インタラクティビティに失敗しないコツ(?)


 このコラムは、あびきゃすというホームページで公開したコラムです。

 マルチメディアという言葉がある。「複合された情報媒体」とでも訳しておこう。
 マルチメディアは、ネットワーク、デジタル、インタラクティブという3つの構成要素から成り立つといわれている。

<ネットワーク>
 もともとマルチメディアは、ハイパーメディアと呼ばれていた(らしい)。テキスト同士がリンクされたものを、ハイパーテキストと呼ぶ。同じようにハイパーメディアは、メディア同士のリンクを想定している。
<デジタル>
 文字、画像、音声、映像などすべての情報をデジタル化する。コンピュータはデジタル情報処理が得意なので、複製・編集・加工が簡単にできる。情報を、ネット上でやり取りをしやすい形に加工するのだ。そのほかにもデジタル化された情報は、品質の劣化を防いだり、検索・圧縮・暗号化など、さまざまな特性がある。
<インタラクティブ>
 双方向性と訳される。出版・放送は一方的に情報を伝達するのに対し、マルチメディアは情報を相互にやり取りすることができる。ひとつ例を挙げると、ネット上のハイパーテキスト自体は静的である。しかし検索することによって動的なやり取りが生まれ、より力を発揮するのである。

 インタラクティビティはゲームの中にも存在する。よって、ネットに接続できるゲーム機の中には、インタラクティビティ関連で、マルチメディアに参加しようと考えられているものも見受けられる。
 また既存のメディアの中にも、ゲーム性を取り入れて、マルチメディアにより深くかかわりたいというものも出てきた。
では実際、インタラクティビティはゲームの中で、どういう位置付けになっているのだろうか。ちょうどいい資料がある。私がゲームコラムを書く際にあたって参考にした、コスティキャンのゲーム論の中から引用するとしよう。

> インタラクティブ性がそんなに重要だと思うなら、電灯のスイッチを考えて
>みるとよい。スイッチを上げると電灯がつく。スイッチを下げると電灯が消え
>る。おお、インタラクティブだ。しかし、これが面白いかね。
>
> 全てのゲームはインタラクティブである。すなわち、ゲームの状況はプレー
>ヤーの行動によって変わってゆく。もし、そうでないなら、それはゲームでな
>くてパズルだろう。
> しかし、だからどうだと言うのだ。インタラクティブ性それ自体は何の価値
>もない。インタラクションが意味を持つためには、「目標」がなければならな
>いのだ。
>
> こう考えてみよう。ここにインタラクティブな作品があるとする。これをプ
>レイしているとき、AかBかどちらか一方の行動を選択しなければならないこ
>とになった。
> Aを選ぶとすれば、AがBより良い理由は何だろうか。あるいはBの方が良
>いケースも、Aの方が良いケースもあるのだろうか。意志決定のためには、何
>を考慮すればよいのだろうか。管理すべき資源は何だろうか。最終的な目標は
>何だろう・・・。
>
> ほーら。誰も「インタラクティブ性」なんて問題にしないだろう。考慮に値
>するのは、「意志決定」という問題なのだ。
> 意思決定の必要性こそが、ゲームの本質なのである。

 ゲームにインタラクティビティは存在する。しかしインタラクティビティは、ゲームの面白さではないのだ。既存のメディアの中にインタラクティブなるものを盛り込んだからといって、面白くなるとは限らない一例である。
 このコスティキャンというゲームデザイナーは、ストーリーについても面白いコメントを書いている。

> ストーリーは、もともと直線的なものである。
> ストーリーはまさに直線的であるが故に、人を感動させる力を持つ。
> 作者は、きちんと効果を計算した上で、そのストーリーを語るのに最適な登
>場人物を作り出し、イベントを起こし、決断を下させ、結末を用意する。
>だからこそ、出来上がったストーリーは可能な限り最も感動的なものになる。
> もし、登場人物が作者の予定と違う行動をとったとすれば、きっと出来上が
>るストーリーは、予定よりつまらないものになるだろう。

 全く、もっともな意見である。ロールプレイングゲームをはじめとする物語ゲームに魅力を感じない人は、思わず頷いてしまうのではないだろうか。
 ところでハイパーテキストというとHTMLを思い浮かべる人は多いだろう。だがゲームブックもハイパーテキストなのだ。よって
 「おい、お前はゲームブックが好きじゃないのか。こんなこと書いていいのか。」
 などとお叱りを受けるかもしれないので補足しておく。ストーリーの中にインタラクティビティを持ち込むとしたら、選択に劇的な変化を盛り込むべきであると思う。劇的な変化とは見た目の派手さとは限らない。例えば仇に対して決闘を申し込んだり、失脚させたり、仇を無力化してひざまずかせたりと手段に変化を加える。仇討ちという結果は変化させない。
 それぞれの手段がどれも魅力的であるならば、インタラクティブ・ストーリーは面白いものになるだろう。インタラクティビティはストーリーを盛り上げる手段のひとつになりえる。それが有効であるならば、の話だが。

 マルチメディアにおいて、インタラクティビティは構成要素である。しかしストーリーには必要とされてはいない。今後既存のメディアに、インタラクティビティを盛り込む試みが何回も起きるだろう。しかし受け手にとってみればインタラクティビティが面倒くささにしか感じられないかもしれない。また判断の重みに受け手が拒否反応を示すことも考えられる。
 例えばあなたと家族が、インタラクティブな映画を視聴していたとする。コントローラーを握っているのはあなただ。コントローラーを握っているあなたは、ドラマの進行権を握っているといっていい。この状態で気楽にドラマを楽しめるだろうか、私は疑問である。
 家族全員がコントローラーを持ち、クイズ番組を楽しむことには向いているかもしれない。意思決定が進行に影響しないからである。

 マルチメディアのスタンスはオープンだ。一方ストーリーは流れが変わらないほうが好まれ、スタンスはクローズドであるといえる。先ほどのゲームブックの例でいうと、仇を討つことがストーリーの流れである。その手段を選択させることはいい。だが仇を討つという、話の流れを変えるとややこしくなる。例えば戦意むきだしの仇を放置することは流れに反することである。ゲームブックやロールプレイングゲームならフラグ(イベントの開始条件)を立てることによって、後でフォローすることができるからまだいい。インタラクティブな映画では、フラグを立てたらもう映画とはいえない。映画の構成要素(であると思われる)ストーリーよりも、後から加えたインタラクティビティを優先させているからである。映画をマルチメディアで楽しむとしたら、先ほど述べたようにストーリーの流れを変えない範囲でインタラクティビティを盛り込むか、ブロードバンドを待つしかないだろう。
 結局のところ、映画にインタラクティビティや目標、意思決定は必要とされていない。映画は完成度が高いので、あまりいじくらないほうがいいというのが私の考えである。だいたい、みんなで映画を話題にするときに誰も定まったストーリーを提示できなかったら、映画の話なんかできないではないか。同じくストーリーが一本道であるロールプレイングゲームが売れるのは、共通の話題になるからという理由もあるのであろう。

 インタラクティビティの楽しみ方は、ゴールに到達することではないと思う。プレイヤーが意思決定し、出てきた結果を分析する。そこから理想的なモデル(模型)を頭の中で組み立て始める。そのモデルに合致する最適解を見つけ出したり、アルゴリズムを導き出したり、利益の最大化を計る戦略を立てることが、インタラクティビティの楽しみ方なのである。インタラクティビティが強く作用されるメディアの中では、ゴールより理想的なモデルの発見が優先されるのだ。
 既存のメディアにインタラクティビティを盛り込むとしたら、インタラクティビティによってもともとのメディアの魅力が失われないか、気を配る必要があると思う。インタラクティビティそれ自体に魅力はないが、何かとくっつくと構造に変化をもたらす強力なパワーを秘めている。コンピュータの発達と普及により、インタラクティビティはますます重要性を認識されつつある。あなたが既存のメディアにインタラクティビティを加えることになったとする。そのときは、プレイヤーが頭の中でモデルを組み立てるように仕向けよう。これがインタラクティビティに失敗しないコツ(?)である。

(2002年3月29日)


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