周王朝の祭政政治

1 殷周革命

祭器・利キには紂王征伐が刻されている「武 商を征す」と。

武王が商(殷)を征伐した。前1023年、ここに中国の歴史時代が始まる。ここに周王朝は開かれたが、この殷周交替は何をもたらしたであろうか。盂(人名)の鼎に刻された銘文がそれを教えてくれる。

 祭器・大盂鼎(康王3年・前999頃?)

「九月、王は都・宗周にあり、盂に命じる。王はこのように云う、盂よ、大いなる明なる文王は天の抱かれる大命を授けられたもう。武王においては文王に次いで国をなしたまい、(殷の)隠れた悪を開き、四方を領有し、民を教導したまう。御事(国の祭祀)にては、酒に及ぶも決して酔うことなくジョウシの祭りにおいても決して乱れない。それで天は助けに臨まれ、慈しんで先王を保ち、四方を領有させたまう。我聞くには殷の命を落とすのは、殷の諸侯の辺・候・田と長官達と のべて酒に倣い、それで兵を失ったと。(中略)今余は典範に文王の正徳にのっとり文王の命じたまう二三正(政治の原則)に従おうとする。いま余は、汝盂に命じて補佐させる。徳経を敬していそしみ朝夕に朝廷に入りいそしめ。よく奔走して天畏を畏れよ。王云う、ああ汝盂に命じる、汝の継いだ祖先南公にのっとれ。王また云う、盂よ、補佐して異民族を治めよ。訴訟をいそしみ慎み、朝夕我一人を助け、四方に君なるを得させよ。余が先王から授けられた民と地を査察せよ。汝に酒器と礼服と履物と馬車を賜う。汝の祖先南公の旗を賜う、用いて狩せよ。汝に奴隷と管理者を賜う。速やかに受け取り持ち去れ。王云う、汝の執政を敬して、余が命を棄てること勿れ。盂、王の賜物に応え、この祖南公の宝鼎を作る。王の二十三祀なり。」

この祭器・大盂鼎は盂が祖先南公以来の周王朝の官務の引き継ぎを命ぜられたことを記念して作られた。殷を滅ぼした周は第三代、康王(前千二年〜?)の時代にいよいよ安定を得ることができた。盂に君命を授ける言葉にその自信がよく表れている。盂という人物は、殷の時代の田猟地に地名として盂とあった地の出身氏族であろうと考えられている。

殷では最高神を帝、上帝と呼んでいたのが、周になると皇天上帝、天帝、天を併用するようになる。銘文の「文王は天の抱かれる大命を授けられたもう」これが周の革命理論であり新しい祭政神学思想になる。銘文はさらに「(殷の)隠れた悪を開き」「我聞くには殷の命を落とすのは、殷の諸侯の辺・候・田と長官達とのべて酒に倣い、それで兵を失ったと」と革命の大義を述べる。第三代、康王のころには革命当時のことは既に伝説になっていたろう。周は殷周革命の大義名分に倫理道徳をもってするようになっていたことを知ることができる。よく知られた殷の酒池肉林と悪を被う事によって天の大命を失ったとしたのだ。殷にはどんな悪があったのだろうか。周の先代の王季が殷に殺されていた。西方に勢力を拡大しつつあった新興国家周に対する宗主国殷の予防的行動が周の先代王を殺す事件を誘発したのか。このことが周にとって殷を討つ動機の一つになった。また羌族を犠牲に供していたことは犠牲を伴う呪術宗教では人は最高の供物とされるのが通例であり、敵の犠牲は強い霊力があるものであた。巫女も雨乞の祭りに犠牲とされたのである。羌族と殷には確執があったのは間違いないようだ。しかし紂を殺すことに反対した伝説を持つ伯夷は羌族の祖神であったので(=白川静説)愛憎は簡単な関係ではなかったようだ。また後世の人が信じて来た「酒池肉林」に紂王はおぼれて政治を省みなかったとするプロパガンダでは当時の人々は説得できなかったはずである。甲骨文の研究で明らかになった紂王の事跡を考えれば「酒池肉林」の話は祭器にある「のべて酒に倣い」を元にした、後の世になって付け加えられた悪徳の政治イデオロギーであった。殷の飲酒の風習を悪として強調されていることはどういうことだろうか。確かに殷では祭りにおいて酒を飲んだであろう。殷には酒器が多いのである。推測すると、それは酩酊状態で宗教的トリップを得ていたのではないかと想像される。祭器には「酒に及ぶも決して酔うことなくジョウシの祭りにおいても決して乱れない。」とあるので、周に取って代わられても初期のころは酩酊して宗教的感情が高まって来ると周への反感から祭りが動揺する事態が起こったのではないか。周は治安維持、反乱を押さえるために祭りにおいて飲酒を制限するようになった。こうして後世代になると、もと殷人の子孫にも周の大義名分を受け入れやすい状況ができていったのであろう。飲酒暴乱はイコール殷社会が頽廃していた証明とされ天命を失うこととなったのだとされた。殷の上帝は酒を供されていたが、天神は酩酊を嫌うものに変えられた。

祭器銘文には「今余は典範として文王の正徳にのっとり文王の命じたまう二三正(政治の原則)に従おうとする。今余は、汝盂に命じて補佐させる。徳経を敬していそしみ朝夕に朝廷に入りいそしめ。よく奔走して天畏を畏れよ。」と刻され「二三正」「徳経」なる条項が示され、天命にかなうものとされる。殷時代の甲骨文にすでに孝・徳・礼の文字を見ることができるのであるから、殷人もこれら徳目を重んじたのである、周はこれを特に強調して、義の神として天帝の呼称を始めた。革命直後の殷民が自らを不義だったとは簡単に認めないであろうから、周は特に道徳性を示すことに腐心したろう。こうして周政治の道徳主義の教理と説教が生まれた。殷の上帝の下においては亀卜による綿密な交信によって個々の事柄ごとに神意を下していた。それに代わるものとして天帝は「二三正(政治の原則)」や「徳経」で原則を示すようになった。「徳経」なるものはエホバ神がモーゼに十戒の石版を与えて道徳的規範を教えたことに相当するのかも知れない。毛詩に「上天の事は声もなく臭いもない。文王を規範として則り。万国は誠として従う。」と唄う。天は声を聞くこともできず、姿も見えない。しかし文王が独り大命を授けられているのだから、文王に則り従っていくというのである。毛詩は古いものであろうか?ここに新しい神・天帝の姿が現れている。親密な対話交信者としての祖先神の上帝から道義の原則の神になったのであり、子孫に祭られるのではない義を基準にして王を選別する神になった。文王が一人神の啓示を受けて他は誠と信じて従うモーゼのような王となった。周王朝も殷と同じく祭政一致政治であったが新しい神学が作り上げられたのだ。

周王朝は第五代の穆王と次の代の共王のころ(前九百八十五年〜九百三年)に最盛期を迎える。次はその時代を記念する金文である。

宗周の鐘(穆王末年・前940頃?)

「昭王は文王武王によって初めて周に服従した土地を巡察された。この時、南国フクシが反乱を起こし、深く進攻してきた。王はこれに反撃してその都ハクを攻略した。フクシは講和使節を派遣し、昭王をお迎えすることになった。こうして南夷東夷の帰順を誓い謁見するもの二十六国であった。今ここに、皇天上帝百神が我を安んじ、我が謀事を妨げられない。ここで我は皇天・先代王を合せ祭り、記念して宗周の宝鐘を作る。鐘は厳かな音を響かせ、祖霊を招く。先王は誠にこの上におわします。かくて我に多幸を降し、子孫にまで福を及ぼし、類なき長寿を与えられる。ホは萬年の長きに四方の国を保たんことを。」

第二代昭王の武功を回顧し、現王国に天帝祖霊百神の降臨する祝福を感じることができた。「我を安んじ我が謀事を妨げられない」のであるから天意を得ていると自負している。ここに皇天と先代王を合わせ祭ると記されていることは祖先神であった上帝に皇天が上位神として統合されているのを表しているのかもしれない。

2 周の王朝祭祀と民間信仰

つぎの国語の例では楚語下篇にて古代祭祀と神官の様子が観射父によって説明されている。前500年頃のことで孔子が在世のころである。

「昭王が大夫の観射父に問う、『周書に《重と黎に命じて天地の通じるのを断たせた》とあるのはどういうことか。もし、このことがなかったら人間は天に昇ることができたのか』と。応えて言う、『その意味ではありません。昔は人と神の関係は乱れていませんでした。民の中で明朗で二心がない者、またよく厳粛忠誠で、上下の義に親しみ、神聖さは遠くまで明らかで、見れば光り輝くようで聞けばよく透徹する。このような者に神は降ります。この者を男は覡、女を巫といい習わしております。彼らに神々を祀る位置と位牌の席次を決めさせ、犠牲と祭器と時に応じた祭服を用意させます。
そして、先代聖王の子孫の中で徳行があって、山川の名前、宗廟のこと昭王穆王の世系のこと厳粛な勤めと礼節と威儀の規則と容姿の飾りと忠信と祭祀の服これらを知り、神に恭しい者を祝官に任命します。そして、名族の子孫で四季の産物、犠牲の規格、玉帛の積類、祭服の使い方、祭器のこと、位牌の席次、びょうぶ扇の位置、壇場のこと、上下の神、氏族の源を知り、心は伝統に従う者を宗伯(祭祀の礼官)に任じます。こうして天地神々そして庶物の官を設けて五官と称し、各々その秩序をつかさどって乱れません。
このようであって民に忠信あり、神は明らかな徳あり、民と神と勤めを異にし、敬して穢れません。そうすれば神は民に嘉ものを降ろし、民は供物を捧げ、災禍至ることなく必要が満たされました。ところが、黄帝の子小コウの衰えた時、九人の黎氏が徳を乱し、民神また混乱して名を区別できず、人ごとに祭りして家ごとに巫史をなして真心がなく、民は正しい祭りが行なえず、神の祝福を知らず、節度をなくし、神民の位が混同され、民は神への誓いを穢し、威厳をなくし、神は民の則を軽くし、行為を潔いものとせず、嘉ものが神より降らず、お供えもつきて、災禍しきりに起こり、その気を尽くすものなしという次第でした。小コウを継いだセンギョク氏が即位し、南官の長、重に命じて天を祭って神を調えさせ、火官の長、黎に命じて地を司って、民を調えさせ、旧法に帰って相穢さないようにしました。このことを天地の通じる(神民の位が混同される)のを断つと言ったのです。しかし、その後また三苗族が九人の黎氏の悪を行なったので、尭帝は重と黎の子孫で旧法を忘れないものを育て、これに祭らせて夏と商の世に至りました。そこで重と黎は代々天地の官となって、秩序を立て、位と位牌を正す者です。周においては程伯休父がその子孫でした。しかし、宣王の時に至り神官の職を失って司馬氏(武官)となりましたので、祖先の威信を民に示そうとして《重は天を上げた、黎は地を押し下げた(天地を開いて世を救った)》と言いだしたのです。乱世に当たってそれが広まりましたが、そう言うことはありえません。天地は生成して以来不変で、近づくことが何でありましようか。』」

太字の文に祭儀信仰の意義がしるされている。司馬遷の父・司馬談は程伯休父を祖先とする。

民間のシャーマニズム信仰・祖先崇拝信仰の姿は詩経に見ることができる。

唐風 揚之水

逆巻く川瀬に白泡の巌 ゴツゴツ
白い聖衣に赤襟つけて あなたに随ってヨウへ行こう
御霊降りたまう嬉しさよ

逆巻く川瀬に聖なる巌 白いしぶきキラキラ
白い聖衣に赤襟つけて あなたに随ってコウへ行こう
御霊降りたまう嬉しさよ

逆巻く川瀬に聖なる巌 白いしぶきピカピカ
お告げ授かりましたが 人には告げぬ

山にはクヌギ 沢にはスモモ
神木あれど祖霊に会えず
憂い深く何も楽しまない
どうしてかくも永く
われを忘れたまう
・・・・

陳 宛丘

夏の神のいます小高い丘
思い誠あっても近づけない
カンカンと鼓をうつ丘の下
夏の神のいます丘の道
思い誠あっても近づけない
かくて、冬となく夏となくサギの羽ね持って舞う
東門の白ニレの丘のクヌギは神の宿り木
子仲の巫女 その下に舞う

朝に歌い 夏の神を招く南の丘
麻を紡がず 娘は踊りの列に舞う
朝に歌い 夏の神を招く
走れ ゆかん巫女のもと
あなたはアオイの花のよう
わたしに神の賜物 サンショの枝を下さいな

権与 秦風

我ら一族に賜われ 壮大な祖廟の霊よ 
ここに降りて もてなしを受けよ
歌い祈る 我らに福禄を与えたまえ
我ら一族に賜われ 四つの供物のがあります
ここに降りて 飽きるまで受けよ
歌い祈る 我らに福禄を与えたまえ

古代人の生活のなかの祖先信仰、季節神の送迎の祭りが歌われいる。祖先霊への思いの強さが窺われる。さて、人は生命の驚異にさらされている。自らと子孫一族の繁栄と食物の豊穰。死者祖霊の生活が宗教のテーマであった。生は意志・目的を持った唯一の事象として宇宙に現れた。それは存続することである。この目的を背負わされたものとして生物には意志が生まれた。この目的を追求するために知覚受感する存在となり、存続と受感は人の生の目的となったのである。人はこれに駆り立てられている。それには死亡消滅は受け入れ難い事象でしかない。だから古代人にとては祖霊も生活しているのであり子孫と祖先の生活は互いの協力のもとに成り立っていた。祖霊諸神を敬し祭り供物を捧げ生命の驚異の力・霊力により幸を得る子孫と、祭られることにより祖霊として永遠性を獲得できるものであった。

3 周王朝の危機と神官の衰退

代々の聖職者の名門である重黎の子孫、程伯休父が「宣王の時に至り神官の職を失って司馬氏(武官)と」された。これは詩経、常武篇にも程伯休父に軍を引率させるとの記事がある。宣王は徴兵制を強化する政策を実行しているので、そんな事態となったのであろう。宗教の権威が落ちてきたとはこの時代前800年頃ではまだ確認できないが社会に世俗実務の必要性が高まっていたことはあるであろう。周王朝が武官を必要としていたことは前の代、夷王の時代と共和期の鼎の銘文からも窺うことができる。

祭器金文 禹鼎(夷王の代 前860年頃)
「禹云う、大明なる武勇高い皇祖穆王はよく先王の功業を継ぎ四方を定めたまう。そして令武公またわが祖先、考幽大叔・懿叔を忘れず用いられたように禹に命じて井邦を攻めさせられる。そこで禹も決して怠らず、君の命を恐れつつしみます。ああ、哀しいことだ。天は大乱をお降しになった。またガク候ギョ方は南淮夷東夷を率いて南国東国を荒らし歴塞に至る。そこで王は西の六師団、殷の八師団に命じて云う、ガク候ギョ方を征伐して老いも若きも許す事なかれと。ところが、師団らは気後れして混乱し討つことができなかった。ここに武公は禹を使わし、公の戦車百乗、事戦の士二百人、歩兵千人を率いさせて云う、西の六師団、殷の八師団をいましめてガク候ギョ方を討ち、老いも若きも許す事なかれと。かくして禹は武公の兵士を率いてガクに到り、討って功をあげた。またギョ方の君を獲えた。ここに禹の功績がなった。この武公の大明なる威光を発揚して大宝鼎をつくる。禹は萬年、子々孫々宝用せよ。」

祭器金文の例  師詢ダン(共和期 前820年頃)
「王はこのように云った、詢よ。大明なる文王武王は天命を受け殷民を支配する。汝の祖先いつも先王の左右にあって、その爪牙となり、君を補佐して大命を定め、まつりごと協和した。そこで、皇帝厭うことなく我が周と四方の国に臨みたまう。民も安らがないことはなかった。王云う、詢よ。哀しいかな、今日天疾して災厄を降す。徳をとること謹むことできず。そこで、先王に続くことなし。云々」

先の禹鼎では「ああ、哀しいことだ。天は大乱をお降しになった。」と嘆き、この師詢ダンでは「王云う、詢よ。哀しいかな、今日天疾して災厄を降す。徳を執ること謹むことできず。そこで、先王に続くことなし。」と、王は自らが徳義を失ったことが乱の原因と嘆いている。義なる神の教義に則った懺悔である。そして「天疾して災厄を降す」というのは、天が人々の悪徳・不義に対しては国家混乱の予兆として天災を起こすとする災異説・天人相関思想である。これを天道思想ともいい占星術の星回りや天災は天の意志の予兆と考えられた。

祭器金文の例 毛公鼎(共和期 前810年頃)
「王はこのように云う、ホアンよ。大明なる文王武王には皇天もいたくその徳に満足して、我が周とともにあられた。大命を受け、不服なるものを破り、文武の王の輝きに教化されないものはなかった。これ天は大いにその命を行なわれ、下臣達の祖先も君主を助け大命に勤める。そこで皇天は厭うことなく、我が周に臨まれ先王の命を強固にされた。(しかし)いたましくも天は災厄を降す。国を継いだ我ら戒めず、国に危害が及ぼうとする。秩序を失った四方大いに乱れて安らかならず。ああ恐れる我ら、家も艱難に沈み、永く先王に畏れ抱かんとする。王云う、ホアンよ。いま我は先王の命を継承する。汝に命じて我が国我が家を治めさせる。大小の政をつつしみ、わが位を助けよ。上下の善悪を明らかにして、ゆるがせにする事なかれ。われ一人位にあり、その知恵を大いにせよ。われは名のみの者を用いるのでない、汝途中で怠る事なかれ。日夜つつしみ、われを戒め、国の大小の謀をとどこおる事なかれ。われと先王のよき徳を告げ、皇天に明らかに示して、大命を幾重もつつみ、四方の国を安んじ治め、わが先王を悲しませないことを望む。王云う、ホアンよ。諸官を使い政を行え、王智をおおいにすることなければわが国を失うこともある。王云う、ホアンよ。今余は先王の命を継ぎ汝に命じて一地方の君とし、我が国わが家を大いなるものに指せる。汝政治につつしみ民を塞ぐことなかれ。また一蓮托生の事とするな、孤老を苦しめる。汝の長を指導し酒に耽ることを許すな。職務を失わず、心から朝夕に謹み王威の変わらないことを想え。先王の作られた刑を粗末にするな。汝の君を艱難に会わせないように。王云う、ホアンよ。告げる、この郷事寮(政務官)と大史寮(祭祀官)に戒め、ホアンに従って正させよ。汝に命じ合せて公族と・・わが日常のことを収めさせる。汝の族を率いて王の身を警護せよ。汝に玉器と馬具を賜う。祭りして政務せよ。ホアン天子のおおいな賜物に応えて鼎を作る。子々孫々永く宝用せよ。」

今や周王朝も各地に起こる不穏な動きに困惑の度合いを深めていた。高らかに歌い上げられていた天の大命が今や周を脅かしている。

詩経の「十月之交」は唄う
十月末日、日食があった/これは大変不吉なことよ/月の光が消え、日の光も消える/今の民はとても哀れだ/日月に凶の兆しあり、出入りも知れず/国に祭り事なく、良い人を用いない/月欠けるはいつものことでも/日欠けてどうして良いこと望めよう/云々

つづく 

TOPの目次へもどるリンクへゆく