<諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静の四法印について説明しなさい。>   

 
釈尊が菩提樹下で悟られた正覚の内容は、永い時間を経て、多くの民族や国家を超えながら、広
汎な地域にわたって発展してきた。
 インドにおいて、根本仏教より分裂し、部派仏教をへて大乗仏教へと発展した仏教は、中国において経相判釈が盛んに行われる中、経説が体系化され、宗派仏教として成立する。そして今現在、日本においても我々の周囲に、多くの宗旨、宗派として現存している。

 それらは一見すると矛盾や対立があるように感じられるが、それにもかかわらず仏教として存続している。仏教といわれる以上、釈尊自内証である、三世を貫く永遠の真理が説かれており、教えとしての一貫性が保たれていなければならない。
 そこには仏教としての根本的な原理が存在する。このような仏教の根本原理が「法印」であり、仏教か非仏教かを判断する基準となるものである。この仏教の根本原理は、諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静の四つの項目としてまとめられる。

またこの四法印の趣意を歌にして表現したもので、私達に馴染み深いものに「いろは歌」がある。
  いろはにほへとちりぬるを(色は匂へど散りぬるを)
  わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ常ならむ)
  うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越えて)
  あさきゆめみしゑいもせす(浅き夢みじ酔いもせず)
この歌は古くから日本人の心に深くしみこんで、多くの人々の人生観に影響を与えているものである。

 このような四法印のそれぞれの項目について考察してみると、まず諸行無常であるが、諸行無常の諸行とは、森羅万象、物質的現象、精神的現象をとわず一切の現象を指す。このような一切もろもろの有為現象は、常に生滅変化を続けて、瞬時といえどもとどまることなく、常住不変のものはないという原理が諸行無常である。

 無常には、釈尊以前の哲学者によって主張された、生・住・異・滅の段落をへて変化する「段落無常」、人間の一生のように暫くは同一相をとっているかのように見える「一期無常」等があるが、仏陀によって看破された無常は時々刻々と生滅変化する「刹那無常」であり、一瞬毎に成滅変化を続け
片時も停止するものではないということである。
 では一切の有為現象がなぜ生滅変化して極まりないものであるかといえば、それは原因(因)と条件(縁)によって生じた結果(果)、つまり因縁所生のものだからである。


 
あるがままに自然界や人間界をみた時、全てのものが無常であるということは動かし難い厳粛な事実である。夜空にきらめく無数の星は万有引力の法則にのっとって運行し続けているし、庭先の草木も根をはり芽をだし春夏秋冬変化し続けている。人間の肉体細胞も常に新陳代謝を繰り返し、7年もたてば細胞全部が入れ替わるそうである。精神面も同じ事で、私達の心も縁にふれては、流水の如く移りかわっていくものであるし、人生も瞬間瞬間と変わり続けている。我々の現実世界は、無常転変であり「火宅無常の世界」に他ならない。

 次に諸法無我である。諸法無我とは第一の諸行無常より当然導きだされる印であり、全てのものには固定した実体我というものがないという原理である。
 諸法とは全てのものであり、第一の「諸行」は因縁所生の有為法たる現象を指しているが、「諸法」は有為法のみならず、真如法性という無為法をも含めている。

 「無我」の「我」とは何を意味しているのか。釈尊以前のインド哲学者たちは、我々の中に、不生不滅の固定的実体があるように考え、それをア−トマン(我)と名づけた。ア−トマンとは「常一主宰」のという意味で、単独でなりたち、常住で変化しない存在で、自身全体を支配しているものである。

 しかし諸行無常を顕かに観た釈尊は、この我の思想を根底からくつがえし諸法無我を主張した。この無我の主張は万有諸法を観察する場合において仏教と他のインド思想が相違する根本基準として重大な意味を持っており、後にこの無我思想は人我や法我の両者を否定する大乗仏教の徹底した思想へと発展していく。


  また仏教では、世間一般にいう自分とか我とかいうところの有情なるものを「五蘊仮和合我」、すなわち「仮我」と説いている。
五蘊とは色(物質)、受(感情)、想(概念)、行(意志)、識(意識)の五要素のことで、色蘊は肉体、他の四蘊は精神及びその作用のことである。したがって因縁によって五蘊が仮に和合している我であり、因縁がとけると自ずと解体されるものである。
 無我は大乗仏教では無自性空として説かれる。「無自性」とは、ものには固定した体や性質がないということで、実体的固定性がないということに他ならない。

 そして一切皆空であるが、我々は諸法無我が真理であるにもかかわらず、むしろ反対に何か永遠不変の固定的実体が私達の中にあるかのような執着、,迷いをおこす。これは真理に暗い(無明)の為である。このような無限常住を願ってやまない人間の根本的欲望を(渇愛)と呼び、欲望を拡大してその満足を求めてやまない盲目なる執着である。

 無明と渇愛がもととなって、様々な煩悩が起こる。煩悩とは我々の身心を悩ませ煩わせるものである。煩悩の代表格としては、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩がある。
 諸行無常であることを本当に自覚することができず、諸法無我の真理を無視して、常一主宰の我ありと執着する無明と渇愛煩悩によって、我々凡夫の現実生活は一時として充たされることのない不満と苦悶の連続である。
 その苦しみを苦しみと知る事ができないほどの深い迷いの中に沈没している、哀れで愚かしい真実の自己の在り様を一切皆苦と説かれたのである。

 最期に涅槃寂静であるが、涅槃とは悟りの世界のことで、原語は(niruvana)で「吹き消されている状態」ということである。
涅槃とは一切の煩悩が吹き消された滅尽した状態を指している。したがってこの状態は安穏無苦で絶対安住の境地であり、寂静なのである。
 
 釈尊以前の宗教家達も理想の境地を涅槃と呼び、修定や苦行によって実現できると考えたが、色界定や無色界定などのいろいろの禅定の状態であり、一時的な無念無想の境地でしかなかった。また五官の慾楽に耽る世俗的快楽を主張するものもいた。
 こうした自己陶酔的な境地が真の涅槃なのではなく、単なる苦行や禅定によっては得られない精神的絶対寂静の境地が涅槃観の特徴である。

 後に小乗仏教では滅尽の実存的な意味にこだわって、人の世を逃避して空寂の境地に入り人生を全く顧みない灰身滅智の境地を涅槃とみなした。これに対して大乗仏教になると、自性清淨涅槃、無住処涅槃という積極的解釈がされ、本来清浄である真如法性の理を涅槃と考えた。
 この涅槃は、生死を厭うことなく、また涅槃に執着することなく、無量の智慧と慈悲とを円満に具足した衆生救済のためにやむことのない活動態であり、人の世と深く関わる、自利のまんまが利他となる活動の世界なのである。




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