聖書-特別な本ですか?


 これまでの記事を読まれて、エホバの証人の教えの土台となっている聖書には、決して簡単に「真実の本」「道徳的な本」とは言えない、数多くの問題点があることに気付かれたことと思います。

 ではこれほど明らかな間違いや矛盾や不調和がありながらも、それでも聖書は「神の言葉」として特別扱いすべき書物ですか?あるいは客観的に見れば、今のあなたにとって恐らくどうでもよい存在であろうコーラン(イスラム教の聖典)やアヴェスター(ゾロアスター教の聖典)と同じく、一宗教書に過ぎないものでしょうか?

 ここではまとめの意味で、聖書を特異な本と位置づける協会の主張を検証してみましょう。

その古さ

 聖書はこれまでに書かれた最古の本であり,その中には3,500年ほど前に書かれた部分もあります。これはつまり,聖典とみなされている他のどんな書物より何世紀も前ということです。聖書に含まれている66冊の書のうちの最初の本は,仏陀や孔子の約1,000年前,マホメットの2,000年ほど前に書かれました。-優れた知恵のユニークな源
 しかし、聖書の原本は存在しません。残存しているものは人の手で何重にも書き写されてきた写本であり、最古のものでもB.C.3世紀(ブッダの200年後)までにしかさかのぼれません。これに対し、聖書よりも古い時代に書かれた紀元前18世紀(!)のバビロニアのハンムラビ法典は、楔形文字で石碑に刻まれた原物が完全な状態で今なおあり、パリのルーブル美術館で大切に保存されています。

生き延びた

  宗教書であってもなくても,他の本の古い写本はごくわずかしか残っていません。しかし,ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書の全巻や一部の手書きの写本は1万1,000点ほど存在しており,その中には原本が書かれた時期に近いものまであります。聖書に対しては想像を絶するほどの激しい集中攻撃が加えられたにもかかわらず,それらの写本は生き延びてきました。-優れた知恵のユニークな源
 「青草は干からび、花は枯れた。しかしわたしたちの神の言葉は、定めのない時に至るまで保つのである」(イザヤ40:8)とは言え、聖書のある部分は欠落していたり(サムエル第一13:1は「サウルの治めはじめたとき、?歳」となっている)、写本によっては特定の部分があったりなかったり(マルコ16:9〜20、ヨハネ7:53〜8:11をご覧ください)、翻訳者の信仰に都合のよいように書き換えられたりしてきました(別サイト「聖書の間違い」聖書は書き換えられたか参照)。聖書の保存に神の完全な守りがあったとは言えません。

 単に古い写本が現存しているという意味でなら、聖書の「偽典」だって、「生き延びて」います。例えば、死海写本発見時に正典と一緒に出てきた「エノク書」などです(The Qumran Library : Scrolls -Scrolls From The Dead Sea-をご覧ください)。

 また前の記事で学んだように、聖書のどの書が聖書(正典)でどの書が外典(偽典)かを決めたのは後世の宗教指導者たちですから、その過程で勝手に切り捨てられてしまった書もたくさんあります。その一部が、イエスが用いたあの『セプトア・ギンタ(七十人訳)』にも含まれているのに、現プロテスタント系の聖書にはなく、カトリック系の聖書のみに生き残っているいくつかの書物です。ですから一概に「聖書は生き延びた」と言うことは不可能です(別サイト「聖書の間違い」聖書とは参照)。

 また「聖書に対しては想像を絶するほどの激しい集中攻撃が加えられた」とのことですが、だからと言って「サタンの攻撃」などと考えるのは安直です。宗教や思想に対する迫害、攻撃、統制というのは古今東西どこにでもあります。例えば中国の秦の始皇帝は、孔子に始まった儒学の本をすべて焼き払い、儒家460人を生き埋めにしました(焚書坑儒)。 まるで中国版のネロですが、後に儒学は儒教に発展し、漢の時代には国家を支える国教にまでなりました。

その頒布数

 また,聖書は歴史上最も広く配布された本としても飛び抜けています。聖書の全巻や一部が,2,000ほどの言語で約30億冊配布されてきました。人類の98%の人々が自分の言語で聖書を読めると言われています。ほかの本は配布数の点で足下にも及びません。-優れた知恵のユニークな源
 とはいえ、聖書は実際に人類にどれほどの益をもたらしていると言えますか。それはキリスト教国の犯罪率を見ても分かりますし、さらに20世紀に登場したエホバの証人の統治体でなければ聖書を正しく解釈できないし、エホバの証人にならなければ聖書を読んでも意味がないというのなら、「歴史を通じてベストセラー」「2000言語」「30億冊」「98%」という数字に何の意味があるでしょう?

科学的正確さ

 さらに,聖書は正確であるという点でも,他の古代の書物とは比べものになりません。科学者,歴史家,考古学者,地理学者,言語学者などが聖書の記述の正しさを絶えず裏づけています。 例えば,聖書は科学の教科書として書かれたわけではありませんが,科学的な事柄を扱っている場合は正確な科学と調和しています。しかし,聖典とみなされている他の古代書には,科学上の神話や不正確な箇所や完全な間違いが含まれています。-優れた知恵のユニークな源
 聖書を素直に読むなら、そこに「科学上の神話や不正確な箇所や完全な間違い」が数多く含まれていることに気付くはずです。必ず言われる「聖書は科学の教科書として書かれたわけではありませんが」という断りは、間違いの指摘を免れるための方便に過ぎません。これまで、このHPの記事の中だけでも、聖書の記述中に、

「全動物は草食として創造された」(創1:30)
「創造物は絶滅し得ない」(伝3:14)
「星は消滅しない」(イザヤ40:26)
「全動物はアララト山から広がった」(創8:19)

といった、明らな科学的間違いがあることを検証してきました。 歴史的正確さ

 S・オースティン・アリボンは,「ユニオン聖書便覧」の中でこう書いています。「…ジョンソン博士は,福音書の中に述べられている通りにイエス・キリストがカルバリで死んだという証拠のほうが,ユリウス・カエサルが元老院の議事堂で死んだ証拠よりも多いと述べている。…福音書の歴史の真実さに疑問を表明する人に対しては,カエサルが元老院の議事堂で死んだこと,あるいはシャルルマーニュ大帝が800年にローマ教皇レオ3世から西ローマ皇帝としての冠を授けられたことを信じるどんな理由があるか尋ねてみるがよい。……[イングランドの]チャールズ1世なる人物がかつて存在し,打ち首に処せられたとか,オリバー・クロムウェルが彼に代わって支配者になったなどということがどうして分かるのか。……アイザック・ニュートン卿は重力の法則を発見したとされている。……我々は,そうした人々についてここに挙げたような主張をすべて信じている。それは,我々がその真実さに対する歴史上の証拠を持っているからである。……もしこのような証拠を提示されても,なおかつ信じることを拒む人がいるなら,我々はそのような人を愚かなほど片意地な者,または救いようのないほど無知な者として退ける」。-優れた知恵のユニークな源
 このような論法は妥当でしょうか?いくら「イエス・キリストがカルバリで死んだ」ことや、「アッシリアのサルゴン王が実在した」ことや、「バビロンが倒れた時の王はベルシャザルだった」ことや、「ローマ総督ポンテオ・ピラトが実在の人物だった」ことが碑文や文書から裏付けられたとしても、それで聖書の内容全てが史実として証明されるわけではありません。  歴史を史実通り書き記すことは世の歴史家でもできますし、フランス革命を舞台にした「ベルサイユのばら」のように、事実とフィクションを織りまぜながら面白い話を書くことも人間には可能です。それにわたしたちは別に、イエスが実在したことや、アッシリアのサルゴン王が実在したことや、バビロンのベルシャザル王が実在したことや、ピラト総督が実在したといった聖書の記述を、それだけでは別に疑わしいとは思いません。

 しかしすべての動物は草食だったとか、地球を呑み込む大洪水が起きたとかいう話は、本当だろうか?と疑問視します。 そうした後世に大きな痕跡を残すはずの聖書の信じ難い記述が証明されたことはありません。 証明されるのはいつも、聖書の現実的な部分、事実であっても不思議ではないようなことだけです。

 

内面的な調和

 聖書を構成する各書が、王、預言者、牧夫、収税人、音楽家といったおよそ40人の異なった人々によって記されたことを考えると、それにはとりわけ重要な意味があります。これらの人々が聖書を書き記したのは1610年以上の期間にわたります。ですから、互いに会ってつじつまを合わせる機会はありませんでした。それにもかかわらず、書かれた事柄は、極めて詳細な点に至るまで一致しています。-「聖書から論じる」P267
 聖書を偏見なしに読んでいくなら、総合的な考えについても、細かな点についても、様々な矛盾や内面的不調和に突き当たります。例えば、以前の記事で触れた「父は子供のゆえに死に処されるべきではなく、子供もまた父のゆえに滅ぼされるべきではない。」(申命記24:16)と言いながら、「(エホバは)処罰を免れさせることは決してせず、父のとがに対する処罰を子や孫にもたらして、三代、四代に及ぼす。」(出エジプト34:7)と言っていたり、また「わたしは命を憎んだ」(2:17)「賢い者には愚鈍な者に勝るどんな益があるのか。」(6:8)「人が獣に勝るところは何もない。全てはむなしいからである。」(3:18,19)と嘆く「伝道の書」は、いわゆる「良いたより」としての聖書とはまったく不調和なものです。

まとめ

 S・オースティン・アリボンは,「ユニオン聖書便覧」の中でこう書いています。「…もしこのような証拠を提示されても,なおかつ信じることを拒む人がいるなら,我々はそのような人を愚かなほど片意地な者,または救いようのないほど無知な者として退ける。…それでは,聖書の信ぴょう性に関して今や十分の証拠提出されているにもかかわらず,まだ確信が持てないと主張する人たちについてはどう言えばよいであろうか。……頭ではなく,心に問題があると結論を下しても決して不合理ではない。彼らは自分 の誇りを失わせるような事柄,自分の生活を変えなければならないような事柄を信じたくないのである」。-優れた知恵のユニークな源
 さて、「愚かなほど片意地な者」「救いようのないほど無知な者」とは誰でしょう?「心に問題があり」「自分の誇りを失わせるような事柄,自分の生活を変えなければならないような事柄を信じたくない」人とは、一体誰でしょう?せめてあなたはそのような人にならないで下さい。

 

 聖書が科学的な事柄でも,歴史的な事柄でも,他の様々な事柄でも極めて正確であり,なおかつ高度に調和が取れていて,しかも偽りが見られない理由は,聖書そのものが明らかにしています。つまり,聖書の著者は至高者,全能の神,宇宙を造られた創造者であられるということです。-優れた知恵のユニークな源
 これがどれほど詐欺的な説明であるかは、もはや説明の必要もないでしょう。さらに別サイトの「聖書の間違い」 をご覧になれば、聖書が雑然とした間違いに満ちた、いかに人間的な書物であるかがよく理解できるでしょう。

 協会はただ、聖書に様々な間違いや矛盾点があっても、うまくまとめられない問題は単に黙殺し、ひたすら事実から目を背けて、自分の信じたい信仰を保っている過ぎません。 えこひいきしなければ聖書は単なる一宗教書に過ぎないのに、その実質を遥かに超えて偶像視されているのです。

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