不調和な「伝道の書」


 神のみ名が一度も出てこず、新約の誰からも引用されず、「むなしいむなしい」を連発する伝道の書は、命に感謝し、勤労に励み、永遠の命を目指すクリスチャンの教えとはずいぶん調和しないものに見えます。

勤労に否定的:

 「骨折って働いたからといって、その者にどんな益があろう。」(3:9)

 「そしてわたし自身、自分の手の行ったすべての業と、成し遂げようとして自ら骨折って働いたその骨折りとを振り返って見たが、見よ、すべてはむなしく、風を追うようなものであり、日の下に益となるものは何もなかった」(2:11)

 聖書の他方では勤労が求められていることは周知の通りです。「働こうとしない者は食べてはならない」(テサロニケ第二3:10)。

命に否定的:

 「そして、わたしは命を憎んだ」(2:17)

 「死ぬ日は生まれる日に勝る。嘆きの家に行くことは、宴会の家に行くことに勝る。それがすべての人の終わりだからである。生きている者はそれを心に留めるべきである。」(7:1,2)

 今クリスチャンがこのようなことを言ったら、神からの賜物を憎むとは何事か!ということになると思います。

善人も悪人も同じ結末:

 「賢い者には愚鈍な者に勝るどんな益があるのか。」(6:8)

 「愚鈍な者が迎えるあのような終局を、このわたしも迎えることになるのだ。…賢い者も愚鈍な者と同じく、定めのない時に至るまで記憶されることはないからである。既にやって来る日々のうちに、すべての者は必ず忘れ去られる。そして賢い者はどのようにして死ぬのか。愚鈍な者と共にである。」(2:15,16)

 「すべての者の得ることはすべて同じである。義なる者にも邪悪な者にも、善良な者にも清い者にも清くない者にも、また犠牲をささげる者にも犠牲をささげない者にも、一つの終局がある。善良な者も罪人と同じであり、誓う者も、だれであれ誓言を恐れた者と同じである。これが、日の下で行われたすべてのことにおいて災いとなるものである。すなわち、すべてのものに一つの終局があるために、人の子らの心もまた、悪に満ちているのである。」(9:2,3)

 「善人も悪人も同じ結末」という、現代のJW的には受け入れがたい教理が、何度も繰り返し訴えられています。

人間も動物と同等:

「彼らが自分も獣であることを悟るためである…人間の子らに関しても終局があり、獣に関しても終局があり、これらは同じ終局を迎えるからである。一方が死ぬように、他方も死ぬ。皆ただ一つの霊を持っており、したがって人が獣に勝るところは何もない。全てはむなしいからである。」(3:18,19)

 「進化か創造か」などの本は、人間がいかに動物がより勝って優れており特異であるかを強調していますが...。

何の保証もない:

 「理解のある者が富を得るのでもなく、知識のある者たちが恵みを得るのでもない。なぜなら、時と予見しえない出来事とは彼らすべてに臨むからである。人もまた、自分の時を知らないからである。まさに災いの網に掛かる魚のように、わなに掛かる鳥のように、人の子らも災いの時に、それが突然彼らを襲うときにわなに掛かるのである。」(9:11,12)

「今だけ」という見方:

 「日の下で神があなたにお与えになったあなたのむなしい命の日の限り、そのむなしい日の限り、自分の愛する妻と共に命を見よ。それが、命と、あなたが日の下で骨折って働いているその骨折りとにおけるあなたの分だからである。あなたの手のなし得るすべてのことを力の限り尽くして行え。シェオル、すなわちあなたの行こうとしている場所には、業も企ても知識も知恵もないからである。」(9:9,10)

復活・永遠の命の可能性の否定:

「死んだ者には何の意識もなく、彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら、彼らの記憶は忘れ去られたからである。また、その合いも憎しみもねたみも既に滅びうせ、彼らは日の下で行われるどんなことにも、定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない。」(伝道9:5,6)

神に仕える動機:

 このような伝道の書ではありますが、最後に次のようなしめくくりをしています。

 「すべてのことが聞かれた今、事の結論はこうである。まことの神を恐れ、そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである。」(12:13)

 この点に関しては現代のクリスチャンの考えと一致することでしょう。しかし、永遠の命という賞があるから神に仕えようとするクリスチャンと、明らかに死後に何の保証された期待もなかった古代イスラエル人との間には、大きな隔たりがあることを感じざるを得ません。

協会の説明

 このように伝道の書には、クリスチャンには受け入れ難い教えが数多く含まれています。「むなしいむなしい」を連発するこの書は、無常観を説く仏教的なニュアンスさえします。「代は去り、代は来る。しかし、地は定めのない時に至るまで立ちつづける」(1:4)という冒頭の言葉など特にそうです。しかしながら協会は次のような説明をしています。  

「伝道の書は決して厭世主義の書ではありません。この書には神の知恵がちりばめられています。ソロモンはむなしいものとして列挙した多くの事柄の中に、エルサレムのモリヤ山におけるエホバの神殿の建造やエホバの清い崇拝は含めていません。彼は命という神の賜物をむなしいものとは述べておらず、それは人が歓び、善を行うためのものであることを明らかにしています。(3:12,13; 5:18-20; 8:15)災いの多い営みとは、神を無視した営みのことです。父は子のために富を蓄えるかもしれません。しかし災難がすべてのものを滅ぼし、彼のためには何も残りません。永続する霊的な富を相続財産として残すほうがはるかに良いのではありませんか。多くのものを所有していても、それを楽しむことができなければ災いです。災いはこの世的な富んだ人たちすべてを襲います。彼が手に何も持たずに、死んで「去っていく」時にです。-5:13-15; 6:12。」(「霊感P114)
 この説明は、伝道の書の意図を全く理解していません。
 ここで「ソロモンはむなしいものとして列挙した多くの事柄の中に、エルサレムのモリヤ山におけるエホバの神殿の建造やエホバの清い崇拝は含めていません」とありますが、ソロモンは「自分の手の行ったすべての業と、成し遂げようとして自ら骨折って働いたその骨折りとを振り返って見たが、見よ、すべてはむなしく、風を追うようなものであり、日の下に益となるものは何もなかった」(2:11)と述べています。

 「彼は命という神の賜物をむなしいものとは述べておらず、それは人が歓び、善を行うためのものであることを明らかにしています」ともありますが、彼ははっきりと「わたしは命を憎んだ」(2:17)と述べています。

 確かに彼は「人にとって、食べ、まさしく飲み、自分の骨折りによって魂に良いものを見させることに勝るものは何もない」(2:24)と一見逆の事を述べていますが、結局人生においては「食べたり飲んだり」すること、それがせいぜい最高のリターンでしかないと述べているのです。ですから彼は非常に限られた表現をしています。「見よ、わたしが自ら見た最善のこと、すなわち麗しいことは、まことの神が人にお与えになった命の日数の間、人が食べ、飲み、日の下で骨折って働くそのすべての骨折りによって良いことを見ることである。それがその人の分だからである」(5:18)。

 結局、あらゆる贅沢をし、かつ知恵も有していたソロモン自身は「人は日の下で骨折って働いているそのすべての骨折りと心の奮闘に対して、いったい何を得ることになるのであろうか…これもただむなしい」(2:22,23)という考えを述べています。

 また「災いの多い営みとは、神を無視した営みのことです」「災いはこの世的な富んだ人たちすべてを襲います」と解説がありますが、伝道の書は神を無視しない人までもが悪人と同じように災いを被る現実を嘆いているのです。「賢い者には愚鈍な者に勝るどんな益があるのか。」(6:8)、「賢い者はどのようにして死ぬのか。愚鈍な者と共にである」(2:16)、「理解のある者が富を得るのでもなく、知識のある者たちが恵みを得るのでもない。なぜなら、時と予見しえない出来事とは彼らすべてに臨むからである」(9:11,12)

まとめ

 このように伝道の書は、永遠の命という賞を掲げて神に仕える動機づけにしようとする福音書群とは、全く不協和音を奏でるものです。にも関わらず、協会はいつも強引にも次のように言い切ってしまいます。 

  「聖書を構成する各書が、王、預言者、牧夫、収税人、音楽家といったおよそ40人の異なった人々によって記されたことを考えると、それにはとりわけ重要な意味があります。これらの人々が聖書を書き記したのは1610年以上の期間にわたります。ですから、互いに会ってつじつまを合わせる機会はありませんでした。それにもかかわらず、書かれた事柄は、極めて詳細な点に至るまで一致しています。」(「聖書から論じる」P267) 
 この主張は正直なものでしょうか。それとも、あまり事情に通じていない一般の人々を欺く不正直な説明でしょうか。

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