨になるならば』を書いた直後、ガンが見つかった著者の、ある意味、筋を通した本です。 検査、手術、抗がん剤、民間療法、インフォームド・コンセントなど医学的な対処の仕方も詳しく載っているけれど、それ以上にはっきり述べられているのは著者の考え方(死生観)ですね。「私は『認識の鬼』でありたい」最後まで自分の流儀を貫いて逝かれました。 ・そのうち死ぬといってもちょくちょく楽しいこともあるし明るい知らせもある。もっともこんなことは健康な者にもあてはまる(「そのうちしぬのだんが、ちょくちょく楽しいこともある」というのが万人の人生である)から、全人類共通の原則なのだけれども。 ・医療スタッフ側にすれば、ゼニもくれない、プライドもくすぐってもらえない、その上忙しいわ責任重大だわ、ということになると、よほど仕事そのものが面白いか人道的な自己満足が得られるかでもないかぎり本気で仕事に打ち込めないであろう。そして、この「仕事そのものの面白さ」と「人道的な自己満足」は、ともに医療スタッフの手弁当なのである。要するに、社会は「何一つ間違いを犯さず一所懸命に患者を救え、そして世の中は報わないから自分たちで勝手にやりがいを確保せよ」と医療従事者に命じているようなものだ。・口先で言っているほど立派でないのは医療サイドばかりではなく、患者側も負けず劣らず身勝手なのである。 ・書くことがなくなったとたん、わたしにはなにも残されていなかったのだ。書肆も校正刷りも装幀もどうでもよい、それどころかほんにならなくてもよい、とにかく書いていないと空しいのである。これまで書くことが考えることであり表現することであり、そしてなにより自己確認だった。 いやもっと正確に言えば宇宙の虚無を紛らせてくれる活動だった。わたしもまた「倒れないための松葉杖」として、とにもかくにも重いわ文章化していく作業が必要な人間なのだろう。 ・M.ルターも言ったように、明日世界が滅びるとしても今日木の苗を植えるといった気持ちが大切である。ただし、その人にとって木を植えることが楽しくなければならないであろう。すなわち、無駄を覚悟でもなお将来を目指し、さりとて現在を犠牲にするでもない営みこそが、最後までわれわれに残される最良の選択肢なのだ。 ・記憶が失われ、写真を見る側がいなくなる。ということは、見られるものと見る者が出会った「今」しかないのだ。雲だけではない。同じ事も同じ物も、二つとない。世界は、「今」取り逃がすと永遠に取り返しのつかないことばかりから成っている。 ・自分以外の全てが消滅したあとに自分が成立するわけはないからだ。われわれの「自分」というのは、自分を中心にした関係の総体である。そして「死」は、その中心が抜けてしまうことなのだ。 亡くなられたときの記事が、こちらにあります。 http://www.sankei.co.jp/databox/bukko/html/2001_0412yorifuji.html |
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村上龍 『「教育の崩壊」という嘘』 NHK出版 \1300 293ページ 2001.2.25発行 |
今回忘れられない言葉はこれ! ・いつかは子供は大人になるということです。大人になるとはどういうことか。生活していかないといけないんです(村上龍) ・「10歳まで社会が子供を守れなかったら、その子供から社会を守らなければならなくなる」(三沢直子) ・彼ら(日本のエリート層)には、ある程度恵まれた環境の中で成長して、ここに座っているということに自覚が薄いですからね(小川洋) やっぱりそうかってのが第一の感想。いや、理性はね、「落ち着け」と言ってるのですよ。「ンなあっさり村上龍の誘導する方に行ってどうする?」と冷静にね。 でも、やっぱりアツくなっちゃう。特に、次の世代の育成に金を惜しもうって方向にはね。 競わせて生き残ったものだけに褒賞をやろうというのはさもしい。自分たちを継ぐ者たちを、弱肉強食の地獄に置いて、どうしようというのだろう。経済コストで教育や育児を語るなら、「子育てなんて割が合わない」になってしまう。というか、かけるべきコストの方向を間違えてるとしか思えない。 今、搾取される一方の層と恵まれた状況を自覚していない層が並立している。 そして、どちらの層も、相手が悪いから自分たちは割を食っていると思っている。 その行き着く先は目に見えている。アルカイダは、決してアフガンだけの問題ではないだろう。 つーことを、上は見ようとしないのよね。自分たちには関係ないと思っているからっ!関係ないですむものかどうか。ある日突然、自分たちのいるビルが爆破されてからでは遅いと思うのだけどね。 |
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柏木惠子 『子どもという価値』 少子化時代の女性の心理 中公新書 \840 236ページ 2001.5.15発行 |
うーん、そうなんだよねぇ。子どもが変わった――それは親が、特に母親が変わったということ。 良いも悪いも無い、状況が変わったら、人間変わるんだということを、ヒョーロンカって方達やモンブショーってお役人は、ちっともわかっちゃいねえの。ンでマザコン丸出しで、「昔の母親は」なんて言い出すの。子供を産んだってだけで、ふつうの女がいきなり“聖母”になれるわけないじゃないかぁー。 こほ、失礼。でも、結構目から鱗な本ですのよ。 ・子ども保険が欧米で始まった当初は、今日の教育資金積み立てという趣旨とはまったく違ったものでした。なんと子どもが死んだときに、子どもが稼いでいたものがなくなってしまって親は痛手だ、それを保険で穴埋めしようという発送で始まりました。 ・人口学者ランドリーは、近代の人口の特徴〈少産・少子〉が成立したことを人口革命と呼びました。 しかし私は、〈少産・少子〉という目に見える現象以上に、医学の進歩の影響が人間の生殖、身体のみならず、前述のように人々の感情や態度、心理にまで深く及んだことに注目し、そのことこそ、人類初の人口革命の核心であることを強調したいと思います。 ・(略)暖かさや支援、世話を受ける側の人は満足しても、支援を提供する側にとっては家庭は必ずしも居心地よい場ではありません。女性にとって家庭はむしろ拘束の場となりかねません。このような家庭のありようが、女性に個人化を強く求めさせることになった背景でしょう。 ・そもそも道具の開発・使用は、単なる生活の便宜以上に使用するものの心や行動を変えるものです。 “濡れてもサラサラ”の紙おむつの開発・普及が、育児を便利にしただけでなく、母親の育児行動やしつけなど子どもへの心理も変えつつある、さらには子どもの発達も変化させるのと同様です。道具が心を変える。これは人間の発達ならではの特徴です。 |
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村上龍 「『希望の国のエクソダス』取材ノート」 文藝春秋 \1143 221ページ 2000.9.10発行 |
・「希望の国のエクソダス」ってタイトルだけど、それは日本を脱出して楽園を探すんじゃなくて、今の日本を支配している不条理なシステムから脱出しようということなの。(村上龍) ・まずは体験する機会をつくるのが教育の本義だと思います。(寺脇研) ・だいたい金融市場がこれだけ不安定な状況で、個人の「自己責任」で銀行を選びなさい、といったって無理に決まってるんです。問題の建て方が逆なんですね。一人ひとりでは背負えないリスクを、社会全体でシェアする仕組み、つまりセーフティーネットをいかに構築するかということが求められている。「弱い個人の仮定」ってそういうことなんです。(金子勝) ・援助交際も臓器売買も市場原理に他ならないんです。自分の体に値段がつけば、その瞬間自分の体は誰とでも交換可能になっちゃう。自分固有の領域がなくなる。するとその領域を守ろうとするばかりで、外に開いていかない。(金子勝) ・恐ろしいことに他者に共感できない、つまり他者の存在を認めない子供が今、次々と事件を起こしつつある。かといってフェース。トゥ・フェースのコミュニケーションを、といったって町内会と何が違うんだという話になっちゃいますよね。(村上龍) ・今の若い人たちを見ていると、少なくとも表面的には非常に友達というのを大事にしますね。キツいことを言って相手を傷つけることをすごく恐れている。友達が目標化してるんですね。(北野一) |
タイトル通り「希望の国のエクソダス」のための取材ノート。 村上龍が出会った大勢の人々の情報がここに並べられている。 あまりに巨大になり、その輪郭など分からなくなってしまった現代。ここに現れる人々も多彩で、人の営みがどれほど広がってしまったのか、よく分かる。 専門外の事象、情報との格闘を村上龍自身は、次のように言う。 ・「抗体の受容体が異物を捉えるときのように何かがカチリと合う瞬間が訪れる。彼らの情報を物語が捉える瞬間だ」 実は小説は読んでない。おまけに経済とか銀行の項は、全然分からなかった。(「・・) でも、村上龍は無視してはいけない作家だと思う。売れてるとかではなく、私にとって必要な部分を持っている気がする。 |
対談集 宮台真司+香山リカ 『少年たちはなぜ人を殺すのか』 創出版 \1600 237ページ 2001.1.15発行 |
・従来の共同体的コミュニケーションに溶け込もうとしたら、それこそ分裂してしまいそうな人間が「情報化」の中で救済されます。 けれど逆に、「情報化」の中で育った人間が、共同体的コミュニケーションに溶け込めず、激烈に疎外されます。 「ネオむぎちゃ」は、そんなハザマにあって、残念ながら「情報化」の中で救済されるのに必要な「作法」を知らなかったし、また過剰に田舎的な状況下で「善意」からも見放されていた。要は「作法」と「善意」の両方が必要だと思うんです。 ・彼らは早仕舞いなんですよね。十四や十五でもはや「自分には将来はない」などと結論を出している。もうちょっと待ってよと言いたくなることがある。 ・地方と都市との間には、以前と異なるギャップが拡がっています。かってと違って、情報は、雑誌やインターネットでどこでも同じように取れるようになり、地方も都会もまったく同じ欲望を持ちます。 ところが同じ情報にアクセスできても、周囲に同類の人間を見いだせる可能性、惹起された欲望を充足する手段を見いだせる可能性に差がある。 ・(映画)『ユリイカ』で僕が受け取る倫理はそれより進んでいます。 その子たちの一部がたとえ鬼畜だったとしても、それは僕たちの社会が、つまり僕たちが生み出したものである以上、実効性とは無関係に、抱き留めなければいけないという倫理です。 ・私たちの愚かさゆえに私たち自身が苦しむのであれば、もはやそれはどうしようもないことだ。しかし今や私たちの愚かさは、明らかに他者たちを――少年たちを――巻き込んでいる。 それは何度も言うが、倫理的に絶対に許されないことだ。 |
栗本薫の『ゲルニカ1984年』を思いだした。 はっきりとは覚えてないんだけど、SFマガジンに掲載されて読んだときはショックだった。 その時、時代はバブルの真っ只中だったことを思えば、栗本薫は間違いなく優秀な《炭坑のカナリア》だった。 生まれてくる子どもたちが人とは思えない異形の者ばかりとなった時、人は自らの子どもたちを殺していく。 「このような化け物が自分の子であるはずがない」と。その中で、四肢を持たずに生まれた孫を見殺しにしたことを悔やむ老学者の述懐。 「あれは間違いなく私の孫、命をつなぐ者であったのに」 「無いのなら、補ってやるべきだった。我と我が血を継ぐ者を否定したとき、我々の滅亡は決定されたのだ」 現実を目の前にした時、自分と違いすぎる者を受けとめるのは、とてもとても難しいのだけど…… 不思議でならない。なぜ、自分とは関係ないこととして子どもたちの問題を突き放すのか。 子どもは、私たちの現在を未来へつなぐ存在であるのに。 それを否定してしまったら、私たちの社会も文化も、現時点で切れてしまうのに。 それを覚悟して言っているのだろうか。 そりゃあ、子孫を残すという道を選ばなかった私に、んだかだ言う権利はないかもしれないけど…… |
藤原智美 「家族を『する』家」 「幸せそうに見える家」と「幸せな家」 プレジデント社 \1500 254ページ 発行 2000.7.19 |
・「どうして、私が傷つくようなことをいうのよ!」(中略)正しいか間違っているか、良いか悪いかと言うより割きに、なにより自分を傷つけている人物をとがめようとする言葉である。 ここでは「それはあなたが間違っているから、こんなことをいうのよ」といい返すことはできない。相手を傷つけてしまえば、それで負けなのだ。 ・(泣きじゃくるわが子にたいして、冷ややかと感じられるほどの親)という光景を目の当たりにしたとき、子どもの自立を促す姿勢をとりながら、実は子どものためというよりも母親自身、父親自身のためであり、自分の時間と世界を、わが子といえども「他者によって崩されたくない」という彼らの意識がかいま見えるような気がするのだ。 ・「正しいかどうか、が問題ではないと思うんです。理想があるかどうかなんです。『理想を追い求める』ことによって『現実を把握』できる。現実のいたらなさを『自覚』できる。 |
親子とか文化に関連して読んだ本です。 すらすら読めたんだけど……なんだか、そのすらすら加減にこの本の限界があるような気がしました。 いいとか悪いとかじゃなくて。上手く言えないのだけど。 ピックアップされる事例や言葉の一つ一つはすごくポイントを突いていると思うのに、その先の展開が私にはなじめない…… 理由の一つとして、ここでイメージされる『家族』が夫婦と子どもを含むもので、それ以外の形は排除されているということがあるかもしれないけど。 性的親和力というものが、家族のキーポイントであるとする点かしら? 誰か、この据わりの悪さを説明してくれないかしら。 |
長山靖生 『父親革命』 新潮社 \1300 216ページ 200.8.30発行 |
・今、父親が考えるべきなのは、、「父性の復権」などというケチなことではありません。父親としての自分の面子や、立場なんて、どうでもいいのです。何が本当に子どものためになるのか。父親がそのことを真剣に考え、行動するなら、復権すべきものは自ずから復権するでしょうし、創始されるべきものは自ずから創始されます。 ・父親に勝つ――。勝ってしまう。それは子供、事に銅製である男の子にとっては、人生のひとつの目標であると同時に、恐るべき瞬間でもあります。父親に勝った瞬間、男の子は、自分がもう子供ではいられないことを知るのです。いつか自分が、父親の立場に立つことを自覚するのです。 ・父親は、戦い続けなければ行けません。しかしそれは、勝つためではなくて、いずれ自分が敗れ去る為なのです。 ・なんの苦労もしないだけでなく、なんの苦労もしないでいることに、ぜんぜん罪悪感がないというのは、苦労している人間にしてみれば、腹が立つものです。たとえ当人が、悪いわけでなくとも。 ・今や現代社会でもっとも差別されているのは、ふつうのひとです。事に若者は「ふつう」をけんおしています。だが、「ふつう」はつまらない、「ふつう」はいやだという時、彼らは「ふつう」というレベルを否定しているかのように見えますが、といって「ふつう」がいらないと考えているわけではないようです。むしろ彼らにとって「普通」華により当たり前の大前提であり、自分に天賦された所与のものにほかなりません。もちろん、そんな考えは幻想に過ぎないんですけど。「ふつう」というレベルは、「ふつうの人」が不断の努力をすることによって漸く切り開かれ、獲得され得るものです。だがしかし、「ふつう」を前提に育ってきた人々はそれを知らない詞ね学校でも家でも、誰も、そんな当たり前のことは教えてはくれません。 ・(柳美里『ゴールドラッシュ』の)少年はどこにでも行けるし、親の金で何だって出来ます。しかし、彼は結局どこにも行けないのでするなぜなら、目的は買えないからです。目的を持たない者が、どこに行くことができるというのでしょうか。 ・どのような家に生まれようと本人の努力次第で、にりたいものになれるという「努力する機会の均等」は重要でした。しかし、行きすぎた欲望の肯定は、ついに人間に「自分が自分であること」さえ我慢できないと思わせてしまうに至りました。自分で自分の実力・実状を認識することが出来ず、「本当の自分はもっと凄いはずだ」「不当に押さえつけられている」「自分の(本来持っていて当然の)幸福を誰かに奪われている」と感じるまでになってしまっているのです。 ひとは誰でも幸福になる権利がある。それを私も信じたいと思います。しかし、「幸福」は本来、誰もが持っていて当然のものではありません。誰でも持つ権利はあるけれども、それを達成するのは、けっきょく、自分自身でしかないし、金や力で獲得できる装飾品のようなものではないし、もしかしたら、他人のそれと比較できるようなものではないのかもしれません。 ・強者が弱者に向かって「対等」を強制するのは、「差別」であり、「虐待」以外の何物でもありません。 ・思えば我々の世代にとって、「親になる」ということは、はじめて本当の意味でひとの上に立つ存在になるということなのかもしれません。 つまり責任者になるということですね。ひとの上に立つ者の仕事は、威張り散らすという事ではなくて、自分は辛くとも、下のものを守ってやる責任を負うということです。「育てる」というのは、「守る」が出来たうえで考える問題です。 ・父親であるということは、決意と希望を持ち続け、革命家として生きることだ……と。子供と向き合うということは、世界を良くしていくための永遠に続く革命を手がけるということだ、と。 |
今、父親本は山ほど出ているけれど、それらの中からこの本をきわだたせているのは、熱さだろう。 この本は、父としての長山靖生個人が我が子に送るものであり、万人に通用するものではないと思う。 子どもができたという著者が自分を奮い立たせるために、自分自身に向かって書いている。 著者が一番この本を必要としたのだと思う。そういう意味では、とても個人的な書だ。 それを非難しているのではない。 個人から発した言葉、個人の胸底から出てきた想いこそが、今望まれているのだと思う。 現に、私は引き込まれた。一方的すぎる論断も、熱すぎる文章も超えて、いろいろと考えさせられた。 そう、父親に、というより、これは子どもが手を伸ばす本かもしれない。 何だか止まりません。続きは「欠片」にて。 (目次ページ「趣味に走った云々」のコーナーのロゴからも飛べます) ただし、これは私怨です。完璧に私情です。 反論はお聞きしますが、そんなことは《絶対》無いとは仰らないでください。 見苦しいものは目にしたくないという方は、このまま「BACK」してくださいませ。 |
| 中村勝・文 甲斐扶佐義・写真 『ほんやら洞と歩く京都いきあたりばったり』 淡交社 \1800 174ページ 2000.6.2発行 |
京都の三月書房という本屋さんのご主人の言。 「本ていうのは生活の糧であり、生き物ですからね、魂を持っている。 1冊だけポツンとあったんではダメなんです。関連させて初めて生きてく」 |
・三月書房さんの言葉は深い、ですよね。 本も情報も、人だって、単体として在るよりつながり合うことで力を得るのかもしれない。 ・京都の人たちや猫たちや街の移り変わりを記録したモノクロ写真に文が付いています。解説文と言うより、もう少し幅広い。 ・ほんやら洞というのは、甲斐さんが開いた喫茶店の名前です。私は京都に住んだことはないのだけど、懐かしい名前がいっぱい出てきます。ほんやら洞、築地などの喫茶店。河原町書房、河原町のジュリーこと堀宗凡さん。京大西部講堂屋根の星のマークさえ鮮やかに。 私にとっては懐かしさだけど、そこに住む人にとっては、昔も今も日々の生活の場なんだなぁと実感させられる本です。 |
昨年の記録は、こちらです。
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