ウデゲ人の精神文化                                  北方少数民族

 ]\−]]世紀

 

V.V.パドマスキン 著

ウラジオストック 極東大学出版社 1991          ー抜粋ー

                                                  

まえがき  

 

 ウデゲ人は、原住民と渡来したツングース人、更に、満州系やモンゴル系、チュルク語系出身の種族との混血で、プリモーリエとプリアムーリエに生まれた、ツングース‐満州民族である。

 この少数民族がロシアに組み入れられたのは19世紀の半ばであった。その当時、ウデゲ人の数氏族はグループごとに離れて住んでいた。当時の研究者たちは、そのような氏族を8つ挙げている。サマルギンスキィ、フンガリイイスキィ、アニューイスキィ、ホールスキィ、ビキンスキィ、プリモールスキィ、クウル‐ウルミイスキィ、イマンスキィ(ボリシェウスウルクスキィ)。 また、G.I.ネヴェリスコイ・アムール探検隊の隊員であったN.K.バシュニャーク海軍大尉は、サハリンのウデゲ人の小グループのことを書き記している。

 1979年の全ソ国勢調査によると、ウデゲ人は1551人である。そのうちの666人がプリモールスキィ地方に、609人がハバーロフスク地方に、 その他はソ連のほかの州に分散している。ウデゲ人は、プリモールスキー地方ではアグズウとクラースヌイ・ヤールの村に居住し、ハバロフスク地方では、グワシューギ、ラススヴィエット、クウカン、スニェージュヌイに居住している。

 ウデゲ語は、ツングース‐満州語族の中の無文字言語のひとつである。ウデゲ語は、ツングース語のアムールスキィグループに属し、とりわけ、オロチ語と、ナアナイ語のアムール上流方言(говор)に近い。ウデゲ人の近隣グループの方言(говор)の相違は大きくなく、共通の方言群(наречие)を形成している。異なる方言群(наречие)の方言(говор)間の違い、たとえば、プリモールスキー・ウデゲ人とホールスキーあるいはビキンスキィ・ウデゲ人の方言の違いについては、はなはだ著しいので専門的な研究が必要である。手元の言語学資料が不足しており、方言学の研究もなされていないため、もっとも大きな違いは音声と語彙であると指摘できるだけである。文法体系−形態組織と統語関係−は基本的に同一であり、ウデゲ語の三方言、ホルスカ‐アニュウイスキー、ビキンスカ‐イマーンスキー、サマルギンスカ‐フンガリースキーですべて共通である。

 20世紀初頭、ウデゲ人の伝統的な自給自足経済は複合的な性格を有していた。経済の基礎は狩猟と漁労であり、副業は採集であった。

 プリモーリエとプリアムーリエの民族の氏族制度は革命前に崩壊し、財産・社会的階層分化が生じ、ウデゲ人の経済的に豊かな家族は自分の氏族から孤立し分離した。 氏族関係から地域関係への移行は、すでに17世紀に生じていた。それと同時に、氏族の生活習慣の遺物のいくつかは保存された。族長時代の氏族への分配、族外結婚、血の復讐、氏族の財産相続権、氏族の火への崇拝、氏族間の裁判などである。

 

 この書物の基礎となっているのは、著者が1970年から1990年の間に、プリモールスキー地方(アグズウおよびクラースヌイ・ヤール村、アストローヴナイ町)とハバーロフスク地方(グワシューギ、ラススヴィエット、クウカンおよびスニェージュヌイの町)でのフィールドワークで収集した資料である。N.K.バシュニャク、A.F.ブヂシェシェーフ、R.K.マアク、A.L.ベリコーヴィチ、I.P.ナダローフ、S.N.ブライローフスキー、V.K,アルセーニエフ、E.R.シュニェーイヂェルの資料も用いた。その他、レニングラード、ハバーロフスクおよびヴラヂバストークの博物館団体の日常生活品と工芸品も参考にした。

民族の知

ウデゲ人は常に自分と自然との関係を自覚していた。ウデゲ人は、宇宙(世界)は時間と一定の地理的空間の中での活動の対象であると理解していた。それで、例えば、サマルギンのウデゲ人の言葉では、《 ば 》という言葉は宇宙を意味するだけでなく、地形や天候や空を意味している。ウデゲ人が作った宇宙のモデルの基礎をなしているのはウデゲ人が開拓した土地である。アニューイスカヤ・ウデゲ人によると、宇宙は天蓋でおおわれた四角い形をしていると考えられていた。おそらく、最初は、ウデゲ人にとって宇宙は地平線で限られたひし形の平面だったのだ。ウデゲ人の、宇宙に関する概念は、初めは宇宙発生論的ではなく地理的であった。ちなみに、宇宙に関する平面的イメージは、パドカーメンナ‐ツングースのエヴェンク人(旧称ツングース人)やニフフ人(旧称ギリャーク人)にとっての特徴でもあった。

自然の力は具体的な生き物、例えば、タイガの主人、水や火の猛威などと理解されていた。自然現象の生き物への形象化は、人々の生活態度や人々と環境との相互関係の性格に反映した。自然の力に対する恐れは、周囲の対象物は精霊と悪霊の現れであり、人間の運命は精霊と悪霊に従属するという信仰を生み出した。

ウデゲ人の生活体験の中で最も重要なのは動植物の世界との関わりである。これらの経験に基づき独自の世界観が形成された。猟師は動物(熊、虎、貝、川獺、シャチ)を人間の性格の特性に帰した。ウデゲ人が特別に敬意を払ったのは、虎《くち まふぁ》と熊《まふぁ》であった。ウデゲ人のイメージでは、熊はかつて人間であった。そのため、ウデゲ人の間では、熊との特別で丁重な関係が長期間維持され、熊と人間の女性との結婚伝説も多数存在した。

昔、ウデゲ人は、人は死後、木となる、男性はポプラの若木に、女性は白樺になると信じていた。

自然を直接身近にし、自然と絶えず依存関係を結んできたため、ウデゲ人の記憶力は優れたものとなり、視覚と聴覚と臭覚は鋭さを増した。

猟師の臭覚は、環境によりよく適応するための本能と生態反応を形成する上で重要な意味があった。

ウデゲ人は臭いで獣を見分けられると、V.K.アルセーニエフは指摘した。ウデゲ人は狩猟のとき、すっぱい刺激臭をかなり遠くから嗅ぎつけ、熊の居場所を見つけることができた。

サマルギンのウデゲ人は、臭いの表記に次のような用語を使った。《にゃるぐに》 ― 腐敗臭、《ふんがあむぅい》 ― 麝香の香り、《ぢぜあむぅい》― 魚肉(鮭、樺太鱒、桜鱒)のにおい。狩人は臭覚で自分の位置を判断した。追跡する者は、臭いでほかの人間の足跡を見つけ、その人の辿った方向を判断することができた。臭覚は狩人が狩りをするとき重要な役割を演じた。

狩人は保護色の服を着ていた。秋と冬には赤褐色、夏には緑色の服を着、獲物の扮装をし、獣の動きを真似、獲物が射程距離内に入るまでひそかに近づいた。

『ウデゲ人はどこまで自然との闘いに通じているのか、驚かざるを得ない。獰猛な獣の狩りがウデゲ人の普段の仕事だ。吹雪、頻繁に起こる洪水、常に伴う生命の危険、これらすべてがウデゲ人の機転と積極性を育んだ。困難な事態に遭遇しても、ウデゲ人は分別を失うことなく、立派に苦境から脱出できる。タイガでは欧州人はウデゲ人に追いつくことができない。』と、V.K.アルセーニエフは指摘している。

丘や川や沼に居ても、樹木の鬱蒼と茂るタイガに居ても、ウデゲ人は自分の居る場所を判断できることに、旅人は常に驚く。タイガで獲物を追跡する、生まれながらの猟師たちは、自分が通過した森の中の道を申し分なく覚え、来た道を戻るために必要な方角を選び取ることができた。猟師たちは、川の流れ、海岸、風の向き、タイガの小道、天体などの自然の道標を利用できた。各地方のウデゲ人の集団はそれぞれ方角に関するイメージを持っていた。季節風や太陽の位置、川の流れにより方向を判断した。

猟師や漁師はプリモーリエやプリアムーリエの狩りや漁に適した場所をよく知っており、その場所に地名をつけ、非常に簡単に描かれた絵地図にその場所を記入していた。絵地図は略図ではあるが、漁場となる川の流域が詳細に記された見取り図で、交通路も記入されている。山岳地方、シホテ‐アリニャ(?)の数箇所は、ウデゲ人にとって立ち入り禁止地域である。その場所では狩りが禁じられ、その場所への人の立ち入りも禁止されていた。狩人にとって、それらの場所の主は獣の主、《ぶいに あつざに》であった。

タイガは、よそ者には訳がわからないが経験を積んだ狩人には読むことのできる符号で記された、独特の書物であった。

文字を持たないウデゲ人は、情報を伝達するために、当事者たちのみにわかるタイガの符号体系を利用した。V.K.アルセーニエフが記しているところによると、小枝に結び付けられたぼろきれは、『 クロテンの罠用の糸を誤ってちぎるな 』という意味であり、紐の巻かれた柳の枝は、『 川の向こう岸の小道を見ろ 』、丸く周りが削られた木は、『 用心しろ、この辺は虎が多い 』、木の根もとのヘアピンは、『 そこに罠が仕掛けられている 』、を意味し、水上に突き出た先の尖った棒にぶら下げられた木製の魚は、『 夏用の釣り場が近い 』という意味で、その魚の頭の向く方角に魚が生息していることを示している。また、ペリ‐ゴールキーによると、ウデゲ人は朝鮮人参を見つけてもそれがまだ小さい場合は、『後でその場所がわかるように』その周りに枝を払った棒を立てた。『それは同時に、その朝鮮人参はすでにその人のものである標しでもあった。』フンガリのウデゲ人がひびを入れた枝で意味したのは、船の向き、熊の巣穴のある方角、狩りの獲物の内臓を除去した胴体のある方角で、更に川の浅瀬の位置も示した。これに似た符号体系は、エヴェンク人やケト人も用いていた。

その地方のテリトリーの開拓で本質的な役割を演じたのは、ウデゲ民族の度量衡法であった。度量衡法は、環境や物の空間的な相互関係についてのイメージを特徴付けるために重要な意義を持った。

もっとも万能で安定した測定器具は人間の体の一部であった。一番普及した長さの測定単位は、大指尺《 と 》と小指尺《 すお 》であった。(訳者注:指尺とは親指と人差し指を張った長さ)ウリチ人は小指尺を《 するん 》、オロッコ人は《 しろ 》、ナナイ人は《 しる 》と名づけた。モンゴル人は大指尺を《 とお 》、小指尺を《 そおむ 》、アルタイ人は同様の測定単位を《 そおむ 》と名づけた。L.P.ポタポフによると、東南トゥヴァ人は大指尺を《 とお 》、小指尺を《 そおむ 》と名づけていた。ツングース‐満州族、モンゴル族、チュルク族の各民族の度量衡の名称のあいだに同根の言葉が存在することは、遠い昔それらの民族が密接な相互関係を有していたことを物語っている。

注:「ロシア語愛好者の集い」の掲示板でInnaさんと言う方が教えてくれました。
Бодьшая пядь - расстояние между концами большого и среднего пальцев.
Малая пядь- расстояние между концами большого пальца и мизинца.

大指尺《 と 》:親指と中指を伸ばしたときの幅
小指尺《 すお 》:親指と小指を伸ばしたときの幅


ウデゲ人が度量衡としてかなり広く用いたのは、掌《 ふえ 》と指《 うにゃ 》の幅だった。(ひろ)(両手を広げた長さ)で、舟や犬そりや竿の長さ、樹木の太さなどを測り、聴覚と視覚で空間的な距離を判断した。距離を測る方法として、徒歩や犬そりで進んだ日にち、矢や石を飛ばした長さが役立った。ウデゲ人はロシア人との付き合いで、正確な測定単位、サージェン(1サージェン=3アルシン=約2.134m)、ヴェルショーク(=4.445p、アルシンの16分の1)、アルシン(約71p)を借用した。

ウデゲ人の言葉には、球《 ぼむぼ 》、外角《 そと 》、内角《 こそ 》、円《 もんとろ 》、長方形《 さんがさ 》などの幾何学図形の用語がある。

ホールスキーのウデゲ人の計算は十進法で、各数字に固有の名があった。1《おも》、2《ず》、3《いら》、4《ぢ》、5《とぅんが》、6《ぬんぐ》、7《なだ》、8《ざくぷ》、9《あいアい》、10《ざ》。二桁の数字は次のようだった。<十と一> 11《ざおも》、<十と二> 12《ざず》など。ウデゲ人には大きい複雑な数の概念もあった。百《たんぐ》、千《みんが》、そして万を表す《とぅま》という数詞も、それ以上の数詞もあった。

一年《サ》は、冬《とぅえに》、春《ねきに》、夏《ずあに》、秋《ぼろに》の四つの部分に分けられた。それ以前、一年は、寒冷期《とぅえに》と温暖期《ずあに》に区分されていた。

いのしし、熊、ヘラジカ、ジャコウジカ、犬、そしてサケ・マスの種の魚の性別・年齢別の名前が適切に作られていた。雄のヘラジカ《おぐべ》に付けられた一般的な種の名称と並び、ウデゲ語には、ほかの用語もある。例えば、《したに》はヘラジカの胎児を意味し、《そんごそ》はシカの新生児、《くあんが》は一才のヘラジカ、《ふら》は二才のヘラジカ、《はらまさ》は三才のヘラジカ、《ろごそ》は狩りに適した大人のヘラジカを意味する言葉である。このような狩猟用動物の区別は、狩人にとり、狩りの規制のために必要である。

ウデゲ人は動物を四つのグループに分けた。魚《すぐぜハ》、両生類と爬虫類《くりが》、鳥類《がさ》、獣《ぶい》である。

実用に、趣味に、檻でキツネ、シベリアいたち、リスなどの獣、カラス、かささぎ、カケスなどの鳥を飼い、飼い馴らそうとした。また、ノロにも餌を与え、飢饉のときだけ捕獲した。

ウデゲ人は植物を次のようなグループに分類した。高木《も》、低木《もくとおん》、(灌木状の)柳《さくたい》、草本植物《あうんた》、繖形花(科)《ちゅにゃ》、かやつりぐさ科《はいくた》、しょう果《げぐバ》、地衣類と苔《のぼ》、木生菌類《もご》。その他、有毒植物《おうぢが》も、味が苦くて食用にならない植物《ぐわし》も見分けられた。

ウデゲ語には植物の各部分の名称がある。さまざまな外見から、高木や低木や草の年齢を知ることができた。例えば、アニューイスキー・ウデゲ人は紅松(朝鮮御用松)тополь Максимовичаを年齢により、一歳までを《くる》、一歳から二歳までを《ぢくと》、二歳から三歳までを《せりへ》、三歳から四歳までを《さぐぢ くる》、五歳以上を《あみぐだ》と名づけた。《あみぐだ》は舟の製作に適していると考えていた。


ウデゲ人の食物として特に大きな役割を演じたのは魚だった。魚は生魚、煮魚、冷凍魚、干し魚、燻製で食された。ただし、すべての魚が生のまま食されたわけではなく、主に、カワヒメ鱒、満州鱒、イトウが生で食された。生の肉や魚で作られた料理は《たら》と呼ばれた。《たら》は夏場は、釣れたばかりの新鮮な魚だけで作り、冬場は、氷点下の寒さで死んだのではなく、氷点下の寒さで捕らえた魚や箆鹿の肉で作った。肉は細長くスライスし、ギョウジャニンニク(ユリ科ネギ属の野生広葉ニンニク)やマルタゴンリリー(ユリ科の植物)のような強烈な香辛料で味付けした。刺身には軽く塩をかけることもあった。夏や冬に刺身《たら》を作る習慣は、オロチ人、ナナイ人、ульч人、ニフハ人などの北方諸民族にもある。V.K.アルセーニエフが言及しているところによると、ウデゲ人の最高のご馳走は鮭や樺太鱒の頭部の軟骨の刺身である。また、I.V.ナダロフが指摘したように、オロチョン人やゴリド人(ナナイ人)も同様の刺身を最高のご馳走としている。

頭部の軟骨のほかにご馳走と見なされたのは、満州鱒の眼と背中の脂身であった。ウデゲ人には魚の頭部と眼を生で食べる習慣に関わる伝説が保存されていた。『昔々の話である。おばあさんの目が見えなくなったので、おじいさんは岩屋へ出かけ神様を拝んでおばあさんの目がどうしたら治るか訊ねた。神様は、日の出の時刻に大きな魚を捕らえ、その魚の頭部と眼をおばあさんに食べさせるようにとお告げになった。・・・おじいさんが神様のお告げの通りにすると、おばあさんの目は前よりずっとよく見えるようになった。』

ウデゲ人の食べ物の中で重要な役割を演じたのは、酷寒と日光と風にさらして乾燥させた鮭の干物《てり》であった。鮭の干物には特別な味と香りがあり、長期間保存でき、一種の『パン』であった。V.K.アルセーニエフは次のように書いていた。『鮭の干物なしでは、凶作の年のロシアの農夫と同じように、彼らは貧困に耐えることになる。ウデゲ人は鮭の干物を自分で食べ、家族全員で食べ、飼い犬全部に食べさせた。うまい食物がたくさんあるときでも、鮭の干物を恋しがり、常に米より鮭の干物を好んだ。』ウデゲ人は、干物以外に、塩漬けにしたり、発酵させたり、冷凍したり、燻製にしたりして、魚を加工した。

ウデゲ人には非常に多く魚料理があった。V.G.ラリーキンの資料によると、ウデゲ人に好まれた料理は、《そりも》(イクラや苺などと一緒に噛み砕き、魚脂や獣脂、主に斑入り海豹の獣脂を注いだ鮭の干物)であった。この料理の起源に関する伝説がある。ウデゲの指導者コユニが年老いて歯を全部失い、餓死寸前にあった。その時、娘たちが彼のために魚と肉を噛んでくれたので、コユニは更に長生きした。コユニは、亡くなる前に、この料理は貴賓にのみ振舞うように遺言した。同様の料理はオロチ人にもあった。

ブイヨンに似た、すぐに作れる魚の澄し汁《おろ》があった。数世紀の間に、魚の種類の選び方、器、野菜と薬味の量と構成、入れる順序と煮る時間など、この魚の澄し汁のきちんとした作り方が出来上がった。魚の澄し汁は、一種類の魚ではなく、少なくとも二種類、多いときは四種類の魚を用いた。例外として、一種類の魚しか使わない紅魚の澄し汁がある。特殊なものとしては、地域的に作られた魚の澄し汁で、昆布だしの魚のブイヨンにゆでた魚の干し物の塊を入れたスープ《かいぐう ちょろ》がある。

夏、居住地を変える時期に、ビキンのウデゲ人は、満州鱒や泥鰌の一種で串焼き《しラ》を作った。魚一匹を丸ごと、先の尖った串に通し、赤熱した木炭で焼いた。同様の魚の串焼きを作る方法をナナイ人とウリチ人も知っている。



男の子は狩人や漁師がしなければならないことを覚えた。V.K.アルセーニエフはウデゲ人の男の子の教育について次のように書いている。『立ち上がり始めたばかりの男の子さえ、腰に二本のナイフが結び付けられている。切り傷を負うことはたいしたことではなく、その代わりにナイフの使い方を完璧にマスターすることができるのだ。十歳ですでに父親の狩りや漁の手伝いをする。

1907年、サマルガ河で、7歳と9歳と10歳の三人の男の子が夜、昼間でさえ渡ることを躊躇するほどの早瀬で、やすでで魚を取っているのを目撃した。(p18)

更にもうひとつ特異なことは、男の子が困っているときもめったに手助けしないことだ。困難な状況から自分で抜け出すことに任せる。あるときクスナ河で観察したことだが、ねずみが絶えず同じ場所を行ったり来たりしているのを男の子が見つけ、そのねずみを捕まえようと石弓形の罠を仕掛けた。しかしうまく行かなかったのでその子はいらいらし泣き出しそうになった。私は彼を助けたかったが、その子の父親が私を押しとどめ、「自分で考えさせなさい。」と言った。実際その子はうまく考えつき、その状況に適応して、ねずみを捕まえられた。』その子は5、6歳で小舟を操り、橇に犬が繋げ、スキーで滑ることができた。

男の子が初めて小さな獲物(リス、エゾライチョウ、シベリアイタチ、カモ)を捕まえると、独特の儀式が催され、親戚がご馳走を作ってくれた。
褒美をもらったことで若い狩人は誇りを持ち、今後も更によい仕事をしようという望みを持つようになった。子供たちの成功は賞賛されたが、一方、怠けたり強情を張ったりすると、常にとがめられ、笑いものになった。

ウデゲ人の子供はたいへん愛され、怒鳴られたりぶたれたりすることはなく、かわいがられた。何も秘密にせず、できるだけ制限を設けなかった。子供に乱暴したり残酷な態度を取れば、慣わしにより弾劾された。体罰は子供の体から魂を追い出すこともあり、そうなると、その子はこの世の人ではなくなると考えられた。
両親の愛と優しさに包まれ、子供たちは親の言うことをよく聞き、親を尊敬した。

ウデゲ人の子供のおもちゃの種類はたいへん多く、木製の小さな槍、皮革打ち器、舟、犬ぞり、子供用の弓矢、がらがら、人形、回転式のおもちゃ「ツリアブ」などがある。幼い子は、ヘラジカ熊、いのししやノロ、いろいろの鳥や虫の型を白樺の皮で切りぬく。男の子が少し大きくなると大人たちは小鳥や野生の獣をタイガで捕らえてきた。男の子はそれらの動物と遊びながら、その動物の行動にはどんな特徴があるのかを知った。女の子には人形《あどぅ》があった。人形は布切れを板に巻きつけただけの単純なものだった。それぞれの人形にはその子の家族の一人一人に対応した名前があった。子供たちは人形に衣服を縫ってやったり、白樺の皮でおもちゃの家庭用品やゆりかごなどいろいろなものを作ったりした。



りんく 

Удэгейцы