2001/06/21 木曜日

読書と私

  1. 最初の1冊
  2. 学校図書館
  3. 詞書
  4. 読書は時代遅れ?
  5. 翻訳ミス?
  6. 桃太郎侍
  7. 附録
  8. 完訳と抄訳
  9. 時代で変わる訳語の選択

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 最初の1冊

私が初めて読んだのは、講談社絵本の「安寿と厨子王」でした。

4歳の夏、交通事故で入院中のことです。お見舞いで絵本を何冊も貰ったのですが、物語の絵本はそれ1冊きりでした。あとはみんな、ままごとの光景を描いたものや、動物、童謡の絵本でした。

そのたった1冊の物語を、2ヶ月の入院中、毎日何度も母に読んでもらいました。お陰で2人してすっかり覚えてしまいました。残念ながらその本は読みすぎてバラバラになってしまいましたが。

私がその物語に再会したのは、中学の時の国語の教科書でした。

森鴎外作の「山椒太夫」です。

 学校図書館

私の両親が買ってくれた本は、学校で販売されていた学習雑誌「科学」と「学習」だけでした。3歳年上の兄は、「小学○年生」という月刊雑誌も買ってもらっていましたが。そのため、いつも3年上の本を読む結果になり、兄が中学に進むと、「中学コース」やその附録の小説を読むようになりました。

私が通った小学校には、教室2つ分の立派な図書館がありました。ただ、残念なことに、普段は入れませんでした。たまに授業で読書の時間というのがあったのですが、年に一度あるかないかといった有様です。体育教育の研究モデル校であったためか、体育の授業だけはやたらに多く、交通事故の後遺症で反射神経が人より鈍く、貧血のせいで持久力が劣っていた私には、辛い毎日でした。

「ばらと指輪」
「ベルと魔物」(「美女と野獣」の子供向け)
「愛の妖精」(ジョルジュ・サンド作)
「ツバメ号とアマゾン号」(アーサー・ランサム作)

中学のときは、図書部員の特権を利用して、毎日図書館に入り浸っていました。毎日本を借り出し、1日1冊のペースで読みふけっていました。
家では買ってもらえない「アーサー・ランサム全集」を学校で購入してもらったのも、特権の濫用でしょうね。(^_^;)
先生が間違ってロフティング作の「ドリトル先生シリーズ」を購入してしまったため、こちらも読むことができました。
本ばかり読んでいると、父によく叱られましたが、お陰で読解力だけはついたと思います。

 詞書

「詞書」・・・どう読むか御存じですか?(^_^)
デパートの書籍売り場で、店員さんが一生懸命分厚い辞書を調べていました。お客さんから手持ちの一番大きな辞書にも載ってないから、載っているのを教えてほしいと頼まれたんだそうです。「ししょ」で探していたのですが、その読み方では、一番大きいものにも載っていません。さて、どう読むでしょう?
正しく読むと、ごく普通の小さな辞書にも載ってますが・・・。

 読書は時代遅れ?

新聞に、こんな投書がありました。

「読書というのは、まだテレビなどのビジュアル化に慣れていなかった時代(世代)のしかたのない楽しみ方にすぎないのだ。だから、ビジュアル化に慣れない人が十分に楽しめばよい。それよりも、まず考える習慣をつけてほしい。読書でもよいが、テレビ、マンガならなおよい。なぜなら、知識をより少ないレベルにし、自分の頭だけで物事をとらえられるからだ。」

(平成5年11月3日付のサンケイ新聞、談話室。投稿者は埼玉県上尾市の30歳のアルバイトの男性。これはその抜粋)

私もテレビ世代だし、漫画もどっさり読んでます。
(今も読んでいますが (^_^;))
それでも、やっぱり読書が一番面白いと思います。

映像や漫画は、見せられたシーン以外のものを想像するのは難しくなりますが、文章というのは個人の空想の自由を、想像の余地を残してくれています。
映像では表現しきれない想像力の翼を、この人は知らないようです。きっと、受験勉強に必要なだけしか、読まなかったのでしょう。これは試験によく出るとか、有名な本だから読んどかなきゃならない、とか。読書を社会で有利に生きるための手段だと思い込んでいるみたいだから。そんな読み方では、楽しいはずはない・・・ですね。

最近は、受験用に著名な文学書や名作の要約と解説が載った参考書?が出ているそうで、読まなくても分かる?ようになっているようですが、感動はどうするのでしょう?
その文章に触れることによって得られる感動は、粗筋だけでは得られないと思うのですが。

それに、映像というのは怖い面もあります。
「百聞は一見にしかず」なんて言いますが、ある一場面だけを見せられて、その前後の事情が全く伏せられていたら、完全に間違った印象を受けることだってあり得ます。
見栄えのよい人が得をすることもあるだろうし、テレビや映画を作る人の主観や思惑が、事実を歪めてしまうこともあるでしょう。
活字もその点は同じかもしれませんが、映像は活字以上にインパクトが強いですから。

 翻訳ミス?                    

翻訳もの読んでいると、ときどき面白いことがあります。それは……明らかな翻訳ミス。

「アボンリーへの道」の中の一冊で、買い物のシーン。

「イギリスの朝食用の紅茶」と言って注文しているのです。
変な言い方です。
これは多分 English Breakfast と書かれていたのでしょう。
ブレンド・タイプの紅茶の銘柄(私の愛飲してる銘柄)です。
この訳者は、紅茶の銘柄には詳しくなかったようです。アッサムとかオレンジ・ペコーならわかったのかもしれませんが。
(紅茶といえば、リプトンの黄色いティー・バッグしか知らない人も多いですから)。

「コーンウォールの聖杯」で、お弁当に菓子パンを食べるシーン。持って出た食料はホットケーキとバターケーキだったはずなのに・・・。ホットケーキはどこへ? イギリスに菓子パンなんてあったかなあ……?
これは、原書ではパンケーキと書かれていたのではないかと思われます。
パンケーキ・・・パンのケーキ・・・菓子パンとなってしまったのかもしれません。
(パンケーキの「パン」は、確かフライパンの意味だったと思います。食べる「パン」は、英語からきた言葉ではありません。御存じのように、「パン」は英語では「ブレッド」ですものね)

翻訳する人も大変です。生活習慣にも詳しくないと、思わぬミスをすることになります。それに、専門用語や俗語もありますし、引用が好きな作家も多いですから。
最低、聖書やギリシア・ローマ神話、北欧神話、シェークスピア、マザー・グース、有名なオペラくらいは知っていないと・・・。
(引用や、もじりや、ほのめかしがありますからね。日本でも中国の史書からの引用や故事成語、歌舞伎や浄瑠璃の台詞などがありますが。ほら、「遅かりし由良之助」(仮名手本忠臣蔵)なんてね。)

 桃太郎侍

山手樹一郎原作の「桃太郎侍」は、何度も映像化されています。
一番最近では高橋英樹主演の連続TV時代劇。もっともあれは、題名と登場人物の名前と主人公が大名の双子の弟(原作では若殿)という設定だけが原作と同じで、ストーリーはまるで違いますが。
原作のほうは、お家乗っ取りを企む国家老を阻止しようとする江戸家老を助けて、身分を隠したまま毒に倒れた双子の兄の身代わりになって国元へ乗り込む、という筋立てです。

なかなか面白い時代小説で、何度か読み返しました。

この中に、桃太郎が自分を育ててくれた乳母を我が母として回想するシーンがあります。
最後に死の床につくまで、寝ている姿を見せたことがなかった。
いつも自分より先に起き、どんなに遅く帰っても、寝ずに待っていたと。
まさしく婦人の鏡ともいうべき女性です。
初めて読んだとき、単純にそう思ったのですが・・・(当時は小学生でした)
成人してから読み返したとき、これが婦人の理想像なら、ぜったいなりたくないと思いました。
誰よりも早く起きて、誰よりも遅く寝るなんて不健康なことを奨励されたら身が持ちません。そういう特定の誰かの犠牲の上で保たれる家庭、それが当然の家庭は、家庭としては失格だと思うようになっていたからです。

妻は、家の附属物ではないのです。

 附録

学習雑誌の附録に、よく世界の名作の抄訳本がついていました。
文庫本サイズの薄っぺらな本で、推理小説やSFが多かったのですが、たまには全集のような本もありました。

「アゾレスに咲いた花」と「金髪のジーン」も、そんな附録のノンフィクション全集に収められていました。

「アゾレスに咲いた花」

アゾレス諸島の小さな島の火山が大噴火し、住民の避難にいろいろな人々が命をかけます。
救援を請うSOSを打ち続けた無線技師は、一人娘を先に救援の船に乗せます。しかし、彼女は2度と父やその部下である婚約者に会うことはありませんでした。
熔岩のせまる孤児院の救援に向かった男たち・・・
退路を熔岩流に断たれた彼らは、修道院の裏の断崖からロープで子供たちや修道尼たちを吊り降ろします。男たちの最後の1人は、自ら最後の一人となることを選んだ護送途中の死刑囚でした。

救援に向かった船の中には、島の沖で漁をしていた日本の漁船も含まれています。

「金髪のジーン」

ギャングが闊歩していた時代のシカゴが舞台です。
女性新聞記者ジーンは、赤毛でした。
男勝りで周囲の顰蹙を買っていた彼女は、大火のスラム街で住民を避難させるために、銃を構えてギャングに相対して避難路を確保します。そして、そのために大火傷を負います。
入院中の彼女に、同僚たちが金髪のかつらを贈ります。
「私は赤毛よ。金髪じゃないわ」
そう言う彼女に、編集長は、銃を構えて立つ後ろ姿の写真を見せ、
「君には金髪こそふさわしい」
と言います。
先に逃がした相棒のカメラマンが、踏み止まって、銃を構えてギャングに立ち向かう彼女の後ろ姿を撮影していたのです。

この話にはもう少し説明が必要ですね。
赤毛と金髪。今はそれほどでもありませんが、それぞれに結びついたイメージがあるのです。
金髪の女性というのは、美人で女らしいというイメージでとらえられます。しかし、赤毛はそれとは逆のイメージ、すなわち、女らしくない、醜いといったマイナスのイメージと結びついているのです。
「赤毛のアン」の主人公アン・シャーリーが自分の赤毛を嫌っていたのも、この辺に理由があるかもしれません。

  完訳と抄訳

翻訳の場合は、いろいろな理由で原書の一部が省かれてしまったり、簡単な要約のような訳文になったりします。

子供向けの本として出版されるときや、雑誌に載せる時などは、特に抄訳になることが多いようです。

抄訳であるとわからないほど巧みな訳もあれば、骸骨のような粗筋を追うだけのものもあります。

完訳と抄訳。どちらが面白いか?

当然完訳を読むほうがよいと思うのですが、中には抄訳のほうがはるかに面白い場合もあります。

原作があまりにも冗長で回りくどい場合など、本筋には関係のない部分がうまく省かれた抄訳は、テンポよく読み進めます。
(アレクサンドル・デュマ作「レ・ミゼラブル」など)

完訳と抄訳、どちらもそれぞれに面白いという本もあります。
(ロバート・ハインライン作「ラモックス」など)

もちろん、抄訳版を読んでから完訳を読んで、なんとたくさん省いたことよ、と呆れてしまうような無茶な抄訳もありますが。
(「ニルスの不思議な旅」など)

どちらにしても、翻訳者の文章力とセンスが重要であるのは間違いありません。

 時代で変わる訳語の選択

翻訳者が最も悩むのは、ふさわしい訳語の選択ではないでしょうか?

すでに一般的になっている訳語があれば問題ないのですが、初めての概念や本では馴染みのない動植物をどう表現するか?
訳者の力量が問われるところです。

新たに造語したり、日本語の中から代替出来そうな言葉を探してきたり・・・
あえて原語のままカタカナ書きにして、訳注で説明をつける、ということもよく行われます。
どの方法をとるか、時代によって変わってきます。
最近は、適切な訳語があっても、原語のままカタカナ書きにしてしまうケースが多いような気がします。

「醜聞」「雑香」

村岡花子訳のモンゴメリ作「赤毛のアン」です。
前者は「スキャンダル」、後者は「ポプリ」の訳語です。
今ならそのまま「スキャンダル」「ポプリ」と訳されることでしょう。
当時は原語の音をカタカナで表現しても、意味が通じなかった言葉ですが、今は日本語に溶け込んでしまっていると言ってもよさそうです。

「晴朗なる宇宙空間を」「信用単位」

E・E・スミスの古典SF「レンズマン・シリーズ」に出てきた言葉です。
前者は宇宙での挨拶で、後者は通貨単位です。
おそらく原語では、「クリア・エーテル」と「クレジット」だったのではないかと思います。

「ターミナス」「テルミナス」

どちらもアイザック・アシモフの名作SF「ファウンデーション・シリーズ」の舞台となる惑星の名前です。
前者はハヤカワ書房版の訳で、英語読みです。
後者は先に訳出された創元推理文庫SF版で、ラテン語読みと英語読みを折衷したものです。ラテン語ですと「テルミヌス」となるところを最後の部分だけ英語読みにしたものだそうです。