人間世
人の世にいかに処すべきか

1

孔子第一の弟子.顔回は仲尼(孔子)にあらたまって面会し、旅に出たいと申し出た。
「どこに行くのか。」
「衛の国に行きたいと思います。」
「なにをしに行くのか。」
「回の聞くところによりますと、衛の君主荘公は若さにまかせて独裁専制し、過ちに気づかず、軽々しく民衆の生命を犠牲としてその数は知れず、沢の草のようで、民衆はいまや耐えがたい状況にあるそうです。
回は以前先生にお聞きしました、治まっている国は去ってでも乱れている国へおもむけ、医者は病人の中にいるものだと。それで先生のご意見もうかがって処方を考えればかの国の病も救えるのではないかと思ったのです。」
仲尼が言う。
「アア、おまえがあの国へ行けば・・、おそらく処刑されることになるだろう。とても心配だ。身を守るためにもおまえがこれから守らなければならない道がある。まづ心に雑念があってはならない。雑念があればこころが乱れる、乱れれば迷うことになる、みずから迷っているようでは人を正すことなどできない。むかしの至り着いた人はみずからしっかりと体得したことを人にも教えた。みずからまだふらふらしていては無謀な者を相手にするゆとりなどない。

さて、おまえは人の徳が失われるところと、知が起こってくるところを知っていなければならない。徳は名誉心から失われて、知は争いから出てくる。名誉心は他をおとしめようとするもので、知識は争いのための道具だから、二つは凶器であって人の行いを良くするものではない。十分に注意しなければならないものだ。
おまえを見ると、徳は厚く信も堅くて、名を求める様子はないがまだ人の心内はよく分かっていない。それですぐに仁義道徳をあの無謀な者に説いても、自らを高きとして他をおとしめることとなり、まさに名を求めるようなもので、このような人は災いの人と呼ばれる。必ず名誉の争いの仕返しを受けるであろう。もし、賢を尊び愚かさを憎むような人物ならばすでに補佐するものが就いているはずだから、すぐにおまえを用いることもなかろう。まずはあまり直接にものを言わないようにすることだ。うかつに何か批判的なことを言えば、王侯の権力で必ずおまえを打ちのめそうと挑んでこよう。その威圧におされては、おまえは目を回し、顔色も変わり、しどろもどろとなり、品を作くってすっかりおじけ付き、志もあったものではないだろう。これでは火に油を注ぐことで自分から事態を悪くするようなものだ。くれぐれもまだ信用もされないうちに諌め事などするな。きっとその場で打ち殺されてしまうぞ。

昔、桀は関竜逢を殺し、紂は王子比干を殺した。殺された者は民を私的に手なずけて声望を得ようとしてその君に陥れられたのだ。また昔、尭は叢・快・コツゴウを攻め、禹はユウコを攻めた。国は廃虚とされ、君主も処刑された。これらは兵を進めてやめず、国益を求めて止まらなかったからである。名声、実益はそれほどまでに危険なものである。十分に気をつけねばならないぞ。
わたしの注意はこれくらいにしておいて、今度はおまえの思うところを聞いてみようじゃないか。」
回言う。
「こころを端正にして、よそ見をしないで、努めて心を雑事に散らさないようにしていれば良いでしょうか。」
「だめだ、それではだめだ。あの衛の王はうわべを作ってみずから高ぶり、顔色さえ瞬時も定まらないほど気まぐれで、当たり前の人間では対抗するきっかけも掴めない。それをいいことにして人の感情を押さえ付け、みずからの心をほしいままにしている。こんなさまでは小さな改心もおぼつかない、大きく心を入れ替えることなど思いもよらないだろう。人に感化されることなど期待もできないだろう。たとえ外面で調子を合わせても心の中は変えないだろう。だからおまえの言うようなことではだめだ。」
「それならばわたしは内心では直く、外面は曲げて、言うことは古に託すようにしてみましょう。内心のまっすぐな者は天の徒です。天の徒であれば天子も自分も差別はないとの信念を持てますから、わたしの話しに権力者がどう応じようとも、その威圧によって信念が揺らぐこともないでしょう。
このような者は童子と呼ばれます。外面を曲げるのは人の仲間になることです。膝まづいてお辞儀をするのは人臣の礼儀であるのでわたしもそれを行います。こうしていれば人に傷つけられることもないでしょう。これが人の仲間になるということです。
また志を古に託すことは古の仲間になるということです。それならばその言葉に君主を教え諭す内容があっても、それは古人のものであって、わたしのものではない。このようにすれば直言したとしても、わたしに禍がかかることを避けられないでしょうか。」
仲尼言う。
「アア、まだだめだ。とても煩雑そうだな。節度を保てれば他に馴らされて罪を犯すことにはならないだろうが、それだけだ。相手を感化することはできまい。おまえは人知に頼り過ぎているのだ。」
回言う。
「わたしはもうこれ以上思い付きません。何かよい方法をお教えください。」仲尼言う。
「斎戒しなさい。とわ言っても、さまざまな思いを引きずっていてはうまく行かない。また安易に取り組んでも天が応えてくれない。」
回言う。
「わたしの家は貧しいので、まったく酒を飲まず刺激のある野菜を食べないことがもう数カ月続いていますから、すでに斎戒していることになるのではないでしょうか。」
仲尼言う。
「それはお祭りでの斎戒で、わたしが云っている心斎ではない。」
回言う。
「その心斎とは何ですか。」
仲尼言う。
「おまえの心を純一にせよ。物をとらえるのに耳でせず、識別心でせず、気(純一な意識)でするようにしなさい。耳でとらえるのは感覚に止まる。識別心でとらえるのは知識に止まる。気は識別心以前のこころの虚ろから出てくる働きによって物をとらえるものだ。万象を統べているものは虚ろに留まる。この虚ろを獲得する方法が心斎である。」
回言う。
「いまのお言葉をお聞きするまではまったく回が有ることを疑いませんでしたが。聞きました今では、もともとから、回はいなかったことが分かりました。これで虚ろと言えるでしょうか。」
仲尼言う。
「見事だ!至り尽している。それなら最後の助言をしておこう。
衛の国に入ってからは、そのカゴの中で振るまい、功名心に動かされることがないようにしなさい。問われれば応え、問われなければ黙秘して、恐れて身構えることなく心根を定めて、出来事に身を任せていくことができるならば、虚ろの働きに近ずけるであろう。
足跡をかき消すことはできても、まったく動かなかったように見せるのは難しい。それでも人間を相手では偽りも通るだろうが。天なるものを相手ではごまかしは通用しない。だから、翼なくして飛ぶ者の話を聞かないように、識別心によらないで物事をとらえる者は希なのだ。何もない空き部屋を見渡せば光が満ちて明るいものだ。そのように識別心の止まった心には吉祥も留まる。心を止めようとして止めることができないでいる状態を坐っていても心は走り回っているようなもの、坐して駆けると言う。耳目を通して受け入れたものを知識による判断を通さないで心に行きとどかせるほど純一であるならば、鬼神も宿ってくるだろう。そうであるなら人の共感を得られないことはない。これが万物が感応しあって生成する原理である。これが禹や舜が根本としたことであり、フツキ・キキョウが生涯拠り所としたものなのだ」と、孔子は諭した。

{次の一段訳さず;この段、孔子が二つの大戒をあげ、臣の君に仕えるのは人の避けられない義であると云う。それは儒教思想である。荘周は臣となるのを止めた人で仕官はしなかった。それで逍遥遊篇が書かれた。この段を荘子の思想とすれば逍遥遊篇はナンセンスなものと化すだろう。この段は運命論が語られるが、墨子は儒者を運命論者と述べていたので、儒教思想が荘子書に紛れ込んだのに違いない。}

2

魯国の賢人ガンコウは衛の王子前段の荘公のこと、衛に内乱を起こす。)の子守役になることが決まって、キョクハクギョクを尋ねて問うた。
「ここに一人の人物がいたとします。人格が凶暴なので、調子を合わせて無法なことに手を貸していると、その国を危険に陥れましょう。だからと云って正しいことを通そうとすれば、わが身が危うくなります。知恵は人の過ちを知ることはできても、その原因までは考えが及びませんから人を責めて許しません。このような人物にはどう対したらよいのでしょうか。」
キョクハクギョク言う。
「その問い掛けはもっともなことだ。慎重なうえにも慎重にしてあなたの身を正しく保っていることです。そのうえで、外形も相手に従い、心も調子を合わせることです。と言ってもこれには注意が必要だ。従っても深入りはしてはならず、調子を合わせていても出過ぎてはならない。そうしないとつまずき転倒する。調子を合わた行いで悪名があがり禍を招くでしょう。彼が子供のようであれば、こちらも子供のように振る舞いなさい。彼がけじめなくしていれば、こちらもだらしなく振る舞う。彼が気ままであれば、こちらも勝手に振る舞いながら、少しずつ導いて正していくのです。この時の注意点は、あのカマキリは腕を振りあげて車輪にも立ち向かっていくものです。それは自分の力を過信して及ばないこともあることを知らないのだ。無謀にならないように十分に注意しなさい。あなたの優位な部分で彼の立場を侵すのは危険だ。トラを飼うものは生き餌を与えない、殺していきり立つからだ。もとの姿のままで与えない、引き裂こうとしていきり立つからだ。空腹満腹の時を心得てトラを飼いならす。トラは獣ではあるが人の買い主に媚びるのは習性に従って飼うからです。逆らっていれば殺されよう。馬を愛するものが、箱でフンを受けてやり、大ハマグリの器に小便を取るようにして可愛がっていても、馬にたかった蚊やアブを不意に打てば、頭や胸を蹴り砕かれることもある。愛情さえも行き違うことがあるものだ。くれぐれも用心深くしなければならないな。」

3

大工の頭領・石が斉の国へ旅して“曲った道”と言う土地に至って、土地神を祭ったやしろでクヌギの大木を見た。大きさは数千頭の牛をおおいかくすほどで、幹の太さは百抱えもあり、高さは山をも見下ろさんばかり、地上から十七メートルの高さから始めて枝を出している。それも船を造れるほどの枝が数十本はあるだろう。見物人でいつも市のようににぎわっているのだが頭領は顧みもせずに通り過ぎてしまった。弟子達はつくづく見とれていたが、走って頭領に追い付くと言った。
「私達が師匠に弟子入りしてからこのようにりっぱなものは見たことがありません。それなのに師匠はよく見ようともせず、通り過ぎてしまうのはどういうわけでしょうか。」
石言う。
「やめろ、それ以上言うな。役立たずの無用の木だ。船を造れば沈んじまう、棺桶にすればすぐ腐る、器にすればじきに毀つだろうし、門や扉にするとヤニが流れ、柱にすると虫が湧くだろうよ。まったく使いものにならない木だからこそ、あななに大木になるまで生き永らえたのさ。」

石が故郷に帰ったある夜、かのクヌギが夢に現れた。
「おまえはいったいこのオレを何に比べるというのか。いわゆる有用木に比べようとするのか。あのコボケやナシや橘やユズの実は熟するたびにもぎ取られ、そのたびに大きな枝も折られ小枝も引きちぎられる。これらはその美点が身を苦しめているものだ。寿命を全うしないで若死にし、みずから世に打ちのめされている物たちだ。世の中のことはすべてそうしたものさ。オレは若いころから役に立たないものになろうと願ってきたが、天寿に近づいたいま大望がかないそうだ。オレが利発な良い子だったらこの大業をなしえたろうか。だいたい、おまえもオレも一片の物であることに変りはない。物々と軽々しく扱うな。おまえのような、今や御陀仏になりそうで役立たずになった人間に、役立たずを守ってきた木のことが何で分かろうか。」
石は目を覚ますと、これを弟子達に告げた。
弟子が言う。
「無用のものになると言いながら神木となったのはおかしいじゃないか。」
石言う。
「静かにしろ、つまらないことを言うな。それは形だけのことだ。何も分かってないものが口うるさいからだろう。どうしたって切る倒されることはない。あの木が宝としているものは並の人間とは違う、常識で批評するのは的外れだ。」

4

南伯子キは商の丘に登った時、大木を見つけた。
四頭建ての馬車が千台でも大木のつくる影にすっぽり隠れてしまうほどである。南伯子キはつぶやいた「これは何の木だろう。きっと素晴らしい使い道があるに違いない。」そこで、目を上げてその小枝をよく見ると、曲がりくねっていてとても棟木や梁にすることはできそうにない。目を伏せてその太い幹を見ると、木の芯が引き裂けていて棺桶を作ることもできそうにない。葉をなめると、口がただれて傷になり、においを嗅ぐと、狂うほど酸っぱくて三日たっても治らない。南伯子キは言う「これはなんと使い道のない木であった。だからこれだけの大木になれたのか。ああ、そうだったのか。神人もこの使い道のない徳によっているのだな。」(写真:真柄吉郎)

5

宗の国に ケイシという土地があって、ヒサギと柏と桑の木がよく育つ。ところが、握りやすい太さになると、サルの止まり木を求める者が刈り取ていく。三抱え四抱えになると、お屋敷の棟木を求める者が刈り取ていく。七抱え八抱えになると、棺桶の一枚板を求める貴族や豪商の家が刈り取る。こうしてこれらの木は寿命を全うしないで、斧やまさかりで命を落とす。これは有用性が招いた災いだ。ところが、黄河の神への厄払いの祭りでは、額の白い牛、鼻が上向いた豚、痔病の人間は犠牲とされない。巫女や祀り主はよく知っていて、不吉なものとするからである。それで、神人はこれを大吉として喜ぶのである。

6

支離滅裂の脳足らずとあだ名されている者がいた。あごはへそに埋まっていて、肩は頭より高く、頭のてっぺんの毛が異様に突き上がり、内蔵は頭の上にあり、両ももはわき腹にくっついている。このせむしの男が針をとっての裁縫仕事で十分に食っていく。加えて米のふるい分けの仕事をすれば十人を養うこともできる。お国の徴兵があっても、この脳足らずは町中を大手を振って歩き。お上に土木事業があってもこの脳足らずは持病があるので労役はまぬがれる。ところが、お上の施しがあるときは、病人ゆえに五十リットルの穀物と三束の薪をちょうだいできる。これから考えれば、身体が人並みの能力を欠いている者でさえ、身を養って天寿を終えることができる。まして心の徳を欠いている者に何の不足があろうか。(自らを高しとする名誉心や、争いの道具であり、心をふさぐ知を、欠いているとしても何も不足することはない。)

7

諸国遊説の果てに孔子一行が楚国に巡ってきた。これを聞き付けた楚の狂人接輿が孔子の宿舎の前にやって来て声をあげて歌った。

“聖王の世に天翔ける瑞鳥さんよ、すっかりおやつれじゃないか!(--;
未来の世には住むべくもなく、過ぎし世には返ることもできない。
国に道があれば聖人は勤め、非道なればただ野にあって生きるだけさ。
今のこの世にあってはただ刑罰に触れないようにしているだけよ。
福は羽根よりも軽いのに、わが手に乗せるすべも知らないで。
禍は大地よりも鈍重なのに、身をかわすすべも知らないで。
やめておきなよ! 道徳で人に迫るのは。
あぶないよ! 広い大地なのに狭い規範で細い道を突っ走るのは。
吾が歩みは曲がりくねる、トゲのある植物で傷つくことがないようにさ。
山林は切られ、たいまつはわが身を焦がして輝いているよ。
(>_<)
肉桂は食べられ、漆は重宝がられて切り裂かれるよ。
(>_<)
人は皆才能を羨望するが無能で役立たずもけっこう得なものだぜ。”

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