book shelf

home



国内小説

海外小説

エッセイ

コミック

その他
  



「つれづれノート10 島、登場。」 銀色夏生

著者の日常や心境を日記風に書いてあるこの「つれづれノートシリーズ」が始まってから、早いものでもう十年たってしまった。読んだ人はわかると思うけど、もう読み始めたら止まらない。そしてまた、繰り返し読みたくなるのだ。

ここまで読ませる魅力というのを考えてみたのだけれど、ひとつはほのぼのとした雰囲気になごませてもらえるということだ。そして、それとは対照的に著者の考えや意見をズバッとストレートに書いてあること。これがまた唐突に書かれているのだが、うーんとうならされるものばかりだ。

しかし忘れてはならないのが、あーぼう改めかんちゃんと二人目の子供さくぼうの成長日記としての記録だろう。ホントに二人ともかわいくて、まるで自分の姪っこ(&甥っこ)のように思えてしまう。写真なんか何度も見てもあきない(今回の二人で歌っている写真サイコー!)。文章のあいだにあるイラストも、子供たちの行動が愛情たっぷりに描かれていてめちゃめちゃ笑える。

ただし著者はやはり芸術家であり、心の底にマグマを抱えている人だ。自分の世界というものをとても大切にしている。それを壊そうとする人は夫でも容赦しないようなところを持っている。
今回は『島、登場』という題名にもあるとおり、島に移り住む計画が進められている。誰にも理解されなくても彼女は突き進んでいくだろう。まだまだ先が見えない展開に、これからも振り回されるのが楽しみだ。




「できればムカつかずに生きたい」 田口ランディ

家族の問題やネット発信の先駆者として、現代社会の理解者のように思われている彼女だが、意外にもスピリチュアルな感情を内包している。ただし精神世界的なはまり方をしているのではなく、常に距離をとって冷静な目で観察している。そういう面に惹かれる自分がいるのだけれど、現実的であろうとする自分がさらなる一歩を踏み出すのを押しとどめようとしている。

最後に書かれている『悲しみのための装置』の中に、著者の友人がいった『憎しみは人を壊すけど、悲しみは人を壊さない』という言葉がある。
悲惨な出来事の意味を個人で引き受けるには限界がある。なぜこんなことが起きるのかということを自分に問うてしまったら、人間の存在すべてを憎むことになる。個を超えた存在(それを神という人もいる)に重い荷をゆだね、自分はただ悲しむ。透明に悲しむ。悲しみは憎しみを祈りに変える。

著者はそれを理解できても実感はできないという。現実的価値観が『もうひとつの世界』を拒否する。うまく悲しめずに憎んでしまう。自立すればするほど外にゆだねることができなくなり、すべてを自分で背負い込んでいく。そして自分しか問題を解決することができないと錯覚する。
しかし、それが自分をいままで苦しめてきた原因ではないのか。ひきこもった兄やアルコール依存の父、ノイローゼの母には何の力もなかったのか。彼らには彼らの存在理由があり、生きる力があったのではないか。
うまく悲しむことができるようになれば、みんなが少しずつ楽になれるかもしれない。強くなれるかもしれない。たとえそれが、どんなに不条理に見える出来事であったとしても。

知識を持ちすぎた分だけ何かを見落としていると感じながら、彼女はそれを探し続ける。そしてまた、無防備なまでの正直さで私たちに語ってくれるだろう。もし少しでも共感したいと思うのならば、私たちも私たちなりのやり方で探し歩いていなければならない。




「ぐるぐる日記」 田口ランディ

「できればムカつかずに生きたい」が頭の中を整理して編集しなおした文章だとすれば、これは編集前の下書きといえるだろう。日記というものは、後々の自分の姿を想像することなく、その瞬間にどう感じたかを書くものなので、ある結論に達するまでの過程を追うことができるからおもしろい。(ただしその結論もまた確定的ではなく、変化していくものなのだけれど)

個人的な出来事を書いた日記なんて、よっぽど興味を持っている人か有名人でないと読む気がしないのが普通だけれど、著者があくまでも『自分を通して見た世界』にこだわるのは、『私というものこそが、普遍に至る道だ』と確信しているからである。それはおそらく、そのことだけが自分にとって信じられることだからだろう。人から聞いた話は、あくまでも人の話だ。自分が体験してないことは、自分にとって真実とはいえない。信じられるのは自分の経験と直感だけ。
それは一見傲慢でわがままのように見えるけど、実はとても健全なことではないだろうか。自分の頭で考え、自分の体で感じ、自分の心で受け止める。そして、自分の目を通して定点観測をし続ける。そこから普遍的世界が見えるのは当然のことではないか。

『この日記は九九%真実です』と書いてあるとおり、のどから手を突っ込んで胃袋の中まで裏返してみせてくれるその腹のくくり具合にしびれさせてもらった。




「村上ラヂオ」 村上春樹

大橋歩さんのクールで奥深い挿し絵とともに、例によっての春樹ワールドがよせては返す波のように心にさわさわとしみてくる。どれもささやかなことばかりなんだけど、春樹さんの手にかかると、それがとても特別なことのように思えてくるから不思議なものだ。

春樹ワールドに導かれ、ふらふらと思ったことを書き連ね…

『猫山さんはどこに行くのか?』
「借りてきた猫」ってねずみを捕るために借りてたことだとは知らなかった。ということは、むかしは猫も働いてたんだ。春樹さんはそれを『専門技能を持つ個人主義者』といっているけど、だからあんなにクールなんだ。納得。

『にんじんさん』
「赤い靴」の「いーじんさん」の解釈は「いいじいさん」と「ひいじいさん」に二分されるらしい。その中で異彩を放つのは「にんじんさん」というものだ。子供のころはそんなむちゃくちゃな解釈でも、なんの疑問もなく受け入れるものなのだ。「♪ルパン ザ サード」が「ルパンさーん」と聞こえても、子供的には問題なし!

『りんごの気持ち』
マッキントッシュというりんごは、日本名で旭というらしい。これはぜひ食べてみたい。という私は、もちろんMac派である。春樹さんもむかしからMac派で、シドニーオリンピックのときはiBookを持ち歩いていたそうだ。なんといっても、りんごはおいしいしね。

『小さな菓子パンの話』
春樹さんはコンピュータのスイッチを入れてから立ち上がるまでのあいだ、童話などの文庫本を読んでいるそうだ。しかし、このくらいはなにもしなくともゆっくりと待てそうなものだけど、エレベーターの待ち時間と同じで、たかだか何十秒かなのに手持ちぶさたになる。もうちょっとのんびりしたいとも思うけど、いきたくもないトイレにいったりしてしまうんだよなあ。

『へんな動物園』
中国の大連の動物園には猫の檻があるらしい。普通の猫がただただ熟睡していたそうだ。なんてことないようだけど、これはかなり衝撃的な出来事だ。だったらなんでもありでしょう。スズメや雑種犬が入っていてもおかしくない。もし大連に行くことがあれば、ぜひ動物園に行ってみたいと思う。

それにしても、この本は動物と食べ物の話が多かった。
して、そのココロは「どちらも幸せな気持ちになります」




「酒とサイコロの日々」 鷺沢萌

ただただ酒と麻雀(たまに競輪)の話である。
文字のあいだに麻雀牌の図柄がバンバン並び、何の説明もなしにカン材だのノミ手だの無スジだの親番だの麻雀用語(っていうの?)を連発するので、麻雀がわからない私には何のことだかちっともわからない。わからないけどおもしろい。説明もなしにここまで書くなんて、潔いぞ、鷺沢。

白川道や黒川博行、浅田次郎といったこわもての面々がかなりの頻度で登場するのだけれど、よくまあこんなメンバーの中でやれるもんだと感心する(ただのカモにされているという見方もあるが)。白川道なんて目が合っただけで思わず謝ってしまいそうな顔だもんなあ。群ようこの麻雀好きも有名な話だが、ここでもちらっと登場する。おそるべし、出版業界。

しかしここまで書いていいのだろうかと、読みながら心配になってきた。
そのうち文壇の方々がイモ蔓式に引っぱられたりして…




「私という迷宮」 大庭健(村上春樹・香山リカ)

この本は、著者による「私探し」の哲学的・倫理的考察と、村上春樹氏のコメント『小説家にとって自己とはなにか(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)』、香山リカ氏のコメント『さがしあてるほどの「私」なんてないのに』、そしてそのコメントに対する著者のリプライで構成されている。

著者の「私探し」に対する考察は、当事者と距離を置いたような他人行儀の学者的アプローチとは違って、実際に私探しにはまりかけている人に対して、たまねぎの皮を一枚一枚はがすように、いいたいことが伝わるように、ていねいに語られている。
ただ社会的役割を演じているだけのように感じても、「私」は取り替えのきかない唯一の存在であるということ。「私」から抜け出して、他のもっと特別な存在になることはできないということを、「自分探し」の有用性と「私探し」の危険性を交えて哲学的・倫理的に訴える。

村上氏は小説家としての文学的観点と、『約束された場所で』でオウム信者をインタビューした経験から、自己とはなにかという考察をはかる。
小説とカルト宗教は、現実の世界から抜け出せるという意味では共通するものがある。では、その違いとはなにか。それは、抜け出した後に継続する現実に戻ることができるかということだ。そして物語を「白魔術」に、カルトを「黒魔術」にたとえて、力の使い方による違いを並べてみせる。
そして彼は牡蠣フライと自分の関係を語ることによって、自己の存在を感じとろうとする。牡蠣フライでなくても、なんでもいいのだ。ただその「もの」と自分のあいだに存在するなにがしかの感情と関係を映し出すことで、自分というものを
しっかりと感じることができれば。
『牡蠣フライについて語る。故に僕はここにある』 

ここでは出てこないのだけれど、宗教的・神話的観点(オカルトではなく)というものもあるように思う。しかし、それはますます「私探し」にはまってしまうこともあるので、なかなかむずかしいアプローチ方法だろう(個人的にはアリだとも思うけど)。

私の意見としては、「私探し」をしようがしまいがどちらでもいいと思う。むしろ、「自分探し」だったらしたほうがいいと思う。
ただわかっているのは、その結果なにを手に入れても、入れられなくても、その後に続いていく人生の責任をとるのは自分しかいないという現実がたしかにあるということだ。結局のところ、自分の外に自分はいないし、自分以上の自分もいない。




「ありのすさび」 佐藤正午

著者が住んでいる佐世保市というところは、港と米軍基地のある小さな街である。私も訪れたことがあるけれど、本当にささやかで穏やかなところだ。この街で著者は、なにか劇的なことが起きるわけでもなく、かといって真摯に自分の内面と対峙しているというわけでもなく、淡々と小説を書きながら暮らしている。そんな変化のない日常をつらつらと綴られているのが、なんとも心地よい。

作家の生活はなにやら特別な出会いや、派手な事件でいっぱいのような感じがするが、佐藤正午氏に限っては、もしかしたら私たちよりも地味なんじゃないかというくらいの毎日を送っている。
しかし、みずから天職という小説家の仕事をする上で必要なものはすべて揃っているようだ。港が見える部屋、朝の一杯のコーヒー、ワープロ、辞書、お酒が飲める店、幾人かの友人。そして、何気ない会話や風景から小説のアイデアを生み出すことのできる感性。

すべてが東京中心に回っている現代で、こういうスタンスで創作活動を続けている人がいるというのは、地方に住む者にとってはとても心強いものである。といっても、著者はなにかこころざしがあってこの街に住んでいるというわけではなく、たまたま実家があって居着いているというだけに過ぎないのだけれど。同じ佐世保市出身の村上龍氏とは正反対のタイプで、それがまたおもしろいところだ。




「長い時間をかけた人間の経験」 林京子

アメリカが最初に原子爆弾の実験を行ったのは、トリニティという場所である。著者は被爆者としての出発点であるその場所に行こうと決心する。人生の円環に組み込むことで、八月九日からの縁を終わらせるために。
終着の地で著者は、一番初めの犠牲者である物言わぬ大地に共振して、八月九日に一滴も流せなかった涙を流す。

この本では、統計上の数字では済まされない個々の人生が差し迫ってくる。夢半ばに死んでいった女学生たち、被爆後からだを売りながら生きてきた女、命ある限り被爆の実相を訴える覚悟を持つ老医師。肉体的にも精神的にも破壊された傷の深さは計り知れず、どうしてこんな運命に出会わなければならなかったのか、考えても考えても答えが出ることはない。

最後の被爆者がこの世を去ったとき、あの日は歴史になってしまうのだろうか。長崎、広島という街だけに、年老いていく被爆者の小さな肩だけに、この絶望的に深い業を背負わせていいのだろうか。核の本当の姿を訴えていくということは、この国の人間全員が抱えている世界的に重要な役割であるというのに。

読書日記というかたちをとっているため、読んだ本を人にすすめるということは今まで避けてきたけれど、この本は多くの人に読んでもらいたいと思う。八月九日以降生きてきた(あるいは死んだ)人たちの姿が、冷徹なまでのまなざしで淡々と綴られている。




「そうよアタシは不眠症の女」 結城真子

著者の病名は「重症難治性睡眠障害者」である。放っておくと3、4日眠れないらしい。致死量スレスレの薬を飲んでも、睡眠時間は1日3時間。こんな著者も、はじめは薬なしで治そうとしていた。

体を疲れさせて眠ろうとして、スポーツジム、100mダッシュ、ジョギング、水泳(国体を目指していると勘違いされた)、剣道(子どもたちに教えるまでになった)、声楽(クラブでアルバイトするまでになった)、その他もろもろの運動をする。そして仕事も編集者、心理カウンセラー、作家とまさに眠る間もなく働き続ける。気がつけば栄養ドリンクをガバガバ飲むという間違いをおかしていた。(しかも、人間ドッグではまるっきりの異常なし)

ここまで体を酷使して眠れないのなら、と今度は不眠の研究をする。心理カウンセラーでもある著者は自ら箱庭療法を行い、その分析に忙しくて眠れない。日本睡眠学会の本はすべて取り寄せ、英語のレポートも読む。すると、ますます頭を使って眠れなくなる。ハリ治療のお金がもったいなくて、鍼灸師の免許をとる。将来のヨーロッパ移住計画のため、英語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語を磨きなおす。この人いったい何者?と驚かずにはいられない。こんなにすごい人なのに、ただ「眠る」ということだけできないなんて。

原因も治療法もわからず八方ふさがりの状況の中で、著者は楽しく生活することを目標に気持ちを切り替える。本心ではどうであれ、ここまで自分の苦しみをおもしろおかしくさらすことのできる著者のタフな精神力には脱帽する。





「結婚願望」 山本文緒

とうとう直木賞作家になってしまった山本文緒のエッセイだ。
自ら恋愛体質と言い切る彼女の10代、20代、30代の結婚観が書かれている。

私は結婚や離婚、出産などは、完全にパーソナルな問題だと思っている。
いろんな生き方を選ぶ自由は誰にでもあるし、まわりがとやかく言うものではないだろう。損か得かという議論も聞こえてくるけれど、そんなものはないと思う。ただ、やりたいようにやればいいというだけだ。
自分が選んだ行動が損か得かなんて、何と比べて判断するのだろう。
もうひとりの自分を想像して?それとも他人の人生と?

生活にかかるコストや、家庭や社会での役割分担という意味の損得はまた別問題だ。私が言いたいのは、そういう問題に対する自分の納得度数のことで、絶対値はあっても相対値はないということだ。

山本文緒自身は20代で結婚して、その後離婚。今のところ、生涯独身でいるだろうと思っているらしい。しかし世間というものは、結婚しない人を何だか不幸せみたいに言うものだ。自分の価値観を人に押し付けようとする人には、敵意さえ持ってしまうのだが、そういう人はたぶん自己肯定したいのだろうなと思うので、黙って流すことにしている。しかし時には闘うことも必要で、そんな大きなお世話な風
当たりに吹き飛ばされないような強さも持っていなければならない。

あとがきには『人は幸せじゃないといけないわけなのかな。少しくらい不幸でもいいんじゃないかよ』とある。強迫的幸せになりたい症候群、もしくは癒されたい症候群が増殖している中で、この言葉はいろんなことを経験してきた大人の言葉として重く響く。
結局、人は両手に抱えられる以上のものは持てないのだと、私も思うのだ。




「これからはあるくのだ」 角田光代

この人の小説は日常の中の非日常を描いたものが多いのだけど、日々こういう体験をしているとあんな小説ができあがるんだなと納得した次第である。これって作ってない?的な話が盛り沢山で、いくつかは腹をかかえて笑ってしまった。

小説家という人種になるためにはどんな経路が必要なのだろうとときどき思うことがあるけれど、ひとつの条件として「記憶力がいい」ということがあるのではないだろうか。子供のころの遠い思い出や、大人になってからは飛ぶように過ぎていく毎日の出来事をどれだけ憶えていられるか。脳の記憶ではなく、心の記憶。どこかに引っ掛かって残っている記憶が、まったく別のかたちをとって小説となる。

日ごろ人々が見落としそうなものを拾い上げることができる彼女の小説は、タンスのうしろに落ちているビー玉のように、気付いた人にだけキラキラと輝く光を投げかけてくれる。そんなささやかで美しい光を見つけるために、これからはあるくのだ。




「Sydney!」 村上春樹

これは「裏オリンピック」といっていいだろう。春樹氏自身がシドニーに乗り込んで、感じたこと体験したことが書いてある。そこには私たちがテレビを通して見ていた、ズームアップで切り取られ、再生可能なオリンピックとはまったく別の世界が存在する。

オーストラリアの複雑な歴史、アボリジニーである最終聖火ランナーのキャシー・フリーマンが背負っているもの、選手たちの息遣い、オジーたちの生活、コアラのトラウマのことなどが臨場感を持ってみっちりと書かれている。

にもかかわらず私には、シドニーオリンピックには出ていない有森裕子についての文章が強烈な印象として残った。春樹氏が有森に感じるシンパシーが、ビシビシと伝わってくる。

金メダルを取った高橋尚子選手の記者会見に立ち会った春樹氏は、『正直なぎざぎざ』のある言葉がなかったという。高橋の話す言葉はしたたかで、ある種計算されたものだと思う。すべての行為が勝つことだけに向いている。
だからこそ彼女は強いのだ。そして、勝つためにはいい人である必要はない。

その反面、有森は真っ当すぎる。勝つまでの過程を大事にしすぎる。そして、人としての生活を求めすぎる。しかしそれで勝つことができたなら、あまりにも美しい勝利ということになるだろう。どちらにしろ、有森を応援するという気持ちには変わりはない。勝っても負けても、彼女は自分の人生を手にするだろう。

選手にとっても観客にとっても、オリンピックというものは非日常的なものだ。オリンピックに対する思いはひとりひとり違うかもしれないけれど、確かにいえるのはそれがいつかは終わるということだ。その後は『非ドラマチック』な人生が延々と続く。しかしそれこそが、自分にとっての本当の本物の本番だということを受け入れなくてはならない。