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江戸時代の死刑
蛇足
□■江戸時代の死刑

最近の裁判を見ていて感じるのは、加害者の人権はうんぬんされるけど、被害者の人権が非常に軽く見られていることですね。それに、加害者の「いさぎよさ」が欠けているのは、どうしてなのでしょうか?

明日、2月4日は
義士忌、あの赤穂浪士が切腹した日です。(1703年)
赤穂浪士の処遇については、当時ずいぶんもめたようです。幕府としては"忠"を実行した彼らの行為を一概に否定することはできなかったし、世論も彼らの味方でした。しかし一方、彼らの行為を黙認することは、以後、この様な世間を騒がす行為の多発が予想され、それは絶対回避しなければなりませんでした。

当時の案としては斬罪、切腹、お預けの3案が考えられたといいます。
斬罪を主張したのは側用人、柳沢吉保。
お預けだと、将来、恩赦で罪が許される可能性が大でした。
結局、幕府はジレンマを回避する方法として、切腹を選択しました。赤穂浪士は武士の体面が保てたわけです。


ところで、「
浪士」と言う言葉ですが、幕末の勤皇の浪士に対して使われ始めた言葉だそうです。ですから、当時は赤穂浪人と言うのが正しいようです。つまり、赤穂浪士は赤穂浪士ではなかったんですね。^^;

遅くなりましたが、今日のテーマは
江戸時代の死刑についてです。

江戸時代の、死刑に該当する罪はかなり広い範囲でした。
傷害致死、強盗傷害、恐喝、住居侵入などは死刑。十両以上盗んでも死刑です。主人に対する傷害も死刑。詐欺、横領でも幕府に関すれば死刑。
厳罰主義ですね。内容としてはかなり厳しいものですが、少なくとも人命にかかわる部分については、被害者からみると納得の行く内容ではないでしょうか?被害者の人権の無視される現代より。

そして、江戸の刑罰は、予防効果を重視していたといわれます。ですから、処刑は一種の見せしめで、刑場は主要な街道のそばにおかれていました。

では、どんな死刑があったのでしょう。
八代将軍吉宗の刑罰制度改革以降の死刑を下表に示します。

武士に対して
切腹 死罪ではあるが、武士としての面目は保てました。
斬罪 斬首の刑罰。小塚原か鈴が森で執行されました。 

町民

死罪 斬首刑で、その死骸は様斬(ためしぎり)にされ、田畑、家屋敷は没収されました。
下手人 主として、一般の殺人罪を犯した庶民に適用された刑で、死刑としてはもっとも軽く、死骸が様斬(ためしぎり)にされず、田畑、家屋敷の没収はありませんでした。  
獄門 牢内で首を切ったあと、これを俵に入れ、浅草あるいは品川仕置場に運び、獄門台の上に三日二夜さらすものです。磔につぐ重刑とされました。  
罪木に縛りつけ、二人の執行官が交互に何度も槍で突き、殺したそうです。
鋸挽 竹のこぎりで罪人の首をひき切る極刑。江戸時代初期は、罪人を首だけ出して穴埋めにし、二日間さらし、その左右にのこぎりを置いて望む者に首をひかせましたが、のちには罪人のえり首に傷をつけ、その血をつけたのこぎりを置く形に改められ、そのあと引回しのうえ磔にされました。 主殺しに対する極刑です。
火罪 火あぶりの刑で、鉄製の籠のようなものに括られ火をつけられました。もっぱら放火犯に適用されました。

「下手人」という言葉は意味は違っていますが今でも使われていますね。

最後にもう一つ死刑に由来する言葉について。
土壇場(土段場)と言う言葉です。最近ではドタキャン(土壇場でキャンセルする。)などと、よく使われますね。
これは生胴(いきどう)という地方で行われた死刑から来ています。この生胴を行う場所が土壇場です。土を2尺ほど盛り上げ罪人の手足を竹の間に縛りつけ、二人の斬り手が同時に罪人の首を切り落とす残酷な死刑方法です。
土壇場上の罪人はどうにもならない状態なので、どうしようもない苦しい立場の事を言うようになったのです。


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