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フランス革命
□■フランス革命

今回はフランス革命です。といっても「雑学」ですから、歴史の教科書みたいなお話は無し! 
面白い所だけの”つまみ食い”です。(^_-)

7月14日は
巴里祭(ぱりさい)(注)。フランスの革命記念日ですね。
1789.7.14のバスチーユ牢獄の襲撃事件の日を記念しています。フランス革命は1789〜1799年。
ブルボン王朝の失政・崩壊、市民革命、そしてナポレオンの軍事独裁(1799〜)の始まりをもって幕を閉じます。

今日の登場人物は
ルイ16世マリーアントワネット、そしてルイ17世です。

革命の原因はブルボン王朝の失政ですが、なんとこの革命に日本も関係していると言います。
実は1783年に
浅間山が大噴火します。これにより日本では天明の大飢饉(1782〜1787)が起きます。
老中、田沼意次(おきつぐ)の失脚が早まった飢饉です。
同じ年、
ラキ山(アイスランド)も噴火し、北半球規模の異常気象が発生し、フランスでも小麦の不作、そしてパンの値段の高騰と庶民の不満がつのっていったのです。

マリー・アントワネット(1755-93)はオーストリア、ハプスブルグ家出身です。
華麗な生活で国民の反感を買い、ついにはギロチンにかけられて死にます。
死刑台に向かうとき死刑執行人の足を踏んづけてしまい「あら、ごめんあそばせ。わざとしたわけではありませんのよ」と言ったとか言わなかったとか。^^;

彼女は15歳で嫁入りしますが、オーストリアの物を糸一本も身につけては入国を許可されませんでした。
国境の仮御殿で家臣の前で全裸にされ衣服を取り替えさせられたといいますから、かわいそうですね。

ルイ16世は7年間も不能で、妻を処女のままにしていました。
夫への不満が常軌を逸した贅沢や歓楽に走らせ、それが国王一家への不満、そして革命へと進んだとも言われます。
市民がパンが食べられないと言う話を聞いて、マリー・アントワネットが「パンが食べられなければケーキを食べればいいのに」と言ったという話は有名ですね。
(2007.01.16 この言葉は彼女の発言ではないということです(義妹とか)。しかし、市民はそう信じたようでこれが悲劇の一因になります。)

当時、流行った
ファッションで異常なものがあります。
なんと、髪を高いもので数10cmから1mも高々と結い上げた髪型です。
しかも、髪の上に丘や小川、風車があったり、庭園の全景があったり、飾り花がしぼまないように水入りの甕が髪の中にあったり、宝石細工の小鳥がバラの花の上で羽ばたくしかけだったり・・・。船が乗っているのもあります。

馬車に乗るときは窓から頭を突き出すか、馬車の床にひざまずいて髪をかばったといいます。
しかも1〜2週間も持たせたので髪の中は虱(しらみ)の巣窟。
ファッションとはいえ、異常ですね。まあ、渋谷のヤマンバギャルも似たようなものでしょうか?^^;

一方、
ルイ16世(1754-93、在位1774-92)
彼は大食漢で有名です。
死刑判決の後も「カツレツ5枚、大きな鶏肉1切れ、ぶどう酒3杯」をぺろりと平らげたといいますから、どんな神経をしていたんでしょうか?
デブで醜男、ダンスべた。服装のセンス無し。大食い、調子っぱずれの歌。
美人で遊び好きのアントワネットとは対照的でした。

趣味は錠前作りと狩、3日に1度の割で狩に出かけています。
彼の日記は、狩をしなかった日は「何も無し」と書かれています。
「1789.7.11:何も無し」:財務監ネッケルが追放された日です。
「1789.7.13:何も無し」
「1789.7.14:(空白)」:フランス革命勃発の日
「1789.10.5:シャティヨン門に狩をし、81頭を得た。事件のため中断される。行きも帰りも馬」
ここで言う事件は、民衆がベルサイユに押し寄せ王室がパリに移された事件です。

う〜ん、殺されても仕方ない。^^;

さて、彼の息子、ルイ・シャルル皇太子(
ルイ17世)。
彼の死(当時10歳)は従来、謎とされていました。
死体が15歳から18歳の体格だったとか、20年後、牢番の夫婦者の女房が「王子は死んでない」と証言したとか。
また、タンブル塔で死んだ少年の髪とアントワネットが持っていた髪と比較されたが別人のものと判明したとも。

ところが、今年4月20日の新聞によると、DNA鑑定の結果、獄死した少年はルイ17世に間違いないとベルギーとドイツの医学者グループが発表したそうです。
200年来の謎に終止符が打たれたようです。

さて、有名な
ギロチンについて。
ギヨタン博士(パリ大学医学部教授)が1789年12月の3部会に第三身分の代表として出席し、「死刑が誰にでも同じやり方で、それも無駄な苦しみをあたえることなく行なわれる」よう提案しました。ヒューマニズムからの提言です。

この後、ギロチンが使われだします。
以前は火あぶり、八つ裂きなど残酷なものが多々あり、首切りはむしろ軽い方だったのです。
この機械装置は以前からあったもので、彼の発明ではないのですが、彼の名を取りギロチン(ギョチーヌ)と呼ばれるようになります。
やがて恐怖政治の道具として罪の無い人の処刑にも使われます。
この名前の件については、彼は死ぬまで憤慨していたと言います。

さて、このギロチンで処刑された王侯貴族を始め多くの人の首は、見せしめとしてさらし首にされました。
実は、革命政府はみせしめに長期間さらしたかったのですが腐敗するので、蝋(ろう)で首を作ったのでした。
この蝋の首は処刑予定者の中にいた、蝋人形づくりの女性に作らせたものでした。
彼女に処刑赦免と交換条件で蝋人形作りを命じたのです。

彼女の名は、
マダム・タッソー。後、イギリスに移住します。
現在、ロンドンの「タッソー蝋人形館」は観光名所となっていますね。

(注)巴里際はフランス革命記念日7月14日の日本での呼び名です。
ルネ=クレール監督の映画「フランスQuatorze Juillet(7月14日)」の邦題から、こう呼ばれるようになりました。

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