纐纈熾野(こうけつしの)は吐息をついて、南棟4階、化学室の薬臭い机に突っ伏した。
『何よ、ため息ついちゃって』
そこへするっと壁を抜けて現れたのは、古宮高校の校舎を我がものとする地縛霊の総元締め―――つまり総番オブ学校の幽霊――――真砂(まさご)だった。真砂はいつもの豊かな赤い髪を揺らし、教卓に腰掛けると、熾野を高飛車に見下ろした。
『なぁに? 居神(いがみ)先生はご不在なの?』
熾野は首を縦に振った。彼女は生徒会の仕事のない日はいつもする通り、熾野は放課後に化学教師の居神のところへ遊びに来たのだが、居神が所用で席をはずしており、その上いつもの化学準備室には入念に施錠をしていったので熾野は準備室に入ることが出来ず、隣りの化学室にひとりで待たざるを得なかった。
熾野が来ることを分かっていて居神は彼女を締め出したことに、不満で拗ねて化学室で待ち伏せを決め込んでいたのだが、その待ち伏せももう三十分以上になり、いい加減当初の怒りも収まり、今度は退屈で、その忠実な式神である吼(こう)の王野と遊んでいたのだが、それも飽き、こうしてだれていたのだった。
『何よ、随分ご機嫌斜めね。あんたって、自分がちやほやされてないとすぐ拗ねるのね』
居神は相変わらず自分に冷たい、と熾野はつむじを曲げていた。
放課後、いつもバスケ部のルーキーで親友の谷口夕佳(たにぐちせっか)と一緒に帰っている熾野も、本日は女子バスケ部が秋季大会に向けて他校へ遠征試合に出かけており、いくら待てど夕佳は帰ってこないし、生徒会室も先輩たちは其々所用で来られないために集会しないのだから、しょうがない。
それならばと訪れた化学準備室も、居神が居ないのだから仕方ない。勿論、彼女の特殊能力をもってして鍵をこじ開けることなどいとたやすいことではあるのだが、準備室は居神の城である。いくら熾野がその純情さをもって居神の妻を自任していても、勝手にその中へ踏み入ることは許さることではない、と自制し、こうして大人しく待ちぼうけを喰らっているわけである。
『仕方ないでしょう? 居神先生だってお忙しいんだから。あんたと遊んでいる暇なんて、刹那だってないのよ』
と真砂は年上ぶった口を聞く。熾野は聞こえないふりをして、足元に控える王野の頭を撫でた。
南棟は現存する古宮高校の校舎の中でも一番古いため、化学室の窓枠も木で色が褪せているし、机も相当の年季が入っている。壁が汚いせいか、どことなく空気がよどんでいるし、薬品の匂いを吸い込んでいると、肺まで薬品で染まってしまうような気がした。人よりも鋭敏な嗅覚の居神が良くこの空気に耐えられるなと熾野は思う。馴れか、好きな匂いなのか、煙草で麻痺させているかのどれかなのだろう。
不燃の石材でできた机もあちこちで薬品焼けや角が欠けていたり、落書きがひどくて下敷きを引かないとその上においた教科書やノートが汚れてしまうような状態だった。
いつまでたっても部屋から出て行こうとしない真砂に、彼女がここに現れるのは珍しいので不機嫌半分で熾野は問うた。
「何よ、あなただって祐成(すけなり)先輩に引っ付いていなくていいの?」
『将都(まさと)は今お仕事で忙しいのよ。授業が終わるとすぐに出て行ったわ。で、何よ。何がそんなに不機嫌なわけ?』
熾野はもう一度吐息をついて、話し始めた。
「あなた、西川先生って知っている? 家庭科の」
『ああ、ちょっとおなかの出た人ね』
「私、いま、掃除当番が校門の前の花壇だから、担当が西川先生なの。それで、今日掃除の時間にね、5年前の卒業生だって言う人がきたのよ。西川先生お久しぶりですーって話が弾んでて、後で西川先生に5年も前の生徒さんをよく覚えてますね、って聞くと、「誰だったか分かんなかったんだけどね」って言うのよ。西川先生、相手の生徒さんのこと覚えていないのに、話がすごく弾んでたのよ。覚えていないのに、適当に話をあわせていただけなのよ」
『何年も前に卒業した生徒のことなんていちいち覚えてられるわけがないじゃない。あんた、この学校で一年にどれだけの生徒が卒業していくと思ってるの?』
「そんなこと承知してるわ。でも、寂しいなって思ったの。だって、生徒は先生を忘れていないのに、先生は大勢の生徒の中の一人として、それでも覚えてないのよ」
『お互いさまでしょ。生徒のひとりひとりを覚えている先生もいれば、忘れている先生もいる。生徒だってひとりひとりの教師のことを覚えている生徒もいれば、忘れる生徒もいる。お互いさまでいいじゃない』
「それは分かってるけど……」
熾野は自分の言いたいことをうまく言い表すことが出来なくて、もどかしく思った。おかっぱ頭の、烏のように艶やかな黒い髪の先をいじりながら、
「私は、忘れたくないわ。忘れられたくもない。この学校に私が居たことを、忘れられたくないわ」
それを居神に肯定してもらいたくて会いに来たのに、居神は熾野を置いて自分のクラスの生徒の進路相談に行ってしまったのだ。確かに3年生の進路相談は大事ではあるが、熾野のこの悩みも、一生を決するくらい重要なことだと熾野は思っていた。
真砂はふんと鼻を鳴らした。
『いいじゃない。私のこと覚えてる人なんていやしないわよ』
熾野は顔をあげて真砂を見た。地縛霊である真砂にこんなことを持ちかける、自分の思慮のなさにはっと気付いて恥ずかしくなったが、真砂は大して関心を払っていないようだった。
『大体、私のこと見える人だって、そう居ないのよ。今のこの学校じゃ、将都とあんただけよ』
熾野は恥ずかしさを忘れて驚いた。
「そうなの? もっと居るかと思ったわ」
世間では偶に、陰陽師や呪禁師や、宿曜師や霊媒師、神道・仏道と言った宗教や霊能関係の家柄出身でなくとも、五感が非常に鋭い人間が生まれたりすることがある。特に学校のような集団では、稀にその方面に鋭い感覚を持った子が普通に混ざっていたりすることがある。
生来の陰陽師でありその術も身に修めてきた熾野の右に並ぶ霊査能力はなくとも、真砂の気配に気付く子が他に居たとしてもおかしくないのだ。何せ学校内には700人もの生徒と50人もの教職員がいるのだから。
『居ないわ。私、滅多なことでは生徒の前に行かないし。向こうだって、私が必要じゃないでしょう?』
確かに古宮高校内に流布する伝説といえば、その裏庭奥に存在する、数年起きに生徒が行方を眩ますのは生贄を求める魔性の森―――≪黒い森≫であるから、今更、学校の地縛霊など目新しくも何ともない。しかも、真砂は―――こう言ってはなんだが、学校の伝説になるような死に方をしていない。語り継がれるようなセンセーショナルな出来事ではないのだ。
『あんただってそのうち忘れるわ。ここで過ごした1000日くらい、すぐに忘れるわ。それでも先生と生徒、お互いの生活は成り立つのよ』
「私は忘れないわ」
『忘れるわ。あんたがすぐに死なない限りね』
あまりに露骨な言葉に熾野はむっとして、申し訳ない気持ちなど払拭されてしまい、真砂を睨みつけるが、真砂は熾野が腹を立てたことなど意に介さない。
『それでなに、居神先生に忘れないで、って泣き付きに来たわけ?』
「泣きつきなんかしないわ」
『あんたのすることって、大抵がそうじゃない。まあ、今のままじゃ確実にあんたに居神先生は陥とせないでしょうしね。ああいう男の人は、すぐに泣きついてくる小娘なんかに用はないでしょうからね』
熾野は無視した。すると真砂は彼女に身体を近づけ、辺りを憚るように声をひそめて(周囲に漏れることはないのだが)、
『ああいうタイプはね、いい、少し焦らして、押しを強くしないのよ。で、時には引いてみるのよ。若さを売り物にしてね、大胆にね、既成事実を作ったほうが勝ち』
熾野は真っ赤になって叫んだ。
「そんなレクチャーは要らないわよ!」
『なによ、折角教えてあげてるのに。あんた、本気であの人陥とす気あるの? 本気で好きなの!?』
「そういう小手先は使いたくないだけよ。強要なんかしたくないわ」
『ホントにねんねね、あんたって』
真砂は呆れて熾野から身を離す。『本気じゃなければ陥ちないわよ。でもまあ、あんたもすぐ死ぬでしょうから、犬神のあの人としては物足りないでしょうけどね』
「私がすぐ居なくなるから、先生は物足りないっていうの?」
『事実でしょ? 人狼とただの人間じゃあね、寿命が違いすぎるじゃない。
ましてあんたなんか、ただの纐纈(こうけつ)の小娘なんだから』
あまりの無礼に熾野は一瞬口が聞けなくなった。それでも何とか冷静さを保ろうとして反論する。
「私は居神先生のお嫁さんになるのよ。でも、それは先生が人狼だからじゃないわ。私が居神先生を好きだからよ」
『すぐに死ぬ奥さんに何の用があるのよ。それこそ、生徒として忘れないで、って泣きつくのね』
熾野は怒りのあまりにもう何も言えなくなった。
そのとき、日が暮れかかった南棟の4階に、澄んだ管楽器の音が響いた。
その柔らかく、澄んだ音色に熾野と真砂は顔を見合わせる。
「向かいって、音楽室よね?」
『そうよ』
「吹奏楽部の人じゃないわよね? 吹奏楽部は東棟で練習するのだし……」
熾野も伊達に生徒会役員をやっている訳ではない。吹奏楽部は普段、音楽室で練習しないことは知っている。
音楽室が狭くて吹奏楽部員全員が入りきらないのと、5年ほど前に新設された合唱部と音楽室の使用権を争って大喧嘩をし、ピアノは移動させられないと言う理由で合唱部の顧問が他の教師たちを陥落させて音楽室を占拠し、仕方なく吹奏楽部は東棟の、音楽室よりも若干広い生徒集会室で練習することになったのだが、当初の意気込みをよそに合唱部の顧問が転勤の辞令を出されてしまい、以降合唱部の人数は年々減りつづけ、いまや部の存在自体もほとんど幽霊状態になっており、吹奏楽部がまたぞろ音楽室の奪還を狙っているという噂は聞いていた。
それでとうとう、実力行使に踏み切ったのだと瞬間的に熾野は思った。
熾野は立ち上がると、そっと化学室を抜け出た。真砂も後に続く。
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