斉物論つづき

これから述べることは、これが真実に属するか属しないかは知らない。属する、属しないの二つに属するならーー真実であり、真実でないものもある。真実と過ちが混ざったものならばーー真実と比べればやはり誤りである。そうであっても一つの試みとして述べてみよう。
初めがあったとするなら。その初めがまだない状態がある。その状態がまだない次元がある。その次元もまだない次元がある。また有があり、無がある。その無がまだない状態がある。その状態もまだない次元がある。そして、突然に何かが出現し有無に分かれたとしてもこの二事象のどちらが有でどちらが無なのかも定かでない。(白黒2色の紙は白地に黒く色付けしたものかその反対か分からない)しかし今、私が述べてきたことも本当に何かを言得たのか、言い得なかったのかも分からない。それで世に秋毛の獣の細い毛より大きいものはなく、勇峰泰山ほど小さなもはない。死んだ幼児より長命なものはなく、600歳の彭祖は夭逝した。(極大極小の世界から見れば人間的スケールの大小・時間の長短に差はない。この段も恵子の無限論の思想に拠っている。)世界は私と肩を並べて生じ、万物は私と一体である。一体と言うならば、一事象以外に何もないのだから識別のために名を付ける言葉が生まれようか。しかし、すでに一と言われたのだからもう言葉がないとはいえない。一と言葉で二が産まれる。一と二とで三が産まれる。これから先は計算の名人でも捕えられない。無から有へ移り邁くだけで三に至る。有から有へ移り邁くならば果てもないだろう。云々。

(この後の段はテーマにはずれていて外篇の混入と思われる。数編は訳さない。)
(以下意味は不明確)
そもそも道は一なる全体性であるから、始めから限定できないものだ。それでことばによる分別定義は始めから普遍なものはない。それは田のあぜ道のような一時の区分けである。その一時の区分分別とはどんなものか。右や左を定めることであり、論じると議するを分けることであり、分別と弁明を分けることであり、競うと争うを分けることである。これを人の八つの働き(徳)という。それで天地四方の外のことは聖人は存在は認めるが述べ立てることはない。天地四方の内のことは論述するが議論はしないのである。春秋は世を治めるための書で、先王の著したものだが。それで聖人は議論はするが弁明はしないのである。それは分別した者は分別しなかったものがある。弁明する者は弁明しなかったものがあるからだ。どう云うことかと言えば、聖人はただ対象を追体験しようと努め、衆人は対象を弁別して人に説明しようとする。そこでこう言われている「弁別する者は表現できていないものがある」と。

(以下は老子的論説)
そもそも大道は述べるべきことがない。大きな弁舌は言葉は少ない。大きな仁は仁らしくない。真の謙直さは一見謙遜していないようだ。真の勇猛はむやみに傷つけない。
道を確定的に捕えた、と思ったところには道はない。弁論を重ねるほど真実から外れることがある。仁も固定観念化すれば仁ではなくなる。清さも少しの汚れも許せなければ誠がない。勇気は暴力に頼っていては完全でない。五つのものは丸を描こうとして四角になってしまったようなものだ。
そこで、知識は未知を残しておけば至当なことだ。誰が言葉で表せないこと、不道の道を知っていよう。知っているならそれを天の蔵という。注げども満ちることなく、汲み出してもつきることがない。それは由来もしれない、おぼろな光と言われる。

(挿話)

ゲキケツは師の王倪 に尋ねた。「先生は物ごとにおいて何か是認する判断基準をご存知ですか」。王言う「わたしにどうしてそんなことが分かるだろうか」。ゲキ問う「では先生がその分からないとされる部分については分かってらっしゃるんですね」。王言う「どうしてそれが分かろう」。ゲキ問う「それならば、物事は何も知りえないと言うことでしょうか」。王言う「それも分からない……。そうであってもいくらかは真実に近いだろうことを言ってみよう。わたしがよく知っていると思っていることが本当は難しいことかもしれない、よく分からないと思っていることが本当は簡単なことかもしれない。一つ試しにあなたに尋ねよう。人は湿気の多いところで寝ていればリューマチを患い半身不随にもなろうがドジョウはそうではない。また人は木の上では落ち着いていられないが猿は平気だ。この三者の何物が生物としての正しいすみかを知っていると言えるのか。また人は牛や豚を食べ、鹿は草を食らい、ムカデは蛇をうまいと思い、鳶やカラスはネズミを好む。この四者の何物が正しい食味を知っていると言えるのか。またサルはイヌザルとつがい、ナレシカはシカと交わり、ドジョウは魚と遊ぶ。越王の愛妾モウショウ、晋王の愛妃リキは世に知られた美人であるが、これを見れば魚は深く潜り、鳥は高く飛び去り、シカは一目散に走り去る。この中の何物が真の美形を知っていると言えよう。これと同じように、わたしの目から見れば世の仁義のあり方や善し悪しの論争も互いに入り乱れた立場(百穴)の主張の騒音(地籟)のようだ。これらのものにどうして基準を定めることなどできようか」。ゲキケツがまた言う「先生は利害の沙汰は分からないとおっしゃいました。それならば人として行き至いた人はやはり利害損得を区別しないのでしょうか」。王答える「人として行き至いた人は神のようだ。林野を焼く火も熱がらせることできず、黄河や漢江が凍っても冷むがらせることできず、落雷が山を砕き、暴風が海を逆巻き揺るがしても驚かすこともできない。このような人物は雲気に乗っかり、日月にまたがって、下界の外に遊ぶ。生死にも心を動かされない。まして利害得失のことなど心に止めることはない」。

(挿話)

孔子門下生のクジャクシが道を得ている長梧子に問うた「わたしはこんな話を孔子に聞きました。聖人は何事か成し遂げようと励む風でもなく。利益を求めず、危害を避けようともしない。人としての欲求を果すも喜ぶでもなく、人の世の常に外れている。無言でいてすべてを言い得たとし、精緻に説き明かしておいて何事も語り得なかったとする。人の世の外域に生きている。孔子はこの話をとりとめもない虚言とされましたが、わたしは至上のことが言われていると感じました。あなたならどう思われますか」。長梧子が答える「これは黄帝でさえ戸惑うほどの話だ。孔丘などにどうして理解できよう。それにあなたもまた早合点過ぎる。鶏卵を見て、時を告げるのを待ち、猟銃の玉を見て、焼き鳥のための火を起こすようなものだよ。わたしもあなたのためにデタラメ話をしてみるから、いい加減なたわ言とでも思って聞いていなさい。いったい誰が日月に肩を並べて立ち、宇宙を脇に抱えて固く結ばれた唇のように一つのものとし。すべてを渾沌のままに受け入れて、もっとも卑しいとされている物も尊いとすることができようか。人々はあくせくと励むが聖人は愚鈍なように為すすべを持たない。しかし永遠を体現し、創造の始まりと一致している。万物を善しとし、あるがままに受け入れる。この是認によってすべてを包み込んでいる。さて、身近なことを言えば、どうして私に生を喜ぶことは迷いではないと言えようか。死を憎むのは幼児期に故郷を離れて本当のわが家を忘れてしまっているようなものかもしれない。麗姫は晋国が戦さをして手に入れた美女だが、はじめ晋国に連れ去られるときは泣き叫んで涙で襟元もぬれるほどであった。しかし王と寝起きをともにし、美食を口にするようになると最初に泣いたことを後悔したものだ。だから死んだ人々も生きているときに長生きを望んでいたことを後悔しているかもしれない。これはあたかもあの夢の中の出来事のようだな。夢の中で酒をのみ楽しんでいたものが、朝になると悲しい現実に泣き。夢の中で泣いていたものが、朝になると勇んで狩に出掛ける。夢の中では夢であることは分からず夢の中で夢占いをし目覚めて初めてそれも夢であったかと気づく。しかしまさに本当の目覚めがあると、この世が大きな夢の中にあることに気づくであろう。愚かな者はこの世の中を詳細に分析しえたとして王と従者の身分を定めようとする。夢のように展開する人生の現実から見ればなんと硬直してしまった判断だ。孔丘もあなたも皆夢の中にいる。そしてわたしがあなたに話している事も夢の中のことだ。こういう話は奇妙キテレツな話と言われる。万代の後に一人でもこの世の真の姿を解く大聖人に逢えたとすればそれは朝な夕な会っているほどの幸運なのだ。」

(挿話)

昔、荘周は夢のなかで蝶であった。ひらひらと舞い蝶であって、のびのびと思のままに羽ばたいていて、荘周など知らなかった。ハッ!と目が覚めると、今やありありと荘周である。いったい荘周が夢で蝶となっているのか、蝶が夢で荘周となっているのか分からなかった。荘周と蝶ははっきりと別物であるから物事の変化の有様とはこのようなものだ。

*エピローグ*

もしわたしとあなたが議論をしてあなたが勝ったとすれば、それであなたが正しいと決め付けていいのだろうか。わたしが勝ったとすればあなたは間違っていたと決め付けていいのか。詭弁で勝ったのかも知れないのだ。さらにどちらか一方が正しいと決まっているのか。二人とも間違っていることもあるのではないか。二人とも正しいと言うこともあり得ないか。(それぞれ自分の立場からの議論では正しいことを言っているが、局所的有の身では相手の立場から見える視点を共有することは困難である。)当事者の間では解決できないならば、第三者が判断すればいいことか。だが第三者と言えども、もともとわたしの意見に近い考えの者もあれば、あなたの意見に近い考えの者もあろう。さらに独自の意見をとる者もあるだろう。けっきょく第三者を当てにしても意味ないことになる。答の定まらない論争を続けていっても論争はなかったようなものだ。そんなことに係わるのはやめにしよう。争いを天の均衡で和らげ極まりない変化に応じていけることは一生を託す途だ。では天の均衡で和らげるとはどんなことか。(ある視点や基準で是が定義されれば非も定まってくる。だが他の視点や基準で同じく是非とされるとはかぎらない。それはあらゆる局面で是なるものはなく、非なるものはないからだ。そこで逆にいえば是も非も局所的なものだ。一なる全体からは絶対の対立ではない。結局、是非・善し悪しは和らいだものになる。)ある基準の是に対する非がその基準において非であるのは論じるまでもない。また誤った論法からの対立が対立でないのも論じるまでもない。こうして時を忘れ義を忘れて無窮にまで及ぼう。 こうして授かった日々をのびのびと送るを、果てしのない世界に寄るとする。

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