正典、外典、偽典…誰が決めたのですか?


 

大量の「外典」「偽典」が混在する中、
誰が現行の66冊を「聖書」と決めたのだろう…?

 あなたが長年聖書に親しまれてきた方なら、何かの折りに聖書の「外典」「偽典」というものについて読んだり聞いたりしたことがあるかもしれません。聖書の外典偽典には、以下のようなものがあります。

 
旧約聖書の外典
第一エズラ書 第一マカベア書 第二マカベア書 トビト書 ユディト書 ソロモンの知恵 ベン・シラの知恵 エレミヤの手紙 マナセの祈り ダニエル書への付加 スザンナ アザリヤの祈りと燃える炉の中の三人の祈り バビロンのベルとバビロンの龍 エステル記への付加

 
旧約聖書の偽典
リステアスの手紙  第三マカベア書 第四マカベア書 モーセの昇天 イザヤの殉教 アダムとエヴァの生涯 シビュラの託宣 スラヴ語エノク書 ピルケ・アボス ヨベル書 エチオピア語エノク書 十二族長の遺訓 ソロモンの詩篇 第四エズラ書 シリア語バルク黙示録 ギリシア語バルク書 

 
新約聖書の外典
ナザレ人福音書 エビオン人福音書 へブル人福音書 エジプト人福音書 ヤコブ原福音書 トマスによるイエスの幼児物語 ペテロ福音書 ニコデモ福音書 ラオデキア人への手紙 コリント人への第三の手紙 セネカとパウロの往復書簡 偽テトスの手紙 パウロの黙示録 シビュラの託宣 ヨハネ行伝 ペテロ行伝 パウロ行伝 アンデレ行伝 トマス行伝 ペテロの黙示録  etc…

 この外典偽典の量の多さにあなたは驚かれたかもしれません。このように「まがいもの」とされる書物が大量に存在する中で、誰がいつどのようにして聖書の正典を定めたのでしょう?

 ものみの塔聖書冊子協会発行の「聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です」という本は、「それはエホバ神によって決められた」と言います。

 「エホバ神は、どの書き物が目録にいれられるべきかを決定する基準を定める偉大な書庫管理者であられます。それで聖書には定まった目録があり、その目録は、そのすべてが物事を導く神の聖霊の所産である66冊の書で成っています。」(P299)

 とは言え、「霊感を受けて書かれた目録」なるものは知られていません。ですから協会は事実上、次のような神頼み的な言い方しかできないのです。

「エホバは人々に霊感を与えて、人々を教え、築き上げ、その崇拝と奉仕の点で励みとなる神からの情報を書き記させたのですから、エホバは当然、霊感による書を照合して聖書の聖典を確立するよう導き、また指導されたと考えられます。」(「霊感」P300)
 つまり、神が人に霊感を与えて聖書を書かせたのであれば、それらを取りまとめるプロセスに関しても導きやお力添えをして下さったに違いない、というわけです。しかしこれは希望的憶測に過ぎません。では、実際に聖書が今の形になった経緯を調べてみましょう。

人間によって決められた

「霊感」の本によれば、外典とは「ある人々が特定の聖書に含めたものの、神による霊感を受けた証拠がないゆえに他の人々からは退けられた書き物のことです。」(P301)

 この引用からおのずと分かるように、ある書を正典あるいは外典偽典と決めたのは「人々」です。この「人々」とは霊感を受けた証拠もなければ神に導かれた証拠もない、普通の「世の人」あるいは「大いなるバビロン」に属する人たちです。

 例えば協会は4世紀の聖書写本の目録と、現行の新約聖書の目録がおおよそ合致することから、現行の新約聖書の正統性を示そうとしています(「霊感」P302,18節とP303の目録の表参照)。

 ただ4世紀と言ったら、イエスの時代から300年も後の時代であり、その頃にはすでに「背教」が権威を振るっていたと考えるなら(三位一体を決めたニケア公会議が325年)、ただ4世紀の写本の目録とだいたい合うからと言って、それで現行の新約聖書27冊の正統性が証明されるはずもないでしょう。結局その4世紀の目録も、霊感を受けていない一般の人々が個人的判断で決めたことなのです。ゆえに「霊感」の本303ページの目録の表を見ても分かる通り、4世紀の写本同士でも何が正典かに関して細かな見解の違いが見受けられます。

正典の指標」?

 「霊感」の本は「聖書の66冊の正典性を確定するものとなった神からの指標としてどんな事柄が挙げられますか」と自問し、以下のような自答をしています。(P300)

「まず第一に、その文書は地上におけるエホバの事柄を扱うものであって、人々をエホバの崇拝に向かわせ、そのみ名と地上におけるそのみ業と目的に対する深い敬意を鼓舞するものでなければなりません。」
 しかし「ソロモンの歌」のように、「人々をエホバの崇拝に向かわせる」目的とあまり関係なさそうな書物もあります。「ソロモンの歌」は「霊感」の本が述べている通り、「この書はソロモンの失恋の歌とも言うことができます。」この書ではエホバ神については全くと言っていいほど触れられていません(「霊感」P115)。

 むしろ「ソロモンの歌」は不道徳とさえ言われかねない内容です。ソロモンは既に「六十人の王妃、八十人のそばめ」を持っていたにもかかわらず(6:8)(この時点ですでに律法違反ですが)、シュラムの乙女の外見的な魅力にひかれ、婚約者のいる彼女に「あなたの股の丸みは工匠の手の業になる飾り物のようだ」「あなたの二つの乳房は、二頭の若子、雌のガゼルの産んだ双子のようだ」「あなたの乳房はなつめやしの房に似ている」などと、今ではセクハラで訴えられそうな発言を連発しています(7章)。

 とりあえず「霊感」の本は、この書に出てくる羊飼いとシュラムの乙女の熱愛は、キリストと「花嫁」の関係を表している、とまとめていますが、それでは乙女をコレクションに加えようとして失敗したソロモンは何を表しているのでしょう…?まさか組織をたぶらかす悪魔なんて誰も言わないでしょう。他方では栄華を誇ったソロモン自身がキリストの予表とされていることを考えると、余計「ソロモンの歌」はきれいにひな型化できません。

 キリスト者の方が運営する別サイト「聖書の呼ぶ声」「旧約聖書とは」では、「旧約聖書のすべてが宗教書とは言えない」ことについて触れ、「ソロモンの歌」について次のように評していました。「『雅歌(ソロモンの歌)』は、明らかに相思相愛の男女の美しい官能詩です。キリストと信仰者との関係として、信仰的な読み方、解釈をするのは自由ですが、無理な解釈はかえって神の御業(創世記1章)の素晴らしさを見失っていると思います。 」  

「それは霊感を受けた証拠を示さなければなりません。すなわち、聖霊の所産でなければなりません。(ペテロ第二1:21)」
 しかし「霊感を受けた証拠である」「聖霊の所産である」とは、誰が判定するのですか?霊感を受けていない人間です。であればそれが正しいと言いきれるでしょうか?そもそも霊感を受けていない不完全な人間に、ある書が「正典だ」「偽典だ」と判別する能力や権限があるのでしょうか?聖書が神から啓示されるものであるなら、本来なら人間側が「正しい」「間違い」と判断できるものではないと思われます。それがどんなに信じられない話でも、被啓示者はあくまで教えられる立場でしかありません。情報を選択的に選び取るなら、それは神ではなく自分の教えを信じていることになりかねません。

 しかし実際には、霊感を受けていない人々の「聖書はこうあるはずだ」「聖書はこういうテーマであるに違いない」という独断的な指針によって、「神の言葉」が任意に選び取られたわけです。他にも多数の書物が存在する中、今の聖書の選びが神の是認されるものであることを証明する術は、ありません。  

「その個々の書き物のいずれにも、全体に見られる内面的調和と矛盾するような事柄は一切あってはならず、むしろそれぞれの書は他の書との一致によって、著者がただ一人、エホバ神であることを裏付けていなければなりません。また、最も詳細な点に至るまで正確さの証拠があるはずです。」
 しかし「全体に見られる内面的調和と矛盾するような」正典はいくらでもありますし(律法に違反する「ソロモンの歌」しかり、厭世主義の「伝道の書」しかり)、「最も詳細な点に至るまで正確さの証拠があるはず」という指標には、本当に多くの正典が失格しています(別サイト「聖書の間違い」参照)。

外典は信頼できない」と言うが…

 「霊感」の本は、外典がどのようなものかについて、次のように説明しています。  

「…外典の書は作り話や迷信に満ちており、間違いだらけです。それらはイエスによっても、あるいはクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちによっても一度も言及されたことも、引用されたこともありません。」(P301)

 「外典の書は大変劣っており、多くの場合取り留めのない子供じみたものです。それらの書は多くの場合不正確です。」(P304)

 しかし一般に「作り話」「迷信」「取り留めのない子供じみたもの」と思われそうな話は、正典の中にも数多く含まれています。天使と人間の女の間に生まれた巨人ネフィリムの話、紅海がまっぷたつに割れた話、天からうす焼き菓子が降ってきた話、ものを言ったロバの話、髪の毛が超人的パワーの源であったサムソンの話、ヨナが魚の腹の中で三日三晩過ごした話、エリヤがつむじ風に乗ってどこかへ飛んでいってしまった話、などなど…。

 協会が外典のどのような話を「作り話」と言っているのか分かりかねますが、おそらく正典の不思議な話と、外典の不思議な話の信憑性に、大差はないと思います。どちらもわたしたちの検知不能な範ちゅうの事柄ですので、片方を実話と主張し片方を作り話と決めつける一貫した根拠がないということです。事実を言えば、「外典外典だから信用できない」というただそれだけのことではないでしょうか。

 逆に、外典には「スザンナ」のように、オーバーな奇跡話もなく、非常に訓育的で、全く何の落ち度もないような書物もあります。これらが何故に外されてしまったのか、筋の通った説明ができる人がいるでしょうか。

 また外典は「イエスによっても、あるいはクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちによっても一度も言及されたことも、引用されたこともありません」「クリスチャン・ギリシャ語聖書の霊感を受けた筆者たちが神の言葉として引用しているのは、これらの書(現行のヘブライ語聖書39冊)からだけです」(P301)とのことですが、これは明らかに間違いです。なぜなら「ユダの手紙」(14〜15節)には、「外典」よりいかがわしい「偽典」として退けられた*「エノク書」(1:9)からの直接引用があるからです(詳しくは別サイト「聖書の間違い」「『ユダの手紙』の著者の無知」をご覧下さい)。

*「『外典』よりいかがわしい『偽典』として退けられた 」 …旧約外典とは、90年のラビたちのヤブナ会議でユダヤ聖典からはずされたものの、イエスやその弟子らが引用していたギリシャ語の「セプトゥアギンタ訳」には含まれていた書を指します。「偽典」とは、旧約時代に由緒ある人によって記されたように書かれているものの「セプトゥアギンタ訳」や「ウルガタ訳」に含まれていない書物を指しています。

初期クリスチャン時代の状況

 この事実は、「ユダの手紙」が書かれた当時は旧約聖書が現在の形には固められていなかったことを証ししています。ですから、「ユダヤ人の伝承によれば、ヘブライ語聖書の正典をまとめて、目録を作成し始めたのはエズラで、その仕事はネヘミヤによって完成されたと言われています。...ヘブライ語聖書の正典が西暦前5世紀の終わりまでに定められたという伝承に基づく考え方を疑うべき理由は何もありません。」(「霊感」p300)という協会の伝承信仰は、間違っています。

 このような伝承はユダヤ人の宗教指導者らが自らの選定を権威付けるためにそう唱えてきた伝承であって、歴史的事実ではありません。事実、イエスや弟子たちが引用していた「セプトゥアギンタ訳」というギリシャ語の旧約聖書(前2世紀に完成)には、外典がたくさん含まれていました。

 また協会が「胸を踊らせるような」「信じられない」発見と評する1947年以降の死海文書発見時には(「霊感」P311)、最古で前2世紀末のものと見られる正典が発見されましたが、同時に多くの外典偽典も一緒に発見されました。ですからわたしたちが死海文書のイザヤ書の写真を感嘆しつつ見るように(「永遠に生きる」P52など)、死海文書のエノク書の写真も見ることができます。(The Qumran Library : Scrolls -Scrolls From The Dead Sea-をご覧ください) つまり今、旧約聖書の外典偽典とみなされている書物は、初期クリスチャンの時代には普通に聖書として流布し受け入れられていたのです。

宗教指導者による取捨選択

 旧約聖書が今の形に定められたのは、西暦90年にユダヤ人の宗教指導者(ラビ)たちによって開かれたヤブナ会議の時であると考えられています。そこでまずヘブライ語の旧約聖書から、現在旧約外典と見なされている書が除外されました。しかしそれらの書は、ギリシャ語の「セプトゥアギンタ訳」などクリスチャン向けの旧約聖書にはそのまま残存し続けました。

 やがてキリスト教世界の識者たちは、自分たちが持っている旧約聖書の特定の書物が、ユダヤ人が使っているヘブライ語の旧約聖書には存在しないことに気づきます。プロテスタント系の聖書翻訳者たちは翻訳の際それらの書物を外典として位置づけました。やがてそれらは「もとのヘブライ語聖書にないのだからこれらは後からつけ加えられた偽物に違いない」という誤った思い込みによって削除されるようになりました。一方カトリック教会はイエスらが用いていた「セプトゥアギンタ訳」の伝統に従ってそれらの書も正典に含めました。そのようなわけで、それら外典はプロテスタント系の旧約聖書には存在せず、カトリック系の旧約聖書にのみ生き残るという今日のスタイルができあがりました。ですからカトリック系の聖書は66冊ではなく、少し増えて72冊となっています。

 つまりエホバの証人が使っている旧約聖書の目録を決めたのは、プロテスタント系の聖書翻訳者たちであり、さらに元をたどればキリスト教誕生後のユダヤ教のラビたちだったのです。このような「世の人」あるいは「大いなるバビロン」に属する人々の業をエホバ神が導いたとは…思えません。もし神が導いていたなら、「ユダの手紙」が直接引用している「エノク書」を偽典として外させるというミスは犯さなかったことでしょう。あるいは「エノク書」が本当に偽典であるなら、そもそも「ユダの手紙」の著者に偽典から引用させるミスは犯さなかったことでしょう。

結論

 結論として聖書の目録は、明らかに神ではなく不完全な人間によって決められました。そこに神の霊による助けや導きがあったと信じられる要素は皆無です。しかしながら協会は、「霊感」の本の正典に関する章の最後で、次のような道理にかなわないまとめ方をしています。

 

 「霊感を与えてみ言葉を書き記させ、それを保存させた方である全能の神に対する信仰は、この方こそそのみ言葉の様々な部分の収集を導いてこられた方であることをわたしたちに確信させるものです。わたしたちは、クリスチャン・ギリシャ語聖書の27冊に加えてヘブライ語聖書の39冊の書をただお一人の著者エホバ神による1冊の聖書として、確信を抱いて受け入れます。」 

 しかし今まで考慮してきたように、協会は現在の聖書が正しく選ばれていることを証明する術を持ち合わせておらず、ただ歴史の流れ上たまたま自分たちの聖書が現行の66冊となっているがゆえに、それを擁護しているに過ぎません。協会にできるのは、神の守りがあったことを一方的に信じ、とにかく目の前にある66冊の聖書を信じることだけです。  

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