
ある土曜日の夜、駆け出し営業マンの彼に電話がかかった。先生いますか、だってさ、女の子から、と母親は、かなり訝しげな顔で受話器を彼に渡した。
「先生、あたし。覚えてる?」
「あ?あぁ、静香だろ?」
「えへっ、良く覚えてるね。よろしい。」
「こんな電話かけて来るの、お前ぐらいしかいないよ。」
「先生、元気?」
「うん元気だけど、そのせんせーってぇの、やめてくれよ。」
「先生って、先生じゃないの?」
「あぁ、普通の会社に就職したんだ。」
「へぇー、じゃ、サラリーマンなんだ、先生って。」
「だからせんせーじゃないってば。」
「でも、あたしには先生だもん。いいでしょ、先生って呼んで。」
「ん?う〜ん、まあ好きにしろよ。」
「ねぇ、先生ってさぁ、仕事忙しいの?」
「あぁ、ちょっと。ここでは話しにくいから。」彼は静香の携帯の番号を聞き、自室に戻って部屋の明かりを消し、携帯からかけ直した。窓の外には初夏の雨が静かに降り、緑の良い香りが窓から流れ込んでいた。
「もー学校、かったるくってさぁ。」
「まだ入学して2ヶ月も経ってないだろ?」
「でも、ツマンナイもん。英語、全然わからんし。」
「ちゃんと予習復習やってるか?」
「うっとーしージジイでさぁ、もう英語の授業、くっしゃくしゃ。」
「ふーん。」
「先生の教え方の方がずっと良くわかったもん。この前なんかさぁ、男子がジジイに漫画の本投げつけたんだよ。」
「授業中に?」
「そう、授業中。みんな全然聞いてないもん。」
「ひっでぇなぁ。」
「んでさぁ、来週中間テストなんだけど、先生、ちょっと英語、教えて?」
「いいよ、明日なら暇だし。またみんなで来るんだろ?」
「ううん、あたしだけ。」
「1人でか?」
「だってもう、マキもケーコも違う学校じゃん。」
「そっか。でも授業料、高いぞ。」
「後でデートに付き合ってあげるからさ。」
「おいおい、オレ、彼女出来てるんだぜ。不自由してないよ。」
「じゃあ何で日曜日ヒマなの?」
「うっ、まあそんな事いいじゃんかよ。それよりオレ、変な気、起こしちゃうぞ。」
「やっだぁ、あたし逃げちゃうもん。・・・でもいいよ。」
「はっは。冗談だよ。」
「じゃあ、前みたいに駅前で待ってる。十時でいい?」
「あぁ、迎えに行く。遅刻厳禁だぞ。」
「大丈夫。」
「ちゃんと勉強してたのか。」
「あたし今からお風呂入る。キレイにしとくからね。」
「ど、どう云う意味だよ。」
「だってぇ、先生とデートだもん。」
「はっは、分かったよ。じゃあ、うんと綺麗にしとけよ。」
「うん。じゃあ明日ね、十時ね。バイバーイ。」静香は丁度、去年の今頃、教育実習の教え子だった。配属された中3のクラスで、実習生の彼を取り巻いた女子グループの一人だった。実習中はそう目立つ方ではなかったが、宿題見てくれ、とかテスト前だから勉強教えてくれ、とかで、その後2、3回、数人で彼の家に上がり込んだことはあった。先生は彼女いるの?と訊かれ、当時振られていたのでその事は話したが、中3で子供子供していた彼女達を、女性として意識する事は無かった。今年の正月に年賀状が来てからは全く音信が無く、彼も大学卒業、就職と忙しく、静香のことは殆んど忘れかけていた。
翌朝も雨が降り続いていた。駅前で彼は驚いた。彼の車を見つけて駆け寄る静香は、随分垢抜けたように見えた。が良く見ると、かなり背伸びしてる感じだ。雛には雛の美しさがあるのに、そこまで大人ぶらなくても良いものを、と云う程のアンバランスだった。去年はイモ結びだった黒髪をショートカットでまとめ、品良く茶色に染めていた。薄水色のミニのワンピース、素足にラメの入った白いミュールをつっかけ、ブランド物らしい小さな黒いバッグとピンクのフリルのついた傘を提げていた。
「先生、遅ぉいー!」
「済まん済まん、まあ乗れよ。」
静香が助手席に乗り込むと、幼いままの顔にアイシャドウと口紅を薄く引き、爪も薄水色に染めてある。去年の姿との落差に、彼は思わず吹き出しそうになった。が、ふっと微かにコロンが香った。大人の香りだった。つるつるの膝小僧の上は滑らかな太腿で、薄っすらと血管の網目が浮かび上がり、見えてしまいそうな程の短いスカートに、彼は目の遣り場に困った。
「随分変わったなぁ、静香。」
「そう?うちの学校じゃ、みんなこんなもんよ。」
「そっかぁ。それよりおい、勉強道具は?」
「もういいの。持って来なかった。」
「何で?テストだろ?」
「いいのいいの。今日は先生とデートだから。ちゃんとキレイにして来たよ。」
静香は口元で微笑んだ。瞳は笑っていなかった。海が見たい、と静香が云うので、半島の有料道路に入り、雨の中を岬に向った。彼は今付き合っているガールフレンドには悪いとは思ったが、最近振られたと云う事にして、面白可笑しく話を盛り上げた。静香は花のように笑った。あどけない、子供の笑顔だった。海がちらと見えるとはしゃぐ姿も子供そのものだった。が、有料道路を降り、話題が静香の彼氏の事になると、静香は急に口数が少なくなり、溜息ばかり吐いた。
「彼とはちょっと今、うまくいってないんだ。」
「何で?」
「だって。・・・もういいじゃん。」
海岸沿いのカーブを左に大きく曲がると、静香は彼の肩にコトンと頬を乗せて来た。堤防沿いの路肩に彼は車を止めると、静香は口唇を寄せて来た。二人は暫くの間、堅く抱き合い、互いの口唇を貪り合った。
「おい、海を見に来たんじゃないのか。」
「うん。でも・・・」
「でも、何だよ。」
「先生、どっか行こう。」
「どっか、って、海を見に来たんだろ。」
「うん。海が見えるところで・・・」
「ここで見えるだろ。」
「二人っきりになれるとこ。」海沿いのホテルで彼は静香を抱いた。彼の知らなかった事を、その年齢で静香は色々と知っていた。その都度彼は驚きつつも、彼女に導かれるまま、弾けるような静香の若い身体に夢中でのめり込んで行った。
「先生って、ホント、先生だよね。」
一息ついて2人でシャワーを浴びている時、静香が訊いた。
「お前はオレの悪い教え子だよ。」
「こんな事、しちゃっていいのかな。あたし高校生だよ。」
静香は真剣な顔だった。
「あたしが先生を訴えたらどうする?インコージョーレーとかで。」
「何云ってんだよ。バカ。」
「うそだよ、うそうそ。」
静香はまた彼にむしゃぶりついて来た。ずぶ濡れのまま二人は再び抱き合い、時を忘れて互いを貪り合った。彼の髪をくしゃくしゃに掻きむしりながら静香は、せんせい、せんせいと、か細く唸り続けた。帰り道の車内、静香は物憂げで無口だった。かなり遅いけど昼食を、と入ったファミレスでも、彼女は殆んど手をつけなかった。次はいつ逢おう、という言葉を彼が云いあぐねていると、静香はぽつりと、お稲荷さんに寄って行こう、と呟いた。なぜお稲荷さん、と彼は訝ったが、遠い目で窓の外を眺める静香の横顔を、彼は初めて綺麗だ、と思った。
大きな神社の杜の夕暮れ時、参道を歩いているのは彼ら2人きりだった。フリルのついたピンクの傘は、相合傘するには少し小さかった。彼が静香の肩を抱き寄せると、彼女は全身をぴったりと彼に寄せ、腰に手を回して来た。
「オレたちってさ。」
「うん。」
「恋人だよな。」
「うん・・・。 でも・・・。」
雨に黒く濡れた玉砂利を踏む自分達の足音にかき消されそうな程、静香の返事は小さい。
「でも、何だよ。」
「先生と生徒だよ。」
「来週また逢おうよ。」
「うん。・・・ でも・・・。」
「メールするよ。電話もかけていいだろ、携帯に。」
「・・・」
返事は無かった。2人は黙ってぴったりと寄り添ったまま、本殿へと歩き続けた。木々の香りが清清しく、じゃり、じゃり、と響く足音と、霧雨と夕闇が2人を包んでいた。静香の体温をいとおしく感じ、彼は抱く腕に力を込めた。本殿でかしわ手を打った後、彼は静香に尋ねた。
「何てお稲荷さんにお願いしたんだ?」
「・・・」
それには答えず、意を決したように静香は彼に向き直った。黒い大きな瞳が、彼を真っ直ぐに見据えた。
「あのね、先生。」
「ん?」
「先生も知ってるでしょ、ここ。」
「何を?」
「カップルでお参りすると、絶対に別れるって。」
「あ?あぁ、オレが中学や高校の頃もそんな噂、あったっけかなぁ。」
「あたしね、先生の彼女に悪いと思う。あたしの彼にも悪いし。」
「・・・オレは、オレは静香が好きだし、振られちまってるからいいんだ。お前さえ良ければ。」
「ウソはダメ。先生、振られてなんかない。」
見抜かれたことに彼はたじろぎ、言葉を失った。「今からここに、彼に迎えに来てもらう。彼の家、この近くなの。先生も、もう帰って。」
静香は携帯を取り出した。彼が止める間も無くすぐかかり、話しもあっという間に纏まったようだった。呆然と立ち尽くす彼に静香は抱きついてキスして来た。傘がばさっと音を立てて、玉砂利の上に落ちた。
「先生、大好き。今日はありがと。」
「あ、あぁ。」
「いつまでもあたしの憧れの先生でいて欲しいの。先生も、彼女、大事にしてあげて。」
「・・・」
「あたしの番号とか、着信履歴とか全部消しといて。あたしのも消すから。」
そう云うと静香は、自分の携帯をピッピピッピと操作して、これでよし、と呟き、傘を拾うと仔鹿のように駆けて行った。参道を振り向きもせず遠ざかる静香の後姿を、夕闇に溶け込んで行くピンクの傘を、水色のワンピースを、彼は成す総べも無く見送った。車に戻り、シートに身を沈めると、静香の残り香が彼の鼻をくすぐった。
この話はフィクションです。どうかフィクションということにしておいて下さい。