フェアプレイ


 このコラムはあびきゃすというホームページで私が投稿したコラムです。ゲーム論に少しだけかかわってくるのでこちらにもアップしました。

 ソルトレイク冬季五輪、クロスカントリー男子。そこで事件が起こった。
 なんと日本の選手のストックが折れてしまったのだ。しかしその事態に気がついたスウェーデンチームのコーチがストックを渡し、日本の選手は無事ゴールすることができた。いわば敵に塩を送る行為である。これは日本中に美談として報道された。
 ところがこの事件をユニークな視点で取り上げた人がいる。中日スポーツのセブンアイというコラムの中で神谷不二さんが、これはフェアプレイにあたらないと寄稿したのだ。
 論拠は次のとおりである。競技が始まった以上、選手は他者の援助を受けたらルール違反になる、というものだ。さらに彼は、マラソンにおける手渡しの給水も、同様にフェアプレイでない疑いがあると書いている。
 一理ある。そして私は、自分の中でフェアプレイという言葉が、実に曖昧な言葉として理解していることに気がついた。そこで私は、フェアプレイについて検索してみることにした。次の文章は、あるHPで公開されている文章に、私が手を加えたものである。

 スポーツはもともと余暇の楽しみを意味していた。そこに競技スポーツの意味が加わってくるのが19世紀のイギリスである。集団スポーツをジェントルマンの人格教育の手段として捉え、男らしさ、勇気、忍耐、フェアプレイ精神を称えている。
 ジェントルマンとはイギリスの支配階級であり、知的教養、礼儀作法、脅しに屈しない強靭な肉体、そして肉体労働をしないで生活していけることが条件であった。オリンピックにおけるアマチュアとは、このジェントルマンを想定している。支配者階級の、死をも恐れず最後まで堂々と戦う勇気が、名誉として考えられたのだ。
 また19世紀以前のスポーツは、スポーツと賭博が密接にかかわっていた。ここからルールを守り、不正を排除することが求められていた。
 名誉とルールの遵守、この2点がフェアプレイの原点である。
 19世紀になると、ラフプレイを排しつつ、チームへの自己犠牲が名誉であるという価値観の転換が行われる。これはやがて、国家への奉仕へとすりかえられていくことになる。(以上要約と補足)

 なかなか衝撃的な歴史である。
 しかし現代になって、またスポーツの環境に変化が生じているような気がする。
 例えば肉体の限界と、記録の向上。
 機械と人間の審判のギャップ。
 健康と薬物投与。
 プロの参加。これらはひとえに勝利を目指す動きだといっていいだろう。

 競技である以上、勝利を目指すことは忘れてはならない。しかし勝利以外に、何が名誉であるか。これはその当時の社会をあらわすキーワードのような気がする。スポーツは見ている側にも、感情移入しやすい面があるからだ。名誉の定義が時勢によって変化してもおかしくない。
 私は今回のスウェーデン人の行動は、日本人選手に襲いかかったアクシデントを最小に抑える緊急回避措置だったように思う。多くの日本人がこの行為に感動したのは、日本人選手が助けられたことだけに限らないような気がする。スティックを失っても競技をあきらめない意欲と、それを手助けしたいと思う心意気が、名誉に値する行為であると評価されたのだ。そしてそれらは、今の日本に必要とされ、求められているということだといえよう。(終わり)


(2002年3月5日)


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