和紙

寺子屋
□■寺子屋

今日は「
寺子屋」の話です。
最近、学級崩壊など教育現場の問題が起こっていますが、江戸時代の教育に、見習う必要のある点も多そうです。

よくテレビなんかでも"寺子屋"が出てきますね。あの"寺子屋"って言うのは上方の呼び方です。
江戸では"
手習い"って言いました。だから通っている子は"手習い子"。(注1)もちろん上方では"寺子"。
寺子屋の名の起こりは、文字通り寺院です。
中世の初等教育は寺院で行われることが多かったことから、そう呼ばれたようです。

寺子屋に通い始める年齢や在学期間については決まりが無く、六、七歳から十二・三歳まで通いました。
普通は、
初午(はつうま:注2)の翌日から通い始めることが多かったようです。
毎朝8時頃から午後2時頃まで。始業時間も決まりが無く、遅刻もしかられなかったようです。
普通は、昼は食べに帰ったようですが、弁当持参もありました。寺子の数は、普通は3、40人だったようです。

では、寺子屋では
どんなことを教えたんでしょう。
「子曰く」なんて、論語の素読は武士の子供の教育で、一般の寺子屋では、読み・書き・算盤(そろばん)を教えたのです。
実践的教育が主でした。女子には裁縫や礼儀作法を教える寺子屋もありました。
師匠は、浪人、僧侶、医師、神官で、女性もいました。(江戸では手習い師匠の1/3が女性だったといいます)

江戸時代も、
より良い生活のためには、教育が必要だったのです。
商人は帳面付けが出来なければ手代や番頭にはなれません。
職人は、図面や計算が出来なければ職人の棟梁にはなれません。
農民もリーダーになるには文書作成、その他多くの実際的知識が必要だったのです。
教育を受けていなければ、最下級の人足と呼ばれた日雇い労働者以外の職につけなかったのです。

では、
教科書には何が使われたのでしょう。
往来物(おうらいもの)というものが使われました。往来物とは初歩教科書の総称です。
原型は中世に、貴族子弟の学習用に編まれた往復書簡であり、手紙文の行き来の意味から「○○往来」という呼称が一般化したようです。
商売往来、百姓往来、江戸往来、庭訓往来、九九往来、女大学、塵劫記などその種類・数とも膨大な量です。

さて、
どのくらいの寺子屋があったのでしょう。
ある記録によると、江戸末期には江戸府内で4,000ヶ所の寺子屋があったようです。
日本全国では15,000〜16,000くらいあったようです。

では、江戸時代の
就学率を見てみましょう。
諸説あるんですが70%から86%(1850年頃:農村を含めた江戸府内)、町中ではほぼ100%ではなかったと言われています。
ちなみに、イギリスの大工業都市で20%〜25%(1837年)、ロンドンの下層階級に至っては10%(19世紀中頃)、フランスでは1.4%(1793年初等教育の義務化、授業料無料化をはかっても)、モスクワで20%(1920年) 。
江戸時代がどんなに教育熱心だったか判りますね。

江戸時代、日本の難破船が外国船に救助された時、船員全員が読み書きできた事に外国船の乗組員が驚いた記録が残っています。外国船の乗組員はほとんど読み書きができなかったのです。

"寺子屋の師匠"は
資格が必要ありませんでした。(江戸では医者も資格が必要無かったのです!藪医者はちゃんと淘汰されるのです。^^;)
当時の寺子屋の絵を見ると、机は部屋のあちらこちらに散らばって勝手な方を向いています。
子供は先生の方など向かず好きに勉強できたのです。「個人教育」だったからです。
義務教育じゃありませんから、一人一人にあった教育をやったのです。
事実、当時の教科書は人それぞれ違っており、一人一人の年齢や興味、その子の将来就くであろう職業によって教育方法を自由に変えていたのです。

他に庶民の教育機関として
私塾がありました。
この私塾、何らかの理由で藩校へ通えなかった武士の子弟や、寺子屋を終えた庶民がさらに高度な教育を望んで入門しました。幕末には寺子屋を終えた子のうち10人に1人は私塾に進学したようです。
学問のほか、芸事、礼儀作法などを教えるなど大変個性的なものだったようです。

ここで、「
浮世風呂」に載っている、ある女の子の一日の例を。ビックリしますよ!
朝、寺子屋の師匠のところに行って机を並べます。それから三味線のお師匠さんの所で朝稽古。
家に帰って朝食をとって、踊りの稽古へ。それが済むと寺子屋に行って午後2時に帰宅。
そして、銭湯に行って、それから、琴のお師匠さんのもとへ。帰ってからは三味線や踊りのおさらい。
ちょっと遊んで、日暮れからは琴のおさらい。
すごいでしょう。江戸時代にも教育ママじゃない教育おかみさんがいたようです。

ただ、江戸時代の女性は結婚が早かったし、いいところにお嫁入りしようとすると、
武家奉公が必要でした。
その際、採用条件として、芸事が必須だったのです。
女性にとっては資格の時代だったのです。だから、上の例のような、すごい子もいたんですね。
多分この子は裕福な家庭の子でしょうが、九尺二間(六畳一間くらいの広さです。土間も入れて。畳は4畳半)の裏店(うらだな)に住む"宵越しの金を持たない”人たちの子供達も寺子屋には通っていたようです。

(注1)
2001.04.20
旧暦正月25日は天神様(天満宮)の縁日です。学問の神様、菅原道真のお祭りですから、勉学に励む者が多く参詣したようです。寺子屋の師匠も子供達を連れて参拝します。
 おそわった通りにおがむ手習子  柳多留

(注2)
初午(2月になって最初の午の日)は稲荷神社の祭りです。
「江戸に多きものは、伊勢屋・稲荷に犬の糞」と言うほどお稲荷さまがありました。
町内に二三ヶ所あるところも多かったようです。(今でも東京にはお稲荷さまは多いですよ。)
このお祭りは子供達が主体で行いました。
親達はこのお祭りが来るとほっとしたようです。悪餓鬼どもが翌日から寺子屋に行くからです。
現在の夏休み明けみたいなものでしょうか?^^;

目次へ


和紙