エホバに殺された子供たち


 悪いことをした我が子を罰するため、その子の手を火の上に差し伸べたままにさせる親をあなたはどう思われますか。『神は愛です』。(ヨハネ第一4:8)正しい考えを持つ人間の親がしない事を神がなさるでしょうか。確かになさいません!-「聖書から論じる」P196

 聖書には、次のような道理にかなった指針が書かれています。

 

  • 「父は子供のゆえに死に処されるべきではなく、子供もまた父のゆえに滅ぼされるべきではない。各人は自分の罪のために死に処される。」(申命記24:16)

     

  • 「子が父のとがのゆえに何かを負うことはなく、父が子のとがのゆえに何かを負うこともない。義なる者の義はその人自身に帰し、邪悪な者の邪悪はその人自身に帰する。」(エゼキエル18:20)

     

 しかし、これらとあからさまに矛盾する聖句もあります。

 

  • 「エホバ、エホバ、憐れみと慈しみに富み、怒ることに遅く、愛ある親切と真実に満ちる神、…しかし処罰を免れさせることは決してせず、父のとがに対する処罰を子や孫にもたらして、三代、四代に及ぼす。」(出エジプト34:7)

     

  • 「…あなたの神エホバを恐れないのであれば、エホバも必ず、あなたの災厄とあなたの子孫の災厄をひときわ厳しくし、大きくて長く続く災厄、また悪性で長く続く病とされるであろう。」(申命記28:58,59)

     

 実際、エホバ神がどちらの方針で行動して来たかと考えてみると、残念ながら後者の方針であると言わざるを得ません。

 ダビデ王とバテ・シバの姦淫によって生まれた子は、「父のとがのゆえに」神に「撃たれ」、病気になり死亡しました(サムエル第二12:15)。一方姦淫を犯した当人らは処刑されず、結局神に認められています。この不公正と思える事件を、どう受けとめたらよいのでしょうか?

協会の弁護

 「ものみの塔」誌1986年3月15日号の「読者からの質問」に、この件が扱われていました。その要点をまとめればこうなります。

  • 律法では姦淫は死罪に値するので、本来ならダビデはもちろん、バテ・シバも胎児もろとも殺されていたはず。律法上その子は死んで当然。バテ・シバとダビデが助かっただけでも感謝すべき。
  • エホバは神なのだから、別のやり方で裁く権利がある。
  • 人間界でも、親に浪費癖があったり懲役を課せられたりすれば、子が災いを被ることがあるではないか。

正反対の反応

 しかし、被造物を気遣い、命を重んじ、イエスがされたように「幼子を愛す」はずのエホバが、姦淫した者を胎児ごと殺すことを律法で定めていること自体、矛盾を抱えています。

 なぜなら協会は同じ律法(出エジプト21:22〜25)に基づき、「エホバは胎児を一人の人間とみなされる」と言って、妊娠中絶を「殺人行為」として禁止しているからです。中絶論争の問題を扱った「目ざめよ!」誌などには、取り出された胎児の写真が載せられたり、中絶手術の際胎児が感じる痛みが切々と書かれ、「なんと残酷なことでしょう!」と主張します。

 

「…胎児がその有毒な液を飲み込んだり吸い込んだりして、肺がいっぱいになると、胎児は苦しみもだえます。食塩水には組織を破壊する働きがあるため、胎児の表皮はただれ落ち、皮がむけてしなびてしまいます。脳から出血が始まります。数時間後には痛みに苦しみながら死に至ります。」(「目ざめよ!」誌1993年5月22日号P8,9)

 協会は、犯罪者にレイプされて妊娠してしまった場合でも、その犯罪者の子供を堕すことは殺人行為として許していません。それくらい「命は小さくても尊いもの」というわけですが、エホバが 「胎のその望ましいものを死に至らせる」時には何の矛盾も感じないようです。(ホセア9:16)

結局、子に父のとがを負わすエホバ

 協会は、「殺人者」がエホバとなると一転して「エホバは神なのだから、私たちがあれこれ言う資格はない」という冷やかな態度に急変します。ダビデとバテシバの子は胎児ではなく、生まれた赤ちゃんの状態で、わざわざ病気にさせられて死にました。 赤ちゃんは何も悪くないのに、かわいそう…そう思うのが普通の感覚でしょう。しかし神の前では、私たちの通常の道徳感も押し殺さねばならないのでしょうか?

 ものみの塔の弁解通り、確かに人間界では子が親の罪を背負うことはあります。例えば、親が性の不道徳や麻薬の打ち回しなどでエイズになり、母子感染で生まれながらエイズの赤ちゃんがいます。苦しんで死ぬために生まれてきたようなその子たちを見ると、なんて可哀想なのだろうと胸が痛みます。しかし残念ながら、強力なウィルスや遺伝法則の前に無力な私たちには、どうしてあげることもできません。

 しかし神はオールマイティです。神の意思が何かの法則や力によって制約を受けることはないのです。ではなぜ聖書時代において、自分がある時には述べたように親と子の罪を区別して裁くことをしなかったのでしょうか?

ハルマゲドンでも同じ事が….

 結局協会は、ダビデの子は生まれる時と場所を間違えた不運な子でしたと言って済ませているようなものです。

 聖書の中にはこうした「不運な子」が大勢出てきます。大洪水の時には、ノア以外の家庭にたまたま生まれた子供達はみな溺れ死にました(創7:21)。

 ソドムとゴモラにたまたま生まれた子供達は、「硫黄と火の雨」によって、まさに地獄のような苦しみの中で焼死していきました。(創19:25)

 エジプトではすべての初子が殺されました。「エジプトの地にいるすべての初子は、その王座に座するファラオの初子から手臼を回すはしための初子、さらには獣の初子にいたるまでことごとく死ぬことになる。そしてエジプト全土に大きな叫びが必ず起きる。」(出エジプト11:4、5)

 イスラエルの敵国にたまたま生まれた子供たちも大勢惨殺されました。「あなた方はみな女を生かしておいたのですか。…だから今、幼い者たちのうちすべての男子を殺し、男子と寝て男と交わりを持ったすべての女も殺しなさい。」(民数31:15〜17)

 「その時わたしたちの神エホバは彼をわたしたちに渡された。…すべての都市を、男も女も幼子たちも滅びのためにささげていった。一人の生存者も残さなかった。」(申命記2:33)

 イスラエルの国内でも不公平はなされました。「あなたはアハブがわたしのゆえにへりくだったのを見たか。彼がわたしのためにへりくだったので、わたしは彼の時代には災いをもたらさない。彼の子の時代に、その家に災いをもたらすであろう。」(列王第一21:29)

 そして間もなく到来すると言われるハルマゲドンの際、世の家庭にたまたま生まれた大勢の子供達もすさまじい死に方をするのです。ハルマゲドンを予表しているというエゼキエル9章の幻では、額に印のない者は「老人も、若者も、処女も、小さな子供も、女たちも」殺されます。これら「不運な子」は、有無を言わさず皆殺しです。

 あなたが現在「安全な神の組織内」に留まっているエホバの証人だとしても、これは無関係な話ではないでしょう。もし以前の統治体が唱えていたように、1975年にハルマゲドンが到来していたら、あなたは今生存していますか?もしあなたが1975年以降にエホバの証人になったのであれば、「真理」を知る機会もないまま、直接あるいは間接的に24年前のハルマゲドンで滅ぼされており、今や存在していないはずです。時間の流れの一時点に人類全員を裁くというやり方は、このような不公正を内在しているのです。

愛?公正?

 人間は「生まれながらにして罪人」であり、「罪の報いは死」だから、例え赤ちゃんでも滅ぼされても仕方ない、と言うエホバの証人の方がいました。しかしよく考えてみると、アダムという一人の父のとがを、別の人格者である子孫たちが延々と背負わなければならないこと自体、インドのカースト制度のような不公正な話であり、冒頭の申命記やエゼキエルの聖句と矛盾するものです。

 「生まれながらにして罪人」だから「滅ぼされても仕方ない」赤ちゃんたちには、実際にはキリストの購いさえ何の効力も持たないわけです。イエスは「裁きの根拠」は、「人々が光よりむしろ闇を愛したこと」だと言いましたが、大勢の子供たちは光も闇も選択できないまま、滅びの裁きが下るのです(ヨハネ3:19)。

 このように聖書内での神の実際の行動を考察してみると、エホバが「愛」や「公正」といった属性を持つ神だとはとても思えません。むしろ下記の聖句こそ、エホバの実際のやり方を正しく表しているように思われます。

 「同情を抱いてはならない。あなた方は老人も、若者も、処女も、小さな子供も、女たちも殺し尽さなければならない。―破滅に至らせるのである。」(エゼキエル9:5.6)

 まさに、「生ける神の手に陥るのは恐ろしいことです。」(ヘブライ10:31)  

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