斉物論
分裂した魂を救い世の論争を統一しようと試みる論文 

*プロローグ(挿話)*

 南郭子キはある日、机に寄りかかって座し、天を仰いで緩やかに息づいていた。それは、うっとり としてすべての対象を失ったありさまであった。弟子のガンカイシユウは前に控えて立っていたが、自らに問うた。「これは一体どうなされたのだろう。人はこんなふうに体を枯れ木のように静止させ、心を火の消えた灰のように鎮めきってしまうことが出来るのか。今机に寄り掛かっている方は先日まで机に寄り掛かっていられた方とはまるで別人のようだ」と。南郭子キはこれに答えて、おもむろに口を開いて語り始めた。
「シュウよ、そう思うのも、もっともなことだ。それはよい問だった。では、これからおまえに私の奥義を伝授することにしよう。今、わたしはわたし自身の意思を失っていたのだよ。(しかし、わたし自身はあったのであり、だからあなたの声を聞くことができた。その問いに答えるために、本来の心の意思の働きで、わたし自身の意思を取り戻した。)あなたは次のことが解るか。これから例えを上げて説明していこう。あなたは人の音響は聞いていてもまだ地の音響は聞いていないのか。それとも地の音響は聞いていても天の音響までは聞いてないのか」。シュウ言う「一向に解りません。どうかお教え下さい」。
シキ答える
「大地のあくびが風だと言われているが、それは何もないものから起こるものではないが、いったん起これば百穴が鳴り響く。あなたは暗天の空の下に吹き渡る風の音を聞いたことがあるだろう。そのさまは、山林の大木もザワザワ動き、百抱えもある巨木の穴という穴、鼻のように二つ並んだもの、口に似て一つのもの、耳の穴に似て斜に深いもの、柱の升形に似て四角なもの、まげ物に似て丸く深いもの、臼に似て薄く平たいもの、あるいは地面の窪みやへこみに似ているもの、これらさまざまな穴から、水が岩に当たるような音、弓矢が風を切るような音、人をしかりつけるような声に似た音、高く叫ぶような音、鳴きさげぶような音、ひそかに聞えてくる声に似た音、犬の遠ぼえのような悲しげな音が鳴き交う。また風が前に吹き去る時はヒューヒューと、その後もどってくるときはゴーゴーと相和する音がある。風が弱いときは小さく、風が激しければ強く響き、いったん風治まれば、あたりはシンと静まり返って、ただただ小枝や木の葉が微かに揺れている。」
シュウ言う。
「解りました。地の音響とは地上のあらゆる穴間から鳴り渡る自然の響きとその反響なのですね。では人の音響とは笛などの人が奏でる楽音の響きでしょうか。でも天の音響はまだ解りません。」
答えて言う。
「地と人には音響が満ちあふれている。その音は有形の穴・窪みから産まれ、その形状は幾多の響きを奏でた。百の不同なる物を吹いて、各々己自身の形状で反応させ、ことごとく自分自身の響きを実現させる。自ミズカらは音を発せずこの有形のものを鳴らしているものは誰か?(それは万象を産みだし、万象を自ミズカら成就させているもので、それはわたしが先ほど問われるまでそこに居て、そして別れて来たものだ。)」

*是非に腐心する人々の心、分別のありさま*

ー昔思えば夕べの夢じゃ とかく思うは皆うそじゃー ばんけい

卓見の人はその意見は包括的で対象によく行き届いて、洗練されエネルギッシュにしゃべりまくる。くらべて卑見の人はとかく細かいことばかりに囚われ、ただダラダラと長ったらしくしゃべる。この違いはあるがともに、寝ては夢見、目覚めては即座に心を働かせ問題に対応し日々心を労して闘っている。彼らの精神の様相は、決断できずぐずぐずしている者があり。狡猾な謀略を練るか、綿密な計画を立ている者があり。小事にビクツキまた大ピンチに深い恐怖を抱いている者があり。論争するさまは弓で的を狙うようで、優位を固守して譲らないさまは債権者であるかのようだ。こんなぐあいに心を労していれば、秋冬の気配が万物を枯らすように日を追って消耗し、ついに死ぬまでに至ることにならないか。こうなってしまえば溺死したものが蘇生できないようなものだ。心を圧迫されて封じ込められてしまう。これでは老衰して死をまじかにした魂を甦らせることはできないようなものだ。また、喜ぶかと思えば怒り、悲しんでいるかと思えば笑い、軽薄から一転かたくなに、真摯であったのにまたお気楽に、立派なようでいてまたすぐにうわべを取り繕ろう。このような心は楽器の音のように刹那に消えるかと思えば、湿気に生えるキノコのようにひょこり現れ、日夜変じて目前に去来する。しかしこの心の兆すところを知ることはできない。日夜途切れることもないのは由って来るところがあってのことであろうが。思うに、わたしのまわりの知覚物がないならこのわたしの心もないだろう。またわたしの心がなければ物を知ることもないだろう。これは真理に近いようであるが、しかしまだ心を主宰するものについては不明だ。それによって日常の行動を決めるのであるが、ただ現れてはすぐに消えていく空疎な心しかない。その働きはあるのに確かな実体はないのだ。たとえば、人には五体も備わっている、ならば最も重要なのはどの部分であろうか。みな等しく主人だろうか。時によって違ってくるだろう。音楽を聴くときは耳を、食べるときは舌を、文字を書くには手を、各々の時、偏愛される部分のが主人で他の部分は従者の役回りとなる。主人役は変わることになるのか。心においても使い方は変わっても真の主人がさらにあることに変りはないはずなのだが。

(挿話)
影の周りにできる薄影が影に問た。
“アンタは歩いているかと思えばすぐ立ち止まる。座っているかと思えばもう立ち上がる。ちっとも定見がないから、アンタに付いていかなければならないワシは大変なんだ。”
影が答える。
“いや僕だって人の体に従わされてそうしているだけなんだよ。でもその体も何か知れないものに動かされているみたいなんだ。だから蛇腹の皴シワを頼りに動きまわり、薄っぺらなセミの羽を頼りに飛びまわるようなもの、何とも心もとないことなんだ。”

ひとたびこの身を受けたからには自然体で生きていきたいものだが、この得体の知れない心の動きに振り回されて、物事に逆らい身をすり減らしてしまうのが私たちのさがだ。これを止めることは全速力で駆けている者を捕まえるほどにむつかしいだろう。悲しいことだな。終生労苦して成功を見ず、疲労困ぱいして落ち着くところもない。悲しまないでいられようか。そんなふうで生きているんだと言っても何の益があろう。身衰えれば心もそれにしたがって老いる。悲劇と言うべきだ。人生とはこのように愚かに空しく尽き果てるものか。これは私一人の考えだろうか、他の人はまぬがれているのだろうか。

*是非の争いを解き、虚妄幻影のようなこころに真実のものを探す*

授かった天性の心のままを基とすれば、だれしも判断力をもっている。詳細な観察の蓄積によって、また高度な知識を得たものだけが持つものでもない。無学の者もまた持っているものだ。ところが天性の心に逆らって衒学をもって議論すれば、今日越へ出発して昨日到着した、などという考えも出てくる。これはあるべきでないことをあるとする議論だ。あるはずもないものをあると言うなら、あの神のような禹が今いたとしても理解できないだろう。わたしもこの議論に何とも答えようがない。言葉というものはただ音が出ているだけのものではない。言葉には述べるべき意味がある。その意味がまだ定まっていないなら、言われるべきことはあるだろうかないだろうか。言葉はひよこの鳴き声とは違うのだというなら、無意味な事は弁ずべきであろうか、弁ずべきではないだろうか。このような詭弁によって分別の混乱が増大する。

真理はどこで隠れて、正・偽の論争が出てきたのか。言葉はどこに行ってしまって是非の争いが始まったのか。真理は個人的立場への偏愛と偏狭さよって見えなくなり、言葉は論争の勝利の虚栄のための詭弁に見えなくなる。そこで儒家と墨家の間の論争が起こり、互いに相手の非とするところを是とし、是とするところを非とする。そこで互いに否定して争うよりは清明な知恵によるにこしたことはない。

ー さあ、ここは注意して聞いて欲しい!ー エックハルト

一から生じた)万物はこれであるか、あれである。あれでなければこれである。(あれであり更にこれであることができないのは一から生じて多となったものは全体性は失われた局所的有だからだ。

(その)あれからはよく見えないことも、これのことは自らのことでよく知るようになる。(局所的限界があるこれとあれとは、判断の立場視点は一致しないからである。こちらのことはよく知って親しみ、あちらのことは疎くなり、こちらを是としあちらを非とする判断が生まれてくる。

以上のことは、所謂「あれはこれより出て、これもまことにあれに因る」で(恵子の)あれこれ並び生じるの説である。

しかし、(恵子の説では)生と死が並び生じ、可と不可が並び生じ、是に因って非があり、非に因って是がある。(即ち是非の二つが生じ、是非の争いが起こる。

そこで、聖人は(恵子の説に)由ノットらず天(天籟・一)の視点から眺める。(恵子の説は)実に、これ(なる局所の視点)が原因だからだ。(あれこれの視点からは理解できず、あれこれの多の視点を離れた心では知ることができる、)これは同じくあれであり、あれはまことにこれである。

彼(儒墨)も是非論争であり、此れ(恵子)も是非発生論である。果たて(是非のもとである)あれとこれはあるのか? (あれは まことにこれであるとは)あれとこれとに(優劣)対立関係がないのである。この境地を道の軸受け機能と言う。軸受けの中空によって扉の開閉が自在なように(心が多を離れて虚一であれば)、是を被っても無窮の世界が開け、非を被っても無窮の世界が開け、差し障りなく日を過ごすことができる。そこで言う、(天の視点からの)清明な知恵によるにこしたことはないと。

注;彼(儒墨)此れ(恵子)とするのは池田知久著「荘子」に拠った。
中世ドイツの思弁的神秘主義者マイスター・エックハルトの論述「離脱について」にも扉の蝶番の比喩がある。蝶番は内的人間であり神性に当たり、扉は外的人間であり、あれとかこれとかの被造物に当たる。外的人間は被造物に向かうものであるから喜怒哀楽をともなうが内なる神的な人間は無に向かい不動心としての蝶番であるという。
斉物論は荘子と恵子の合作のような論説である。恵子からインスピレーションを受けて言う「物は彼に非ざるはなく、物は是に非ざるはない」 。我々形而下の存在はあれであるかこれとなる。一なる全体性は失わざるを得ないのである。あれこれの多に展開した形而下の世界では局所的限界と親疎から愛憎と知の限界と能力の限界が属性となる。わたしは人の不完全さと愛憎の原因をここに初めて知った。

列子には
是非を乗り越える説話がある。

物事の差異をつまびらかにして白馬は馬でないと言うなら、道の上では天地も指と同じであり、万物も馬と同じであると言おう。さて路は人が歩いて路となるように、物事は人の言葉(判断)によって善しとされる。どういう分けで善しとまたは悪しとするのか?路と同じく人が決めたのである。しかし、物事はもともと善しとされ認められるべきものである。それで、一本のワラと大黒柱、らい病者と美女西施、怪異や世に順当でないものすべてを、道は通じて一つのものとなす。また物の壊れるのは成る一過程である。成のるは壊れる一過程である。成って終り壊れて終わることはない。やはり通じて一つのものだ。しかし、達した者がその共通の基盤を知っているだけだ。そこで(白馬論のようなつまびらかに善し悪しを峻別する処断によらず)平常に変わりなく(原文;庸)処していく。変わり者扱いしない包容性は道に通じるものだ。通じれば得る。得れば即ソク道に近づく。これ(=包容性)に因るだけだ。因るだけで、通じる故を知らない。これを道という。

注、”庸”とは老子の所謂、無為のことである。甚だしいこと、無理なこと、片寄ったことはしないのである。

精神を労して失うまいと努めて、結局の所は同じであることを知らないありさまを朝三暮四の話しと言う。
猿回しのおやじ、ある朝、餌さのドングリを与えて言う「今まで四つ四つだったが、これからは朝は三つで晩には四つとしょう。」サル達は怒って騒ぎはじめた。おやじは困って言い直した「わかったよ、わかったよ、今四つやるから・・晩は三つにしょう。」サル達は四つのドングリをもらえて喜んで食べた。これは“今、お腹を満たす是”に捕らわれて頭が一杯だからである。そこで、聖人は(局所的な判断でしかない)是非を和して天の均衡によって休止させる。これ(是非を峻別して一方に寄ることのない包容性)を二つながら行なわれるという。

古への人は知恵の極限を究めたものがあった。どのようにかといえば、本来初めから事象はなかったとする。至り尽している。ああ、もう何も加えるべきでない。その次は事象はあるが分別できるものはないとする。その次は分別できるが是非はないとした。是非の現れる次元は道の損われて見えなくなる契機で、そして道の損われるところは愛着の成立つ次元である。しかし、愛の成立によって道の損われることはあるのか。それは名手昭氏があのように琴を奏でたことに当たるだろう。昭氏が琴を奏で、師広が楽器を打ち鳴らし、恵子が机にもたれて弁論するさまは知技を極めたものであり、後世にも賛えられる。ただその愛好が道に外れ、その愛好があからさまな表現を求めた。道はあからさまにはできないものである。それをあからさまにしようとして、ついに堅白論の昧蒙に終る。昭氏の子は父の初歩に達しただけで終生大成することはなかった。彼らの不完全な仕事でも表現を成し得たというのなら私でもーー不完全なことならーー成し得るだろう。一方、彼らの業績水準でも成し得なかったというなら誰も成し得ないだろう。そうであるから、はっきりとしたものではない、おぼろげな輝きこそ聖人の意図するところ。(過ぎた燦然たる業績は聖人は意図しない。)そこで昭氏のようなことを企てず平常・無為(原文;庸)を努める。これこそ清明な知恵によると言う。

つづく

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